俺と後輩と酒と文学少女と 作:JOS
晩夏と呼ぶには秋の香りが強くなってきた九月の中旬、いつも通りのボロアパートにて台所に立つ。聞こえるのはまな板を叩く包丁の音と、コトコトと何かを煮込む鍋の音、そして曇りガラスの向こうから聞こえる秋の虫の声。華の大都会の東京とはいえ、中心部から外れた場所だと虫も鳴くし、カエルも鳴く。
クーラーは数日前からその役目を終え、今は少し早い冬眠をしている。今年も天寿を全うせずに働いてくれた彼には頭が上がらない。猛暑日を連発させた今年の夏はきっと彼が天寿を全うしたら生き抜けなかっただろう。
--それにしても、本当にいいものが手に入ったなぁ。
まな板の上の鯛を捌きながら、心の中で呟く。半身におろしても、まな板の面積の八割ほどを占めるそれは、いつもの市場にて買った一匹だった。
知り合いの店主と話しながら思わず勢いで買ってしまったが、買ってよかったと確信する。身の締まりに、脂の乗り、それに大きさ、どれをとっても素人目に見ても逸材と分かる。
ーーこりゃおっちゃんに頭が上がらないなぁ。
こんな逸材を割引に割引を重ねて売ってくれた魚屋の店主には頭が上がらない。しばらくは魚は全てあの店で買おう。
--まぁ俺一人だったら絶対にここまで値引きしてくれなかったと思うけど。
ちらりと横目に見れば俺が捌いた半身の片割れを煮付けに調理をしている一人の人物。もう言うまでもないとは思うが、俺の後輩にして、腐れ縁の高垣楓がいつもの飄々した笑顔でお玉で鍋のアクを取っていた。
いつもの市場に夕飯の材料を買い出しに行こうと思った矢先、玄関を開けると、遊びに来たコイツがいた。そしてそのまま買い出しに一緒に出かけ、今に至るというわけだった。
いつも基本的にコイツは料理をしているため、たまには俺が作ろうかと提案したところ、「たまには一緒に作りましょう、先輩」と嬉しそうにそう言われて今に至るというわけだ。
彼女と目があった。すると彼女は目を猫のように細めながら、
「先輩、いい鯛が手に入りましたね」
「あぁ、しかもあんな値段でな」
鯛を捌く手を止めずにそう答える。
「そうですね、しばらくはあの店で買い物ですね、先輩。もしも行くなら私も一緒に行きますので」
コトコトと音を鳴らす鍋からアクを掬いながら彼女はいう。どうやら彼女も俺と同じことを考えていたようだ。
「おう、その時は頼む。多分おっちゃんもそれが狙いだろうしな」
「そーですかね?」
「そうに決まってる。俺が行っても多分ここまで値引きしてもらえなかっただろうし。それにあのおっちゃん、お前のファンだぞ」
店の一番奥に大事そうに飾ってる色紙はコイツが昔書いたサイン。モデル時代とアイドル時代の両方が並んで飾ってある。間違いなくあのおっちゃんはコイツのファンだ。だからこそ、ここまで値引きしてくれたに違いない。
「そうですかね? でも、私がモデルを始める前からあそこの店主さんは値引きしてくれましたよ?」
コロリと首を傾げるその顔には疑問符が浮かんでいた。どうやら本当に分かっていないようだ。
「そりゃ男なら美人にはサービスしたくなるってやつだよ」
半身に捌いた身を更に刺身にするために包丁を入れる。余りにも上物の鯛だっため一匹を半身に分け、刺身と煮付けにすることした。
「へぇー、美人ですかぁ」
付け上がるのが目に見えているため死んでも言いたくはないが、彼女--高垣楓は美人である。しかも、そんじゃそこらの美人ではない。日本でも一握りの存在だ。そのことは彼女の経歴から見ても明らかだ。大学ではトップモデル、アイドルに転向してからもすぐにトップアイドルになった。そして、ついにはシンデレラガールの称号まで手中に収めたのだ。
今の総理大臣の顔は知らなくても、『高垣楓』の顔は知っている。そんな人が多いのではないか?
