「比企谷くん」
振り返らなくても声の主は分かった。先ほど教室で話しかけてきた男だ。
概ね、授業開始時間前に学校を飛び出そうとしている非行少年を引き留めにでも来たのだろう。ご苦労なことだ。なんと美しい思いやりだろうか。
だが、俺には迷惑以外の何物でもない。只の優しさの皮をかぶった偽善の押し付けでしかない。世間体だとか、一般論なんて糞くらえ。
すぐにでも飛び出たい気持ちをぐっと堪え、一言で済ませる。
「わり、急いでるから」
志貴さんを覚えていないお前にこの感情は伝わらないだろうよ。
踏み出す足は昇降口を跨ぐ寸前のところで止まる。否、肩をつかまれ引き戻される。
「いい加減にしろよ、早くしないと喜界島先輩がっ」
「なら、なおさら俺の話を聞くべきだ」
男の気迫に思わずたじろぐ。
「思春期症候群は原因不明とされている。だが、思春期特有の症状であることから、必ず何かしら原因があるはずだ。俺は、原因の一つとして観測理論が関係してると考えている。いいか、比企谷。物事は観測されることによって状態を確定する、つまり観測していない現時点では君のその喜界島先輩とやらは存在が不確定になっている。信じろ、比企谷。感情は時に常識を超える。まだ、君には救える可能性が残っているんだ」
「どうしてそんなこと知ってるんだよ」
「それは今じゃないよ。さぁ、早く行くんだ、平塚先生には俺からうまく伝えておくよ」
男はそれ以上は言わずに力を抜いた。
体に掛けられた重みが抜け、すんなりと昇降口を跨ぐ。
そして、走る。
振り返らない。
思いつく唯一の場所に向けて、足を何度も交差する。
吹き出す汗でシャツが肌に張り付く。
跳ねる心臓は急な負荷によって嫌に痛む。
それでも足は止めない、止めてはいけない。
二度と間違えたくないから、と俺は選択を拒んできたのだろう。
最もらしい言い訳をひねり出し、分岐点に立つことから逃れてきた。
努力が無になる瞬間が嫌いだった。
失うのが嫌なら、得なければよい。そうすれば失わなくて済むのだから。
いつからこの考え方が染み付いてしまったのだろうか。
酸欠で苦しむ脳には普段なら考えもしないことが駆け巡る。
本格的に軋み出した体を潮風が優しく冷やす。
耳を澄ませば波の音が聞こえてくる。
たった一つ思いついた場所。
それは、最後に志貴さんを見た場所だった。
× × ×
真夏になれば見渡す限りの人に埋め尽くされる稲毛海岸も、春の平日昼間は閑散としている。
周りを見渡して目につくのは買い物に向かっている主婦や犬の散歩をする爺さんが舗装道を歩いているくらいで砂浜にいる人間はたった一人しかいなかった。
俺はその大胆に、文字通り大の字になって砂浜に寝そべるという奇行少女のもとに足を向ける。
「何やってるんですか、奇行少女の真似ですか」
「そっちこそ、こんな時間にここにいるだなんて非行少年の真似かい」
お互いの軽口がやけに懐かしく思わず頰が緩む。
最悪の想像は、最低な妄想でしかなかった。志貴さんの声がそれを実感させる。
「志貴さん、学校に戻りましょう」
「ごめん、それはできないんだ」
大の字のまま、志貴さんはそう返す。震える声から隠れた表情が窺える。
「学校は志貴さんとって退屈かもしれないですけど」
「そうじゃないんだ。私だってできることならば、早く学校に行きたいさ。でも、それはまだ許されていない」
「それはどういう…」
「私のこの思春期症候群をどうにか、否、解き明かさないことにはこれ以上動けそうにもないんだ」
ははは、と力なく笑う。
「でも、私はこの状況が少し嬉しいまであるよ」
「それは」
少しは自分で考える事だ。
志貴さんの最もな言葉に返事は続かない。
「兎に角、君はこの私の状況を…、いやまずは現状の整理をしようか。お互いにどこまでを理解しているのかを整理しない事には話が始まらないだろう」
勿論こんなかっこいい言葉を言っていてもその姿だ大の字で寝そべる女子高生。残念ながら威厳も尊厳も見当たらない。
そんな事を考えていると、志貴さんと目が合う。
下らないことを考えてないで早く話を進めろ。
一切口にしてないのに何故か意味が理解できてしまう。これがボディランゲージって奴か。違うか、違うな。
一つ、深呼吸。
「まず、志貴さんに関する記憶がなくなっている、これが第一じゃないですかね。平塚先生も志貴さんのことは覚えていませんでした」
「それに関しては私の方からも補足ができるよ。現在、比企谷くん以外は私を認識できていない。少なくともこの街ではその傾向がある」
「なら、俺しか志貴さんを認識できていない理由を考えるのが一番近道かもしれないですね」
「そうだね、例えば純粋な記憶量による差が考えられるね。比企谷くんが私を知っているよりも周りが私のことを知らないから記憶から消滅している」
「それは」
