やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「あ、比企谷君。お疲れ様」
高坂と話し終えて、音楽室を出る頃にはすでに俺と高坂以外の部員は各々の練習をし始めていた。パーカス中心のメンバーが音楽室に残り、金管はそれぞれの教室。あるいは個人で練習するのであれば廊下や室外へ。高坂も例外ではなく、『それじゃ、私は外で吹くから』と水道でマウスピースを洗った後に別れた。
高坂を見送った後に、俺も中学の時はよく、一人校舎裏で吹いていたなと感慨にふけってみたり。北宇治に来てからは高坂とは違い、ペットの教室で吹いているのは、メンバーの皆がきちんと練習をしているのが大きい。勿論女子が多い以上、休憩ついでに雑談をしてはいるものの、ここはオンオフがしっかりとしている。ただずっと、吹奏楽と関係のない話をし続けて盛り上がる中で、一人吹いている気まずい中学の時とは違うから、群れているのは俺らしくないなと思いつつ、気が付けば音楽室からはそう遠くないペットの教室へと向かうのだ。
小笠原先輩から渡されたタスクに余裕があるから、久しぶりに自分の練習に集中しよう。そう考えていた矢先、目の前に見慣れたコンビを見つけた。
「あ、比企谷君。やっはろー」
「……なんすか。そのアホそうな挨拶」
「うわー。先輩に向かってその言い方はちょっと酷いんじゃなーい?」
屈託ない笑顔と共に、ふわりふわりと結われた黒い髪が揺れる。先輩らしい高圧的な雰囲気なんて全くない、警戒という柵をかいくぐるような朗らかな態度に、俺は餌に釣られた肉食獣の様に傘木先輩の元に近寄ってしまう。
「もしかして、二年の間でそういう訳わかんない挨拶が流行ってるんですか?」
「ん?どういうこと?」
「こないだ中川先輩も、ぼっちろーとか言う変な挨拶してきたから」
「ぼっちろー?……あはは」
俺の方、チラチラみて笑うの辞めてくれませんかね?
いつもより濁りきっているであろう瞳で傘木先輩を見つめてみれば、すぐにその意図に気付いた傘木先輩は、掌を立ててごめんごめんと謝ってきた。ともかく、二年で変な挨拶が流行っているとかではないみたいだ。
でもそれなら、何を思ったかさっき発してたやっはろーとか言う小っ恥ずかしい挨拶はやめた方が良い。世界一可愛くてアホっぽい小町がやってたとしても、思わずはぁと溜め息が突いて出そうになる。
「……やっはろー」
「……どもっす」
「……やっはろー」
「……」
「……やっはろー?」
「……や、やっはろー」
ちくしょう。絶対に俺だけはやるまいと思ったのに。
傘木先輩のすぐ隣にいる鎧塚先輩は、俺がやっはろーしたことに満足したのかしてないのか、相変わらずの無表情。俺は一つ咳払いをして、立ち止まって何をしているのかと二人に聞いてみた。
「これこれ」
傘木先輩が指さした教室の中には、つい先程まで話題に上がっていた黄前と中川先輩がいた。中川先輩は背もたれに腕を置いて、黄前と対面している。
中川先輩が黄前に田中先輩の家に行った時に連れ戻すように交渉してきて欲しいと言う旨を伝えるつもりなのだろう。『あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦』のメンバーで昨日話し合いをした結果、黄前に作戦を伝えるのは同じ楽器の中川先輩ということに決まっていた。
三人揃って、絶対にバレないように教室の扉の隙間から覗くのではなく聞き耳を立てる。そう言えば優子先輩と二人で、黄前と鎧塚先輩が傘木先輩について話すのにこうして教室の外から聞き耳を立てたこともあった。あの時のことがなければ、今こうしてここにいる傘木先輩が部活に復帰することはなかったのかもしれない。
「黄前ちゃん。やっぱ、私だと不安?」
「え、いや、そんなこと……」
わっかりやす!語尾に近付くにつれて、声のボリュームが落ちていくせいでめちゃくちゃ不安そう!
