俺と後輩と酒と文学少女と 作:JOS
空を見上げれば二月の空と呼ぶのに相応しい鉛色の重い曇天が頭上を覆っていた。それが何とも俺の言葉では伝えることが出来ない微妙な心の中を現しているようで少しおかしくなって、乾いた息が漏れた。
まだ夕方の四時を五分ほど過ぎただけの時刻だと言うのに随分と気温は低いのか、零れた息は真っ白だ。そう言えば朝のニュースで今日は今冬一番の寒さになると言っていたのを思い出す。昼過ぎからは雪が降るかもと美人のキャスターが言っていた。
――あぁ、どうりで寒いわけだ。
コートにマフラーそれに手袋。これだけの完全防備なのに寒い理由に納得する。
何とも形容しがたい空の下をゆっくりと歩けば横から笑い声が聞こえ来た。
「うふふ、先輩楽しいですね」
何とも楽し気な笑い声は風鈴の音の様に涼やかで璆鏘琳朗として鳴るような声だった。何時ものように綺麗な笑い声なのだが、その声は少しばかり音が籠っている。
何がそんなに楽しいやらと声がする方を見てみれば、黒いキャップを深く被り、口元をマスクで覆った黒目、金髪ロングヘア―の女と目があった。ちなみに、服装は茶色のロングコートに口元には黒いマフラーを巻いている。黒いキャップと口元のマスク、これにサングラスでもすれば怪しさ役満の不審者が出来上がりなのだが、惜しいことにサングラスがないことと、目元だけでも分かるソイツの整った顔により良くて二翻どまりという結果になっている。くやしいことにどんな格好をしてもソイツは美人だった。まぁ、つけあがるため死んでも本人には言ってやらない。言ったが最後確実につけあがるのは火を見るよりも明らかだ。
「そーかい、そーかい。楽しそうで何よりだ」
うふふ、と笑うそいつに適当に返事を返す。付き合いは短くはない。会話には苦労しないし、適当に返事をしても相手が傷つかないことくらい分かってる。空はこんなにも曇天だと言うのに彼女の心の中は晴れ晴れとしていそうだ。
さて、もうすでにお気づきだと思うが、俺の左隣をあるく謎の金髪美女の正体は例の後輩だ。特徴的なボブヘア―は金髪のウィッグで覆い、宝石の様な群青と紺碧の双眼は黒のカラコンをすることで隠し、最後に口元をマスクで覆えば完成である。
マスクの方は顔を隠すついでに声も籠らせることが出来て二重の意味があるらしい。非常にどう手も良い話だな、すまん。
では、何故こんな格好をコイツがしているのかと言うと、これは言うまでもなく変装の意味だ。長いことコイツと腐れ縁をやっているため忘れそうになるが、コイツは有名人だ。それもただの有名人ではない。超ド級の有名人だ。全国でアンケートを取ったとすればコイツの事を知らない人の方が少ないであろう国民的アイドルだ。この国の内閣総理大臣の名前は知らなくてもコイツの顔と名前は知っているという人間も多いだろう。比喩ではないそれほどまでに彼女の顔を名前は売れている。
アイドルの最高峰
――――シンデレラガール 高垣楓。
この肩書と彼女の名前の重さは伊達ではない。変装もせずに外に出ようものならば、一瞬で人だかりができ、混乱が生まれるのは想像に難くない。そして、一緒にいる俺に被害が及ぶのもまたしかりだ。
「えぇ、とっても楽しいです。まさか、先輩とこうして出かける事が出来る何て」
「出かけるも何も近所の商店街に買い物に行くだけじゃないか」
では、何故俺と彼女が一緒にこんな曇天の空の下を仲良く歩いているのかと言うと、夕飯の買い出しに行くと言った俺に彼女が「一緒に行きますよっ! 先輩っ!」と張り切ってついてだけの話だ。デートだとか、逢引きだとか考えた奴がいたら悪いがそれはないとだけ言っておこう。俺とコイツはただの付き合いの長い先輩と後輩以上の関係はない。
ついでに何故こんな寒空の下、夕飯の買い出しなんて行っているのかと言えば、先日我が家をいつも通り訪れていた後輩に少しばかり少しばかり痛いところを突かれたからだ。
いくら気のおける後輩とは言え、後輩に日頃の食生活で小言を言われると少しばかり恥ずかしい。男の一人暮らしなら大抵はカップラーメン生活になると思うのだが、俺だけだろうか。是非機会があれば他の一人暮らしの男性にも聞いてみたいところだ。
――先輩、ダメですよ。いくら一人暮らしでもカップラーメンやレトルトばかり食べては! 今日は私が多めに保存がきく料理を作っていきますので先輩はしばらくこれを温めて食べて下さいね! いくら、面倒くさがりな先輩でもこれくらいはして下さい!