おかしいのだ。もしそうだとするならば平塚先生が志貴さんのことをわすれることがないだろう。少なくとも、記憶をなくしている俺よりは志貴さんのことを知っているはずなのだ。
だとするならば、
「信じている心?」
「ほう、それは非常に興味深い。信意という言葉があるように人は信じる事によって見えるものがある。例えば、キリスト教信者がキリストの幻像を見るように、認識しているものは実際には存在していなくても存在しているように認知することができる」
「つまり、俺が志貴さんのことを存在していると認識しているから志貴さんをみることができる、ということですか?」
ふむ、と志貴さんは頷く。
「物体は認識される事によって存在する。つまり、私のことを比企谷くんが認識する事によって、私という存在の存在が確定するんだ」
はい、と首肯する。
シュレディンガーの猫なんかがこれに当たるのだろう。
薄れかけている中2時代の無駄な知識が志貴さんの言葉の理解を助けるとは、人生何が役に立つかわからんな。
「コペンハーゲン解釈、は聞いたことがあるかい?」
「こ、コッペ?」
「コペンハーゲン解釈とは、確率的に存在する粒子は観測した瞬間に確率の収束したある一点に存在するようになる、というものだ」
はぁ、と曖昧な返事をするしかない。無い知識をかき集め、必死に志貴さんの言葉を理解するため脳を使う。
「つまり、観測前には確率的に複数のパターンが存在しているが、観測することによってそれが1つに確定する、ということでいいですか?」
「その認識であっているよ」
「じゃあ、俺が志貴さんのことを認識、いや、観測したことによって志貴さんが存在しているということが確定したってことになるんですか?」
「コペンハーゲン解釈に則るならばね」
つまり、ことはそう簡単なわけでは無いのだろう。立つエネルギーすらも今は惜しい。
ドサリと志貴さんの横たわる脇に腰を落とす。ちょうどこの位置からだと、志貴さんの顔を見下ろす形になる。
話の続きを聞こうと頭を下ろすと志貴さんの長い睫毛に思わず目が止まる。
「何かな、比企谷くん。なんか変なこと考えてない?」
「か、考えてないデスヨ。それより続きを」
「ま、いっか。コペンハーゲン解釈が今成り立っていないのは、きっとこうしている今も私の存在が曖昧であることからもわかるように思春期症候群が治って無いからだ。仮にコペンハーゲン解釈に則っているならば、比企谷くんが観測してくれた時点で私の存在が確定するからね」
さて、と志貴さん。
「だとすると考えられるのは多世界解釈という考え方だ。これは観測した瞬間に確率は収束するけれど、そのほかの可能性は消えておらず、その確率ごとに世界が分岐している、と言ったものだよ」
「パラレルワールド…みたいな感じですか」
「限りなくそれに近いものだ。今のこの状況は限りなく同一の世界何だけれども2つの世界が振動して重なりあっているような状態なのだろう」
「なるほど、よく分からないということがよく分かりました」
ここまで無い頭を使ってなんとか付いて行こうとしていたが所詮文系の理系科目壊滅組の悪あがき。むしろ下手に芝居を打ってわかったようなフリをするよりは正直に答えたほうが良いのだろう。
「つまり、どうしたら志貴さんを助けられますか」
必要なのはこの一点。
「この不安定な状況を1つに確定させる。そのためには何かしらのトリガーを引く必要がある」
「そのトリガーってのは」
「まだ分からない。私自身どうしてこうなってるのかも検討があまり付いていないからね」
今までのことは全て結果に対する理論面からの憶測でしかない。
結局のところ志貴さんの思春期症候群の根本的理由を解決しなければならない。
だとするならば、これは志貴さんに会った春休みのあのときから状況は何も進展していないのだろうか。
お互いの口は閉ざされ、波打つ音だけが静かに聞こえる。
先ほどまで火照っていた体は潮風に冷やされ、今や、すっかり落ち着いていた。
そして冷静になってきた頭に、ある1つの可能性が浮かんできていた。
まず、思春期症候群というものの多くは深層心理の表れであることが多い。
志貴さんの手足のしびれや不調はボディイメージが関連しているという可能性。
そして観測理論。観測され認識することによって状態は1つに確定する。
これら3つを合わせて考えていくとたどり着く推測、それは、
「志貴さんが志貴さんを認識していない、か」
長い沈黙を破った一言が妙に可笑しかったのか、志貴さんはケラケラとわらった。
「ちょ、比企谷君、それは流石におかしくないかな。私は私の存在をきちんと認識してるよ。我思う、故に我あり。さ」
「そうですね、普通の人なら自分で自分のことを見失うなんてことはそうそう起こりえない。では、自分が強い自己否定をし続けていたらどうなるか。自分が自分という存在を認識することを拒否したことが思春期症候群を引き起こしたとしたら。今回の志貴さんの件はそれで辻褄が合うんです」
