やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「約束の日になりました。この一週間の練習の成果が楽しみです」
にこり、その言葉がぴったりな笑顔で笑う滝先生に、もう黄色い歓声が上がることはない。
「絶対文句言わせない」
「これでなんか言われたら、マッピ投げるし」
「っていうか、なんであの先生、指揮棒使わないの?見にくいんだけど」
むしろそんな声が所々から聞こえる。
滝先生への不満は部の結束を強め、結果として全体が真面目に練習するに至った。
憎しみは力に変わる。何これ、凄い厨二っぽい。やめよ。
隣には高坂。そしてその隣には優子先輩。二人ともすでにマウスピースを口につけて、滝先生の方を真っ直ぐに見つめていた。
「さて、チューニングは良いですね?それでは行きますよ。…3、4」
滝先生の手が振られる。それと同時に演奏が始まった。
何度も練習した出だしの音。どこのパートもぴったりと合っている。
それからの演奏も、一週間前とは比べものにならないほど完成度が上がっていた。あの時は早く演奏が終わらないかと思う程ぐちゃぐちゃだった音でも、ここまで変わるものなのか。
今吹いている海兵隊は、まるで軍隊のように行進したくなる。続けば続くほど高揚していく気分。演奏は本当にあっという間に終わった。
滝先生が教室をぐるりと見渡し、一つ微笑んだ。
「いいでしょう。細かい点をあげればまだまだですが、何よりも皆さん、合奏をしていましたよ」
部員達から喜びの声が漏れた。今回は吹かなかった初心者の一年生達も、一緒になって祝福の声を上げている。滝先生から認められたことも、初めて褒められたことも嬉しかった。
トランペットパートの反応も人それぞれだ。高坂はいつも通り無反応。優子先輩は少し泣きそうになっている加部先輩を見て笑っていて、中世古先輩は驚いた様に目を丸くしている。
「小笠原さん、これをみんなに配ってくれますか?サンフェスまでの練習メニューです」
だが、喜んでいたのもつかの間。回ってきたプリントを見て目を丸くした。
え、平日。こんなに練習メニューあるの?終わるの何時?土曜日は学校が午前で終わるから、放課後は遊べるから好きって誰か言ってたよね?練習の時間書いてあるんだけど…。あれ、もっとおかしいところ見つけちゃった。日曜日って休みじゃなかったっけ?
練習ばかりだった一週間が終われば、それからはもっと練習付けの日々が待っている。その事実に心の中で涙が流れた。
「譜面は明日渡します。さて、残された時間は長くはありません。しかし皆さんが若さにかまけて、どぶに捨ててる時間をかき集めればこのくらいの練習量は余裕でしょう」
相変わらず、言い方が悪すぎるんだよなあ…。ほんと、あの爽やかな笑顔からよくあんな言葉が出てくるよ。
滝先生が来たばかりの時は、滝先生のイケメンパワーであの顔が見たいから、なんて言って練習に来ちゃう女子部員がいるかもなって思ってたんだけどなー。今はもうあの顔に騙されているやつはいないだろうなー。まさかね。
「サンフェスは楽しいお祭りですが、この辺りの学校が一堂に集まる貴重な機会です。この機会を利用して今年の北宇治はひと味違うと思い知らせるのです」
「でも、今からじゃ…」
小笠原先輩が自信なさげな声。同じように下を向く部員がチラホラいる。
「できないと思いますか?」
だが、そんな部員達を前に滝先生は全体を見渡して宣言した。
「私はできると思っていますよ。なぜなら私たちは、全国を目指しているのですから」
解けなかった問題。勝てなかったボス。
如何なる事でもできなかったことができるようになるのは嬉しい。同時にできたときの達成感は、次へのモチベーションに繋がる。
そのために俺たちがまだまだ下手くそだと言うことと、できないことができるようになることの喜びの二つを理解させたのだ。全国に行くためには演奏者である俺たちがもっと上手くなりたいと、そう思わないことには上達しないから。
だが、同時に狡いなと思った。
ここ数日間滝先生を見ていてずっと思っていた。全国に行くと決めたのは誰か?確かに全国に行くと決めたのは俺たちだ。だが、大多数が納得して決めた答えであっても、それが全ての答えにはならなくても良いはずなのだ。
練習をサボることは勿論、練習してできるようにならなければ怒られる。なぜなら俺たちが全国を目指しているから。これからの練習がハードだが耐えなくてはいけない。なぜなら俺たちが全国を目指しているから。
言っていることは正しいのだろう。高い目標を達成するために自分たちの限界を。いや、もしかしたらそれ以上の努力が求められている。
だが、社会人が自分の守る生活のために、あるいは貢献と活躍を約束した会社のために、ボロボロになったプライドを何とか必死に食い繋いで頭を下げたり、必死に時間外だろうが休みだろうが関係なしに働く姿は本当に正しいのだろうか。
失っている物があるはずなのだ。必死の努力と引き替えに、大切な何か。それは人それぞれで、例えば家族との時間だったり、子どもの成長を見守る価値だったり。
それと同じで俺たちにだって犠牲にする物がある。滝先生はそれを『若さにかまけてどぶに捨てている時間』と言ったが、その中に。それが何かを俺たち部員は誰も知らない。後になって振り返って、初めて気が付くもののはずだから。
それなのに全国を目指すことが全てで、他の結果や練習以外の時間に価値はないと思い込ませる、純粋で屈託のない滝先生の笑顔を俺は教壇から何席か離れた席で冷めた目で見ていた。