やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

173 / 177
12

 今度こそ低音パートの教室を出て、音楽室に向かっていると、窓の外を眺める見慣れた人がいた。

 夕日に照らされた艶美な黒髪の下の切なそうな表情は、ちんけな言葉だけれども、本当に絵の中で悲しみを抱え続ける令嬢のようだとさえ思える。何度も今日と同じ放課後の時間に見てきたその姿を見る度に、俺の心臓は高鳴った。それはきっと誰にも最後まで話すことはないだろうけれど、優子先輩と付き合ってからも変わらない。

 

 「何見てるんですか?」

 

 「あ、比企谷君」

 

 香織先輩は俺に話し掛けられて少しだけ驚いた。制服がひらりと揺れる。

 

 「さっきまで校門に向かってね、あすかが歩いてたんだ」

 

 「……」

 

 「探してたんだけど見つからなくってさ。もう諦めようと思って、廊下を歩いてたら偶然窓の外にあすかがいたから、せめて見送ろうって」

 

 香織先輩と同じように見つめた窓の先には、もう誰もいない。夕日に照らされたグラウンドの土が赤く燃えているだけなのに、香織先輩は口角は上げたまま、ただずっと見つめていた。それがまるで何かに縋るように見えて、香織先輩と同じように何処かに目を逸らして、俺は堪らず口を開く。

 

 「思わぬ収穫がありました」

 

 「うん?」

 

 「田中先輩が、テスト勉強で一年の黄前を家に呼ぶそうです」

 

 「……」

 

 「……」

 

 「……そうなんだ。良かった。でも、ちょっと意外かな」

 

 「俺もです」

 

 田中先輩と如何にしてコンタクトを取るか。黄前という意外な収穫は確かに喜ばしいことだ。けれど今、俺の中に残っているのは、なぜ黄前なのだろうという単純な疑問だった。

 この間、香織先輩や小笠原先輩が話していた事だが、田中先輩は部員達とプライベートで深く関わろうとしてこなかった人間だ。そんな彼女がよりによってこのタイミングで、黄前を家に呼ぶと言うことがただ、テスト勉強だけのためだなんて、事情を少しでも知っている人間なら誰も思わないだろう。

 自分よりも部内の職位が上で、部活のことを考えればまず真っ先に全てを告げるべき相手である小笠原先輩。一年以上の間、同じ楽器の後輩として世話を焼いてきたはずの中川先輩。そして、端から見たらもはや愚直とさえ言えるくらい田中先輩の傍にいることを望んでいる香織先輩。その三人の誰でもなく黄前を選んだのだ。

 黄前という人間と俺は深く関わったことはないけれど、幼馴染の塚本やよく一緒にいる高坂。同じパートの川島と加藤と、何かと関わる奴らの中から頻繁に聞く名前ではある。けれど、至って平凡というかあまり特筆するようなこともない人柄のはずで、少なくとも部内における責任も、田中先輩と部活の時間において関わっていた時間も、本人への想いも他の三人の方がそれぞれ上なのではないか。

 勿論、人間関係なんて立場とか時間とか思慮とか、そんなもんだけじゃ片付かない。どれだけそれがあったって、恨むこともあれば嫌うこともある。それが煩わしいから、人と関わりたくないと距離を置いて、独りという殻の中からその痛々しさを見てきた俺が言うのだから間違いない。

 

 「それ、間違いないの?」

 

 「低音パートのやつらが言ってたんで間違いないですね」

 

 「じゃあ、どうして夏紀ちゃんは知らなかったんだろう?」

 

 「あの人、最近低音パートのメンバーと一緒に練習してないからだと思います。傘木先輩と空いている教室で吹いてるから、いない時間がどんどん増えてきたって聞きました」

 

 「そっかあ」

 

 「かもしくは、中川先輩がただただ除け者にされてるって可能性も……」

 

 「ふふっ。そんなこと、あるわけないでしょ」

 

 先輩はくるりと振り返って、両手を背中で組んだ。安心したような、けれども何かに傷ついているようにも見える細められた目元を見ていると、やりきれない感情がふつふつと湧いてきた。顔が見えなくなったことに、少しだけ安堵してしまう。

 だから、この人には一番伝えたくなかった。これを聞いた香織先輩が、こういう表情をすることはわかっていたから。

 

 「香織先輩って本当に――」

 

