やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。   作:てにもつ

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はい、ひょっこりはん!そんな感じで角から顔を出してニコニコとしていたのは川島だった。

 

「聞いてたのか?」

 

「はい。手を洗おうと思って水道に来たら比企谷君と高坂さんの話し声が聞こえてきて。さっきそこで高坂さんとすれ違いました」

 

「ふーん。そうか」

 

努めて冷静にその場を去ろうとする。川島と話すことなんて何もない。顔だけ出して笑顔でいる川島は可愛いけど。可愛いけど。

曲がり角の壁を掴んでいる川島の指はテーピングでぐるぐると巻かれていて痛々しい。笑顔に隠れて中々見せることはないが、その指は川島のひたむきな努力をしっかりと物語っている。

 

「比企谷君。一緒に教室まで行きましょう」

 

「…嫌だ。俺らクラスちげえし」

 

「むぅ……」

 

「……」

 

「ぷぅぅ………」

 

「………い、嫌だ」

 

「もう。じゃあ良いです。みどりが勝手に付いていきます」

 

「……寄ってくとこあるから。ちょっと遠回りしていくぞ」

 

「わかりました」

 

本当は寄ってく所なんてないが、教室の方に行って吹部のやつらに見られて俺と一緒にいたのが噂になれば迷惑被るのは川島だ。少しでも見られる確率を減らすために遠回りすることにした。

とりあえず川島を待たせて、洗ったマウスピースをしまって音楽室から出る。何があってもこれだけは傷つけられたくないから、南京錠をかけた自前のトランペットを楽器室に置いて川島と距離を取って歩き始める。

 

「ふんふんふーん」

 

何か話すわけでもなく、俺たちがコンクールで演奏する三日月の舞のソロパートを口ずさんでいる川島は本当に特に意味もなく一緒に教室まで行こうと思っただけなのだろうか。一人だと教室戻りたくない的な。

それはそうと、意味もなく一緒に行くと言えば男子の連れション。いくら赤ちゃんプレイがちょっとマニアックな男の子にとってノーマルでも、流石に子どもじゃないんだからトイレくらい一人で行ってくれ。

教室移動とか、昼休みの飯とか一人で何かするのが悪いわけなんてないのに、それを一人でしていれば寂しい奴だと言われ笑われる。それすらも納得いかないが、本来であれば一人であっても許される癒やしの個室、心も尿意も便意もすっきり解決すべきはずのトイレさえ誰かを誘って複数人で行うべきものとして、連れションなんて言葉の前で正当化されてしまえば、一体他に何が一人でも許されるというのだろうか。やはり連れションは悪い文明!粉砕する!

 

「あ。優子先輩です」

 

どうでもいいことを考えながら二人で歩いていると、川島が校門のところに一人で歩く優子先輩を見つけた。相変わらず頭のリボンのお陰でどこからでもわかりやすい。なにやら悩ましげに俯きながら歩いている。

 

「……」

 

「比企谷君はこないだから優子先輩とは話してないんですか?」

 

「…別に元から話すことなんて特にねえから。あの人だけじゃなくてトランペットパートの人たち全員、話すことなんて何もない」

 

「でも……」

 

「川島」

 

それ以上は話さないでくれ。

そんな意味を込めて名前を呼べば、『…すみません』と一つ謝って川島は優子先輩についてはもうそれ以上は何も触れなかった。

耳を澄ませばどこからか楽器の音が聞こえてくる。音楽室からではなさそう。

 

「オーボエですね」

 

「そうだな」

 

「誰でしょう?上手ですね」

 

「正確な音だよな。なんか音源をそのまま聞いているみたい」

 

「わかります。オーボエは去年も比較的しっかり練習していたって先輩から聞きました」

 

おそらくオーボエは去年から人数が少なく纏めやすかったということもあるのだろう。同じパートとして括られているファゴットと合わせても今年も人数はそう多くない。

 

「みどりも負けてられません」

 

「いや負けてないだろう。見る度に巻かれるテーピングが増えてくぞ」

 

「あはは。でも中学生の頃もコンクールに向けて少しずつ増えていって、逆にコンクールが終わると治って少しずつ減っていくんです。当たり前ですけど、そんな変化が嬉しいんですよね。頑張った証拠なんだなって」

 

「トランペットにはよくわかんねえ悩みだな。あんまり吹きすぎると腫れたり、口周りの筋肉が疲れてバテることはあるけど」

 

「他にも演奏者は顎関節症になる怖さがありますからね。その点みどりは安心です」

 

特にトランペットは高音を出すため他の金管楽器よりマウスピースを押しつけすぎることが多かったり、アンブシェアの位置を見直さなくてはいけない、つまりマウスピースを唇に当てる時に上唇と下唇を揃えることを心がける必要がある。歯並びや口の大きさなどもあり、人それぞれで個人差があるため、それをしっかりと見つけて唇を守らないと、最低医者にお世話になることもある。

 

「そう言えば五日後ですね。いよいよホールでの練習。久しぶりのホールだから、みどり、今からすっごく楽しみ」

 

