太陽の備忘録【完結】 作:8.8
次の日の目覚めは、そりゃあもう良かった。やはり、貰った睡眠薬が効いたんだろう。夕食後にガバッと飲むだけで、その日はぐっすりだった。嫌なことを全部忘れ、睡眠に集中出来るのがこんなに良かったとは。おかげで、今日は三十分ほど早く起きられたぐらいだ。
「よっす、隼人。どした? いやに早いじゃねぇか」
「ま、たまにはね。おはよ」
校門を抜けた時。制服ではなく、運動着に身を纏ったAと出くわした。やたらグラウンドに生徒がいると思いきや、朝練をやっていたのか。Aはサッカー部所属だったような。
いつもは朝礼時刻ギリギリで来る俺にしては、確かに珍しいかもしれない。それどころか、見渡す限り数えるほどしか制服を着た生徒はいない。Aの疑問も分かる。
だが、そんな怪訝そうに見なくても良いじゃないか。ほんの気紛れというヤツだ。早起きは三文の得とも言うし、実際今は気分が良いのだから。
「なんだ、いつも一緒に登校してる子ってのはいねぇのか」
ピクリ、と俺はその言葉に反応する。
いるはずがない。いつもより三十分も早く家を出たのだから。今ごろ俺の家に来て、俺がいないことに驚いているだろう。
「いないけど、なんで?」
「いやなに、結構可愛いって聞いたからさ。ちょっと見てみたいな~なんて……」
「ふーん」
別にどうでもいいや、という風でAの言葉を受け流す。そんなの、商店街歩いてたら嫌でも目につくと思うよ。目立つもん、弦巻さん。
「あれ、機嫌悪い? 別に取ろうとか考えてねぇって。怒んなよぉ」
「取る取らないとか、そもそも俺は関係ないし。しつこく付きまとわれてるだけだよ」
「そうかねぇ……っておい隼人!!」
これ以上は話題が平行線になりそうだったので、俺はさっさと教室に向かうことにした。後ろからAの呼び止める声がするが無視無視。後で、教室で謝っておこう。
弦巻さんの事は、この学校でも知っている人が何人かいた。俺と毎日登下校していたからというのもあるが、大半が別の理由だ。言うまでもなく、良くも悪くも彼女は目立つからである。
ある女子生徒からは『商店街でよく見かける、元気な女の子』と。クラスの男子生徒からは『超可愛いお嬢様』と。音楽が趣味の子からは『ハロハピのボーカル担当』と。他校の生徒の癖に、どうしてこうも目撃証言が多いのか。……目立つもんなぁ。
とにかく、今は彼女の事を考えないようにわざわざ時間をズラしたのに、これでは本末転倒だ。せっかく早起きして爽快だった気分は、早々に落ち込んでしまった。
「ハァ……ご飯でも食べよ」
教室に着いた俺は、袋からパンを取り出す。山吹ベーカリーで買ったものだ。急ぎの集まりがあるからと嘘をつき、家で食べずに外へ飛び出したからである。
今日はウインナーロールを買った。これはまぁ、近い惣菜パンを適当に選んだだけである。本命は、いつものコロッケパンだ。
山吹ベーカリーには何度か通ったが、このパン以上に気に入ったものは見つからなかった。俺の好物と言っても差し支えない。そういえば、これは弦巻さんが見つけてくれたっけ。スゴい偶然だよね。
微かな幸福感に包まれるのを感じながら、俺はコロッケパンを頬張る。ふと気付いたのは、やっぱり弦巻さんが関係しているなぁってこと。それもそうだ。今月の頭から一緒にいる時間が最も長いのは、家族を除けば弦巻さんが圧倒的。
彼女と話した事、体験した事、共有した事は全て脳裏に焼き付いている。『今は』鮮明に思い出せる。
「……美味しいなぁ」
このコロッケパンだってそう。彼女が俺に薦め、彼女と一緒に美味しさを共有した。だからこれを食べると、その時の出来事が嫌でも思い起こされてしまう。
これを選んだのは失敗だったかな、と俺はまたコロッケパンを齧る。弦巻さんの事を一日でも早く気にならないようにしたい、忘れてしまいたい。だが、それは難しいことなのだと、身を以て思い知った。
早起きの清々しさは、もうとっくに消え失せていた。
★☆★☆★☆
秋の日は
ハァ、と息を吐いて
そんな思いをしながらも、俺はわざわざ商店街を通って遠回りして帰る。それには行きと同じく弦巻さんを避ける他に、ちゃんとした理由があった。
「相変わらず、人が多いな」
福引きの時もそうだったが、ここは本当によく賑わっている。まだ十一月の中旬だというのに、イルミネーションなんか出しちゃって。ずいぶん気が早いこと。
人だかりが出来ている中央には、一昨日と同じようにテントが立っている。聞こえるのは、奥様方の残念そうな悲鳴ばかり。一等のハワイ旅行は、依然として客を引き寄せていた。
