やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 少し風が冷たくて、けれど優子先輩と繋がっている手だけが温かい。

 俺のつまらない昔話を優子先輩は時々相槌を打ちながら聞いてくれていた。すっかり暗い夜道に歩くスピードは次第に遅くなっていく。帰るのが遅くなって、お母さんが心配しないかと言えば、ふるふると首を振って頭のリボンが揺れた。

 優子先輩の家庭は割と放任主義であるという。そう言えば、つい先日も鎧塚先輩達と放課後は宿題を一緒にやったと話していたし。

 

 「八幡、振り回されてばっかじゃん」

 

 「我儘な人でしたからねー。はは」

 

 「なんでそんな爽やかに笑ったの?でも忙しいのに、八幡に演奏を教えに来てくれたり、妹さんもいるからか面倒見が良くて優しい人って感じ。なんかザお姉さんって感じかな」

 

 うーん。どうだろう。妙に子どもらしい一面があったし、逆に怖すぎる一面もあった。確かに優子先輩の言う通り面倒見が良いってのは事実だが、昔話を聞いてた限りでは妹には過保護なくらいだったし。

 ザお姉さんと言うには普通ではなさ過ぎる。

 

 「それで、それからどうなったの?」

 

 「どんどん一緒に吹ける日が少なくなっちゃいました。陽乃ちゃんが公園に来るのは一週間に一回くらい。それも時間的には長くはいられなくて、ユーフォも吹くことはありませんでした。当時も俺に陽乃ちゃんは言わなかったし、こうして振り返れば何となくそうだったのかなって推測でしかないですけど、きっと陽乃ちゃんが家の付き合いとしてあの発表会に俺を連れて行ったのは失策だったんだと思います。あの日からしばらくして、公園にも黒塗りの車が来て陽乃ちゃんを送り迎えがつくようになったから」

 

 「黒塗りの車で送迎って……。ベンツとか?すっごいなあ」

 

 「ほんとほんと。もしそんな家の子に生まれてきていたら、俺は本当に一生仕事しないでいられたんだろうなぁ」

 

 「それはどうかと思うけど、私も欲しい洋服とか鞄とか買えるのかなって思うと羨ましくなっちゃう」

 

 「でも陽乃ちゃんはそれだけ凄い家の子どもで……家の名前に縛られて生きていた」

 

 俺たちがこうして羨ましいと話している、正に理想的な裕福で豊かな生活を送れているのは他でもない雪ノ下という家のお陰。それを賢い陽乃ちゃんは子どもながら理解していたはずだ。

 ただ、家にやりたいことを縛られていて、本当にやりたいことが出来ずにいたのだって間違いなく事実なのだ。

 トランペットを吹いていたのだって、親や指導してくれた先生に言われたからだと話していた。それを何でもなく、当然のように。本当に吹きたかったユーフォニアムは諦めていて、けれどだからこそ俺の前で初めてユーフォを吹いたときは心の底から嬉しかったのだろう。

 過去の記憶に意識を集中していると、ぼすんと背中を叩かれた。

 

 「ほら、また一人で抱え込んでる。話して」

 

 「……忘れられない日があって。三月になってしばらくしたその日も、陽乃ちゃんはユーフォは持って来れなくて公園のベンチに座ってただ話していたんですけれど、運転手が陽乃ちゃんを呼んだんです。その時に陽乃ちゃんがぼそっと『この時間がずっと続けば良かったのに』って」

 

 きっと、人間が魚たちと暮らす美しい海の底の幻の世界に憧れているように、人魚姫は二本の足を動かしながら誰かとゆっくりと話しながら歩く。そんな人間の世界に憧れる。なぜかふと、人魚姫の話を思い出したのは、陽乃ちゃんが紡ぐ言葉の一つ一つがあんまりにも寂しそうだったからだったのかもしれない。

 今でもあの時の言葉を言葉を一言一句思い出せる。

 

 『ここは和かだよね。よくお菓子くれるおじいちゃんとおばあちゃんは優しいし、八幡と話してるのも楽しいし』

 

