やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 ユーフォニアムの音が聞こえてきた。

 懐かしい音だ。陽乃ちゃんのユーフォの音。楽しそうなのにどこか寂しくて、辛そうなのに伸び伸びと。それはあの人の性格を連想させた。表と裏。黒と白。どこか正反対の二面性を持つ演奏は、俺が初めて陽乃ちゃんを見たときにこそ憧れたものだったけれど、今になっても尚、彼女のように演奏出来ることはない。

 そんな音が聞こえてくるんだから、きっとこれはまだ夢の中なんだろう。

 夢だと思わせるのは音が聞こえてくるのが、ここよりずっと遠い所からだというのもある。この遠い所から聞こえてくる感じも、ユーフォニアムの音も、初めて彼女をいつもの公園で見つけたときにどこか似ていた。

 音に神経を集中させながら、まだ重たくて開くことのない瞼。

 

 『ねえ、知ってる?』

 

 何、豆しば?

 ………じゃない!?こ、この展開はまさか…!?

 

 『ねえ、知ってますぅ?』

 

 さふぁしばだ!さふぁしばが帰ってきた!

 知らない知らない。俺、何にも知りません!

 

 『こんにゃくの九十五%は水で出来ていて、固めるためには石灰が使われているんですよぉー』

 

 あ、ああ…。相変わらず使い所が全く分からないどうでもいい豆知識だ。

 つまり俺たち、石灰を食べてるって事だよな?身体に悪そうだけど。でも野球少年がヘッドスライディングしたときとか白線の粉が舞うけど、あの粉も石灰だもんな。それを吸収しても別にそんなに害があるわけではないだろうから、多少なら大丈夫って事か。

 目の前のさふぁしばはニコニコと笑っている。試しにさふぁしばをタッチしようとしたが、ひょいと躱された。

 

 『ダメですよぉ。お触り厳禁ですぅ』

 

 諦めずほいほいとさふぁしばに手を伸ばすものの、意外とさふぁしばは素早い。

 

 『ふふ。捕まえてご覧ですぅ』

 

 ニコニコと俺の手を躱し続けるさふぁしばは楽しそうだ。この笑顔、国宝級。俺氏、一生この夢の中で生きていきたいでござる。

 まてまてー。

 

 『あははですぅ。うふふですぅ』

 

 鳴り止まないユーフォニアムの演奏の中、俺とさふぁしばの戯れは続く――。

 

 

 

 

 

 「…って続く訳ねえだろうが」

 

 俺の眠りが浅いときに出現する傾向があるのだろうか、さふぁしばは。久しぶりの登場に危うく心を幸せな夢の中に置いてきてしまい、そのまま夢の世界の住人になりかけたが、一瞬冷静になったところで目を開いた。見慣れない天井には黒染が点々と存在する。それに部屋は蒸し暑い。

 視線を横にずらせば、口を開けて眠る塚本。腹を出して眠るやつ。パンツ一枚しか着ていないやつ。多分、パンツの上に履いてたパジャマは二つ隣のやつの顔に掛かっている。どういうシチュエーションなんだ……。何はともあれ、汚い世界だ。さっきの綺麗な夢の世界とは大違い。これだからリアルは。

 窓の外から差し込む光はもう明るいが、しかし目覚まし時計が鳴った様子もないし、まだみんな寝ている。もし起床時間を過ぎていて、これだけ男子が寝ていたなら女子達から防空壕の中に直接爆弾を投げ込まれるくらいの集中砲火を食らうことになるだろうが、スマホに写る時計の時刻はまだ五時を指していた。

 

 「……んぅ」

 

 目を再び閉じて眠る気にもならず、俺はずずーっと身体を起こす。昨日は日をまたぐまで優子先輩と話していたし、全然寝られていないから身体は疲れている気がする。そう言えば優子先輩は、あの後黄前と話すと言っていたけれど何時頃まで話していたのだろう。流石に一時間くらいだと思うが。

 

 「……え?」

 

 まだ完全に意識は冷めていない中、夢の中で響いていた音が聞こえてきた。ユーフォニアムだ。

 まさか、陽乃ちゃんがいるわけがない。俺たちが出会ったのは千葉で、ここは関西だぞ。

 そんなこと頭の中では理解しているのに、身体は忙しなく動いた。静かに部屋を出て、慌てて靴の置いてあるフロントへと向かう。

 

 「はぁ…はぁ……」

 

 気が付けば走り出していた。陽の光は眩しく、けれど風は冷たい。栄える緑に視線を向ける余裕はなく、ひたすらにコンクリートの坂を走る。吹部の練習の一環として校庭を走っているし、そんなに大した運動ではないはずなのに息はいつもより上がっている。

 もし、陽乃ちゃんがいたならば、言いたいことがある。

 『どうして、もう練習に来れないことを教えてくれなかったのか』とか、『吹奏楽を続けて、部活とかをしていたら絶対に見つけてくれるって言ってたのに、いつまで待っていれば良いのか』とか、『やりたいことをやれって言ったのに、そういう自分はやりたいことやってるのか』とか。言い出したら切りがない。でも、伝えたい。

 

 そして、坂を登り切った先に彼女はいた。

 開けた公園の真ん中で一人、銀色の楽器を持って佇む。朝日を浴びて輝く黒髪。響くユーフォニアムの音も相まって、ここは神聖な場所にさえ思えた。

 そんな場所で色んな感情が込められているような演奏に魅入られて、聞き惚れて。動けずにいる俺は初めて陽乃ちゃんを見た時と何も変わらないまま。

 

 「…田中先輩……」

 

 あぁ。俺はあの人が苦手だ。

 勝手に期待して、勝手に裏切られて。陽乃ちゃんと田中先輩の面影を重ねた。わかっている。苦手意識を持っているのは極めて個人的な理由で、田中先輩は何も悪くない。

 けれど、俺の直感が正しければ。あの人が本当に陽乃ちゃんと同じであるならば。

 きっと彼女はいつか、大切なことは何も言わずにいなくなる。俺たちの誰よりもずっと頭も良くて、色んなものが見えていて、それでも全てを諦めて。

 ただでさえ、今の部活の運営体制は田中先輩に頼りすぎている節もある。その信頼が自らの意思で背負った責任でないにしても、いなくなってしまったとしたらそれは北宇治高校吹奏楽部を見捨てることに他ならない。

 だからこそ、そんな日が来ないことを祈る。色んな感情を捨てるように静かに息を吐き出して、俺はその場を後にした。




読み易いかと思い、文の始めに空白を空けるようにしました。
この話以降、空白を空けていきます。

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