やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 「何ですか、これ」

 

 パンパンと二度手を叩いて演奏を止めた滝先生の言葉に、どこか懐かしさを覚える。

 この言葉はまだ入部したばかりの頃、女子部員たちの黄色い悲鳴が滝先生の爽やかな顔からは想像のつかない厳しい性格の片鱗が見えて、本当の悲鳴に変わった瞬間の言葉だ。きっとあの瞬間は、部員の誰しもの記憶の中で、滝先生の粘着悪魔のあだ名にふさわしくねっとりとへばりついたままだろう。

 

 「皆さん、ちゃんと集中してます?」

 

 気の抜けた演奏をしていたのは事実で、滝先生の指摘は間違ってはいない。その証拠に何人かの生徒が目線を下に落とした。すべての原因はついさっき広まったばかりの噂が原因なのは日の目を見るより明らかだ。

 隣の席からはぁ、とため息が聞こえてくる。声の主の高坂は真っ直ぐに視線を滝先生に向けているが、少しばかり部員たちに呆れているように見えた。

 こうしてこいつが部員たちをどこか冷めた様子でいるのを見ると、尚のこと入部当初のことをよく思い出す。今の部活は全国に行くと気合の入っていたときよりも明らかに演奏以外の部分で後退していて、まるで入部当初のようだとさえ思えた。

 

 「あの…」

 

 躊躇いがちな声で、手を上げたのは優子先輩。自ずと期待の視線が優子先輩に集まる。

 

 「何ですか?」

 

 「あすか先輩の退部届、教頭先生が代理で受け取ったって話は本当なんですか?」

 

 「……そのような事実はありません」

 

 滝先生は否定した。それでも多くの部員が俯いたままなのは、田中先輩はもう合奏練に一週間参加していないという事実に、きっと副校長が退部届を受け取ったのを見たという噂の方が、滝先生の言葉よりも信憑性が高いと判断しているからだ。

 そんな部員達を指揮台の上から見渡して、滝先生は言葉を続けた。

 

 「皆さんはこれからも、そんな噂話が一つ出る度に集中力を切らして、このような気の抜けた演奏をするつもりですか?

 今日は終わりにして残りはパート練にしましょう」

 

 「先生…!」

 

 小笠原先輩の制止も空しく、音楽室の扉を閉める音は無常にも鳴り響いた。

 以前、再オーディションを提言して、滝先生に職員室に呼ばれて話したときに、滝先生は部をどうまとめればいいのかわからないと零した。技術的な面で俺たちを鍛えていくことには優れている指揮者であることは、無名校だった北宇治が全国まで駒を進めたことからも明らかだが、指導者としてはまだ経験が少ない。

 今回の田中先輩の一件もどうすべきかわからずに困っているのは滝先生も同じなのかもしれない。

 誰もが無言でいる中、しばらくして小笠原先輩はユーフォのぽつんと置かれただけの椅子を見つめてゆっくりと話し始めた。

 

 「みんな、少しだけ時間をくれる?」

 

 「晴香…」

 

 香織先輩が声を漏らす。バリトンサックスを置いて、小笠原先輩は指揮台に向かって歩いた。

 

 「あすかがいなくて、みんな不安になるのは当然だと思う。でも、このままあすかに頼っていたらダメだと思う。あすかがいないだけで不安になって、演奏もダメになって……部活ってそうじゃない」

 

 「そんなのわかってるよ」

 

 「だけど…」

 

 パーカスとトロンボーンのパトリが小笠原先輩の言葉に反論した。

 パトリは頻繁に会議で、部の方向性や練習について話し合う。弱小校の北宇治でただ適当にこなしていればいいはずだったパトリの仕事は、滝先生が強豪に変えたことによって、すっかり仕事も責任が重くリーダーとしてしっかりとパートをまとめていく必要性が出てきた。

 それもあって、会議での話し合いやパート練習など、特にパトリ達は田中先輩に頼っていた部分も多かったはずだ。一番頼っていたのは彼らなのかもしれない。

 

