やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「香織せんぱぁーい、今日授業で先生に怒られたんですよぉー」
「え?どうして?」
「なんか授業中うとうとしてたら寝るなって。寝てないんですよ。酷いですよね?」
これまでの俺のクラスメイトの観察記録によると、『寝てないよ!寝てないから!』と言う奴は十中八九寝てる。特に机に腕で顔を覆うようにして伏しているやつ。あれで寝ていなかったとかよく言えるな。
香織先輩と優子先輩が前を歩いている中、それに続く形で音楽室に向かう。合奏練習が終わりパート練習になったが、いつも練習をしている教室が文化祭の話し合いが長引いているようで使えなかった為、音楽室で練習を行うことになった。
音楽室はいい。夏休みの間、音楽室だけは冷房が効いていて、パート練習を行う各教室は暑さをどうにかする手段が扇風機くらいしかなかった。今は学校が始まったためどこの教室でも冷房が効いているが、夏休みが空けて変わったことと言えば授業があるかないかくらいの差で、部活が生活の中心なのは変わらない。それもあってか夏休みが終わった後も音楽室は天国。そのイメージが拭えずにいる。
「あはは。酷いね。朝練行ってるから眠くなっちゃうのは仕方ないしさ、コンクールが終わるまでは見逃してって感じ」
「ですです。やっぱり香織先輩はわかってくれるんですね!エンジェル!」
前の二人の会話を聞いていると、隣を歩いていた高坂に話し掛けられた。
「比企谷さ、そう言えば球技大会さっき何に出場することになったの?」
「俺はバスケ。高坂は?」
「私はバレーに決まった」
「ふーん」
高坂のバレーか。男子からの注目が凄そう。主におっぱい的な意味で。おっぱいバレーって一時期流行ってたもんなあー。映画自体ってよりかは、その呼称が。
「文化祭とか、球技大会とか纏めてあると面倒くさいね。授業なくていいって思ってたけど、関西抜けたら全国に向けての練習もあるし」
「まあ文化祭も球技大会も、実行委員とかにならなけりゃ適当に過ごしてれば終わるんだから別に良いだろ?」
「でも文化祭もどうせやるならクオリティ高いのやりたいし、球技大会だって勝ちたくない?」
「いや別に全く全然これっぽっちもそんなこと思わない」
「同じクラスなんだし、もう少しはやる気出してよ。私はやるからには最高の結果を出したい」
「意識高すぎ高杉君かよ。結果残したって何かあるわけじゃねえだろ?」
「ん?ストップストップ。なんか大事そうな話してる」
前を歩いていた香織先輩が音楽室の中を見て、扉を開けずに俺たちに止まるように指示を出した。中を見ると、新山先生と鎧塚先輩が二人で話している。
二人の会話が厚くはない扉越しに聞こえてきた。
「私、鎧塚さんにちゃんと謝っておこうと思って」
「謝る?」
優子先輩が首を傾げた。確かに新山先生が鎧塚先輩に謝る事なんて一体何があるのだろう。
「正直に言うとね、私も貴方のソロを聴いたとき物足りないと感じたの。なのに高校生だからこれで十分って」
「あの…」
「私はあなたの可能性の上限を決めつけていた。ごめんなさい、失礼なことをしてしまったなって。貴方の技術は素晴らしいわ。でも、聴いていると苦しくなる」
新山先生の話を聞く鎧塚先輩はぽかんとしていたが、機械仕掛けの人形の様に顔を動かして、教室に入らずにいる俺たちを視界に捉えた。夜の海のように深い瞳の奥にある感情は、きっと困惑だと思う。それも鎧塚先輩の表情からは正確にはわからないけれど、助けを求めているようにも思えた。
こないだの合宿中に橋本先生から指摘を受けたときもそうだったが、技術的には何一つ文句はなく、むしろ優れている。感情が演奏に乗っていないことを指摘されるのは、本人からしても指導者からしても難しいのだろう。技術的な面とは違って、感情的な面は指の動かし方とか、息の仕方とかそういう指導でどうにかなるものでは当然ない。
「もっと楽しんでもいいのよ?」
「……はい」
やっぱり鎧塚先輩の表情は変わることはなかった。
音楽室で話す二人を見ながら、消え入りそうな声でぽしょりと呟いたのは優子先輩だった。
「みぞれは…変わらなくちゃいけないのかな?」
「少なくとも、滝先生とか指導してくれている先生達がより北宇治の演奏をよくするために変わらなくちゃいけないって言うなら、変えなくちゃいけないと思います」
「高坂」
「……でも私は、鎧塚先輩の演奏は綺麗だし上手いと思いますけど」
「え?」
高坂のフォローに優子先輩が驚いた。変わらず無表情で鎧塚先輩を褒めた高坂を見て、そんなフォロー出来たのかなんて思っているのかもしれないが、高坂は良くも悪くも思ったことをハッキリと口にする。特にそれが、北宇治の実力アップの為のことであれば。
そう考えると、高坂と優子先輩って似てるとこあるよな。他にもやたら負けず嫌いなとことか。
「……とりあえず私たちも音楽室入りましょう。いつまでもこうしていたって仕方ないですし」
「うん。そうだね」
香織先輩が新山先生に頭を下げながら音楽室に入ると、無表情な鎧塚先輩の隣にいる新山先生は笑顔で俺たちを教室に招き入れた。
「それじゃあ、みんな練習頑張って。私はフルートの子の指導に行ってくるわ」
「あ、はい」
新山先生の優しいのに厳しいと評判の指導は合宿後も変わらず続いており、イケメン粘着悪魔ではなくて、爽やか系イケメンと言われてた吹奏楽部の顧問に就任した頃の滝先生と同じように、ただただ美人な先生だとは思われていない。おそらく今から新山先生が向かった木管では何度も同じフレーズの音が聞こえ続けるのだろう。
「私、もう少しここで練習してからパート練習に参加してもいいですか?」
「ええ。勿論構わないわ。それじゃ鎧塚さん。また後でね」
新山先生が音楽室の扉から出て行く。あ、手を振られた。可愛い。落ち着け、可愛いって、普通は年上の人に思う感情じゃない。
「みぞれ、大丈夫?」
「大丈夫だけど、よくわかんない。優子、感情込めて吹くってどうしたら良いの?」
「え?とりあえず吹いてみてよ」
「うん」
鎧塚先輩が吹くオーボエの音はやっぱり変わらない。優子先輩も難しそうな顔をして演奏を聴いていた。
「ここの辺り、もっとたっぷり目で吹いてみたら?」
「それが感情ってこと?」
「んー。わかんない。だけど、あんまり考えすぎることはないよ。思ったように吹いてみよう?」
「うん……」
聴いていて苦しい。俺はそうは思わないけれど、確かに寂しい演奏ではあるなと思うし、想像が出来ない。優子先輩が言っていた、感情豊かな演奏。それを俺たちが耳にする日は果たしてあるのだろうか。もし、あるとしたらそれは一体、何によって吹けるようになるというのか。
『でもきっと高校生の皆が思っている以上に向き合うために一歩踏み出すっていう行為は大切だと思う』
『何かのきっかけを与えてくれるような存在の人ってどういう形であれ、特別で替えなんて絶対にきかない存在だと思うの』
その答えは喉元まで出かかっている。確かに幾重にもリスクは孕んでいるし、俺がその答えを自らの目的のために遠ざけた。だから、俺にその答えを言う資格なんてどこにもない。他者の成功も苦しみも俺は考えず、自分の目的を優先した。
けれども求めていたはずの『停滞』は、翌日にあっさりと崩壊した。