やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「はぁ……はぁ……」
「はぁ…お疲れ……。助かった。ありがと」
「…お疲れ…様です……。教室、入らないんですか…?」
「…うん。あの子、結構聞き上手だから、任せようかなって」
息がまだ少しだけ上がっている優子先輩は、教室には入っていなかった。教室の外で静かに話を聞いている。
俺が予想していた四階の教室には鎧塚先輩がいた。教室の隅で、いつもは鉄仮面のように無表情な先輩は泣いて途切れ途切れになりながらも言葉を紡いでいて、それを黙って聞いているのが黄前だ。
その姿を見て始めに思ったことは、全然感情がないなんてことはないんだ、なんて当たり前のことだった。瞳には確かに悲しみが宿っているし、涙と一緒にあふれ出る言葉は細い身体と同じタイミングで震えている。
俺が聞いて良い話ではない。そう思って戻ろうとしたら、優子先輩に制服を掴まれて止められた。
「いいんじゃない。あんただって、今回の事に関して部外者じゃないし」
「でも…」
「しっ。みぞれが話してる」
「私、人が苦手。性格暗いし、友達も出来なくてずっと一人だった。希美はそんな私と仲良くしてくれた。希美が誘ってくれたから吹奏楽部に入った。
嬉しかった。毎日が楽しくって。
でも希美にとって私は友達の一人。たくさんいる中の一人だった」
「……なんか」
「…ん?」
『普通に下の名前で優子先輩で良いわよ。同じパートなんだし』
優子先輩と初めて話して帰った日の事を思い出す。
「……いや、何でもないです。勘違いかもしれないですけど、少し、というかかなり鎧塚先輩の話、分かる気がします」
鎧塚先輩の境遇と自分を重ねているわけではないけれど、普段人と関わらない人間からすると、普通に接してくれる人。それだけでもはや、特別な人間なのだ。話し掛けられたら嬉しいし、気安く名前を呼びかけられた日にはあまりの緊張で声が上擦る。
気が付けば教室の前から去る気はなく、鎧塚先輩の独白に耳を傾けていた。
黄前は何を話したら良いのかわからない。何とか絞り出した言葉は否定だったが、それでもその声は弱々しくて、重みはなかった。
「そんなこと…」
「だから…!部活辞めるのだって知らなかった!私だけ……知らなかった…!」
部活をやめる時に傘木先輩が鎧塚先輩にだけ何も言わなかったことは、以前優子先輩から聞いている。だが、それを知らない教室にいる黄前は息を呑んだ。
「相談一つないんだって…私はそんな存在なんだって知るのが怖かった。
わからない…。どうして吹奏楽部にいるのか…。…わからない……」
「…じゃあ、どうして吹奏楽続けてるんですか?」
「楽器だけが…楽器だけが、私と希美を繋ぐものだから……」
ああ。俺はきっとまちがえた。
『また明日もさ、二人で吹こっか。約束ね』
知っていた。初めて始めたきっかけになった人がどれだけ大切なのかなんて。俺は誰よりも知っていた。
そして、その人との繋がりのために楽器を続けることが、どれだけ心が荒ぶものかだって。会いたいのに会えない。聞きたいのに聞けない。伝えたくても伝えられない。
それを軽んじた俺はまるで本当に刺されたかのように、心が痛かった。これはきっと本当は気が付いていて、それでも鎧塚先輩と傘木先輩を近付かせまいとした俺への罰なのだ。
『高校生の皆が思っている以上に向き合うために一歩踏み出すっていう行為は大切だと思う』
でもだからこそ、新山先生の言っていた通りやっぱり向き合うべきだと思う。鎧塚みぞれは傘木希美と話すべきだ。
だって距離的な意味で、もう絶対に会えない俺とは違うから。傘木先輩はいつだって会えるし、話し合える。
「優子先輩」
「……うん。言わなくても良いよ。私もきっと同じ事思ってる」
はぁ、と優子先輩は大きく息を吸ってそれを吐き出す。目を開けた優子先輩は少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「…ねえ、比企谷」
「…なんですか?」
「…私ね、狡い人間なの。本当はみぞれに希美と会って欲しくない」
「……」
「だけどさ、やっぱりみぞれのこと大好きだし、大事な友達だから…行かなくちゃ」
扉に手をかけている優子先輩の手は震えていた。
狡い人間だと、俺は思わないけれど。独占欲だって、嫉妬だって、それは誰しもが当然に持つ感情だ。
「……」
「……まあ、あれですよ。花火大会の日に、先輩が暴走したら助けるみたいな事言いましたからね」
「え?」
「だからその、鎧塚先輩だけじゃなくて優子先輩も、はっきり言ってきて良いんじゃないですか?思ってること。そっちの方が先輩らしい気もするし…」
「……じゃあ今日の放課後は公園で傷心会しよ?決定ね?」
傷つくことが前提なのか。まあ、実際鎧塚先輩と一年間接してきてのは優子先輩だから、わかるものなのかもしれないけれど。
ガラガラという横開きの扉を開けて教室に入っていく優子先輩は少しだけ笑ってくれたけど、やっぱり泣きそうだった。
「みぞれ。心配かけて…」
近付いていき、優子先輩は鎧塚先輩の背中にそっと触れて上下に動かす。その間も、黄前は鎧塚先輩の傘木先輩への執着とさえ言えるような想いに声が出ないようで立ち尽くしていた。
きっと傍で見ている黄前は二人の姿を見て、すぐにわかっただろう。鎧塚先輩に手を差し伸べる優子先輩は何をしたって、傘木先輩にはなれやしない。
「まだ、希美と話すの怖い?」
「うん。だって私には、希美しかいないから。…拒絶されたら……」
「なんでそんなこと言うの?」
「…え?」
「そしたら何!?みぞれにとって私は何なの!?」
「っ!……優子は私が可哀想だから、優しくしてくれた…。同情してくれた…」
優子先輩の瞳が大きく開いて涙が溜まった。
「ばかっ!」
ぱちん。
乾いた音と共に、優子先輩は両手で鎧塚先輩の頬を挟んだ。柔らかな頬に指が食い込んで、真っ直ぐに二人は見つめ合う。
「あんた、マジでバカじゃないのっ!」
「ゆーこ…」
「いい加減怒るよ!誰が好き好んで嫌いな奴と行動するのよ!?私が好き好んでそんな器用なこと出来るわけないでしょう!?」
「…ひたい…」
「みぞれは私のこと友達だと思ってなかったわけ!?」
優子先輩の感情の爆発は止まらない。
ほっぺたを摘ままれている鎧塚先輩はそのまま、優子先輩に押し倒された。
「吹奏楽だってそう。本当に希美のためだけに続けてきたの!?あんだけ練習して、コンクール目指して何もなかった!?」
「…っ!」
「府大会で関西行きが決まって、嬉しくなかった!?
