太陽の備忘録【完結】 作:8.8
翌週の月曜日。体調が優れなかった弦巻さんを考え、会いに行く日を今日に選んだ。いつもより早く家を出て、俺は弦巻家の巨大な門の前にいる。一度しか来なかったが、こんな大きな家をそう簡単に忘れることはなかった。迷わず辿り着けて良かったよ。
執事らしき人から門を開けてもらい、玄関へ向かう。名前を言っただけで開けてもらった辺り、この家では割りと知られているんだろう。
「すー、ふー……」
玄関前で、大きく深呼吸。とりあえず言うべきことは、『ごめんなさい』。そして次に、『ありがとう』だ。大丈夫、わかってる。
彼女と違って、面と向かって何か言うのは得意ではない。インターホンを押す指が震える。心臓が高鳴る。
無機質にインターホンが鳴り響き、そこから彼女が顔を出したのはほんのすぐだった。
「おはよっ、隼人」
「……おはよう、弦巻さん」
制服姿の彼女は、いつもと変わらない笑顔だった。まるで、こないだは何事も無かったかのよう。彼女の考えていることは、今でも分からない。でも、嬉しそうなのは間違いなかった。
「ごめんね、朝早くに。体調はもう大丈夫?」
「えぇ、問題ないわ!!」
「そ。それは良かった」
「話があって来たのよね? 私の部屋に行きましょっ」
「うぉっ……? ちょっ、弦巻さん!?」
俺の手を引いて、弦巻さんは部屋へと連行する。人の話を聞かず、勝手に行動するのは相変わらずだ。
ちょい、手が痛いってば……!!
「さ、ここなら話していいわよ。隼人からなんて珍しいわねっ」
「……こないだの事、気にしてないの?」
『なにがかしら?』と、弦巻さんはきょとんと首を傾げる。誤魔化しているようには見えないし、そんな事をわざわざする子ではない。きっと、本当に俺が何を言っているか分かっていないんだ。
部屋の時計をチラリと見る。登校時間まで、あまり余裕がない。ここで話を濁らせる事は出来ない。弦巻さんが良くても、俺が良くないから。きっちりと、けじめは付けなきゃ。
「木曜日に、ここであった事。八月から数えて四回目なんだよね? 俺がこんな風に、弦巻さんに怒った事は」
「……美咲に聞いたのね」
「まぁ、ね。でも聞いてなかったら今ここにはいないし、俺自身聞いて良かったと思ってる。だから、奥沢さんを責めないでほしいな」
包み隠さず、俺はズバッと切り出す。それを聞いた弦巻さんの表情は、何とも言えないものだった。
すぅっと息を吸って、天……というか、天井を仰ぐ。脱力したように、彼女の肩から力が抜けたのが分かった。
「そうなの。知っちゃったなら、しょうがないわね」
まぁ仕方がないか、そんな風に聞こえた。
「……ごめん。知らなかったとはいえ、自分の
「隼人?」
深く頭を下げる。こんな事で許されるかは分からないけど、言わねばならなかった。ずっと彼女は抱えていたのに、自分だけが特別だと思ってて。そして尖った態度で周りを見ていて、近づく人からはその『棘』で身を守って。
理解者は、こんなにも近くにいたのに。
「顔を上げて、隼人」
「でも……!!」
「いいのよ。全っ然気にしてないわ。そんな事より、もっともーっと大事な事があるもの!!」
「そんな事って……」
そんな事扱い? 弦巻さんらしいっちゃらしいけど、そんな有耶無耶にしていいのか。何より、俺の気が収まらない。
そんな俺の気持ちをよそに、また彼女の笑顔が輝く。
「隼人が、自分から来てくれた。こっちの方がずぅーっと大事だわ!!」
「あ……」
彼女に言われて、ようやく言わんとすることに気付いた。俺はいま初めて、自分から弦巻さんに歩み寄ろうとしている。いつも受け身だった、俺が。
その理由は、初めて真実を聞いたからだ。分かりきっている。だが、奥沢さんからは事実を聞かされただけ。行動しようと決めたのは俺だけの考えだった。これは、明らかに今まで過ごしてきた一ヶ月とは違う。
真実を聞いて、俺の考えが確実に変わり始めている。二度と変わらないと決めつけていた、俺の環境が。
「ね? 無理な事なんて、何一つないの。願えば、何でも叶うのよ!!」
「……そうかもね。ありがとう、弦巻さん」
「えへへっ」
願えば……か。弦巻さんが諦めずに何ヵ月も動いてくれなければ、今の俺はなかった。ずっとずーっと閉じ籠ったまま、独りぼっちだったと思う。
弦巻さんのやることが全部成功するのは、そういう事なんだろうね。もちろん、弦巻さんのカリスマや天性も大きいんだろうけど……。それ以上に大事なのは信じ続けること、迷わず前を向くこと……か。彼女にはそれを周りの人にまで及ぼす、不思議なパワーがある。
「日記は返すよ」
「隼人が持っていて良いのよ? 元はといえば、あなたのだし」
「いいんだ。何も知らない状態でこれ読んじゃうと、どうなるか分かんないし。……弦巻さんに遠慮しそうでね」
奥沢さんが持ってきた俺の日記四冊を弦巻さんに返す。この日記は、お世辞にも良いことは書かれていない。病気に対する俺の不安や、マイナス思考が大半だ。そんなもの、記憶を失った直後の不安定な状態で読みたくない。
十一月分の記憶が消えてしまうのは、変えようのない事実。これは諦めでも何でもない、どうしようもない事だ。いかな弦巻さんでも、病気を治すことは出来ない。これはもう受け入れてる。
「それよりも、あと半月の事を考える事にするよ。奥沢さんに言われたんだ。残り半月を弦巻さんに預けてくれ……ってさ」