 そうだろうか。何でもなさ過ぎるこの時間は陽乃ちゃんには似合わない。

 けれど、そんなことは諦めたように目を閉じた陽乃ちゃんを見て消散した。そこには、普段見せていた笑顔の仮面はなくて、ただただ涙を耐える様にぎゅっと瞼を閉じていたから。

 

 『だけど……私はその分きっと幸せなんだ。恵まれているんだ』

 

 そんな顔で恵まれているだなんて言われても説得力がない。あんまりにもいつもとは違う陽乃ちゃんの表情。

 何かを言わなくちゃ。俺にトランペットを教えてくれたこの人に。俺のたった一人の、友人と呼んでもいいようなそんな存在である彼女に。言わなくちゃ。

 

 

 

 『自分がやりたいようにやればいいんじゃない?』

 

 

 

 その言葉を告げたとき、子どもながらに後悔したことを良く覚えている。

 

 

 「それってなんだか……」

 

 「ええ。きっと、想像通りです。その日以降、陽乃ちゃんは俺が知る限り二度とその公園にやってくることはありませんでした」

 

 「……」

 

 「もしかしたら明日は、明日こそって。結局来なくて勝手に裏切られた気分になるのに、また勝手に期待して。こういう時、友達がいないといいもんで、誰かに都合を押しつけられたりすることもないから毎日公園で待っていられて。しかもトランペットの練習になるから一石二鳥。でも一年経っても陽乃ちゃんは来なかった。そこでやっと、もう来ないんだって諦めちゃいました」

 

 「一年間も一人で練習って。私じゃ絶対にできないよ」

 

 「そんなこともないと思いますよ?元々俺には陽乃ちゃんしか一緒にやる相手がいなかったんだから、その相手がいなくなったら一人でやるしかないでしょう?」

 

 「そうじゃない。寂しいじゃん?来るかも分からない相手を待って、期待して…」

 

 優子先輩がふっと俯いた。そんな顔をして欲しくはない。同情なんてされたくない。される筋合いだってない。

 

 「いや、違うんです。俺も悪かった」

 

 「え?何が」

 

 「俺ね、最後に陽乃ちゃんに言っちゃったんです。陽乃ちゃんがあんまりにも辛そうで寂しそうにしていたから、何か言わなくちゃって焦燥感に駆られて」

 

 「何て言ったの?」

 

 「自分がやりたいようにやれば良いんじゃないって」

 

 「ま、待って待って。それの何が悪いのよ?」

 

 「悪いですよ。あんまりにも無責任です。きっと、他のどの言葉よりも陽乃ちゃんにとっては酷な言葉だったと思います」

 

 俺なんかよりもずっと色んなものが見えていた。周囲からの期待や、雪ノ下という名家の宿命だって。子どもとしての在り方だって。そして、自分のやりたいことだって。

 

 『――うん。私もそうできたら良かったのになぁ』

 

 俺の言葉に、彼女は力なく笑った。

 俺は手を伸ばそうとする。待って欲しい。もし、この手で陽乃ちゃんの手を掴めたとしても、陽乃ちゃんを困らせるだけかもしれない。

 しかし、俺の手は宙を掴むだけだった。陽乃ちゃんがすっと立ち上がる。

 

 『八幡はさ、音楽続けてね?そうすればきっと会えるから』

 

 最後に振り返って『またね』と言うその表情は、もう見慣れた仮面だった。

 

 「やりたいことをやれば良いっていうのは、確かに本質的なことかもしれない。ですけど、どんなにそつなく何でもできる神様のような人間だって、当然ですが神様なんかじゃない。神様ではなくて人間であるならば、周りの何かに影響されたり純粋に才能が足りなかったり、出来ないことなんて幾らでもある。ましてや自分のやりたいことをどうしたって捨てなくてはいけないから捨てようとしている人間に、それを捨ててはいけないだなんて。覚悟を無に帰すようなその言葉は、あんまりにも酷としか言えないでしょう?」


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