やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
加部先輩と話した後、すぐには練習する気になれなくて気晴らしついでに外に出ていたら、ぱらぱらと雨が降ってきたため急いでパート練の教室に戻った。
神様ってば残酷。少しくらい休憩させてくれたっていいじゃない。雨なんて降るならさっさと帰ってしまえば良かった。
「あら、比企谷君。お疲れ様」
教室の扉を開くと、中世古先輩が一人でソロパートの練習をしていた。だが俺が入ってきたせいで、その演奏を止めてしまう。
きっと中世古先輩も高坂がソロパートの練習することに対して思うところがあるのだろう。だから誰かにソロパートを練習している自分の姿をあまり見せようとしないことに俺は気がついていた。だから今もその優しさに甘んじて、先輩がソロパートの練習をしていたことからは目をそらす。
「お疲れ様です」
「偉いね。合奏練終わったのにまだ残って練習なんてさ」
「今日の合奏で指摘されたことを軽く確認しとこうかなって」
「そっか。真面目だ。私はただなんとなく吹きたくなっちゃってさ」
なんとなく吹きたいと言ったが、それとは反対に中世古先輩はトランペットを置いてしまった。どこか悲しそうというか、悩んでいるような顔に庇護欲が掻き立てられる。守ってあげたいと、話を聞いてあげたいと。だから俺もいつも一人で練習をする窓際の席には行かずに、少しだけ窓際から離れた席に腰掛けた。
「ねえ。比企谷君はさ、今日途中で帰っちゃった葵と話した事ってある?テナーサックスの」
葵先輩は部長や中世古先輩とよく話していることを見かける、長い黒髪を三つ編みのおさげに仕立て上げた先輩だ。真面目そうに見える先輩だが、最近は予備校があるからと途中で練習を切り上げることも多い。そんな先輩に対して俺は三年になると受験近くて大変なんだなーとか、将来のこととか考えたくねえわーとか、でも塾は嫌だけど早く帰れて良いな羨ましいくらいにしか思ったことはなかった。
「話したことはないですね。何となく中世古先輩と仲よさそうくらいにしか知らないです」
「うん。仲良いんだ。去年までは葵と晴香と三人で遊んでた。あすかも来て、四人で遊んだこともあったっけ」
「へえ。なんか田中先輩とあの先輩が仲良いってイメージはなんとなくないですけど」
「そんなことないよ。一年生の時から吹部だったし、二人は進学クラスでも同じだしね」
パラパラと窓を叩く雨の音が一段と大きくなった。他の場所でも自主練習をしている部員はいるはずなのに、まるでこの空間は隔離されているかのように雨音以外の音は聞こえてこない。
本当はそんなことはないはずだ。けれどもそう思ってしまうほど、中世古先輩の少し俯きながら思い詰めているような様子に意識が持っていかれた。
思えば中世古先輩とはパートで一緒だが、いつもリーダーとして明るく振る舞っているところばかりを見てきた。
「でももしかしたら、その葵が辞めちゃうかも知れないんだ」
「……そうなんですか。やっぱり受験勉強ですか?」
「そういうことになってるけど…。比企谷君はさ、去年の私たちの一つ上の先輩達の話は知ってる?」
「まあ何となく優子先輩には聞いてます」
練習をしなかった去年の三年生達と、辞めていったやる気のあった一年生達。まだ彼ら彼女たちがこの部活を去ってから一年も経っていないだろうに、今年の吹奏楽部は練習しない日の方が圧倒的に少ないし、年功序列のように選ばれていたメンバーはオーディションで決まる。
「そっか。葵はね、去年のこともあって後輩たちに凄い慕われてるの。サックスパートでは特にね。無視とか虐めたりとかしないで、三年生と一年生の間を取り持とうと頑張ってた。……だからなんだろうなあ」
「急に真面目に練習とかするようになって、練習真面目にやりたいって言って辞めていった後輩達に顔向けできないってことですか」
「…うん。そうだと思う。凄いね、比企谷君は」
「…前に優子先輩が似たようなこと言ってましたから」
先輩と後輩達に挟まれていたのは中世古先輩も同じだ。優子先輩も今年から真面目にやることには悩まされていたが、中世古先輩にこそわかる葵先輩の苦悩というのは大きいはずだ。
挟まれて、バランスを取るというのが一番辛いと俺は思う。左右から腕を引っ張られたとき一番簡単なのは、片方の掴む腕を放してしまってどちらかに引っ張られてしまうことだ。それをどちらの手も離すまいと引っ張られたままで居続けることはとても難しくて、それはきっとできない。
何となく話すことが憚られて外を見ると、雨の中部活に打ち込んでいた野球部の連中が教室に戻っていく。きっと当初の終了予定よりも早く練習を切り上げることが出来たからだろう。その表情は嬉しそうで、隣のやつらと笑い合っている。
「そういえば、私今日傘持ってきてないや」
「あー、確かに雨予報じゃなかったですからね」
「こういう日に限って折りたたみ傘置いて来ちゃうんだよね。今日、いつもより持ってくる教科書が多くて」
「中世古先輩はあんまり教科書とか学校置いていかなそうですよね」
「そんなことないよー。去年までは私もロッカーに教科書入れてた。でも、今年はほら。少しは勉強しないとだからさ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだ」
ふふ、と花が咲いたように笑った中世古先輩を見て少しだけ心が落ち着いた。無理して笑っていて欲しいなんて思わない。それでも、悲しい顔をして欲しいとは思わない。それが何だかんだでこんな俺のことまで面倒見てくれて、この部室でも普段からちょくちょく話しかけてくれるパートリーダーへの恩返しになれば良い。
「この雨だと、今日は自転車置いていくかなー」
「私もこれ以上は今日吹けなさそうだし、一緒に帰ろう?」
「……マジですか?」
「優子ちゃんとはよく一緒に帰ってるじゃない」
「あの人の場合、半ば強制みたいなとこあるし。帰ろうよって聞かれてるはずなのに、帰りなさいって命令になってるみたいな」
「強引なところあるからねー。あ、じゃあ私もパトリ命令って事で」
「えー」
イタズラな笑顔とはこういうことを言うのだろうか。一緒に帰ったなんて、親衛隊にばれたら異端審問会に掛けられそうだ。判決は死刑。そこまでは予測できる。
「それにさ、優子ちゃんと一緒で私も下の名前で呼んでよ?他の子達もみんな香織香織って呼ぶし」
「いや、それは本当に勘弁して下さい」
「うーん。しょうがないなあ。それじゃあそれは次の機会ってことにしておこうかな?」
「お、恩にきます…」
「その代わりにさ、さっきも言ったけど傘忘れて来ちゃったから一緒に入れて貰って良いかな?……なーんてね。冗談じょうだ…え!?比企谷君!口から泡吹いてるよ!ねえ!」