やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「課題曲は今のペースが良いでしょう。コンクールは自由曲と課題曲を合わせて各校十二分。勿論、その時間をオーバーしてはいけませんが、焦って曲を台無しにしてしまうのはもっといけません。今のペースを忘れずにいきましょう。十分、時間内に収まります」
「「「はい!」」」
「では、本日はこれまでにします」
「「「ありがとうございました!」」」
メンバーが決まった翌日以降の練習は思っていたよりもずっと、練習に身が入っていた。並べる椅子が五十五席と少なくなって、ほんの少しだけ広くなった。その変化が俺たちが学校を代表して全国を目指すのだという実感を与えたのだろう。先生からの指摘は些細なことでも譜面にメモをし、上達するために何をするべきかを明確にしている。
人間はほんの少しのきっかけで変われるのだ。最近は暑いからと、風呂上がりにバラエティーパックのピノを一粒食べることが一日の中で一番の幸せだと言っている小町も、『がーーーん!夏なのに太っちゃった!毎日ピノ食べてるからかな!?それとも、昨日はピノ我慢できなくて三粒食べちゃったからかなー…』と自身の体重の増加に割とガチで泣いていた。
ピノの一粒二粒で体重かわらんだろ。それより妹の幸せが小さ過ぎて、何だか泣けてくる。
「あの、先生。リストに書いてある毛布って?」
「毛布です。皆さん、家にある使ってない毛布を貸して欲しいんです」
「でも、毛布って何に使うんですか?」
「それは当日のお楽しみです」
そんな滝先生の爽やかーな憎たらしい笑顔。俺のすぐ側ではトランペットパートの三年コンビである、中世古先輩と笠井先輩が譜面を見て話している。
「ここの音が上手くいかないんだよねー」
「テンポが急に変わるところだからね。後で重点的に練習しようよ」
「うん。ありがとう香織」
何だかんだでモチベーションが上がっている部員達。
それらを余所にオーディションの結果が発表された日からまるで感情をなくしてしまったかのように落ち込んでいる先輩がいる。
「お疲れ様でした」
「…あ、うん。おつかれ……」
高坂の挨拶に答えた優子先輩は何とも気まずそうだった。
「……お疲れっす」
「……ん」
俺には挨拶すらねえのかよ…。
優子先輩がこうなった理由は明白だ。中世古先輩がソロになることがなかったから。
「……ねえ」
「…なんすか?」
「比企谷は…やっぱ香織先輩よりも高坂の方が上手いと思う?」
「オーディションで滝先生の前でどんな演奏をしたのか知らないから分からないですけど、いつも通りの実力を余さずに高坂が出せたって言うんなら、まあ納得は出来ますね」
「そう…よね」
優子先輩はそっと俯いてまた黙り込んだ。
本当は優子先輩だって分かっていた。俺たち一年が入部して、楽器を選ぶときに軽く吹いた時点で高坂はトランペットパートで誰よりも上手い事なんて。香織先輩よりも上手いからこそ時折敵意を孕んだ視線を送り、高坂がソロの練習をしていることを良しとしなかった。
「ねえ、比企谷。私……いや、やっぱり何でもない」
「いや、その気になる感じで終わらせるのやめて下さいよ」
「こんな音楽室でみんながいるところで話すようなことじゃないかなって。そのうち帰りにでも話すから」
「えー。帰りは小町が待ってるし早く帰りたいから、今の方が都合いいんですけど。人目なんて気にしなくて良くないですか?どうせ誰も聞いてないし」
「それ、あんたが言う?私と話してると注目されるからって、今だってわざと私から結構離れて話してるくせに」
「うっ。それはほら。俺のこと気になってる誰かに見られて変に噂とかされたくないし、目立ちたくないからっていうか」
「まあ別にいいけど」
それに俺なんかと訳わかんない噂になって迷惑掛かるのは先輩の方だろう。