私は嬉しかった!頑張ってきて良かった!努力は無駄じゃなかった!中学から引きずってたものから、やっと解放された気がした!
みぞれは違う!?何も思わなかった!?ねえ!?」
「……嬉しかった……!でも、それと同じくらい辞めていった子達に申し訳なかった!喜んで良いのかなって…!」
「良いに決まってる!良いに決まってるじゃん」
鎧塚先輩の噛み締めた歯の間からくぐもった声が零れて、鎧塚先輩の頬をぽろぽろと涙が伝った。それは優子先輩からあふれ出た涙と、鎧塚先輩の止まらない感情が混じり合っている。
「だから、ほら……笑って?」
廊下にまで鎧塚先輩が泣きじゃくる声は聞こえていた。優子先輩がこじ開けた鎧塚先輩の閉じ込められていた感情は、崩壊したダムからあふれ出る水のように溢れ出てきて留まることを知らない。
「比企谷」
「あ、中川先輩。それに傘木先輩と…」
「比企谷君。色々お疲れ様」
田中先輩がこの二人と一緒にいると言うことは、おそらく傘木先輩にはもう、鎧塚先輩は傘木先輩がトラウマになっているという事情を伝えたのだろう。響き渡る鎧塚先輩の泣く声を聞きながら困った様子の二人に対して、田中先輩だけは冷静だ。
「音楽室の方は?」
「うん。急なことだったから皆何があったんだって騒いでたけど、一応落ち着けてきたよ」
「そうですか」
「それで、みぞれちゃんは?」
「…とりあえず優子先輩が」
「すごい泣いてるけど、大丈夫?優子ちゃん、何か言い過ぎちゃったとかじゃないよね?」
「色々言っていましたけど、鎧塚先輩も思うところがあったみたいで。優子先輩がキツく言って泣かせたとかではないですよ」
「まあ優子ちゃんはみぞれちゃんには優しいみたいだからね。詳しいことは後で聞くとして、希美ちゃんと話せそう?希美ちゃんはみぞれちゃんと話したいみたいなんだけど」
「……それはわかんないです。
でもちゃんと話した方が良いと思います。鎧塚先輩はどう思っているかはわかりませんが、少なくとも俺と優子先輩は鎧塚先輩の話を聞いていてそう思いました」
「だってさ。希美ちゃん」
「…はい」
傘木先輩はぽつぽつと話し始めた。誰かに話しているというよりも、今から伝えるべき言葉を探しているように、ゆっくりと。
「…私、みぞれの演奏に感情がこもってないって先生に言われてるって聞いておかしいなって思って。だって、私が知ってるみぞれの演奏はいつも情熱的で、凄い楽しそうだったのに」
「……」
「…中学の頃から、みぞれの演奏好きだったんだ。ずっと聞いていたかったし、私が部活辞めるときもみぞれには辞めて欲しくないって思って」
「……ふーん」
冷たい言葉に、射貫くような瞳。俯きながら話している傘木先輩の裏側を田中先輩は探って、心の奥に隠した見られたくない何かを見つけ出す。
「でも私、バカだからみぞれに何しちゃったかわかんない。なんでみぞれが……」
「もうこうなっちゃったんだったら、それを本人に聞いてみたら?ほら、これ」
「……みぞれのオーボエ」
「渡してきなよ。それで話してきなさい」
「でも……」
「良いから。はい」
「希美。私も一緒に行くよ。だからちゃんと話そう」
「夏紀…。ありがと…」
傘木先輩は鎧塚先輩のオーボエを大切そうに両手で持った。
「じゃあ、比企谷君は事情聴取ね」
「マジですか?」
「うん。副部長として、事情を知っておく義務があるからねー」
「まあ、いいですけど」
「それじゃあ。行こうか、少年。……夏紀」
「?はい?」
「今日までごめんね。最後まで、見守ってあげて」
「…はい」