やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 「ホルン。Lの全音符、もう少し下さい」

 

 「「はい」」

 

 「トロンボーン。バッキングの縦、注意して下さい」

 

 「「はい」」

 

 「ユーフォ。前も言ったように、Fの音は高めにとって下さい」

 

 「「はい」」

 

 「では、今の点に注意して本番のつもりで最初からやります。もう一度言います。本番です」

 

 トランペットを構える。もう今日だけで、何度目かわからない最初から最後までの演奏。

 府大会を終えた瞬間から始まった関西大会までの練習に、朝も放課後も長かったはずの夏休みも全て注ぎ込んできた。いよいよ明日がその本番である。

 本番前日の練習は妙な緊張感を孕んでいた。たった十二分間の演奏を前にした今、本当に冷静なやつなんて誰一人としていないのだろう。

 

 「いいですか、皆さん。明日の本番をあまり難しく考えすぎないでください。

 我々が明日やるのは、これまで練習でやってきたことをそのまま出す。それだけです」

 

 「「「はい!」」」

 

 滝先生は一つ咳き込むと、微笑んだ。

 

 「それから、夏休みの間コーチをお願いしてた橋本先生と新山先生は本日が最後になります」

 

 「「「えー!」」」

 

 はい、と返事をしたときよりも大きな声が音楽室に木霊した。だが、思えばそりゃそうだよな。俺たちの目標は全国に進出することだった。つまるところ二人は明日の結果のために俺たちの指導をしてくれていたわけだ。

 その目標が達成するかしないかは、明日で決まる。滝先生が何と言おうと、やっぱりそれは恐ろしいことのように思えた。

 

 「最後に一言、お願いします」

 

 最初に話し始めたのは新山先生だった。頭の中には、金八先生で有名な『贈る言葉』が流れている。

 悲しい。主に滝先生にぼろくそ言われた後に、ちらりと見ると微笑んでいる。そんな目の保養的な救いがなくなる。これから俺たちは何を盾にして滝先生の粘着べたべた口撃をしのげばいいんだ。

 

 「約三週間。短い間でしたが、確実に皆さんの演奏は良くなったと思います。その真面目な姿勢は私自身、見習うべきものがたくさんありました。

 明日の関西大会、胸を張って楽しんできて下さい」

 

 泣き出した女子がいる。新山先生が指導していたフルートのパートリーダーだ。

 それに続いて次に話し始めたのは勿論、橋本先生。新山先生よりも先に俺たちの指導をしていた橋本先生は部員達のムードメーカー的な役割も担っていた。

 

 「えぇっと、僕はこんな性格なので正直に言います。今の北宇治の演奏は関西のどの高校にも劣っていません。自信を持っていい。

 この三週間で表現がとても豊かになりました。特に、鎧塚さん!」

 

 「…はい」

 

 「見違えるほど良くなった。何かいいことでもあったのー?」

 

 「……はい!」

 

 「おー、いいねー!今の彼女のように明日は素直に自分たちの演奏、やりきって下さい。

 期待してるよー!」

 

 「うぅ…。はしもっちゃ……」

 

 「何泣いてんのよ?」

 

 橋本先生の相変わらずやけに動きが大きくてオーバーな演説も今日で見納めだ。今度泣き出したのはパーカスのナックル先輩。あまりの男泣きに、周りの女子が思わず苦笑い。女子にはわからない、男同士の熱い友情とか約束とか想いとかそういうのがあったんだろう。知らんけど。

 小笠原先輩が、起立と声をかける。それで俺たちはすっと立ち上がった。

 二人とも、俺は直接の指導を受けたわけではないけれど、特に新山先生にはそれ以外のことで関わる機会があったのは紛れもなく事実である。

 それじゃあ、心を込めて粛々と。

 

「ありがとうございました」

 

「「「ありがとうござました!」」」

 

 

 

 

 「比企谷君」

 

 練習が終わって話し掛けてきたのは、新山先生だった。いや、もう指導を受けるのは終わったから今は新山さん?うーん、やっぱり先生の方がしっくりくるな。

 

