やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 もしかしたら、田中先輩は部活を辞めてしまうのではないか。

 そんな部員たちの杞憂を余所に、翌日、田中先輩はあっさりと部活に戻ってきた。

 

 「いやー。このサファイア川島の髪のきゅるんっていう部分がいいよね。たまんないわぁ」

 

 「もー。だからみどりですぅ」

 

 低音パートの輪の中でまるで昨日のことなんてなかったかのように話している田中先輩を見て、誰かがぼそりと呟く声が耳に入ってくる。

 

 「なんか、私たちが心配しすぎてただけだったのかな?」

 

 多くの部員が今の田中先輩を見て、同じことを思っている。そう思っていない人の方が圧倒的に少ないほどに、田中先輩はいつもと何も変わらない。

 

 「わかんないよー。もしかしたら退部することを伝えに来てたりしてー」

 

 「冗談でもそんなこと言わないでよね」

 

 昨日とは打って変わって、安心から弛緩している音楽室。だからこそ、その中にいる香織先輩のパッとしない表情が目についてしまった。

 物憂げな表情の香織先輩は、そんな音楽室に耐えられなくなったのか音楽室を出ていく。

 

 「ねえ、比企谷」

 

 学校で上の名前で呼ばれることには、まだあまり違和感を覚えない。こう呼ばれる時間の方が圧倒的に長かったからだ。

 俺を呼んだ優子先輩の表情は、どこか気まずそうにぱちりとした目を細めていた。

 

 「なんですか?」

 

 「さっき香織先輩に聞いたんだけど、今日もあすか先輩のお母さんから学校に電話かかってきてたんだって」

 

 「まあ香織先輩のあんな不安そうな表情見てたら、解決はしてないんじゃないかって思いました」

 

 「うん。大丈夫かな?」

 

 「田中先輩ですか?」

 

 「あすか先輩はきっと大丈夫なんじゃないかなって思うけど」

 

 「どうですかね。むしろあの人が一番わからない気もしますけど」

 

 「え?」

 

 「田中先輩じゃないなら、じゃあ香織先輩ですか?それとも部活?」

 

 「うーん。どっちかって言うと部活。香織先輩はこんなときだからこそ、私が何とかしたい!」

 

 「おー、すごい熱意ですね。部活に関しては大丈夫ではないと思います。

 今だってこうしてあの人がいるかいないかで部員たちが一喜一憂するくらいにはモチベーション的にも影響が強い人ですし、副部長という役職もあります。これまでの練習の進行や運営を見ていても、今から全国までわずかと言えども田中先輩なしでこれまで通りそつなくそれができるかと言えば、そうは思えません」

 

 けれど、なんとなくこんな日が来るとは思っていた。いつか抱いた、彼女が何も言わずにいなくなるんじゃないかと言う確信が、徐々に真実味を帯びてきている。

 だが、鎧塚先輩の時とは違うことは、幸いにもユーフォには中川先輩がいることだ。仮に田中先輩が全国に出られなかった場合、実力的には劣っているとは言え代わりがいる。

そんなことを考えてはっとした。俺、性格悪。優子先輩には言わないようにしよう。

 

 「結局、その運営面に関しては、部長の小笠原先輩が頑張るしかないですよね」

 

 「うっわ。すっごい他人事……」

 

 「小笠原先輩から言われてるんでね。余計なことはするなって」

 

 何かするとしても小笠原先輩の許可を取ってから。忠犬精神で、北高祭のときに言われたことはきちんと守るつもりだ。

 

 「優子」

 

 「うん?どうしたの、みぞれ?」

 

 そっと近づいてきて、静かに話しかけてきた鎧塚先輩に優子先輩の口元がほころんだ。

前からずっと思っていたが、優子先輩は加部先輩とも話が合って仲良さそうにしているし、何なら中川先輩も本人達は認めないだろうが、一周回ってめちゃくちゃ仲良く見えるが、目の前にいる寡黙な先輩に話しかけられたときが一番嬉しそうに見える。基本的に世話焼きな人だから、少し手がかかる友人の方が一緒に居やすいのかもしれない。

 ちなみに俺は手がかかる子ではない。基本的に誰とも一緒にいなくて、一人で何でもできるから、手がかからないどころか存在認識されないまである。もはや最強の手が掛からない子だと自負していいでしょ、これは。

 

 「同じ選択授業の宿題、今日の放課後に一緒にやろう?」

 

 「え、いいけど…。あの授業、希美も一緒にとってるじゃん。希美と一緒じゃなくていいの?」

 

 鎧塚先輩は何を言ってるんだと言うようにきょとんと、首を傾げた。

 

 「希美にはこんなことで迷惑かけられない」

 

 「…それだとまるで私には、どれだけ迷惑かけてもいいみたいになっちゃうんだけど…」

 

 鎧塚先輩のあんまりな物言いに苦笑いした優子先輩と同じように、俺も思わず苦笑してしまった。

 

 「はあ。まあいいけど」

 

 「良かった。…比企谷君も一緒に行く?」

 

 「いやいや。行かないです」

 

 「そっか」

 

 「別に私は来てくれてもいいよ。どうせなら一緒に――」

 

 「どうせなら私も一緒に行こうかなー?いやー、ちょうど困ってたんだよね。今回の宿題、ちょっとめんどいじゃん?」

 

 「…なんであんたが出てくんのよ?」

 

 「言った通りだよ。私もみぞれと優子と一緒に勉強したいなーって」

 

