やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
「うわー。広いねー」
「本番はここよりもっと大きなホールです。これで驚いていたら呑まれてしまいますよ」
光の速さと同じくらい、とは流石に言いすぎかもしれないがホールでの練習まではあっという間だった。パート練習の時間以外は流れるように時間が過ぎていく感覚はある意味恐ろしい。余所のパートはゆるゆりとまったり練習をしていたのかもしれないが、俺たちのパートは空気清浄機を使ったってどうにもならないような尋常じゃない濁った空気。パートのメンバーの誰もが何かと気を遣って、以前よりも会話がずっと減って行われていた。
今回借りているホールは学校からすぐの市民会館にある。普段の音楽室とは違い、開放感のあるこの空間は川島ではないが確かに少しだけ音を出すのを楽しみにさせた。
だが、今日は合奏をする前にまず行われることがある。
「楽器来ましたー。手の空いている人は手伝って下さーい」
「はい。では皆さん、準備を始めましょう。中世古さんと高坂さん。二人は準備はいいのでオーディションの用意を」
「「はい」」
それはトランペットソロの再オーディションだ。
改めてオーディションを行う二人は滝先生の指示に従ってトランペットを入れたケースを持って外に向かっていった。二人ともそれぞれどこか別のところで音出しをするのだろう。
「………」
「…優子ちゃん優子ちゃん」
「あ、笠野先輩。すみません。ボーっとしちゃって」
「ううん。それより香織も不安かもしれないから行ってきてあげな」
「え?いいんですか?」
「うん。準備なんてこんだけ人いればすぐだからさ」
「ありがとうございます」
中世古先輩の向かった方に歩いて行く優子先輩を横目に、楽器運搬を使命とする男子である俺は外に向かった。
トラックの元にはすでに男子部員が何人かいて、手前の荷物から順に出している。これは降ろした荷物をホールに運ぶ係になるな。面倒くさ。
「比企谷」
「?」
小声で俺に話しかけてくる塚本。
塚本は今年からトロンボーンを始めたため、合奏練では名指しでいつまでに吹けるようになるかと滝先生から指摘という名の注意を受けていたことが幾度かあった。トランペットパートとトロンボーンパートは合奏練のときの席が近い。そのため、指摘を受けたときに『くそ…』と、悔しそうに呟く声を聞いたこともある。
放課後に大きくて荷物になるトロンボーンを持ち帰っている姿も見ていたが、果たして今日のホールでの練習に間に合ったのかどうかはわからない。ただ、そんな姿を知っていたから、人のことを気にしている余裕なんてきっとないと思っていた。
「…何だよ?」
話すのが久しぶりで思わず身構える。もしかしたら二人でコンビニに寄って帰ったときぶりかもしれない。
挨拶くらいはたまにしていたが、それでも俺と部活で話すのは周りから良く思われない。俺からももちろん距離を置いていたし、向こうも同じだったと思う。
「お前、行けよ」
「いや、どこにだよ?嫌われ者はどっかに行けってことか?ひでえな」
「半分正解だな」
「半分って何?」
「嫌われ者ってのはまあ正解だよな」
「改めて言わなくて良いから。分かってるから」
ははは、といつも通りの柔らかな笑顔で笑った塚本を見ていると変に身構えたことが馬鹿らしくなってくる。
「避けられてるんじゃない。一目置かれてる。そう考えると意外とやっていけないこともない。むしろ見下してる感あっていい」
「なにその謎にポジティブ。いや、ポジティブなのか?…まあそんなことはどうでも良くて。別に嫌われてるとかが理由じゃなくて、比企谷も今回の再オーディションの当事者なんだから準備なんてしなくて良いから行くべきなんじゃないかって」
「いやどう考えても当事者じゃねえだろ」
「最近、毎日合奏練の後に個人錬までして帰ろうとすると、トランペットパートのソロが聞こえてきてたんだ。校舎の裏で中世古先輩が毎日練習してた音だよ。高坂も朝練、すげえ早い時間から来て練習してるって滝先生から聞いた。中世古先輩にとって今回の再オーディションは本来なかったはずの最後のチャンスで、高坂だって負けられないし負けたくない。二人とも頑張ってる。そのきっかけを作ったのは比企谷だろ?立派な当事者だ」
「だからこそ今どっちかの方に行って肩入れなんて出来ないだろ」
「そうかもしれないな」
「ならどこに行くんだよ?」
「気が付いてて知らばっくれてたのか、それとも本当に気が付いてなかったのかわからないけど、後ろから見てると合奏練の最中も吉川先輩じっと比企谷の方見て複雑そうな表情してたぞ」
「……」
それが真実なのか、俺は正直わからなかった。
ただたまらず塚本の方を見ていられなくなって目を逸らす。
「…それでも別に話すこと特にないし」
「なら他に話す理由があればいいのか?」
「そういう訳じゃ――」
「……こないだ吉川先輩が朝、他に誰もいない教室で高坂に頭を下げてお願いしてたぞ」
「え?」
「俺もたまたま通りかかったんだけどな。あんなに真剣な顔で頭下げてる先輩の姿って中学の時から振り返っても初めてだったから驚いた」
塚本は肝心なことに触れずにいる。優子先輩は一体何に頭を下げたのか。
いつか音楽室で声を荒げて喧嘩したことを謝ると言っていたが、きっとそのことではないはずだ。ソロの問題が解決したらと言っていたけれどまだ何も解決していない。
もしかしたら。嫌な予感が頭をよぎる。
優子先輩は中世古先輩よりも高坂の方が上手いことをわかっている。けれどもそれを知った上で中世古先輩が吹くべきだと考えている。であれば自ずと頭を下げた理由は一つしかないだろう。
「…その理由は?」
「さあ」
「真面目に聞いてるんだけど」
「本当に知らないんだ。聞いちゃいけない話かなって思ってすぐに離れたから」
もし塚本が言っていることが本当なら、こいつ真面目すぎるにも程がある。こういう話って大体好奇心に負けてついつい聞いちゃうもんじゃないの?
「だから比企谷が聞いてこいよ」
「…だけどそれを聞いたところでどうすることもできないし」
「もっと単純に考えたって良いんじゃないか?気になったから聞く。俺はほら…吉川先輩結構怖いから聞きにくいけど…」
優子先輩が怖いという部分だけ、周りをキョロキョロ見ながら誰かに聞こえてないか確認して小声になっていった。どんだけ怖いんだよ、こいつ。わかるけど。あの人、他のパートからしたら超怖いけど。
「まあとにかく行けって。今から演奏する二人のとこでも、吉川先輩のところでも」
背中を押されて一歩二歩と前に出る。全く、余計なお節介しやがって。塚本には聞こえないように一言呟いて俺はホールの外に出た。