 「お疲れ様です」

 

 「うん。お疲れ様」

 

 お淑やかな笑顔を浮かべて見つめられるとどきどきする。ドメスティックなラブが始まるのか。いやいや、相手は人妻だ。

 

 「明日は頑張ってね」

 

 「はい。勿論。なんか色々とありがとございました」

 

 「うふふ。こちらこそ。比企谷君と塚本君とは、まだ私が北宇治の指導に来る前から会ってたからかな。木管の皆の指導が最後になっちゃうのと同じくらい残念」

 

 「…まあ全国行ったらまた指導に来て下さいよ。あと来年も」

 

 「うん。そういうところも皆を見て見習わないとって思った」

 

 「え?」

 

 「全国行くのを前提に捉えられるところ。自信があるわけではないのに、前向きに考えられるところかな。

 本当に全国、行ってね。約束だよ」

 

 新山先生は口に手を当てて、そうだと呟いた。

 

 「お盆休みにカフェに行ったときに、気にしてたことあったみたいだけど解決はしたの?」

 

 「ああ。そのことですか。

 一応、解決しましたね」

 

 「一応ってところが何か意味ありげね?」

 

 傘木先輩は無事、部に復帰することができて、鎧塚先輩はトラウマを克服して橋本先生に褒められるくらい演奏が上達した。

 だが、それと引き替えに傷ついた人もいる。ブランコに座って、誰かの特別になりたいと言った先輩。そして、それ故に俺もだ。傷ついたわけではないが、結果的に俺が傘木先輩達の復帰を反対したその目的は果たされていない。

 ……それにしても、なんか終わってみれば全てが新山先生が言っていた通りになった気がする。面と向かって話した方がいいとか、きっかけをくれた人は大切だとか。初めて会った日に傘木先輩の入部は様子を見た方がいいというのも、その通りだった気もするし。この人はあれなのか、やっぱりエスパーなのか。

 

 「でも、そういうことで悩めるのも今だけよ?」

 

 「悩んでると家で母さんに言われるんですよ。『八幡、あんたもしかしてまた虐められてるの』って。だから悩みはない方がいいです」

 

 「じゃあ最後にお悩みを聞かせてご覧なさい。私がアドバイスをしてあげましょう。

 あ、でも恋の悩みはなしの方向で。私その手の話には疎くって。疎いというか、とりあえずガツガツ行っとけくらいしか思えないの」

 

 えー。新山先生に恋愛の指南を受けなければ、他に誰に受けろというのだろう。滝先生はあしらわれそうだし、橋本先生は大したアドバイスしなそうだし。まあ、そんな相談をすることはないんだけどな。

 

 「…うーん。新山先生は吹くきっかけをくれた人って大切って言ってたじゃないですか?」

 

 「うん」

 

 「新山先生にもそういう人がいたって言ってましたけど、その人のこと時間が経てば忘れられるもんなんですかね?」

 

 「ううん。全然」

 

 「……それって辛くないですか?会えない人のために吹く演奏って」

 

 「その人のことを考えて吹くときは辛いこともある。でも、その人だけが私が吹いている理由の全てではないから」

 

 『吹奏楽だってそう。本当に希美のためだけに続けてきたの!?あんだけ練習して、コンクール目指して何もなかった!?』

 

 優子先輩が鎧塚先輩に問いかける言葉。そうだ。優子先輩も同じことを言っていた。

 

 「比企谷君もそうよ」

 

 「え?」

 

 「誰かのお陰で吹奏楽を初めても、今は違うでしょ?あなたは今、北宇治高校吹奏楽部の一員として吹いているの。

 そうやって誰かによって比企谷君が吹く理由ができて、比企谷君によって誰かが吹く理由になって。そうやって少しずつ貴方の奏でる音楽は変わっていくわ」

 

 ……なんか新山先生が言うと、フラグみたいですね。

 新山先生の大人の笑みを見て、改めてそう思った。誰かが俺の吹く理由になって、俺が誰かの吹く理由になる。

 不思議と陽が落ちきった公園と、揺れるブランコが頭をよぎった。


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