やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
席と楽器の準備を終えた壇上に二人の生徒が並んでいる。
「では、これよりトランペットソロパートのオーディションを始めます」
他の部員はステージから離れてホールの中央に集まって座っている。俺たちだけではこのホールの十分の一にも満たないだろうか。
ホールからステージは思っていたよりもしっかりとよく見える。綺麗に並べられた楽器達がまるで俺たちが演奏するのを待っているかのように、照明の光を反射して無邪気に輝いていた。
「両者が吹き終わった後、全員の拍手で決めましょう。いいですね、中世古さん?」
「はい」
「高坂さん」
「はい」
二人に笑顔はなかった。ただただ真剣な眼差し。
公開処刑という表現という言い方はやはり間違っていた。真剣勝負の一騎打ち。それを控える二人とも処刑を待つような表情などでは決してない。
思えば吹奏楽において、こうして一対一で吹いて競うなんて機会は滅多にない。サンフェスの時に先生が言っていたが、そもそも音楽とは本来競い合うものではないからだ。
「ではまず、中世古さん。お願いします」
「はい」
滝先生の言葉に、中世古先輩がトランペットを構えた。
遠くからではわかりにくいが、もしかしたら震えていたようにも見える。それでもここに立った以上吹かなくてはいけないし、その覚悟はきっとすでに出来ているはず。
中世古先輩は一つ息を吸って吹き出した。
中世古先輩の演奏は格段に上手くなっていた。中世古先輩のソロの音を何度も聞いていたからこそ、それがよくわかる。音楽や演奏に正解はないが、失敗や欠点が見当たらない中世古先輩の演奏は優子先輩がさっき言っていた通り正に完璧だった。
中世古先輩の真面目で努力家な一面がその演奏から伝わってくる。きっと再オーディションが決まってからは血が滲むような努力をしてきたのだろう。
「ありがとうございました」
中世古先輩の演奏が終わると自然と拍手が起こった。すごかったね、と賞賛の声が聞こえてくる。
そんな中でステージの上にいる高坂は相変わらず表情を表に出さずにいた。
「では次に、高坂さん。お願いします」
「はい」
一瞬、高坂と目が合った気がした。
不思議と高坂はその期待を裏切らない、そんな確証がある。中世古先輩の演奏がその程度のものだったなんてことはない。むしろ今聞いた中世古先輩のソロは上手くなりすぎていて驚かされた。それでも。
高坂はいつも通り、すっと真っ直ぐに背筋を伸ばしてトランペットを構えた。
高坂のトランペットから音が飛び出た瞬間、衝撃が走った。高坂の音に思わず声が出なくなるほど驚かされる。この経験は吹部に入ってから何度目だろうか。そしてやはり、高坂は俺の期待を裏切ることはなかったのだ。
圧倒的な力強さがあるのに滑らかで、美しいのにガツンと突き刺さる。その音色はまるで歌うようにホールの中で響き渡っている。
中世古先輩だって上手いのに、高坂が特別すぎる。それ程までにその実力差は明確だった。同じフレーズを吹いているはずなのに、どうしてここまで演奏に差は生まれてしまったのだろう。
「ありがとうございました」
高坂の痺れるような演奏にただ圧倒されて見つめていただけだったオーディエンスである部員達が、徐々にざわざわと話し出した。
どうしよう。どこからかそんな声が聞こえた。そのどうしようの意味は、もはや二人の演奏の前に明白だ。
だが多くの部員の結論は出ないまま、滝先生は俺たちに投げかけた。
「ではこれより、ソロを決定したいと思います。中世古さんが良いと思う人」
隣の席が、がたりと動いた。
立ち上がってパチパチと手を叩く。優子先輩は俺に話していた通り何があっても最後まで中世古先輩の味方で居続けた。
たった一人だけの乾いた拍手の音。それでもこのホールに響く寂しくも力強い拍手に、ステージに立っている中世古先輩の瞳が少しだけ潤んで。
それから嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「っ……」
