やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「じゃあ呼吸から。息をしっかり吸って真っ直ぐ遠くまで伸ばすように」
小笠原先輩の声に合わせて、手を前に伸ばしすーっと息を吹きかける。
合宿の朝は呼吸練習と発声練習から行われる。それからパート練習。午後からはひたすら合奏練習だ。
問題はこの合奏練習の中にある。意識しないようにしていたが、その練習が初めてではない俺からすると、近付くにつれて憂鬱な気持ちになってくるのだ。
それに加えて、昨日の夜の事もある。今日は疲れた身体を引きずって中川先輩と話す場を設けることもあると思うと、過酷すぎてやっぱり夏休みは足りなかった。
だが、俺の下り坂どころか急転直下の心なんて関係なく、時間は無情にも過ぎていくもので。
「では、十回通しに移ります」
「「「はい」」」
説明しよう。十回通しというのは、課題曲と自由曲合わせて十二分の曲を続けて十回、一回毎にたった二分の休憩を挟んで吹き続けるというものである。名前の通りでわかりやすい練習だが、その苦しさと言ったら表現する言葉が見つからない。合計百六十分以上、ほとんど休みなしで吹いたらどうなるか。
七回目の演奏を終えた。
「はぁ…はぁ…」
俺含め、すでにほとんどの部員が満身創痍である。
タオルを頭から掛けていたり、汗が止まらずにぽたぽたとその水滴が床に垂れていたり。ホルンには何かに取りつかれたようにぶつぶつ呟いてるやつさえいる。
冷たい水を下さい。できたら愛さなくていいから、アイスティー下さい。
「比企谷君。お疲れ様」
「お疲れ、様です…」
声をかけてきた香織先輩は汗こそかいているものの、まだ余裕がありそうだ。
「疲れたよね?」
「もう帰りたいです」
「後三回で終わりだよ。頑張ろう」
残り三回もあるんだよなー。
「ねえねえ。比企谷君のそのシャツ、可愛いね」
「そ、そうですかね?」
「うん。この赤くてベロをペロってしてる犬がキュートだよ」
「本当ですか?ありがとうございます。こいつ、チーバくんって言うんですよ。千葉県民はこの生き物を探して日々生きてます。チーバ君を探せって言って」
千葉県民として慣れ親しんだこのキャラクターを褒められたのが、自分の事のように嬉しい。正直、あまり可愛いとは思っていなかったんだけど、香織先輩に言われてから何だか可愛く見えてきた。
「ふーん。千葉県のマスコットキャラクターなんだね」
「はい。香織先輩、こいつをよーく見て下さい。何かに見えませんか?」
「んー。何々?全然わかんないよ?」
「ヒントは都道府県です」
「んー……あっ!凄い!千葉県の形してる!」
「正解です!流石香織先輩!」
「世紀の大発明だ、このキャラクター!」
「そ、そうですよね!」
香織先輩に合わせて妙にテンションが上がったが、冷静に考えてそこまでの大発明ではない。ニコラテスラが開発した電気や、ライト兄弟が開発した飛行機にチーバくんが並んでも良いはずがあるか。
だけどそんなことは目の前でとんでもなく嬉しそうにぴょんぴょんと飛びながら喜ぶ香織先輩に言えるわけもなかった。やっぱり、香織先輩は少し変わっている。
「香織先輩のそのシャツは、目がちかちかしますね?真っ黄色」
「うん。去年の私のクラスの文化祭のTシャツだよ。合宿とか夏の暑い日のパジャマとしてじゃないと着ないけど、たまに着ると楽しかったこと思い出せて結構好きなんだ」
「あー。香織先輩は満喫してそうですしね。俺は中学生の頃のTシャツは全部捨てました。親に見られる前に」
「え?どうして?もったいないじゃん」
「なんかこういうクラス事のTシャツってクラスメイトのあだ名とかを背中に入れる風潮あるじゃないですか?クラスメイト達が『名前どうしよっかー?』なんて盛り上がってる中、『あ、こいつ名前どうしよっか…』って気まずそうにTシャツを作る担当してる人が悩んでるのを見たときはちょっと泣きそうになりましたし、最後まで聞かれないで前日に貰って初めて見てみたら、『No Name』って書かれてたときは泣きました」
「つ、辛いね。今年はそんなことないよ、きっと!」
「香織先輩のクラスは名前とか入れてないんですか?」
「へ!?せ、背中に入ってはいるけど…」
「あ、もしかしてあだ名なんですか?わかります。なんか誰かに無理してつけられたあだ名とか恥ずかしいですよね」
「う、うん。そうなの。だからご、ごめん!見せない!」
これだけ頑なに見せようとしないでいると逆に気になってしまう。