 「白々しいわね。私、あんたのことは絶対誘わないから」

 

 優子先輩の鋭い視線の先、当然ながらその対象は中川先輩。周りにいた部員が、いつものあれが始まるぞと距離をとる。

 

 「はー。そうやって仲間外れにして、名前の通り優しい子じゃないんだなー」

 

 「勘違いしないでくんない?あんた以外には優しいですー」

 

 「しかも恩義も忘れるって言うね。去年の冬休みは英語の宿題見せてあげたはずなのに」

 

 「はっ。そっちこそ忘れたなんて言わせないから。その代わりに数学の宿題を見せたでしょ?」

 

 「もうわかったよ。やっぱあんたに行った私が馬鹿だった。みぞれは優子と二人よりも人数多い方がいいよね?」

 

 「私?どっちでもいい」

 

 「ほらいた方がいいって」

 

 「あんた、耳ついてんの?いない方がいいって言ったのよ」

 

 「私はどっちでもいいって……」

 

 ぐるるるる、と睨み合う二人を見かねて俺は廊下に出た。触らぬ神に祟りなし。去り際のチラリと俺を見た鎧塚先輩の目が悲しそうだったが勘違いだ。

 どうしてあの二人は会うたびにああなるのん?アスラとインドラか。アニメであったら、メラメラと互いの背後に炎が出ているだろうが、音楽室は修羅場じゃねえんだぞ。

 まあ二人のことは忘れて、とりあえず練習しますか。そう考えて、トランペットパートの教室に向かっている途中で田中先輩の声が渡り廊下から聞こえてきた。

 

 「もう…みんないちいちうるさーい」

 

 見れば香織先輩と小笠原先輩もいる。空いたままの扉越しに見える二人の背中。先輩たちの正面にいる田中先輩は手すりから中庭を眺めて、ぐーっと伸びをしていた。夏服からチラリと見える、無駄な肉が全くない腹部が艶めかしい。

 

 「そんな大事じゃないってー」

 

 「嘘。今日もあすかのお母さんから学校に電話あったって滝先生と教頭先生が話してた」

 

 「……そっかぁ」

 

 小笠原先輩の言葉を聞いたあすか先輩が少しだけ驚いた。あすか先輩本人は、母親の電話については知らなかったからか、あるいはそれを二人が知っていたことか、どちらに驚いたのかわからない。

 

 「実際どうなの?」

 

 「もし相談に乗れることがあったら――」

 

 「大丈夫」

 

 香織先輩の言葉を、田中先輩はぴしゃりと遮った。完璧な線引き。あんまりにもはっきりと拒絶されて、香織先輩の俯く背中が見えた。

 けれど田中先輩はそんな香織先輩は意に介さずに、こちらに向かって歩いてくる。

 

 「みんなに迷惑は掛けないから。それで十分でしょう?大事なのは演奏がどうなのか。それだけなんだし」

 

 「それだけって…」

 

 「それだけだよ。部活なんて。だから、これ以上ごちゃごちゃ言わないで」

 

 二人の間を通り過ぎて、田中先輩は振り返ることはもうしない。

 

 「ぷりーず、びー、くわいえっと」

 

 「…あすか……」

 

 小笠原先輩の心配そうな声。けれどその声も。

 扉を閉めた田中先輩の耳に届くことは、多分ないのだろう。

 

 「…あの……」

 

 「ああ。比企谷君いたんだ。気が付かなかったよ」

 

 『また明日…八幡』

 

 ああ。思い出すだけで胸に突き刺さる行き場のない感情。

 この人は残される側の気持ちがきっとわかっている。わかっていてもそんな他人の気持ちなんて無視して、行き場を失った誰かの想いを自分にぶつけることは決してしない。

 それが無性に悔しかった。触らぬ神に祟りなし。さっきそう思ったばかりだったって言うのに、どうしても我慢ならない。

 

 「今そこで言ってた、迷惑は掛けないってやつ。聞こえはいいですよね。でも疑ってるあの二人とかからすると、余計に懸念を増やすだけのようにしか聞こえないと思うのは俺だけですか?」

 

 「……」

 

 「あの二人の疑念を解こうとさえしなかった。都合のいい言葉で、肯定も否定もしない。その中途半端なやり方って十分答えになってますよ。嘘をついている人間が、嘘をついてないか聞かれて答えないのは、その行為自体が嘘をついているようなものですから」

 

 「…ごめん。だから何?」

 

 「いえ、先輩があんまりにも余裕がなさそうに見えたもんで、らしくないなって。確かにユーフォには代わりがいて、残り僅かの運営においての立場も副部長っていう部長に業務を押し付けられると言えば押し付けられる仕事です。

 だけど、後悔しますよ?」

 

 「はぁ?私、後悔なんてしな――」

 

 「あなたがじゃなくて、あの二人がですよ」

 

 「……」

 

 田中先輩の深い深い瞳が俺を突き刺した。

 この瞳は俺が言ったことだって、わかっているに違いないのに。

 

 「……比企谷君。君は、何回も言わなくちゃわからないような子じゃないでしょ?」

 

 口元に指を当てる田中先輩の口元は、ちっとも笑ってなんかいなかった。

 隣を通りすぎて、去っていく田中先輩。今も扉の先に立ち尽くしている二人の先輩の声さえ届かなかったのであれば、俺なんかの声が届くことはない。

 

 そして、その翌日から田中先輩は部活に顔を出すことはなくなった。


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