「そうかー?」

 

「はい!広い場所で演奏するのは気持ちが良いです」

 

「バスで行くの面倒だし、楽器運搬重いし」

 

「でもでもみんなでバス乗るの楽しいし、楽器もきっと普段と違うところで演奏できると思ってきっと楽しみにしてます。京都府予選では次のホール練習よりももっと広い会場で演奏できて、全国まで行けばさらにもっともっと大きな会場で。そう考えるとわくわくが止まりません!私たちの冒険はまだまだこれからです!」

 

海賊王か。名前も緑輝と書いてサファイヤで宝石らしい名前だし。

 

「本当に好きなんだなー」

 

「はい。大好きでは表現できません!もっと大きいです!」

 

大好きより大きいとかアガペーなの?ちょうど十六歳だし。

窓の先には授業が近付くに従って、徐々に登校する生徒達が増えてくる。いつまでも見ていても仕方がないと窓から目線を外して廊下の先を見れば、見知った顔がこちらに向かって歩いてきていた。

 

「あ……。…おはよう」

 

「香織先輩。おはようございます」

 

「……」

 

明らかに顔を逸らした中世古先輩。合わせる顔がないとは正にこういうことを言うのだろう。

横を通り過ぎていく中世古先輩に俺は挨拶すらかけることはない。先輩が角を曲がって見えなくなるまで無言でいるしかなかった。

 

「高坂さんは別に悪い事なんて何もしていませんし、上手なのは間違いないと思います。それでもみどりは香織先輩にソロを譲っても良いと思っていました」

 

「え?」

 

「中学生の頃からそういう人間関係の問題は何度も見てきましたから。音楽は楽しいものであるはずなのに、誰が上手いかとかで比べるのって仕方のないことだけどどうなんだろうって。ましてや最近はそのせいで練習に熱がなくなってさえいましたから、尚ソロは香織先輩に譲るのも仕方がないと」

 

川島は真っ直ぐに俺を見て話している。その瞳から不思議と目を離すことができず、俺は黙って川島の話を聞いていた。

 

「今の部活は比企谷君が皆の注意を滝先生から自分に向けたことで滝先生の信頼は少しだけ回復して練習には熱が入るようになりました。みどりはきっと比企谷君はわかっててわざとあんな風に皆の前で言ったんだと思ってますけど。…というよりそう信じます。

あすか先輩も結果的には比企谷君に助けられた形なんじゃないかって言っていました。なので、みどりとか低音パートの人はそう考えています。だけどね、比企谷君。自分を傷つけて誰かを助けるやり方はきっと大切な誰かを傷つけます」

 

優しい声音はまるで母親が子どもを優しくあやすときのようだとさえ思った。俺は今、責められているのだ。間違っているのだと、そう言われている。

けれども俺より一回り小さいその体躯の少女の言葉を素直に聞き入れていられるのは心のどこかでそれが正しい事だと認めているからなどでは決してない。だって俺はその方法しか知らなかったのだから。いつだって自分が我慢することで解決しようと思ってやってきた。

それが違うというのなら、何故俺はその言葉を受け入れようとしているのだろう。それは川島緑輝という少女が俺より強い人間であると認めているからこそなのだと、素直で真っ直ぐな瞳を見て思った。

 

「さっき比企谷君は止めましたけど優子先輩も、今すれ違った香織先輩だってきっと何とか叶えたかったことがあったんだと思います。音楽に真摯に向き合うからこその願いが。だけどそれは比企谷君が傷ついてまで叶えたかったことなのかなって。ここ数日の先輩達を見てるとみどりは思います」

 

「まだ出会って数ヶ月だぞ。俺のことも、先輩のことも分かった気になるなよ。別のパートのくせに」

 

「出会ってからの期間はそんなに長くありませんけど、重ねてきた努力とその時間は十分すぎるほどに大きいです。比企谷君の言う通り、違うパートのみどりでさえ大切な友達に傷ついて欲しくなかったし、これからもみんなに勘違いされ続けているのなんて辛いです。もっと自分の価値を知ってください。比企谷君は北宇治高校吹奏楽部の部員で、大切な仲間です」

 

いつも通りににこにこと笑っている川島の手には一粒の飴が握られている。

 

「これは?」

 

「頑張った比企谷君へのご褒美ですよ」

 

「…安いご褒美だなあ」

 

それでもしっかりと受け取ってポケットの中にしまうと、川島は満足そうに頷いてまた太陽のような笑顔でにこにこと笑っていた。

 

「安くなんてありません。女の子の困ったことは大体甘いもので解決します」

 

「女の子じゃないんだよなあ。ハチ子ちゃんなの?」

 

自分の名前を女の子っぽくするときに八幡の後に『子』を付けるといかがわしくなるんだけど、それに気が付いた思春期真っ盛りだった中学生の時の俺は一人でニヤニヤと笑い、小町にガチで引かれて三日間口をきいてもらえなかった。

 

「でもほら。比企谷君甘いもの好きですよね?それに頭もよく使いますし」

 

「まあもらうけど。……さんきゅーな」


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