「預け……る?」
「俺がどう過ごすのも、弦巻さん次第って事。もちろん……嫌なら無理強いはしないけど」
大事なのは、その事実を受けてどうするか……だ。
もうどうせ記憶は消えちゃうから、なんて言わない。
「あら、そうなの。じゃあ、アタシが色々お願いしてもいいのねっ」
「……可能な限りで、死なない程度のお願いで頼むね」
俺は苦笑い。弦巻さんが言う『色々』ほど怖いものはない。何させられるか、分かったもんじゃないからね。まさか、このワードに恐怖を覚える日が来るとは思わなかったよ。
「じゃあまず、アタシと友達になりましょっ。これなら良いわよね?」
「えっ?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。どんな事を頼まれるんだろうと勝手ながら身構えていた結果、内容が案外普通の事だったからだ。
あ、ごめん弦巻さん。別に嫌な訳じゃないんだ。
「あら、ダメだったかしら?」
「そ、そんな事ないよ!! これからもよろしくね、弦巻さん」
正直、スゴく今更感はある。でも、弦巻さんがそう仕切り直したいなら俺としても異論は全くなかった。俺は、スッと右手を差し出す。
……だが、彼女はその手を握ってはくれなかった。
「あ、あれ?」
「なんか違うわ」
何がだ。そこは、よろしくって握り返すパターンでしょうよ。これで良いシーンになるんでしょうよ。
「アタシ達は友達だもの。その『弦巻さん』っていうのは止めましょ?」
「え、なんで?」
「だって、アタシは友達みんなの事を下の名前で呼ぶもの。美咲、花音、香澄……それに隼人!!」
「それはそうだけど……」
弦巻さんの場合、友達であろうがなかろうが下の名前で呼びそうだけどね。しかも、松原さんって確か一つ上だったよね。その辺も気にしないんだろうなぁ……。
つまるところ、彼女の言いたいことは……
「要するに、下の名前で呼べってこと?」
「そーね!! その方が良いじゃない!!」
下の名前かぁ。そう言えば、今まで誰も下の名前で読んだことなかったなぁ。学校のクラスメイトも、弦巻さんを始めとする学校外の人たちも名字にさん付けだ。
記憶がないからその人との関係が分からなかったし、さすがに下の名前は馴れ馴れしいかなって。元より、他の人と仲良くしようとも考えてなかったわけで。
だが、彼女に対してはもうそんな事を気にする必要はない。弦巻さんの言うことにも一理ある。ただ、変な気恥ずかしさがあるけどね。
「えと、じゃあこころ……さん?」
「んー。何だか、まだよそよそしいわ」
そりゃいきなり呼び方変えろって言われたらね。誰だって普通はそういう風になると思うよ。
多分、そういう事じゃないんだろうけど。彼女の言わんとする事は分かる。……分かる。
「こ、こころ……でいいかな?」
「うんっ。それなら良いわっ!! よろしくね隼人!!」
「……よろしく」
絞り出したような声だったが、弦巻さん……じゃなくてこころはご満悦だったようだ。いきなり下の呼び捨てはハードル高いよねぇ。あー、恥ずかしい。
……でもまぁ、嬉しそうだからいっか。俺が今までしたことを考えれば、これくらいお安いご用だ。
「あ、もう時間。そろそろ、学校行く?」
さて、話のキリもついたところだし。そんな事をしていたら、もう時間が経っていた。いつも家を出ているのと同じ時間だ。今から出れば、充分間に合う。
「あら、今日は行かないわよ?」
「は?」
だが彼女から返ってきたのは、謎の答え。いや、どういうこと?
「制服着てるよね?」
「えぇ」
「そこにバッグもあるよね?」
「あるわね」
「学校には?」
「行かないわ!!」
何でだよ。十人に聞いたら、十二人が学校に行くって答えるような準備が出来てるじゃんか。十割越えてるけどね!! それぐらい当たり前って事だよ!!
「せっかく隼人と友達になれたのよ? だったら、遊びに行っちゃいましょっ!!」
「え、ちょま……今から!?」
「もちろん!! 隼人も、一日でも早い方がいいじゃない?」
いや、何言ってんのこの人。堂々とサボり宣言? 確かに俺に残されている時間は僅かだけど、これでも真面目な生徒で通ってるんだけど!?
大体学校に休みの連絡しないといけないのに、その辺をなんにも考えて……
「こころ様。お二人の学校へお休みの連絡、完了いたしました」
「ありがとう!! 助かるわっ」
たんですね、はい。つーか誰だよこの人達。スーツにサングラスってメチャクチャ怪しいんだけど。こころの側近?
っていうか、止めろよ。このお嬢様の暴走を止めろよ。側近なら、なおさら止めろよ。何で用意周到なんてレベルじゃない速さで休みの連絡勝手に入れてるのさ。
「……アタシが色々お願いしてもいいのよね?」
「いや良いとは言ったけど、それは可能な範囲でって事であって、全部が全部のお願いを叶えるってわけじゃ……」
「さーっ、行っくわよー!!」
「ちょっ、人の話聞いてっ!? こころ、ちょっ……引っ張らないでってばぁ~!!」
こうなったお嬢様は、もう止まらない。俺には止めようがない。俺の制止も一切聞かず、こころは外を飛び出した。もうこうなったらどうしようもなく、俺はズルズルと彼女に成されるがまま引き摺られていく。
まだ他の生徒が登校している時間帯。通学路を逆方向に笑顔で駆けていく少女と、手を引かれたまま連行されている男子生徒が注目を浴びたのは言うまでもない。