数日前に突然やってきた後輩はそう言って食材を持てるだけ買い込み、冷蔵庫に料理一杯を詰め込んで帰っていった。アイドルの最高峰シンデレラガールの貴重な休日をそんなしょーもないことに使わせたことに思う所があったためこうして買い物へと精を出しているという訳だ。
「うふふふふふ、それでもいいんですよ。分かってないですね、先輩っ!」
何がそんなに楽しいのか見当もつかないし、考えることもしないのだが、彼女は足取りが軽く、半ばスキップするかのように足を進める。秋の空と女心、昔の人はそう言いました。俺には彼女の心情なんて殆ど分りはしない。分りはしないが、彼女が今、心の底から楽しげに笑っていることくらいは分かる。マスクの下は喜色満面だ。いくら顔を覆おうがそれくらいのことは分かる。なんせ、人生の五分の四以上の付き合いだ。お互いの喜怒哀楽や嘘程度なら直ぐに分かる。
先輩も楽しいですよね、彼女は俺の数歩先を歩きながら振り返りそう言った。
「まぁ、一人でいるよりかはいいか」
俺だって男だ。美人と買い出しに行けるのは嬉しい。こんな寒空の下、これくらいは役得があっても罰は当たらないだろう。
「先輩は本当に素直じゃありませんね! 女の子の扱いが分かってないです。これじゃあ行き遅れてしまいますよ」
足取りの軽い彼女に合わせて少しだけ足を踏み出すスピードを上げる。
「行き遅れるかぁ……」
四捨五入をすれば三十と言う歳になる俺にとっては何とも耳の痛い話だ。まぁ、孫の顔を見せるべき相手は既にいないのだが、大学の同期や高校の同期なんて言うのがポツポツと結婚しはじめてきている。子供がいる奴まで既に数人知っている。それに比べて俺はと言うと結婚どころか彼女すらいない、極めつけは女友達まで皆無と言う有様だった。別にどうしても結婚をしたいという願望はないのだがこのまま寂しく人生を過ごすのは、どうかなぁとは自分でも思う。
「大丈夫ですよ、行き遅れてたら私が貰って上げます」
「そーかい、そーかい、有り難い話だよ、全く。まぁ、耳の痛い話だが、お前の方はどうなんだよ。いい加減いい歳だろ二十五なんて」
「うーん、そうですね。今のところは色々と忙しいのでそう言ったことはあまり考えてませんね」
俺の問いかけに彼女は含みのある視線をこちらに寄越したあと、淡々と答えた。
「お前の方こそ行き遅れるんじゃねぇのか?」
「うふふふ、そーかもしれません」
その返答をソイツがしたように軽口をもって迎える。
「もしも、行き遅れたらまぁそん時は俺が貰ってやるよ」
まぁ、その可能性は100パーセントないだろうけど。モテない俺と違い彼女はモテる。まぁ、当たり前だ。だからこそ、彼女が行き遅れることなんてありえない。
見た目は元カリスマモデルであり、現役アイドルの時点でスタイル、顔ともに文句のつけようがないのは言うまでもないし、内面の方もこれまた文句のつけようがない位良い奴だ。俺には小生意気な態度で接する彼女だが、俺以外の人間に対しては凄く丁寧に接する、自分の才能を鼻にかけることはしないし、友達思いだ。俺とは違い友達も多いことからも彼女の性格の良さがうかがえるだろう。
見た目もよし、性格もよし、と来ているのに彼女はそれに加えて頭まで良いと来ている。未だに何で俺と同じ大学に通っていたのかが謎だが、高校時代の同級生曰く、間違いなく赤門のあるあの大学の医学部に入れるだけの実力があったとか、まぁ今になってしまえばその真相は闇の中だ。
ついでに言えば運動だって馬鹿の様に出来る。天は二物だけでなく、三物も四物も与えるらしい。俺は一つも与えられていないと言うのに全くこの世の中は理不尽で不公平である。
閑話休題。
天は二物を与えず、という言葉の否定を体現したような彼女を誰が受け入れないと言うのだろうか。彼女の告白を断る奴がもし居るとすれば見てみたい。それほどまでに高垣楓は完成された人間だ。
「あらあら、先輩が貰ってくださるのなら遅れてみるのもありですね」
後輩はそう言って笑った後、軽快な足の速度を更に上げるのだった。
目的の商店街は我が家のボロアパートから歩くこと約十数分の所に存在する。大学時代に東京へ越してきて以来、ずっと今のボロアパートで暮らしており、その頃よりたまに買い物へと訪れてきたため商店街の中は庭の様に熟知している。
――今日は、一段と人がいないことで……。