勝者は中世古先輩ではないし、同情は絶対にしないと決めた。
それでもトランペットを愛して、部活と部員に尽くしてきた誰よりも優しかった彼女にどうか最後のチャンスを叶えて吹いて欲しい。
そう思う気持ちに蓋をする。そのために中世古先輩を視界に入れないようにと目を閉じて、何かがこぼれ落ちそうになるのを俺はなんとか耐えた。
優子先輩の拍手に続いて小笠原先輩も拍手を送った。
部長であるしその責任と立場だってあるが、中世古先輩と親しく、一緒に部活を乗り越えてきた三年生でもある。中世古先輩の努力や想いを一番知って理解しているのは小笠原先輩なのかもしれない。だからこそ中世古先輩に吹いて欲しいという気持ちに素直に向き合って、中世古先輩に拍手を送っている。間違いなく中世古先輩の喜びになっただろう。
「はい。では、高坂さんが良いと思う人」
真っ先に立ち上がって拍手を送ったのは、低音パートの黄前という女子だった。あまり目立つタイプでもないはずだが、それでも周りが誰も拍手をしない中でしっかりと決意して立ち上がった。
その黄前からの拍手に、高坂は安心したように微笑んだ。ここまでずっと表情を変えなかった高坂が年相応の表情を浮かべたことで、少しは高坂も不安だったのかなんて思う。
黄前の姿を見てから手を叩く加藤。それに続いて、俺も手を叩いた。
隣にいる優子先輩は俺の方を見ることはしなかった。俺も見ることはしない。
俺と中世古先輩じゃ、誰かに譲った理由も違えば状況だって違うけれど。中学生の俺はただ人間関係で実力なんて何の関係もなくコンクールに選ばれることはなかった。中世古先輩は実力で今回選ばれない。
それでも求めているものは一緒なはずだから。二人で自転車に乗った夜に抱いた感情はきっと正しいと信じて手を叩く。
中世古先輩を負けさせるために。繰り返し叩いている掌がじんじんと痛かった。
これで数は三体二。高坂が一人多い。よってソロは高坂に決まった。
誰もがそう思った中で、滝先生は最後に一つ質問をした。
「中世古さん。あなたがソロを吹きますか?」
「えっ」
誰かの声が聞こえた。けれどそれは皆が思ったことでもある。
こんなに意地悪な質問は他にない。抗議の意味を込めて優子先輩が滝先生を睨み付ける。高坂さえ、酷く傷ついた顔をしていた。
けれど、滝先生の瞳は優しい。
今このホールにいる中で顧問の二人だけが前回のオーディションの時の演奏を聞いていて、今回との正確な比較をすることが出来る。だからこそ今日、この瞬間のために中世古先輩の果たした成長とその裏にある努力を本当の意味で理解することが出来たのも、きっと二人だけなのだと思う。
滝先生の質問は中世古先輩が自分で負けを宣言するための質問だ。だけどそれは、中世古先輩を追い詰めるためのものではない。
そこに立つことを決めたときから上手さで争うことを決め、負けることなんてわかっていた。それでも諦めることはできなかったから、だからこそ負けたかった。死に物狂いで練習をして、それでも圧倒的な壁の前を破ることなんてできずにその実力差を痛感したかった。
拍手という他者の評価ではなくて、最後に自分の言葉と意思で負けを認める。そうしてやっと納得できて、諦められる。
「吹かないです」
滝先生の瞳と微笑みに中世古先輩は応えた。
「吹けないです」
悔しさも後悔もきっとある。それでも真っ直ぐに前を向いてはっきりと。
「ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」
本心でありながら本心とは程遠い結論に向き合って、中世古先輩は最後に高坂に笑いかけてみせた。
「高坂さん。貴方がソロです。中世古さんではなく、貴方がソロを吹く。良いですか?」
その力強い中世古先輩の姿に高坂は思わずたじろいだが、滝先生の言葉にはっとしてすぐに背筋を伸ばした。表情には強い覚悟と自信がある。
「はい!」
「……さて。それでは仕切り直して練習を始めましょうか」