高坂の話では性格が悪いやつ、という印象ばかり植え付けられたが、それもこれも悪い意味で素直というかわかりやすいところも大きな要因なのではないだろうか。
「私は不安」
「夏紀……」
中川先輩の言葉に、傘木先輩が視線を落とした。二人はここ最近、ずっと練習を二人でしていた。中川先輩の練習を見てきた傘木先輩だからこそ、思うところはあるのだろう。
「……いつから知ってたんですか?」
「あすか先輩のお母さんが、学校に来てすぐだったかな。あすか先輩に言われて」
「そうだったんですね」
「うん。その後すぐに滝先生からもコンクールの曲を練習しとくように指示された。だから最近は希美と練習したり、駅ビルコンサートの前のあすか先輩がまだ来てくれてた頃は色々教えて貰ってたんだよ。でもさ、あすか先輩の代わりなんて私に務まるはずがないじゃん?」
「……」
「だからね、黄前ちゃん。私からお願いがあるんだけど」
「お願い?なんですか?」
「これ」
「え?あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦……?」
教室の中の様子を見てはいなくても、その光景が易々と浮かび上がってくる。奇矯な名称の作戦に困惑して、間抜けな表情をしているだろう。
「そう」
「何ですか、その作戦?」
「あ、言っとくけど作戦名を決めたのは香織先輩だから」
「す、素敵な作戦名ですねー……」
「素敵……?」
鎧塚先輩がぼそっと呟いて、傘木先輩と苦笑してしまった。北宇治の吹奏楽部員、引いては北宇治の生徒である以上、香織先輩が考えたと言って異を唱えられる人なんていない。むしろ、最初こそ間抜けな作戦に聞こえるかもしれないが、自然と愛くるしくてキャッチーな名前に聞こえなくも……ないかー。
「でさ、黄前ちゃん来週あすか先輩の家に勉強教わりに行くんでしょー?」
「無理です」
「まだ何も言ってないけど」
「そこでお母さん説得してこいって言うんですよね?」
「ま、ああねー」
「無理ですよー。無茶言わないで下さい」
がらがらと床を椅子が掻いた。黄前が立ち上がった音だ。
だが、ここで諦められない。思わずちらりと中を覗き込んでみれば、逃がさないぞという様に、中川先輩が力強く肩に手を置いていた。
「大丈夫。香織先輩から良い物もらってるから」
ポケットから出てきたものはフェミニンなデザインのメモ用紙。その紙にトランペットパートのメンバーは見覚えがあるだろう。香織先輩が小笠原先輩の手伝いなどでパート練習に遅れてくるときなど、あのメモ書きを笠野先輩に渡してから行くことが多い。
「駅前、幸富堂の栗饅頭が一番おすすめだよ?」
「いえす」
「何ですか、これ?」
「あすか先輩のお母さんの好物なんだって。これさえ持ってけば、全部おっけー!」
「私の目を見て言って下さい」
「おっけー……」
「はぁ……」
「けど、本当に今まで上手くやってきたよ。高坂さんの時も、みぞれの時も」
「私は何も」
「そんなことない。あすか先輩がどうして黄前ちゃんを呼んだと思う?」
「わかりません」
「私は黄前ちゃんなら何とかしてくれるって期待してるからだと思う」
そんなこと言われても、困るだろうに。
少なからず黄前に同情してしまう。とは言え、俺だって今は期待こそしている訳ではないものの、黄前に賭けている一人だ。そんな風に思う資格はないのだろうけれど。
しばらく前のことだから記憶も不確かだが、職員室に田中先輩の母親が大嵐のようにやってきたとき、黄前が直接見たのではなかっただろうか。高坂経由でそう聞いたような……。多分、直接見たからこそ本当に無理だと確信を持っているのか、さっきから否定に力があった。
その否定を中川先輩は少しずつ弱い物にしていく。黄前を立てる言葉の数々は煽てているのではなくて、本心であるように感じた。規則正しい動きでもたれ掛かっている椅子を揺らしながら中川先輩がすらすらと紡いでいる言葉は、教室の外で聞いている俺も心地が良い。地元では成績も悪くなく、地元では真面目と評判な北宇治の中では、短めなスカートやきつそうな吊り目。一見するとアウトローなようだが、その声音は誰よりも落ち着きがあって情に満ちている。
あの人は、きっとどうしようもなく善人だ。
「そんなことないです。それに、それでもしあすか先輩が戻ってきたら……夏紀先輩、吹けなくなります」
「私はいいの。来年もあるし」
傘木先輩の喉が、くつりと鳴った。鏡に映る中川先輩は俺たちのところからははっきりと見えないけれど、穏やかな表情をしている。
「今この部にとって一番良いのは、あすか先輩が戻ってくることなんだから」
「それは、夏紀先輩の本心ですか?」
「黄前ちゃんらしいね。うん、本心だよ」
「うぇ、みぞれ!」
よ、鎧塚先輩!
俺は咄嗟に身を隠す。いや、なんで隠したの、俺?
鎧塚先輩が教室のドアを急に開けたのに対して、俺の身体は人間に見つけられた黒光りするGの様にササっと重なった横開きのドアの後ろに動いた。我ながら最悪な例えだ。『HIKIGAYA』の『G』は、そのGじゃないぞ!
教室の中を真っ直ぐと見つめている鎧塚先輩の隣で、傘木先輩は一度きょろきょろと視線を動かしたが、すぐに愛想笑いで誤魔化すことにしたようだ。
「な、夏紀ー。終わった?」
「希美。私から行くって言ってたのに」
「希美先輩。鎧塚先輩」
黄前が二人の名前を呼んだ。それを合図に、二人は並んで教室に入っていく。
「伝えて欲しい、あすか先輩に。待ってますって」
「……」
鎧塚先輩の言葉に、黄前はまた言葉を詰まらせていた。