ここに来た用事とは、福引きを引くことだった。最も、券が余ったからと親に頼まれたからだが。学校帰りのついでによろしくなんて、随分勝手なことを言うものである。
「お願いしまぁす」
「はいはい……って、お? 陰山君じゃないか」
「あ、ども」
「一回分?」
「はい」
福引券を受け取ったのは、一昨日お世話になった俺たちの雇い主であるおじさんだった。こうして自分で対応しているってことは、さては俺達の後のバイトが集まらなかったな。少し気の毒だ。
とはいえ手伝う事も出来ないので、大人しく客として福引きを回す。ガラガラ~っと中の玉が音を立てながら、一周二周。三周目に入ろうかというところで、コトリと玉が出てきた。色は緑。あれ、ポケットティッシュの白じゃない。
「お、おめでと~!! 緑ってことは四等かな」
あら、何か当たっちゃったんだ。ハワイではないけど、ポケットティッシュよりか遥かにマシなのは間違いない。ま、何だっていいけど。
おじさんが俺に手渡したのは、薄っぺらい封筒。封筒。中を見ると、無料券が二枚入っていた。……どっかの入場券かな? なんだこれは。
「四等は水族館のペア券だよ。誰か友達と行くといい」
「はぁ。心当たり無いですけど」
ペアの無料券、か。そういえば、そこそこ大きな水族館が周辺にあったっけ。
とはいえこんなもの渡されても、生憎相手はいない。たかだか半月程度の付き合いの奴と二人で出かけるなど、俺には考えられない。いたとしても、今の俺には行く気もなかった。
「こころちゃん誘ったらどうだい?」
あぁ。そういえばたった一人だけ、一緒に行ってくれそうな人がいたな。きっと俺から声をかければ、弦巻さんは喜んでいくんだろう。
でも、彼女はダメだ。彼女だけはダメなんだ。
「そういうんじゃないんで。失礼します」
おじさんに短く断りを入れると、俺は足早にテントから去っていった。これ以上、あの人の話題が出るのが怖かったから。
どうしてだ。今日は一度も顔を合わせていない、話してもいないのに、結局弦巻さんの話題が出てしまう。何のために行き帰りの時間をズラしたと思ってる。
治療をしても、いつ治るかは未確定。少なくとも、今月中は無理。昨日医者にそう言われて、俺は残り半月の身の振り方を考えた。
そして出た結論が、今までの出来事をなるべく忘れるように過ごす事。何も考えないまま、変な悔いが残らないまま三十日を迎えたいというのが本音だった。
その結果、まずはあの超ポジティブお嬢様から離れるのが第一だと考えた。何も事情を話さずに申し訳ないとは思うが、登下校の時間をズラしてしばらくは一人で過ごそうと思っていた。
だが、結果はこれである。学校でも一人でいても、あの人の話題になる。
「クソっ」
思い通りにいかない現実に、確かな苛立ちを覚えていた。せっかくの無料券を封筒ごと手でグシャグシャに丸めて、ポイっと投げ捨てる。いらないし、こんなの。
「あら、落としたわよ?」
背後からの声に、思わず振り返る。
その声の主は今最も会いたくない人物。
俺は、つくづく自分の運のなさを呪った。
「……弦巻さん」
「んー。あらっ、水族館の無料券じゃない!!」
「欲しけりゃあげるよ」
また勝手に中身見るんだから。遠慮がないというか、デリカシーがないというか。
シワが出来てしまった無料券を手に、弦巻さんは嬉しそうに声をあげる。この人に見られたのは失敗だったな。
「ちょうど二枚あるじゃない。隼人、今度一緒に行きましょっ!!」
「俺は行かない。奥沢さんや松原さんと行ったら?」
「それも楽しそうね!! でも、それはハロハピの皆で行けばいいもの。だから、ね?」
「行かないってば」
こうなるのは、目に見えていたからだ。一度食い付いたら、こちらが折れるまで決して離さない。まるですっぽんのような人だ。
いつもなら俺も早々に折れるが、今日ばかりは少々事情が違う。少し語気を強めて断る。
「そう……。なら仕方ないわね。これ、返しておくわ」
「えっ? いや、別にいらないよ?」
「そうなの? 他に行きたい人がいるから、断ったんだと思ってたわ」
「違うってば」
君と行きたくないから、とはさすがに言えなかった。この期に及んで気遣い? 何でだろうね。
第一、無料券なら欲しいならあげると言ったじゃないか。とりわけ、水族館に行きたいってわけじゃないのかな。俺もいらないんだけど。
「それより隼人、今日はどうしたの? 行きだけじゃなくて、帰りもいないなんて」
「別に……何でもないよ」
「にしては、いつもより顔が暗いわ。悩みがあるなら聞くわよ?
