俺と後輩と酒と文学少女と 作:JOS
そして後編はいつになるのやら……
吐いた息は白かった。駅方の帰宅途中、あと曲がり角を三つほど曲がれば我が家というところ少しだけ立ち止まり、頭上へ上る白い息を追いかけるように空を見上げる。午前中まで降っていた雨の影響か、それとも日が落ちたせいなのか、それは分からないが、今夜は身を貫くような芯から冷える夜だ。
こんな凍てつくような寒い夜は、すぐに家に帰り日本酒の熱燗とスルメをお供に炬燵に籠城を決め込むのがいつものパターンなのだが、今日は少しだけ家に帰る足が重い。
――何も見えやしないな……。
息が消え去った空にあるのはただ真っ黒なキャンパス。星の一つだって見つけることが出来そうにない。物は試しと、ぐっと目を細めて見ても星の瞬きを見つけることは叶わなかった。どうやら雨が止んだとはいえ頭上には重い曇天の空があるらしい。
星を見つける努力をそうそうに諦めて、足を再び動かす。
無論言うまでもないと思うが、俺が星が好きだとかいうロマンティストな訳ではない。そもそも星が見つかろうが、見つかるまいがどちらでもよかった。ただ足を止めたかっただけだ……いうなれば遊園地で帰りたくないと駄々をこねる子供だ。
――遊園地で駄々をこねる子供ねぇ……言い得て妙だな。
自分自身の言葉に納得し、自然と乾いた笑いが口からこぼれた。
――どこまで行っても俺は弱いな。
いつだって俺が強かった時なんてないのだが、今の状況は本当にひどいと自分自身で自らの行動を呆れる。ため息の一つでも吐きたかった。しかし、ため息を吐く余裕すらも今の俺にはなかった。
我が家まであと曲がり角を一つ曲がればつくといった場所、コンビニの前で立ち止まる。ガラス窓にはさえない顔をした青年が映る。もちろん俺の顔だ。立ち止まったまま視界だけを右へとずらせば、見飽きたポスターが数枚ガラスの向こうに貼られていた。
ポスターには多くのアイドルたちが映っていて、その中心にはティアラを頭に乗せ新緑色のドレスを着た見慣れた顔のあいつが大きく映っていた。そして、その下には大きな目立つ文字で、『今年も聖夜にシンデレラは決まる。一体栄冠は誰の手に!?』と書かれてあった。ポスターに写るアイツの顔をじっと見つめる。
そしてそのまま何も考えずにただ立ち尽くす。
――分かっている。もちろん、分かっているよ。
ずっと、前から分かっていた。
水が高いところから低いところへと流れるように、雨が必ず止むように、時は平等に流れる。時計の針が逆回転することなんて、ありえない。もしも、あったとすればそれは故障だ。時間は絶対に残酷に、それでいて美しく全人類平等に流れる。潮の満ち引きが止まらないように時も絶対に止まらない。
遊園地もいつかは閉まる。ネバーランドもいつかは出ていかなくてはいかない。この世に変わらないものなんて何一つもない。
ユートピアも黄金郷も、リンゴのなる島も全て過去に滅び去った。理想郷は滅びるからこそ理想郷
足りえる。
コートの中で握りこぶしをぐっと一度握る。そして、今度こそ家に帰るために足を進めるのだった。
――高垣 楓はまるで物語の主人公のような人間だ。
それは俺が普段から往々にして思っていることだった。勉強もスポーツも完璧にこなし、誰にだって優しく、友達も多い。それでいてトップモデルになれるだけの美貌を持ち、更にはアイドルの頂点シンデレラガールズにも去年輝いている。事実は小説よりも奇なりとはよく言う言い回しだが、彼女の場合は冗談を抜きにしてそこらの出来の悪い小説の主人公みたいな人生を歩んでいる。もしも、この世界が一冊の小説だとすれば彼女を主人公と言わずして誰が主人公だというのだろうか。
そんな彼女との付き合いも短くない。何せ、お互い下の毛も生えそろわないうちからの付き合いであり、小、中、高、大そして今までずっと長い間の腐れ縁だ。いつの日か彼女は『世界中で誰よりも先輩の事を知ってます!』 そう言って笑ってみせた。彼女が世界一俺のことを分かっているのと同じように俺も世界で一番彼女のことを分かっている。それこそ、彼女の両親よりも彼女のことを分かっている自信がある。
だからこそ、彼女がこれからどうするのか痛いぐらいに分かる。彼女は往々にして間違えない。この歪んだ世界で、潔白であろうとする。間違え方しか選べない世界で、第三の選択肢を作り出す。それが彼女だ。
だからこそ、彼女は今日俺の家にいるに違いない。