近くに大型ショッピングモールやスーパーがあるためこの商店街で買い物をする人は少ない。俺が越してきた数年前はまだそこそこの活気があったのだが今ではその頃の勢いすらなく、平日にもなるとこのように行き交う人もまばらになっている。
――まぁ、今日が一段と寒いせいもあるか……。
先ほどから吐く息は相変わらず真っ白だ。頭上も重い鉛色。何時雪が降っても可笑しくない。普段から人通りが少ないこの商店街が更に閑散しているように見えるのはその影響も多少なりともあるだろう。俺だって何も無ければお金を積まれたとしても外出は断る。
「先輩、まずはどこに行かれます?」
マスク越しに後輩が聞いてくる。あらかじめある程度ルートは考えてきているため、そのまま声に出す。
「まずは、八百屋からだな。その後に肉屋、最後にコロッケでも買って帰るか」
「分かりました。じゃあまずはあのオジさんの八百屋ですね!」
俺は勿論のことコイツもこの商店街を訪れた回数は数えきれない。勿論、多くの店を知っている。まぁ、最近はアイドルの仕事が忙しく行ったことは流石にないそうだが、数年行かなかっただけで彼女の記憶から消えることはないだろう。その証拠に俺の数歩先を歩いている。
「そうだな、そのルートで行こう」
と、ここまで言った時だった。ふと、思い出したことがあった。
「あっ」
「どうしました? 先輩」
俺の声に後輩が足を止める。
「いや、そう言えば米あったかなと思って」
普段から台所に立つときはおつまみをつくる気だけだったのですっかり米の存在を忘れていた。と言うか、前に米を買ったのはいつだっただろうか……。それすらも覚えていない。
「あぁ、この間先輩の台所の戸棚で五キロの未開封を見かけましたよ。なので大丈夫です」
俺の疑問に後輩はさっさと応える。
「おう、そうかありがとう。じゃあ米屋はいいか」
「そうですね」
再び歩きはじめる後輩の後を俺はゆっくりと追いかけるのだった。
――今更だけど、なんでコイツの方が俺よりも俺の家の台所事情詳しいんだろうなぁ。
少しは料理しよう、改めそう思った。
目的の八百屋までは直ぐについた。その間後輩とどうでもいいことを話ながら歩いたのだったが、すれ違う人は誰も俺の横を歩く彼女が高垣楓だとは気づいていなかった。
まぁ、それはそうか、俺が彼らだったら、あのシンデレラガール 高垣楓がこんな寂れた商店街に来るはずがないと思うはずだし、そもそもこんな変装をしていては彼女の友達ですら分からないだろう。
「おじちゃん、久しぶり」
店先で商品の品分けをしていた後ろ姿に声を掛ける。
「ん? おう、兄ちゃんじゃねぇか! 久しぶりだな、最近めっきりと来なくなったけど忙しかったのか?」
トレードマークの白いタオルを今日も今日とて頭に巻いた店主は俺の顔を見るなりそう言って豪快に笑った。
「まぁ、そんな感じですよ。今日は久々に何かまともな料理でも作ろうと思って来ました」
「そうかそうか、今日は新鮮な野菜ばかりだから全部おススメだぞ……」
店主はそこまで言った後、俺の横にいる後輩に目を向けて少しばかり言葉を途切れさせた。そして、暫くの後、
「なんだ、楓ちゃんじゃないか! 来てたのかい! なら、そう言ってくれよ!」
と、これまた豪快に笑いながらソイツの肩をポンポンと叩き笑う。
「…………」
この行動に呆気にとられたのか、ソイツはただ言葉もなく呆然と立ち尽くす。まぁ、俺だって少し驚いた。まさか一言も話してないのに店主が見破るとは思っていなかったからだ。
「久しぶりだね、楓ちゃん! 何だ兄ちゃん、楓ちゃんが来ているんだったら言ってくれよ! ささ、楓ちゃんここは寒くて風邪引くかもしれねぇから奥に入りな、ささ」
呆気に取られている俺たちをお構いなく店主は機嫌よく豪快そう続け、俺たち奥に入るように促す。
「て、店主さん、何で分かったんですか?」
漸く思考が戻って来たのか後輩が聞く。確かにそれは俺も疑問だった。今の彼女はテレビで見るようなボブカットでもオッドアイでもないし、顔の輪郭もマスクで分からなくなっている。外見で特徴的なところは殆どないと言ってもいいだろう。
「ん? そんなの簡単じゃねぇか」
彼女の最もな問いかけに対して、店主はさも当然にこう返した。
「昔のままだったからだよ、楓ちゃん。この兄ちゃんと買い物に来るとき、楓ちゃんはずっと兄ちゃんの左隣にいた。どんな時でも兄ちゃんの左隣、今の場所が楓ちゃんのポジションだったじゃないないか。そして、今日来た兄ちゃんの左隣に一人見慣れない女性がいるときた。思い出すのに少し時間がかかったけど、あの時の記憶がふっと甦ったんだよ。兄ちゃんの左隣、美人、高身長、そして目元の泣きぼくろ、これで楓ちゃんと分からない奴はこうの商店街にいないよ」