一人で抱えるより、話した方がずっと楽になるもの」
顔、暗いのかな。自分じゃわからないや。弦巻さんはあれで結構敏感だし、きっと今の俺は酷い顔をしているんだろう。
でも、仮にそうだとしても。弦巻さんには関係ない。
「何でもないってば。じゃあね」
「あっ……。またね、隼人!!」
「……またね」
珍しく諦めが良かったのか、追いかけてくるような事はなかった。振り返り、彼女に小さく手を振る。弦巻さんは少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな顔をしていた。
何か言いたげだった彼女に、少しだけ後ろ髪が引かれそうになる。だが、ここで立ち止まったら意味がない。早く……早くここを離れてしまおう。
俺の悩みや言動の根源は、全て病気が原因だ。いくら弦巻さんでも、こればかりはどうしようも出来ない事実。だから事情を話しても無駄だし、余計な心配をかけたくない。俺と彼女は、やっぱり相容れないんだ。
彼女と一緒にいることで、俺は色んな体験をする。きっとそのどれもが新鮮で、心地よく感じることだってあるだろう。でもそんな体験をすればするほど、比例的に全てを忘れる事が怖くなる。
きっと弦巻さんも、俺と一緒で楽しいんだろう。どこに興味を持ったかは知らないが、俺を笑顔にさせようとあれこれ工面している。だが、来月の俺を見て彼女はどう思うだろうか。俺が全てを忘れているという事実を知ると、どういった反応をするのだろうか。
もしかしたら傷つけるかもしれない。ショックを受けるかもしれない。案外ケロッとしているかも……? 考えられることは色々ある。でも確実に言えるのは、この一ヶ月の事は全部無かったことになるという事だ。マイナスはあっても、プラスはまずない。
だったら、もう今のうちから疎遠になっておけばいいじゃないか。これが俺の出した結論。きっと、それがお互いのためになるはずだから。
「……ごめんね、弦巻さん」
決して届くことのない謝罪は、人混みの喧騒に消えていく。
これだけ風が冷たくて寒いってのに、道行く人達は皆楽しそうに談笑している。どんな話をしているんだろう。今日の出来事か、明日の予定か、はたまた週末の楽しみについてか。
笑顔、笑顔、笑顔。周りにはたくさんの笑顔が咲いている。仏頂面で一人で歩いている俺は、どんなに浮いているだろう。明らかに、この商店街の中では異端だった。
手をポケットにズボッと入れ、体を丸めて早足で商店街を抜ける。ここに来たとき僅かに見えていた茜色の夕陽は、もう見る影も無くなっていた。
やっぱり今日は寒いなぁ。早く帰らなきゃ。
横顔を、秋風が強く撫ぜる。俺はまた一つ身震いをして、歩くスピードをさらに上げた。
十一月十二日(水) 天気:晴れ
目覚め『だけ』は良かった日だった。あとは最悪。全てを忘れてスッキリしたい気分だ。いっそのこと、一ヶ月とは言わず一日周期で記憶飛ばしてくれればいいのにね、なんて。
それとは別に、治療の件は本格的に話が進んできた。さっき、親とも話し合った。今週は無理だけど、来週には親も一緒に病院に行ってくれるらしい。そこで担当医との相談になりそうだ。もちろん嬉しいけど、やっぱり怖い気持ちの方が強いかも。