やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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 とりあえず第一希望のトランペットパートから去って、マウスピースを洗いに水道へ向かおうとする。教室のドアに手をかけようとした瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。

 何だ、この纏わり付く湿った空気は…!

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「うおっ!」

 

 急に肩を掴まれ、呪いのようなフレーズを囁かれる。見れば、もうおそらく新入生は覚えたであろう、やたらインパクトが強い田中先輩だった。

 

 「な、なんすか?」

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「でも俺、もうトランペットに希望出してきましたし…」

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「ちっとも聞いてねえんだよなあ…」

 

 ダメだ。低音に人が集まらなさすぎて、ショックのあまり気がおかしくなってしまったのだ。

 低音に人が集まらない光景というのは珍しいものではない。むしろ第一希望で低音を希望する人はほぼ必ずと言って通るだろう。演奏ではあまり目立たず、地味というイメージが強い。演奏時も同じフレーズを演奏することが多い。

 だが、俺が低音の金管楽器を好まない理由は一つ。重いのだ。楽器の運搬をやる際に、運ぶのがいつも憂鬱になる。楽器だけで十キロくらい、ケース込みだと十六キロ近いとか聞いたことがある。こういうのは非力で、専業主夫志望の俺には似合わない。

 

 「ほら、先輩。困ってますよ」

 

 助け船を出してくれたのは一番始めに楽器が決まった、コンバスのゆるふわがーるだった。隣にはさっきまでトランペットパートにいた運動部っぽいやつもいて、手にはチューバのマウスピースが大事そうに握られていた。

 この二人が低音志望なのか。コンバスなんて本当にでっかいからな。見たところ百五十センチもなさそうなゆるふわりんがコンバスを演奏するのは、どうもしっくりこない。

 

 「えー、でもー。この子絶対低音向きだと思うんだよねー」

 

 「いや、なんでですか?」

 

 「だってこの目!ドロドロしてて腐った魚みたいな目というか、世の中の酸いを全部見てきた目というか」

 

 「ひ、酷すぎますよ!」

 

 「……まあ確かに小学生の時、遠足の動物園によくあるふれあいコーナーでひよこに糞された挙げ句、クラスメイトはおろか先生にさえ避けられて置いてかれましたけどね」

 

 「聞いてるこっちが辛くなるよおー」

 

 「あはは君、やっぱり面白いね!」

 

 「むむ昔のことだからぜぜぜ全然気にしてないですけどね…!」

 

 「声がすごい震えてるから!もう辞めましょう。あすか先輩」

 

 チューバの大男の隣の少しだけふくよかな女の先輩が田中先輩を止めた。ごめんねー、と優しくフォローしてくれるアフターケア付きで。

 

 「吹奏楽の経験はあるのか?」

 

 チューバの紹介をしていた先輩からの質問に先ほどと同じように、はいはい、と真っ直ぐに手を上げて答えたのはゆるふわりんだった。

 

 「それならみどり知ってますよー!さっきトランペット吹いてるの聞いてましたから!」

 

 おう。さっき吹いてたのを聞いていた人がいたとは。全部高坂に持ってかれて、誰の記憶にも残ってないと思っていたのに。

 

 「私、川島みどりって言います。えっと…」

 

 「…比企谷八幡です」

 

 「うん、よろしく!」

 

 今度は俺に向かって真っ直ぐ伸ばされる手。これは握手で間違いないよな。お手じゃないよな。

 そのまま少しビクビクしながら手を伸ばすと、良かった。ちゃんと握手だった。嬉しそうに掴んだ手をぶんぶんと振っている。

 身長差もあって見上げられている感じだったり、まるで子どものようにフレンドリーで嘘偽りがなく、屈託のない笑顔だったり。危ねえ。中学生までの俺だったら、ここまでのやり取りで間違いなく告白して振られてた。

 

 「正確には川島みどりじゃなくて、サファイア川島だけどねー」

 

 「ちょっとー、あすか先輩ー!」

 

 「あー、ごめんごめん、間違えちゃった。川島緑輝(さふぁいあ)ね!」

 

 「もう!みどりはみどりです!」

 

 「え、何。帰国子女?」

 

 あんまりの驚きに声に出てしまった。帰国子女にしたって、サファイアって随分とキラキラネームだな。まあでも最近、宝石の名前にするの流行ってるって言うし。学校の廃校を阻止するために、九人の少女達が頑張る大好きな某スクールアイドルアニメでもダイヤとルビィがいるし。

 

 「違うよ。ちゃんとれっきとした日本人ですー。恥ずかしいからみどりって呼んでね?」

 

 「あ、うん。でもすごい夢のある名前というか、何というか似合ってると思うぞ。……くくっ」

 

 「比企谷君、今笑ったでしょ!ひどーい!」

 

 恥ずかしくて赤くなったほっぺたを膨らませて怒る。あー和むわー。これがみどりん効果かー。あぁー、心がぴょんぴょ…、あ、これさっきもうデカリボン先輩のとこでやった。

 

 「あ、私はね、みどりと同じクラスの加藤葉月って言うの!」

 

 川島のみどりんオーラに和んでいると、隣にいた体育会系の女の子が話しかけてきた。髪留めの付いたショートカットや、日に焼けた肌はボーイッシュな雰囲気を感じる。空手か陸上辺りをやっていたのではないだろうか。

 

 「あ、どうもよろしく」

 

 「うん、よろしくねー」

 

 人怖じしない性格のようで、ニコニコと人懐っこく挨拶をしてきた。今日は同学年の女子二人と話しているが、これはもしかかして自分でも意図せず高校デビューに成功しているんではなかろうか。クラスでは誰とも話さないけど。この二人が特別なだけか?何はともあれ、帰ったら小町に報告しよ。

 

 「私もさっきトランペット頑張って吹こうとしてたとき、比企谷が吹いてるの聞いてたよ」

 

 「あ、葉月ちゃんも聞いてたんですね。高坂さんにもビックリしましたけど、比企谷君もすっごく上手かったんですよ。みどり、ビックリしました」

 

 「なんだー、トランペット経験者なのかー。でもでも!高校から楽器変える人も結構いるっていうし」

 

 「いや、でも…」

 

 なんて断れば良いんだ。そんなことを考えていると、どこかから『小学校の時からユーフォだもんね、久美子ちゃん』、という声が聞こえてきた。

 

 「ほっほーう」

 

 きらん、と赤淵の細い眼鏡のレンズが光る。田中先輩は怪しい笑みのまま、颯爽と声の聞こえた方へ去って行った。

 

 「な、なんだったんだ」

 

 まるで嵐のような人だった。さっきまでは美人というイメージが強かっただけに、今となってはよく分からん。

 

 「あー久美子、捕まっちゃったねえ」

 

 加藤の声はため息交じりであったものの、表情はどこか嬉しそうだった。

 


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