そんな俺の様子は気にすることなく、優子先輩が何となく中世古先輩の譜面をぱらりと開いた。
「…香織先輩……」
そこには赤い文字で大きく、『ソロオーディション 絶対吹く!』と書かれている。
見てはいけないものを見てしまった気分になった。中世古先輩の最後のチャンスで本当に叶えたい、いや叶えたかった心の底からの真っ直ぐな願い。一枚めくれば開ける譜面が、パンドラの箱のようにさえ感じられた。
「高坂ってラッパの?」
「はい。ララ、聞いちゃいました」
優子先輩がそっと小さな手で譜面を閉じると、ホルンのメンバーの話し声が聞こえてきた。高坂、という言葉に俺も優子先輩も目線を送る。
確かあの自分をララと言っていたやつは情報通なんだっけか。県祭りで会ったときに俺の名前は覚えていなかったけど。別に根に持ってる訳じゃない。本当に。それにしても変わった名前だ。
「へー。知らなかった」
「あっ…」
そのツインテールララが俺たちに見られているのに気がついて顔を逸らした。怪しい。絶対なんか隠してる。
「…比企谷。同じ一年じゃない。聞いてきてよ」
「嫌ですよ。なんで俺が」
「困ったらフォローしてあげるから。こういうときにコミュニケーション取っとかないと。共通の話題を持つことは基本よ」
「別に必要以上に話す必要とか…」
「いいから早く行く!」
「うおっ!」
優子先輩に思い切りホルンパートの奴らの方に向かって背中を押された。まだ話してもないのに、ツインテールララはめちゃくちゃ気まずそうな顔をしている。
コミュニケーション取っとかないとなんて言うが、もうあの評定されちゃってる時点で、話しかけないで欲しいって言うコミュニケ-ジョンが成立しちゃってるんだよなあ…。かなりばっちり意思疎通ができている。
「あ、え、えーと…」
ララがやっぱり気まずそうに俺に反応すると、そこで初めて他の面々は俺の存在に気がついたらしい。流石俺。存在感の無さはピカイチ。
「す、すまん。なんか高坂の話が聞こえてきて」
「別にあんたには関係なくない?」
「つーか誰?部員?ララ、知ってる?」
「高坂さんと同じ、トランペットパートの一年生ですよ。名前はヒキタニ君」
「ヒキタニ?そんな奴いたっけ?」
そんな奴はいない。比企谷だ。ひーきーがーやー。
だが、相手は五人でこちらは一人。数の力ってすげえや。こういう時、もうヒキタニでいいやって思っちゃうんだもん。
「知らないけど、とにかくあんたには関係ないから」
「そ、そうです。ララは何も話すことなんてありません」
「大体、私たちの話を盗み聞きしてるとかキモいんだけど」
「それは悪かったと思ってるんですけど……」
「じゃあどっか行ってよ。ってかトランペットパートの一年、吉沢ちゃん以外なんか…」
これはもうダメだ。そもそも本当に何で俺が聞きに行かされたんだよ。この一分にも満たない時間で部活辞めたくなったわ。
だが、撤収しようと思っていた俺が優子先輩の元に戻ることはなかった。
「あのさ、そういうのいいから何話してたか教えてくんない?」
なぜなら隣には優子先輩がいた。優子先輩の登場でホルンパートの一同はうっ、と声を出す。
別に優子先輩が何かをこの人達にしたという訳ではないはずだが、それでもやはり優子先輩は部内でかなり目立った存在なのだろう。
「いえ、別に大した話は…」
「だからその大した話じゃない話を聞いてるんですけど」
怖い。フォローが怖すぎる。中世古先輩の件で色々と溜まっていたからか、なんだか少し怒った様子の優子先輩はいつになく強気だ。
「……」
「え、えーと……」
ララが黙って真っ直ぐに大きな瞳で見つめる優子先輩から思わず目をそらして他の奴らを見ても、みんな我関せずとそっぽを向いている。
今の優子先輩には、先輩としての威厳しかない。この雰囲気に負けて、折れて話してしまっても誰も責められないだろう。
「…わ、分かりましたあ。実は高坂さん――」