やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「そこ、まだちょっと早くないか?」
「すみません」
塚本がトロンボーンの三年生の千円先輩に注意されている。怒られているわけではないから、注意と言えば聞こえが悪いかもしれない。あそこ二人はトロンボーンの男子コンビで、仲も良いらしいし。
「久美子ちゃんは?」
「あー、さっき今日は学校休みますって連絡きました。ね?」
「うん」
「やっぱり風邪だったんだねぇ」
「ですねー」
朝から川島の声が聞けて、ちょっと嬉しい。
低音パートの女子組、川島と加藤と二年生の先輩は黄前が風邪で休みだという会話をしていた。一昨日の夜に優子先輩が言っていた、風邪が流行っているというのはどうやら本当みたいだ。
音楽室の入り口には、まだ朝練が始まったばかりだというのに、すでに上履きがたくさんある。楽器の音と話し声を流し聞きしながら、俺はトランペットを置いて小笠原先輩が作成したリストに目を通した。
……結局、与えられたタスクをやることになりました!どうも、社畜です!
昨日の放課後にリストのコピーとかではなく、蛍光ペンで書かれた文字が怪しく光るこの原本を渡された。一応、昨日の夜に家で軽く目を通して来てはいるが、とにかく仕事量が多い。しかもどう考えても俺向きの仕事ではないものも多く混ざっている。
例えば、この先日行われた駅ビルコンサートの活動記録をまとめる作業。吹奏楽部の部活報告でも使われるため、字数指定に加えて期限まできっちり決まっているのだが、担当の係などは存在しないため誰かが纏めないと行けない。ただ、こんなのは俺がやると言うことで全然構わない。でっち上げて提出するのなんかは得意中の得意分野だ。来場者が盛り上がってたという旨を入れてしまえば残りの内容はどうあれ、とりあえず最後に『来年は今年度の反省を活かす』という一言を入れる。
嫌なのは、余所の部活との校庭の使用に関する調整。自己完結で終わる作業であればいいのに、こればっかりはそうはいかない。それから、こんなことまでやらなくちゃいけないのかと思ってしまう、部員個人からのクレーム案件。いや、自己解決して。他人に救いを求めないで。そもそも『早急!解決しないとリスト part1!』って書いてあるけど、こんな個人間の話は早急でもないし。もっと他に考えなくちゃいけないことたくさんあるから……。
「はぁ」
「溜め息ばっかり。何か手伝おうか?」
「ああ。すいません。別に大丈夫ですよ。はぁーあ」
「全然大丈夫そうじゃないけど」
一昔前に日本女子テニス界の偉人が試合中に観客に向かって言い放ったことで流行った言葉と同じことを言いながら、隣でトランペットを手に持っている優子先輩が少しだけ笑う。面倒見が良い人だと分かっているから、思わず頼りたくなってしまう。それにこの中のいくつかは俺なんかより、人付き合いの上手い優子先輩の方が適任だ。
実は、と切り出そうとしたところで思わぬ声が掛かる。
「いいよ。私が手伝うから」
「中川先輩」
「はぁー?あんたと話してないんですけど?私は今、比企谷と話してんの」
「聞こえて来ちゃったからさ、あんたがお手伝いとか言ってお節介しようとしてんのが」
「あんただってさっき、私が手伝うって言ってたじゃない。そっちこそお節介でしょうが」
「違う違う。私は関係者だから。なんなら、私たちのどっちが比企谷の役に立てるか、勝負してみる?」
「笑わせないでよね。私とはち……比企谷はパートだって一緒だし、ぽっと出のあんたなんかに負けるわけないでしょう?」
やめてー!朝からこんなところで喧嘩しないでー!
近くで真面目に練習していた滝野先輩がすっと距離を取る。わかる。それが正しい反応だ。俺だって本当なら、今すぐにいなくなってしまいたい。
だが、この二人、何を思ったか俺を挟んで喧嘩している。端から見たら、立ち上がって口論している様こそ日常茶飯事であっても、その間に座っている俺はさぞ小さく見えている事だろう。
二人のせいで注目が集まってるのが嫌すぎて、原因となった中川先輩を見やる。俺の目線に気が付いた中川先輩はごめんと手を顔の前で合わせて、けれども顔はしてやったりと申し訳なくなさそうにへらへらと謝った。
「ほら、比企谷が昨日受け取ったリスト、結構多くて大変そうだったからさ。素直に手伝おうかなって思ってきたんだけど」
「だからって優子先輩を焚き付ける必要なかったじゃないですか」
「癖みたいなもんなんだ。ごめん」
「本当にごめんですから。それに別に中川先輩は俺の手伝いとかしなくて良いですよ」
「えー」
「ほらー!あんた、八幡に断られてるじゃない!」
優子先輩、出てる出てる。呼び方が出ちゃってる。
俺が見ている限りではある、というか多分そうなんだけど、この二人のやり取りの勝者は大体中川先輩だ。だからなのか、やけに嬉しそうにきゃいきゃいと笑う優子先輩。
「なんでよ?優子と二人でやりたいの?うわー、私情じゃん」
「違いますよ。中川先輩はもしかしたら田中先輩の代わりにコンクールに出るかもしれないんですから、他の誰よりも練習しないと」
当たり前だが、最初からAメンバーでやってきた他の五十四人と違って、中川先輩はBメンバーの練習に参加していたためコンクールで行う課題曲と自由曲の練習時間が極端に短い。昨日、このリストを小笠原先輩が中川先輩に振らずに俺だけに任せたのは、そこを踏まえてのことだったはずだ。
昨日集まっていた四人の中で、中川先輩はひたすら練習を積み重ねて、小笠原先輩と香織先輩は部長と会計の最低限のタスクをこなす。そして三人はそれ以外の残った時間を、細かな問題や田中先輩が帰ってこなかったときの地盤を固めておくことは俺に全部ぶん投げて、出来るだけ田中先輩を復帰させるために尽力する。
それで構わない。三人の手を空けることが、俺の在り方。
田中先輩に似た陽乃ちゃん。そして、そんな彼女に手を伸ばせなかった俺だからこそ、たった一つだけ確かにわかることがある。
この間、田中先輩に言ったことだが、このままではきっと三人は後悔する。何も行動できずにいたことをいつまでも。けれど俺とは違って、このまま田中先輩が部に戻ってこないのではないかと不安に駆られる三人は、まだ手が届く場所にいるのだから。
「こっちのことは適当に何とかしときますから。気持ちだけは本当に有難く受け取ってきます」
「でも……」
「ほら、断られたんだからさっさとどっか行きなさいよ。あんたの協力なんて、さっき自分が言ってた通り、ただのお節介だって言ってるんですー。お・せっ・か・い。……それにあすか先輩の代わりはあんたにしかできないんだから」
「へぇ。優子、知ってたんだ」
「別に誰かに聞いたわけじゃない。けど、希美とあんなに遅くまでコンクールで演奏する曲の練習をしてたら、誰だってもしかしてって思うでしょ。それなのにあんた、もっと無理しようとしてどうすんの?大体ねぇ、そういうときは……」
「……」
「……な、なによ?」
「もしかして心配してくれてんのー?」
「はあぁー!そんな訳ないでしょ!希美が言ってたの!希美が!」
「照れるな照れるな」
「うっざ!うっざ!」
中川先輩が優子先輩の肩に手を回す。『何くっついてんの!』と、解こうとする優子先輩にケタケタと笑う中川先輩。
また始まった。誰かの声が聞こえて、俺は心の中でだけ頷いた。