やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「……」
「……」
「……恥ずかしいね?」
「……じゃあ離します?」
「……ううん。離さない」
ほっそりとした手を重ねたまま、会話らしい会話もないままいつもよりゆっくりと歩いている。優子先輩の綺麗に短く切りそろえられている爪が、太陽を反射して輝いていた。
手を繋ぐという行為に慣れるまで、どの位の時間が掛かるのだろう。緊張で手汗をかいているのが恥ずかしいけれど、不思議な幸福感には慣れたくない。いつまでも浸れるものなら浸っていたいものだ。
「そう言えば、昨日夏紀と何話してたの?」
「田中先輩の事で色々。復帰が難しいかもって」
「やっぱりね。滝先生はああ言ってたけど、本当は戻ってこないんでしょ?」
「…まだ退部が決まった訳ではないですけどね」
「別に滝先生が言ったことを信用してない訳じゃなかったし、部長がいつでもあすか先輩が戻って来れるように頑張ろうって言ったときも、しっかり切り替えて頑張らないとって思ったの。でも最近、夏紀が希美とコソコソ練習しているみたいだったから」
「中川先輩のこと、よく見てるんですね?」
「違うし。別に探してたとかじゃなくて、たまたま見ちゃっただけ!」
少しだけからかいを込めた言葉に、優子先輩が頬を膨らませた。けれどすぐに視線を落として、憂い顔に変わる。
「だって低音パートを纏めてたあすか先輩がいなくなったのに、そこで夏紀までパート練習から抜けてたら後輩達が不安じゃない?元から七人で人数が多いパートでもないんだし」
「ユーフォ、黄前一人になりますしね。でも低音パートはうちと同じで、パート練で使ってる教室じゃない場所で練習してることも多いって加藤と川島が言ってましたよ。加藤も椅子を廊下に出して練習してることあるし、黄前もたまに外で見るし」
逆にホルンパートや塚本のいるトロンボーンは基本的にパートメンバーは割り振られた教室で一緒に練習しているらしい。トランペットパートは去年はどうだったのかわからないが、今年は北宇治最強の遊撃手で名の知れた高坂がいる。高坂が入部当初から一人で外に吹きに行くのを誰も止めなかったのもあって、パートで合わせて吹く時以外は個人で場所を変えて練習するのが認められている。
「そうなんだけど…。低音の二年は夏紀と後藤と梨子の三人。後藤は静かで仕事人って感じだけど纏めるって柄じゃないし、梨子も良妻って感じで支えるって同じ。だから夏紀があすか先輩の代わりに調整するのかなって思ってたんだよね」
「ま、そこら辺は中川先輩もわかってちゃんとやってるんじゃないですか?それに低音は今年初めの全体的にサボり気味だった頃から真面目に練習してたらしいですから、ただ練習をするだけなら、敢えて纏めるリーダーがいなくても皆でやりそうだし」
「どうなんだろう。香織先輩から聞いたんだけど、ここ最近のパトリ会議にはあすか先輩の代わりに夏紀が行ってるみたい。それであんたは夏紀に協力してあげるの?」
「もしかして昨日覗いてました?」
「わざわざ余所のパートの後輩を呼び出して、そんな事情だけ話す訳ないもん。あすか先輩が部活に戻るために協力してくれー、みたいな?」
「まあそうですね。ただ具体的にどうするかってところもわかっていなくて、何か出来ることがあればなんて都合の良い返事しましたけどね」
「そうなんだ」
気恥ずかしさもあったが、話し始めれば意外とスルスルと会話は続いた。自分自身、悩んでいた事だったと言うのもあるのかもしれない。未だ一つに重なったままの影を踏むように歩きながら、言葉を並べていく。
「協力とかしない方が良かったですか?」
「なんでよ?私だってあすか先輩に帰ってきて欲しい」
「優子先輩もやっぱそうなんですね」
「そりゃ後輩としてお世話になったし、何より香織先輩がね」
さいで。この人はそりゃそうよなぁー。
香織先輩に最も良い形で演奏をしてもらいたい。それを考えて、いつも行動を起こし続けていた人だ。落ち込んでいる香織先輩を放っておけるはずがない。
「あんたがこうやって考えて行動するの見てきたし、今回の件でも助けてあげられるんじゃない?」
「でも、俺、本当にどうすればいいのかわからないんです。いなくなってしまう人に何をすれば……」
「……それは前に陽乃ちゃんって子のときに止める事ができなかったから?」
「……俺の過去見てきたの?禁則事項ですなの?女の子怖い…」
「禁則事項ですって何?分かるよ。さっき音楽室で手帳の話をしてるときもそうだったけど、ムカつく顔してるから」
「いやいや昔の話してたときだって、俺いつも通りにしてたつもりなんですけど。通常運転で苛つかせるとか、俺の顔やばすぎひん?」
「話し方おかしくなってるし。文化祭の日の夜に、比企谷家出た後に話してたときだってそうだったよ。いっつも陽乃ちゃんの話をするときは寂しそうにしてる。楽しい思い出話であってもね」
「そうなんですかね?」
「うん。私、あの顔すっごい嫌」
嫌だと、ど真ん中直球ストレートで伝えてきて、俺の心が折れかかる。なんでばっちりキャッチャーミットにストライクなはずなのに、デッドボールをくらった気分になるのだろう。
「じゃあ昔の事なんて聞かないで下さいよ。今日のことはまあパートの皆に囲まれたから仕方ないとしたって、少なくとも文化祭の日は優子先輩から聞いたんですよ?」
「それも嫌」
「我儘!」
「だって私、あんたのこと、もっとちゃんと知りたいもん」
「……照れてる…」
「うっさいなぁ!でも大事なことでしょ?
何が好きで何が嫌いで、何をするのが苦手で何をしてあげたら喜んでくれて、昔どうやって過ごして、これからどうしたくて。勿論、同じくらい私のことも知って欲しい」
「……言葉にしたって伝わらないことばかりでしょう。話さなくてもわかるなんてものはもはや幻想で、話せばわかるなんてのも傲慢だ。だから相手を理解することなんてどうしたってできないと思います」
俺の言葉を聞いて、優子先輩は目を丸くした。もしかしたら冷たく当たってしまったかもしれない。
だがしばらくして、優子先輩はくすくすと笑い出した。
「何で笑ってるんですか?結構本気で言ってるんですけど?」
「ああ、ごめんごめん。つくづく人付き合いが苦手なんだなぁって」
「何を今更」
「言葉にしたって伝わらないことが多いのなんて当たり前じゃん。絶対にどんなに長く一緒にいたって、お互いのことが何もかも理解できるなんてことある訳ない。でも、それを少しでもなくす為に言葉や時間を重ねてくんだよ?
だから今だって、ほら。ちゃんと教えて。どうしてそんなに、あすか先輩の件はダメだって思うの?」
「……」
ちょっとだけなぜか寂しそうな目元とか、けれど穏やかに微笑んでいる優し気な表情とか。だけど一番の理由はきっと、繋がれた手を今一度握りなおすと同じようにぎゅっと返ってきたこと。
本当は話したくなかった、繰り返すうちにもう忘れようと決めた後悔や、子どもだったが故に気が付けずに後になって何度も懺悔した改悛。凍っているはずのそれは、目に見えやしない温もりで少しずつ言葉になって零れ出る。
「…最初の頃からずっと、端緒はあったんです。だけど、それが目に見えるような形で現れだしたのは一月も終わる頃だったと思います」