「じゃあ、後でこっそり見ますね?」
「そ、それなら今見られた方が良いよ!み、見ないでよー」
いや、これ気になってるんじゃない。俺、興奮してるんだ。あだ名の入っている背中を隠すのに、なぜか自分の身体をぎゅっと抱きながら顔を赤くして照れている香織先輩に。
「うー。じゃあ、見ても変な風に思わないでね?」
「は、はい」
背中を向けた香織先輩。
「…な、なるほど。流石ですね……」
「自分で考えたんじゃないからね!本当だよ!」
『マドンナ香織』。サバン〇高橋みたいなあだ名だけど、なるほど。確かにこれは恥ずかしいな。決して間違っちゃいないけど。
地獄の十回通しが終わって、先生達の指導が入る。
二日目の途中からはパーカスの指導担当の橋本先生も来てくれていた。金管の滝先生に、木管の新山先生。そしてパーカスの橋本先生。もはや盤石の構えであるが、今更ながら滝先生の人脈は凄いな。
「今の合奏で良いですが、この曲は単純なB♭メジャーが随所にある曲です。そこを綺麗に合わせるよう意識しましょう。」
「「「はい」」」
「あとスネアがちょっと後ろに感じるよー。もっと前に」
「はい!」
「それとティンパニ。今のところ、ワンテンポ早かったろ?今そんなことやっててどうすんのー?罰金ものだよ」
「…はい!」
「チューバ。テンポを早めたらこの有様ですか?指は間に合っていますが、口が追いついていません」
滝先生も橋本先生も凄く指導に気合いが入っていた。げんなりするほど厳しい指摘に、指導を受けるのは悪いことではないとは分かりつつ、自分たちには指摘がなければ良いと祈る。
二人とは対象的に新山先生は変わらず、微笑みが絶えることはなかった。指導をするときも優しく、そして回数も多くはない。ただ、木管のやつがぼそっと『後でさっきの部分、何回吹くことになるんだろう…』と、遠い目をしながら呟くのが聞こえてきて、あっちはあっちで大変そうだと思った。
「…なあ、滝君?」
そんな中で橋本先生のその核心を突くような発言は、他の指摘とは明らかに毛色が違った。
「オーボエのソロ、あれでいいの?」
オーボエのソロ。奏者は鎧塚先輩だ。当の本人は指摘に表情を変えることはなかった。その指摘に表情を少しだけ変えたのは、滝先生と新山先生。
二人は困ったように目を合わせた。四月からずっと、俺たちの指導をしてきた滝先生。そして木管のプロとして昨日から、一人一人の演奏をしっかりと耳にした新山先生。
鎧塚先輩の演奏がどういう演奏なのかなんて、橋本先生が言わなくたってとっくにわかっていて、見逃すことにしていたのだ。
「いやー。音も綺麗だし、ピッチも安定している。けどねえ。一言でいうと、ぶっちゃけつまらん。ロボットが吹いてるみたいなんだよ」
「…ろぼっと?」
それは俺も初めて聞いた時に思った感想だ。だけど、優子先輩には昔はもっと感情のある演奏をしていたと聞いた。思うところがあるのだろう。優子先輩の鎧塚先輩を見る視線は不安げだ。
「楽譜通りに吹くだけだったら機械でいい。鎧塚さん?」
「はい?」
「君はこのソロをどう吹きたいと思っている?何を感じながら演奏している?」
「……三日月?」
「じゃあもっと三日月感出さないとー」
「善処します」
「善処って言い方してる時点でダメなんじゃなーい?もっと感情出せないー?」
「…すみません」
「謝ることじゃないよ。クールな女の子って魅力的だと思うし。でも、このソロはクールでは困る!『世界で一番綺麗な私の音を聞いてっ!』くらいじゃないと!」
わざとオーバーな動きをしながら熱さを伝えようとする橋本先生が指したのは高坂だった。
「ほら。トランペットのソロの子みたいに!」
「え?」
高坂が注目されて照れた。なんか珍しい。
「正直、君たちの演奏はどんどん上手くなってる。強豪校にも引けを取らないくらいにねー。でも表現力が足りない。それが彼らとの決定的な差だ。
北宇治はどんな音楽を作りたいか。この合宿ではそこに取り組んでほしい!」
「「「はい」」」
「橋本先生もたまには良いこと言いますね?」
「いや。たまにはは余計だろう?僕は歩く名言集だよ?」
「はい。では今のところをもう一度!」
昨日からメッセージや感想で頂いておりますが、ユーフォのアニメ続編が決定しましたね!原作小説も今月発売が決まっているので、ここのところかぐや様に傾きまくっていた熱がユーフォに一気に舞い戻ってきました笑
はぁ。早く久美子三年編が見たい!もう今から楽しみで仕方がありません!