 田中先輩の事が好きですよね。

 しかし、俺が続けようとした言葉は、香織先輩に遮られた。

 

 「好きだよ。大好き」

 

 これは、愛の告白だ。

 堂々と大胆で、あまりに真っ直ぐな言葉は、自分に向けられたものではないと知りながら、それでも胸の奥がきゅっと締め付けられた。静かに俺に顔だけを向き直した香織先輩は、冬の日の夜空の様に澄み切った表情で、それを見た瞬間に俺は目頭に何かがこみ上げてくる。

 同情するな。香織先輩の感情は、香織先輩だけの物なんだから。田中先輩への想いを勝手に品隲することも、これだけの慈愛を抱きながらも、選ばれたのが黄前だったことに臍を噛むことも俺がするのはまちがっている。

 だから誤魔化すように、慌てて言葉を紡いだ。

 

 「……どうして?どうして、香織先輩はあの人にそこまで……」

 

 突いて出たのは、今聞くにはあまりにも残酷な言葉だった。自分でもそれはわかっていて、けれどこんな時にすみませんと謝ることはせずに、香織先輩の答えを聞くために続ける。

 

 「今になって聞くことではないです。俺はこれに関してもう、先輩達に協力することを決めたのに、なんでこんなこと言うんだろうって思われても仕方ありません。だけど、そう言えば聞いたことなかったなって」

 

 「……」

 

 「正直なところ、前に小笠原先輩が言っていたように、部活って誰かに頼り切るものじゃない。でも、視点を変えてみれば、誰か一人を部活に戻すために躍起になってるのだって同じように部活ってそうじゃないって言えませんか?とは言え、あの人を部活に戻すのにはきちんと理由がある。部員のモチベーションと運営の崩潰を止めるためです。ただそれだって、冷静に考えれば、最後のコンクールが近付いている以上、どうしたって各々でモチベーションは上がったはずです。同じように運営だって、滞りこそすれど止まることは決してない。今だってそうじゃないですか。脚を引きずって歩いて、何とかやれています。あの人は確かに良く出来る人で、部活に欠かせない人ではありましたけど、ここまでの労力を払ってまで復帰させるべき人なのか」

 

 「ううん。ダメ」

 

 はっきりと首を振って、香織先輩は俺の言葉を否定した。

 

 「他の皆は、もしかしたら比企谷君の言う通り、あすかがいなくても前を向けたのかもしれないけど、私はあすかがいて欲しい。最後まで一緒に吹きたいの」

 

 「……」

 

 「こないだ皆で、あすかは特別なんかじゃないから皆で助けようって話したけど、私はやっぱり、あすかは特別だと思うの。実はね、私が初めて仲良くなりたいって思えたのはあすかだったんだ。初めて会ったときから他の誰とも違くって。あすかってさ、何でも見透かしてそうじゃない?」

 

 「はい。本当に……そう思います。何度も感じました」

 

 「でしょ?だからこそ、あすかを驚かせたい。あすかの考える私の、一歩先に私がいたい」

 

 「……そうですか。難しそうですね」

 

 「だよね。だけど、なんでだろうね。そう思っちゃったんだ。だから早く戻ってきてもらって、私のことちゃんと見てて貰わないと」

 

 場所も時間も違うのに、ふと、再オーディションを終えたときに香織先輩と二人で話したことを思い出した。

 思えば、香織先輩から初めて貰ったものは多かった。シーズンでない焼き芋を探すのを遊びというのかはいまいちだが、それでも放課後に誰かとどこかへ行ったのも、頭を撫でてくれたのも。

 もう八幡の初めてを貰ったんだから責任取ってよね!なんて冗談を思いつつ、当たり前だがこの人だっていつまでも俺の傍にはいてくれない。結果がどうあれ、全国が終われば三年は部活を引退し、半年ほどで卒業してしまう。

 目の前でその最後のコンクールに向けて大切な人を連れ戻すという先輩を見て、まだ考えることも出来ない来年度のことが不安になって、けれどそれ以上に、やっぱりいつかと同じようにこの人の望みを叶えたいと願う。

 

 「やっぱり黄前さんがあすかの家に行くなら、幸富堂の栗饅頭かなって思うんだけどどうかな?」

 

 「秘密兵器ってことでしたからね。いいんじゃないですか?」

 

 「だよね!後は何か私たちにもできることはないかな?」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。