 「私は自分よりもあすかの方が優秀だと思ってる。だからあすかが部長をやればいいってずっと思ってた。私だけじゃない。あすかが何でもできるから、みんな頼ってた。あすかは特別だからそれでいいんだって」

 

 部員全員がまるで滝先生が壇上で話しているときの様に、真っ直ぐに小笠原先輩を見つめて話を聞いている。入部したばかりの頃は、集まる視線に困ったように俯くこともあった部長の夏服から伸びている細くて白い腕は、今はもう全く震えていない。

 

 「でもあすかは特別なんかじゃなかった。私たちが勝手にあの子を特別にしていた。副部長にパートリーダーにドラムメジャーとか。仕事を完璧にこなすのが当たり前で、あの子が弱みを見せないから平気なんだろうって思ってた」

 

 田中先輩は何でも上手くこなしていた。同じ人間ってよりも超人みたいに思われ続けて、部内の揉め事とか面倒な運営だって、自分には簡単みたいな顔をして解決をしてきた。

 でも、実際は違う。普通に親と揉める。揉め事なんて物事を上手く解決できない愚か者しかしない。そんな大風呂敷を敷いているように見えただけで、それは俺たちが見ていた偶像でしかなかった。

 平凡な人間と同じように自分にはどうしようもない問題を抱えて生きていた。

 

 やっぱり思い出す。自分を吹奏楽の世界へと引っ張ってくれた恩人が、いつも二人で並んで座ったベンチの前に佇む姿。俺からすれば常人とは違う特別な人間だったはずの陽乃ちゃんでさえ、『親が決めた』という檻を壊すことはできなかった。きっと誰よりも頭も良くて色んなものを見ていた彼女は、それ故にそれを壊すことが如何に無茶で愚かなことかを氷解していたから。

 もう今となってはわからない。田中先輩と同じように、親の言うことには従わなければならない。そんな子どものたった一つのルールに従って音楽を辞めてしまった少女の笑顔は、いつも本当の笑顔だったのだろうか。

 

 「今度は私たちがあすかを支える番だと思う。あの子がいつ帰ってきてもいいように。勿論、去年のことがあったからムカついている人もいると思う。あすか以外は頼りない先輩ばっかりだって感じている子もいるかもしれない。でも、それでも付いてきて欲しい。……お願い、します」

 

 おぉ。頭を下げている。部下に頭を下げられる上司。ご立派です。俺なら何歳になっても自分より下の奴らに頭なんて下げたくない。

 ただ、『いつ帰ってきてもいいように』という言い方が気になった。まるで田中先輩が戻ってくるのが前提のように聞こえるんだけど。滝先生が田中先輩の退部届を受け取っていないというのが事実だということは本当なのか?

 今回の一件で部員たちが求めているものは、ただ一つ。田中先輩が戻ってくることである。そうなるように多くの部員たちが祈っている状態だが、変に期待してしまえば裏切られたときのダメージが今よりさらに大きいのは間違いないだろう。

 うーん。あの人、戻ってきそうもなかったように思えたんだけど。ダメだ。そもそも、今回の件に関してはとにかく情報源の正確性が低い。これには田中先輩のプライベートには誰も近寄らせるまいという思惑が働いている部分も大きいのかもしれないが。

 

 「あんまり舐めないでください。そんなこと言われなくても、みんな付いていくつもりです!本気なんですよ、みんな?」

 

 優子先輩が頭を下げる小笠原先輩に声を掛けると、香織先輩が微笑んだ。二年生の優子先輩の言葉に、同学年の部員達もうんうんと頷いている。

 

 「ま、あんたの場合、好きな先輩に対して私情を持ち込みすぎだけどねー」

 

 「うっさい!」

 

 優子先輩と中川先輩のいつも通りのやり取りに、思わず部員たちが笑い出した。

 最近は部活中にこうやって笑っていることも少ない気がする。田中先輩の件に気を取られているのも一番の理由だが、駅ビルコンサートだって刻一刻と近づいている。そして、最後のコンクールも。

 

 「だーいたい、あんたねぇ。こういうときは――」

 

 「あーはいはい。これだからいい子ちゃんは」

 

 「なにぃー!」


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