やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
舞台袖に行くと、もう緊張で頭がどうにかなりそうだった。どきどきわくわくちょっぴり緊張?そんなもんじゃない。ばくばくぶるぶるちょっぴり今朝の朝食吐きそうレベル。ダメだ。自分でも何考えてるかわかんない。
ちょうど今、俺たちの一つ前の学校が照明の下で演奏しているが全く耳に入ってこない。すでに自由曲に入っているということは流石にわかるが、それはつまりもう俺たちの番がすぐに来るということを意味している。
「どう?大丈夫?」
優子先輩は同じ中学だと言ってたオーボエの鎧塚先輩に笑顔で話しかけていた。
本番が近付くにつれて緊張するとか今朝言ってたのに全然平気そうだ。一周回ったのか、それともさっきの滝先生の言葉に乗せられたのか。
香織先輩も優子先輩と同じであまり緊張は見えない。不安そうな笠野先輩に話しかけている。
塚本はよくあいつがちらちらと見ている黄前のところに向かって話しかけていた。そのまま眺めていると、何か気に障ったことでも言ったのか足を踏まれている。ざまあないな。
「比企谷」
自分でも分かるくらいそわそわしながら、周りを見ていると急に名前を呼ばれて背中をそっと叩かれた。演奏に混ざって聞こえてきた高坂の声は凜と透き通っているものの、やはり聞き取りづらい。
「顔が酷いことになってるけど大丈夫?」
「ほっとけ。いつも通りだ」
「いつも目は酷いけど、今は全体的に酷い」
そんなこと言うお前が一番酷いよ。
真顔でこんなことを言われるとこっちとしては調子が狂ってしまう。ただでさえ気が狂いそうなのに。
「悪いけど、今お前に構ってる余裕ないから」
「うん。見てわかる」
俺なんかとは違い、高坂はソロパートだってある。それなのにどうやって平常心を保っているのだろう。
「高坂は緊張してねえの?」
「うん。今日この会場にいる中で私よりトランペット上手い人なんて誰もいないから」
「……さいで」
自分よりも上手い人が誰もいないと言い切ってしまうところが高坂の凄いところだ。いないと思うとか、きっといないじゃなくて、いない。ダメだ。この方法は俺には真似できない。
「北宇治が金賞とって関西行くために、私が誰にも負けない演奏をしないと。でも本当は自分の実力は疑わないけど、北宇治が関西に行けるかはわからない。それを考えると不安になるし緊張するから、結果のことは考えないようにしてる。そのことは終わった後で考えればいい」
「考えないようにするって、それができたら今こんなになってねえよ」
思わず手を見つめると誰が見てもわかるくらい震えていた。
「俺、こんな緊張するんだな」
弱い気持ちになってはいけないと分かっていても、こんな自分を見てしまえばそう思わざるを得ない。
逃げ出したい。あの照明の下に、舞台に上がりたくない。
「仕方ないよ。比企谷はこれが初めてのコンクールだしね」
「…やばい。吹き方忘れた」
「落ち着いて。さっき香織先輩が言ってたやり方は?」
「何だっけ、それ?」
「音楽室で話してた。大切な人とか、聞いて欲しいって思う人に向けて吹くようにするってやつ」
「ああ。言ってたなそんなこと」
「誰かいないの?」
俺の演奏を聞いて欲しい人。
『また明日もさ、二人で吹こっか。約束ね』
…千葉にいた頃のもう古い思い出。
その言葉で別れては、次の日もまた約束を交わした。記憶の中に映る笑顔の少女の手には、夕日のオレンジを反射して輝くユーフォニアム。
小学生の俺は彼女と二人で合奏をするために、毎日毎日練習を重ねた。基本を教わった後は、貰った譜面の曲を練習して。吹けるようになればまた新しい曲へ。
『そしたらさ、また聞かせてよ?きっとその頃には……』
千葉にいた頃は忘れた事なんてなかったのに、あの楽しかったと認めざるを得ない二人だけの誰もいない演奏会をこっちに来てからすっかりと忘れてしまっていた。
俺はあの人に会えると思ったから中学生の時だって部活に入ったのに。もう一度会って、もう一度あの人と吹きたい。上達したトランペットを聞いて欲しい。驚かせたい。
だけどここは京都だ。その願いはもう絶対に叶わない。この会場にいるだなんてご都合主義があるわけがない。
「ダメだ。いない」
「それじゃあ、誰か見に来てないの?そしたらその相手を思って吹けば良いんじゃない?」
「…あ」
そうだ。どうして失念していたんだろう。失念していた理由は明白だ。緊張に呑まれていたから。
今日は小町が来ているんだった。
横浜に住んでいた人が神奈川出身とは言わないみたいな些細すぎる見栄を張るのが兄という生き物だろう。少なくとも千葉の血が流れている兄ならば間違いない。どれだけ情けない姿を日常的に晒していようが、それでも妹の前でくらいかっこ悪い姿を見せたくない。そう思うものだ。
手の震えが止まった。俺に合わせてかたかたと揺れていたトランペットも一緒に止まる。
緊張していないと言えば嘘になる。それでも大分ましになった。
「誰か来てるんだ?」
「ああ。妹が来てるんだ」
ぱちぱちと大きな拍手の音が聞こえる。前の学校の演奏が終わった。
いよいよだ。はけていく生徒達を見て俺たちは、薄暗いステージを歩き自分の位置へと移動する。真っ暗な会場にはたくさんのオーディエンスがいて、この中のどこかに小町がいるはずだ。
「比企谷」
「どうした?」
「頑張ろう」
隣に立っている高坂に俺は一つ頷いた。
『助かった。ありがとう』。
本当は伝えたかったが、その言葉は演奏後に持ち越しだ。ステージに照明が点いて、静かな会場内にアナウンスが響き渡る。
「プログラム五番。北宇治高校吹奏楽部。課題曲四番に続きまして、自由曲『三日月の舞』。指揮は滝昇です」
この場所に立って初めてわかったことがある。眩しくて、滝先生以外何も目に入らない。観客はただの黒で、演奏が始まればそこには音しか残らないのだろう。
拍手と共に頭を下げる滝先生。それからゆっくりと指揮台に上がり、滝先生が腕を上げた。
トランペットを構える。
横に並んだトランペット。その奥にはトロンボーンがいて、目の前にはフルートやホルンが楽器を構えて座っている。これから始まる十二分間のために俺たちはここまでやってきた。
滝先生の上げていた腕が振り下ろされて、俺はラッパに息を吹き込んだ。