そんな噂が立ち、それも半ば本当かもしれないと思わせるような人気が彼女にはあった。街を歩けばどこから彼女の持ち曲が聞こえてきて、コンビニに入れば彼女が表紙を飾る雑誌が積まれている。テレビをつければ見ない日はなく、一日のどこかで必ず彼女の顔と名前は聞く。そんな存在がシンデレラガール 『高垣楓』という存在だ。
整った顔、白鷺のような白い肌、艶のある髪どこをとっても文句なしの美女だ。惜しむべきは胸がなーーおっと、この話をするといつぞや如く拗ねられるのでここまでにしておこう。
まぁ、まとめると長年付き合いがある俺の贔屓目抜きにしても彼女は非常に整った容姿をしているということだ。
「なんだよ」
ニタニタと笑っているであろう後輩に声をかける。
「いえ、先輩が私のことを美人と思ってくださっているなんて嬉しいなー、と思いまして」
「俺が思っているんじゃない。一般論の話だ。寝ぼけているのか? 顔でも洗ってこいよ」
「残念でしたが、私はばっちりと起きてますよ先輩。今日もしっかりと仕事をしてきましたし」
「それじゃあ、きっと疲れてるんだろうな。今日は早めに寝るといいぞ」
「あら、先輩それは泊まっていってもいいといいことですか?」
そう言って笑うソイツに思わずため息を吐きそうになる。
「ダメだと言ったら今日は帰るのか?」
「残念ですが、今からご飯を作って一杯飲むとなると終電に間に合いませね」
「じゃあ好きにしていけ」
「さすが、先輩。優しいです」
--どうせ、初めから泊まる気しかなかったくせに。まぁ、今更過ぎるか。
彼女がこの家に泊まったのは一度や二度ではない。学生時代の時も含めると相当な回数になる。数えるのも億劫だ。なので今更気にしないことにした。
それに今ではこのボロアパート、俺のものよりも彼女のものが多くなったように感じる。服なんて勝手にクローゼットと一角を占領しておいているし、その服の量は間違いなく俺の倍はある。それに加えて彼女のマイ布団とマイ枕まで完備されている。
きっとあのバカは俺の家を程のいい物置か何かと勘違いしているに違いない。まぁもとより本と酒以外に置くものがないため、彼女の私物があるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「そういえば、一つ気になっていたんだが」
ふと、昔から気になっていたことを今更だが彼女に聞くことにした。
「何ですか? 先輩。指輪のサイズですか? それなら」
「本格的に寝ているのか? 立ちながら寝るとは器用なやつだな」
すみません、すみませんと全く心の篭っていない謝罪を口にするソイツに砂糖を渡す。
コイツの高級マンションならともかく、我が家は年期の入ったボロアパートだ。もちろん、台所の広さもそれに見合ったもので、二人も並んで立つと一杯一杯だ。何も知らない者同士だとお互いがお互いの動きを邪魔して一人で使った方が早いという本末転倒になるのだが、伊達に無駄に長い付き合いをしていない。お互いが何をしたいのかなんて口に出さずとも分かるため、俺とコイツの調理は非常にスムーズに進む。
「お砂糖ありがとうございます。はい、刺身用のお皿です」
砂糖の代わりに皿が返ってきた。切り分けた鯛の身を皿に盛りながら、
「お前っていっつも料理しているけど、大丈夫なのか?」
そう聞いてみる。
「えーっと、どういうことですかね?」
「いや、お前ってモデルやったりアイドルやったりしているけど、その手荒れとか、さ」
モデルやアイドルは言うまでもなく体が資本だ。人前に出て見られることを仕事にしている以上、指先一つまで気を使うのが普通だろう。
しかし、彼女はそんなことを気にするまでもなく台所に立つ、冬だろうと夏だろうと。別にやらなくてもいいと何度も言っているのだが、「好きでやっていますんで」と言われると止めろとも言いにくい。
「なるほど、そんなことですか」