店主は何気なしにそう言うと更に「それに兄ちゃんと一緒に買い物にくる女性だなんて楓ちゃんだけだしね」と付け加えて笑った。
そして、ひとしきり笑った後、店主はそうだ、と何か重要なことを思い出したよう顔をすると、
「楓ちゃん、シンデレラガールおめでとう! ずっと応援していたよ」
彼女はその言葉に「はい」と嬉しそうに返事を返した。
「色々なもの貰っちゃいましたね」
夜の帳がすっかりと降りた帰り道、彼女は嬉しそうにそう言った。凛とした声で笑う彼女の左手にはビニール袋が一つ、商店街を回った結果色々な人から貰ったりしたものが入っていた。
「そうだな、お金を払わずにこんなに貰ってたら暫くあの商店街に通うしかないなぁ」
彼女に釣られ俺も笑いながら右手を少し掲げてみせる。俺の右手には大きめのビニール袋が三つばかり提げられていた。
あれから、数軒商店街の店舗を回ったのだが、回る店店で高垣楓だとばれ、色々と雑談をして多くの土産を戴いた。俺も後輩も何度も断ったのだが、「シンデレラガールになったお祝いだ」と言われると俺も彼女も何も言えなくなり、ただただお礼を言って物を戴くばかりの結果になってしまった。そして、帰るころにはこの有様だという訳だ。
勿論、シンデレラガールになったお祝いだということは貰ったもの全て彼女のものだ。しかし、彼女は「これだけあっても絶対に一人では食べきれませんし、先輩の家に置いておきますので一緒に食べましょう、先輩! あ、もちろん私がいない時もちゃんと料理して食べて下さいね」と言って半ば俺と彼女の共有財産のようになってしまった。
ちなみに彼女も何故荷物を持っているのかと言うと、それは昔彼女と買い物に行ったときに彼女が頑なに先輩だけに荷物を持たせるためにはいきませんと駄々をこねた結果だ。いくら俺がモテない甲斐性なしだとしても、女性に荷物を持たせることはしたくないし、男の俺の方が力が強いのは当たり前なのだが、彼女は自分も持つと言って聞かなかったため、それ以来ずっと彼女も何か持つというスタイルが続いてきただけの話に過ぎない。
「そうですね、今度また行きましょう。今度はちゃんと買い物に」
「そうだな」
そんな時だった。
ふと、視界を白が上から下に横切った。
――ん?
そう頭上を見上げて見た時だ。
「あ、雪だ」
後輩の呟きが聞こえた。
――ついに降り出したか。
何時か振り出すとは思っていたがここで遂に雪が降りだしてしまったようだ。後二十分も待ってくれれば家に着くと言うのにお天道様は待ってはくれなかったらしい。
「雪か、急ぐぞ」
別に雪で喜ぶような子供でもない。どちらかと言えば寒いのは嫌いなので早く暖かい我が家に帰ろうと後輩を促す。
「あ、はい」
その言葉に彼女は右手で左手を摩りながら応えた。
――ん? あぁ、そう言えばコイツ手袋していなかったんだな。
ずっと、コートに手を突っ込んでいたため気付かなかったが、彼女は手袋をしていなかった。
「おい、ちょっと待ってろ」
「?」
ハテナマークを浮かべているソイツに脱いだ左手の手袋を投げ渡す。
「それしとけ、寒いだろ」
反射的に飛んできた手袋を受け止めたソイツは、暫く黙った後、
「やっぱり、先輩は優しいですね」
そう笑って手袋を左手に嵌めた。
「俺は右利きで、お前は左利き。お互いこうすれば温かいだろ」
「そうですね、とっても、とーっても温かいです」
「そして、残りの手はコートのポケットにでも入れれば――」
――完璧だと続くはずだった言葉は出なかった。
何を思ったのか小生意気な後輩は俺の方へと一歩足を近づけると、ポケットの中に突っ込もうとしていた俺の左手を自らの右手で握った。何も言う間もないほどの瞬間的な行動だった。
「でも、こうすればもーっと温かいですね。先輩っ!」
今日一番弾んだ声で彼女は言う。握られた左手は彼女の冷たい右手によってどんどん熱が奪われていくような感覚がした。
――どういうつもりだ。
そう非難めいた視線を飛ばして、彼女を見れば、
「――嫌でしたか?」
心配そうな目でこう返してきた。
「…………いや、何でもない。よし、帰ろう」
――たく、何そんな顔しているんだよ。
俺の言葉に、
「はいっ!!」
彼女はそう元気に返事を返すのだった。