やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「お疲れ様」
隣の蛇口が捻られる。
「おう。お疲れさん」
顔を向けずに返事をした。先ほどの朝の練習に参加していた高坂だ。
朝練は登校してくる生徒達の邪魔になるため、普段パートに宛がわれている教室を使うことは出来ない。そのため、練習する場所は自ずと音楽室か外のどこかで練習することになるが、この時期は外は暑いから音楽室に人が少ないのならばできるだけ室内で練習したいというのは皆が思っている。
お互いに一言ずつ言葉を交わせば、後は水が流れる音だけが響いた。水道には俺たち以外に誰もいない。そんな光景が今の吹奏楽部を如実に表現しているかのようで思わず苦笑いをしてしまった。
トランペットパート、さらに言うなら部活に居辛い二人。まるで周囲から隔離されているかのようだ。
俺も大概だが、高坂に纏わり付く非難も大概のものだ。高坂本人に直接言うことはないが、高坂が通り過ぎた場所には必ずと言っていいほど先輩が集まり、矢継早に不愉快で陰湿な陰口が飛び回る。
だが、こういうのに慣れている俺は置いといて、高坂はやっぱりいつも通りに見える。今回のトランペットパートのソロの問題でへこたれて、ちょっとメンタルがヘラりやすい女の子であれば、『人生をhappyにリセット!あなたを変えるたった三つの質問』みたいなサイトに載ってるセミナーとかに手を出してしまってもおかしくないであろうに。
ああいうサイトの記事って、信憑性ないし大して興味もないのについつい開いちゃうのはなぜなんだろうな。『嫌いな人が嫌いじゃなくなる』とか『周りの人は味方しかいない』とか。
「ねえ、一ついい?」
「ん?どした?」
「ありがとう」
「は?」
急に感謝されたから驚いて、思わずマウスピースを落としそうになる。
だが、もっと驚くべき事に高坂の顔が少し赤い。あまり感情を表に出さずに、冷静というか淡泊な高坂のこんな表情を見るとは。
それにしても、高坂に感謝されることなんて何もない。俺が最近高坂にしたことなんて、再オーディションを設けたことくらいだが、それこそ感謝されることなんかではない。高坂にとっては一度は決まっていたソロの枠を争うなんて面倒なことでしかないだろう。
「比企谷がこの間音楽室で皆の前であんな言い方して再オーディションをすることになったお陰で、皆が練習に集中するようになったから」
「いや、俺が勝手にやったことだし、感謝なんてされる筋合いねえよ」
「うん。言っとくけど、同情なんてしないよ。音楽室の真ん中で滝先生に話してる比企谷、ほんと最低だったから。公開処刑って何?普通に皆の前で公開オーディションとかで良かったじゃん。もっと他に言い方いくらでもあったでしょ」
「…言い方に関してはお前にだけは言われたかねえよ」
そもそも言いたいことをもっときちんと伝えることが出来ていたら、俺たちはきっと今頃こうして一人になんかなっていない。もし高坂本人が忘れたとしても、優子先輩と音楽室で大喧嘩したときの高坂は酷いもんだった。むしろあれに比べたら俺なんて可愛いもん。
「私の場合は生意気言ったことは認めるけど、あっちが吹っかけてきたことだし…」
「認めてるじゃねえか」
「うるさい。あんな言われ方したら誰だってカッとなるでしょ。音楽室から出て行った後も全然収まらなかったもん。すごいムカついたし、うざいーって思った」
「まあ本人もそれは気にしてたぞ」
「じゃあ謝って欲しい。それまで許さないから」
同じクラスになって、初めて見たときは高嶺の花で高潔でどことなく遠い人というイメージが合ったが、部活で同じパートとして関わるうちに、変わり者な負けず嫌いというイメージに少しずつ変わっていった。
高坂のこういう素直な物言いを聞くと、やっぱり高坂も同じような年齢の少女なのだと再認識する。普通ではないけれど、全然遠くなんてない。
「まあ、中世古先輩がお前に気を遣い続けているのは本当だけどな」
「それはわかってる。さっきも練習の前に香織先輩に呼ばれたもん。ソロをまた争うことになったけど、それでも同じ学校で一緒に出場する仲間だからお互い頑張っていい演奏しようって」
「…へえ。中世古先輩らしいな。ま、こないだ話したけどちょうど良いんじゃねえの。そう言ってくれたなら来週のホールではお前も容赦なく吹けて」
「まあね。ねじ伏せる」
「ねじ伏せちゃうのかよ…」
「だって、そのくらいできなくちゃ特別になんてなれないでしょう?それに誰かさんにお願いされたしね。香織先輩の前で圧倒的な演奏して欲しいって」
「……」
「香織先輩と比べられるシチュエーションを用意するからとか言われて、まさかこんな展開になるとは思ってなかったけど。それでも一度わかったって言ったからには、ちゃんとやらないと」
「…それこそ誰かさんにはオーディションの前に、約束破る男は最低とか言われたからな。見本見せて貰わないと」
「そういえば、そんなことも言ったっけね」
高坂が自信に満ちあふれた笑顔を携えながら水道を止めた。どうやら話は終わりということらしい。
二人で戻ればまた何を言われるか分からない。だから俺はまだ水を止めずにマウスピースを流し続けている。
「それじゃ私戻って練習するから」
「おう。お互い居場所がなくて一人同士頑張ろうぜ」
「言っとくけど、別に私は一人じゃないから」
「え、そうなの?」
ひしひしと感じていたシンパシーは勘違いだったというのか。この裏切り者めっ!
「私友達いるから。こないだ優子先輩と言い合ったときだって、私間違ってないって言ってくれたし」
歩いて音楽室の方に戻っていく高坂の背中を見て、俺はぼんやりと呟いた。
「……なんか。トランペットパートって面倒くさい奴らばっかだよなあ」
だがそれも高坂なら、普通であるよりはそっちの方がずっといいと笑うだろうか。優子先輩なら…。
そこで考えることはやめた。優子先輩と以前のように関わることはないだろう。だからあの人なら、とかそんなくだらないことを考えるのは無駄だ。
終わった関係にいつまでも未練を残してはいけない。
今日はもう練習はいいや。教室に戻って帰ろう。
「確かにみどりもそう思います。負けず嫌いな人が多いんだなって。でも負けたくないとか、もっといい演奏が出来るようにとか一生懸命にやっているのはきっと音楽が好きだからなんでしょうね」