「うーん、百歩譲って、その理論が正しかったとしても、私が私を否定するのはおかしくないかな?だってほら、私は天才美少女JKだし」
きっと自分ではドヤ顔をしているつもりの志貴さんの顔が引きつっていることが、志貴さんの言葉を否定していた。
「ガウス分布による学力分布、その中でも特に著しい知力を持つ人のことをギフテッドと言うそうですね」
志貴さんは答えなかった。
「志貴さんが言っていたことを俺なりに調べて解釈してみたんです。今は便利なのでスマホを使えば一発で沢山のことが出てきますからね」
「はぁ、正直現代社会のテクノロジーがあるならば中途半端な暗記なんて必要ないのかもね。調べればそれこそ一瞬だ。そうだよ、私はギフテッドってやつなんだろうさ。だけどそれが何を意味する?」
志貴さんがやけに抵抗する。きっとここにその答えが存在するのだろう。
だから、俺は、志貴さんが苦しそうでも口を閉じない。
志貴さんに嫌われることになっても構わない。
それで志貴さんを救うことができるのならば、俺に捨てられるものはなんだって捨ててやる。
「小学1年生に遺伝子工学の話をしたって何も面白くない、でしたっけ。ギフテッドの人の多くの悩みとしてあげられるのが周りの人間との学力差による会話の不成立らしいです。そう言った問題に対処するためにアメリカなんかではギフテッドのような高い能力をもつ者たちを1つの場所に集めて、育成している」
それが国の発展につながることを理解しているから。
お互いに刺激し合うことがさらなる飛躍を遂げるのだろう。
「そして志貴さんもそうだった。話の合わない世界に疎外感を覚えて、そして自己の存在意義を問うてしまった」
「君に私の何がわかるんだい」
今までにみたことのない剣幕、というわけでもない。ただ、ポツリと、独り言をこぼすように。それが何よりも志貴さんの心を表していた。
「何にもわからねーよ」
「え?」
志貴さんは固まる。
それは、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような、妖怪を見たかのような、比企谷八幡という人間を初めて見たような反応。
「面倒な、建前だらけの会話なんて志貴さんらしくない。人間は決して他者の気持ちを理解することはできない、どこまでいっても自己中心的な思考しかできない。それが本源的自己中心性。自分のエゴの押しつけあいだ」
どれだけ他人のことを思っても実際に他人がそれをどう捉えるかはわからない。それは、母親の愛が子供にとってのお節介であるように、どんなに近しい人間でも不可能なのである。
だとするならば、比企谷八幡が取るべき行動は。
「志貴さんのことなんて知らない」
志貴さんの大きな瞳がキュッと明るくなる。
「それを俺は知っている。だから俺は志貴さんのことを知りたいんだ」
志貴さんは呆れた顔で微笑むと同時に大きなため息を吐いた。まるで溜め込んだ思いを吐き出すように。
そんな昼前の海岸に佇む二人を、潮風がそっと包み込んだ。
× × ×
後日談。あれから志貴さんの症状は治まった、結局のところ本当の原因は分からずじまいだったが結果良ければ全てよし、と言うようにこれで良かったのだろう。
思春期症候群なんてものはその程度のものでしかなく、それは気づいたら跡形もなくなっている青なじみのように、その痕跡を残すことすらしない。
つまり、どういうことかと言うと。
「おい、比企谷聴いているのかね。全く新学期早々授業をボイコットは中々な心構えじゃないか」
あのイケメン野郎何が平塚先生は任せておけ、だ。全然ダメじゃねえか。
まぁ、あいつを毒突いても仕方がない。なにせ、志貴さんの思春期症候群は終わったのだ。
それは、志貴さんの存在が確定したことによってなぜか学校に志貴さんがいなかったという事実が消滅、そしてこれは俺が学校を抜け出していった理由が同時に消滅したことを意味する。
いくら庇おうが理由もなく学校を抜け出して行ったやつは庇い切れるはずもない。
だが、これで良かったのだ。なぜか志貴さんはしっかりと学校に通っていたことになっていても、俺だけ一人責任を負うことになっていても。
終わりよければ全て良し。それで志貴さんを救うことが出来たのだから。
何度目になるかわからない自分への慰めをかける。
「はぁ」
それでも、溜息1つくらい吐きたくなるものだ。
青春欺瞞野郎は天才少女の夢を見ない。〜Fin〜
皆さま、お久しぶりでございます。
不完全燃焼な感じで終わっていますが、一先ずこれで第1章の喜界島志貴編が終了となります。
まだまだ謎が残っていますが、それは今後回収する予定です。笑
意見、感想など頂けると創作の刺激および助けになります。
是非一言だけでもいいので残して頂けると嬉しいです。
今後も、『やはり俺の思春期症候群はまちがっている。』を宜しくお願い致します。