「いや、アイドルって身体が資本だからさ、赤切れとか手荒れとかって不味いんじゃないかと思ってさ」
「確かにアイドルは体が資本です。一応対策はしていますが、手が荒れてしまうこともあります」
--じゃあなんで、
そう口に出そうとするよりも先に彼女が言葉を続けた。はっきりとした口調で笑顔を見せながら、
「でも、いいんです。私にはそっちの方が価値があるんですよ、先輩。確かにモデルのお仕事もアイドルのお仕事も大切ですが、これはそれ以上に大切なことなんです。ただ、それだけです」
まるで何気無い世間話をするような口調でそう語る彼女の顔には笑顔。俺にはその顔があまりにも眩しく、直視することがどうしようもなく出来なかった。
「--そうか、ならこれからも頼む」
結局そんなことしか言えなかった俺に、
「はい」
彼女はそう嬉しそうに目を細めるのだった。
刺身を皿に盛り終わったタイミングで彼女が味見皿を差し出してきた。
どう意味かわからず、怪訝そうな表情をすれば、煮付けの味見をお願いしますと返事が返ってきた。小皿を受け取り一口飲み、彼女に返す。
--あぁ、美味い。
少しだけ味の濃い味付けは俺の好きな味付けだった。いつも通り俺の好みを知っている彼女が少しだけ濃く作ったのだろう。
俺から小皿を受け取った彼女も再び、小皿に出汁を掬い口に運んだ。そして、「うん、バッチリ」と呟く。
「どうでしたか、先輩?」
「あぁ、美味しかったよ。俺の好きな味付けだ」
俺の答えに満足したのか、それは良かったですと頷くソイツに聞いてみる。
「でもお前も味見をするんだったら俺はしなくても良くなかったか? 俺の好みの味知っているだろ?」
「えぇ、先輩の好みはもちろん存じ上げてますよ」
「ならーーーー」
「でも、こういうことは声に出すことが大切なんですよ。たとえ相手が何と言うか分かっていたとしても」
「? そういうものか」
「そういうものです」
疑問視を浮かべる俺を見ながら彼女はいつも通りの涼しげな笑みを浮かべるのだった。
--本当によく笑うやつだなぁ。何が楽しいのやら。
テレビや雑誌で見る彼女は笑顔が似合うアイドルというより、どこかクールビューティー的なクールさをアピールポイントにしている。雑誌や、テレビでもそのイメージを守る為か、あまり笑顔を見せないが、俺の前では違う。ほとんど常時何が可笑しいのか楽しいのか分からないがニコニコとしている。だからこそ、俺にとってはテレビの彼女は違和感しかないが、一般のファンからすれば今の彼女が異常なのかもしれない。
どちらにしろ、俺の彼女イメージはいつも笑っている心配事のなさそうなヤツ、という印象だ。
「ん? 先輩、どうかしました?」
「いや、別に何でもないよ、ただ……」
「ただ……何ですか?」
「どうして何時もそんなに楽しそうに笑っていられるのか不思議でな」
「Who Cares? I’m happy just standing here next to you」
「--は?」
全く想像していなかった英語で返事が返ってきて驚いた。そして、ここまで付き合ってくれたヤツなら既に知っていると思うが俺は英語がさっぱりだ。読むだけなら多少は出来るかも知れないが、聞くのと喋るのは全く分からない。それに加えて彼女も話す英語はネーティブもかくやというほどの流暢なものだ。さっきの言葉の一単語も分からなかった。
「そういうことです」
そんな俺を置いて彼女はただそういうと盛り付けた煮魚の皿を持って居間へと入っていってしまった。どうやらこれ以上口を開く気はないらしい。
彼女が何といったのか結局のところ俺には分からないが、ただ去り際の彼女の頸がほんのりと朱に染まっていたことを考えると……。
--まぁ、いいか。
別に彼女が何と思っていようが俺にはあまり関係ない。この場合大切なことはたった一つだけだ。
--よく分からんが、あいつは楽しいわけね。
彼女が笑顔で笑っている。
俺だって男だ。美人が笑顔で横にいるだけで嬉しかったりする。