最後の曲がり角を曲がる。俺の家までは歩いて三分といったところ。視界の右端に小さなアパートが見えてきた。そこの二階、角部屋の俺の部屋は消したはずの電気がついていた。
歩くスピードを緩めずに右ポケットから携帯を取り出し時刻を確認する。買った時から変えていないデフォルトのままの画面には12月24日という文字と就業時間から三時間と少したった時刻が映っていた。
――時よ止まれ、汝は美しい。
かの文豪ゲーテは作中でこう書いた。この言葉をファウストが発した時、彼は破滅の音を希望の音と勘違いしていた。俺がかの文豪のことを理解できているとは少しも思わない。しかし、今俺はファウストがかの明言を発した時の気持ちを理解できると思っている。
足を止めることなく、
「――時よ止まれ、汝は美しい」
そう呟いていく。もちろん、時は止まることなく、携帯の画面上では数字が変化した。
12月24日、クリスマスイブ。その半年以上も前の6月14日。25歳の誕生日にアイドル『高垣 楓』は今回のシンデレラガールズ総選挙を辞退すると公式に発表した。
最後に頭上を見上げてみたがやはり星は一つも見つけることが出来なかった。
「よかったのか?」
いつもの定位置、俺の向かい側の炬燵に座る彼女にそう投げかける。
「なんの話ですか?」
俺の問いかけがいまいちピンと来ていないのか、それともごまかすためなのか、彼女は湯飲みから口を話すと首を傾げた。いつものようにラフな格好ではなく、仕事帰りの服装のままの彼女はどこか新鮮で、雰囲気だけでもいつもと違うことが分かる。
「シンデレラガールズのことだよ。なんでも二期確実だったとかいう話じゃねぇか。二期連続となると日高舞以来の快挙だっていうのに……辞退だなんて」
そこまでしゃべり終え、目の前に置かれた湯飲みを啜る。中には彼女が入れてくれた温かい緑茶。
少し苦みが強いそれは、俺の好きな茶葉だった。さすがに今日この日に酒を飲む気は起きない。
「別に構いませんよ。昨年シンデレラガールズに選んでいただけましたし、それだけで十分です」
彼女はそこまで言うとお茶を一口だけ飲み、間を作った。
「それに、明日はそんなことよりも大事で大切なことがあります」
そう言って彼女は湯飲みをテーブルに置き、まっすぐに俺を見る。綺麗で濁りのない翡翠と紺碧色のオッドアイが俺を写す。
――先輩、もちろん分かってますよね。私がいいたいこと。
視線は俺にそう訴える。
――あぁ、もちろん。
俺も何も言わずに返事を返す。
しばらくの間、沈黙が支配した。俺も彼女ももう語るべき言葉は一つだけ、そしてそれを切り出すタイミングも決まっていた。この湯飲みの中身が空になったときそれ以外に切り出すタイミングはない。
つまり一杯の緑茶を飲み終えるまで、それが俺と彼女に残された時間であり、俺の理想郷が崩さるまでの時間だった。
“動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁には、拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ。この故に動と名のつくものは必ず卑しい。”
今は昔、夏目漱石は作中でこう書いている。動いてしまえば結果が出る、結果が出ればもとに戻ることが出来ない。彼女がしたいことは単純にして明快。動かしたいのだ。
――俺と彼女の間で止まってしまっていた時計を再び動かす。
彼女は今日そのために俺の前にやってきた。
時は止まらない。時間して七分と一九秒。俺と彼女の湯飲みの中身は照らし合わせたかのように同時になくなった。
そして、お互いどちらともなく口を開く、
「なぁ、――」
「先輩、――」
『――終わらせ(ようか、全て)(ましょう、全てを)』
俺の六年あまりの理想郷はこうしてあっけなく崩れ去った。
「それでは、今日はこれにて失礼しますね、先輩」
湯飲みを洗った後、その足で彼女はコートを着ながらそういった。お互い、あれから一言も話していない。明日の集合時間も場所も何もかもを俺も彼女も話していなかった。
しかしお互いに分かっている。言葉にせずとも分かる。時計の針を動かしたいのなら、時計を止めた時と場所に行けばいい。数年前に俺が時計を壊した場所と時間、全てを終わらせるのにあそこ以外の場所はない。
「送っていこうか?」
「いえ、結構です。タクシーを呼んでありますので。それでは先輩、また明日」
「あぁ、気をつけて帰れよ」
彼女が俺の申し出を断るのはこれが二回目になる。
一人きりの部屋はやけに静かで時計の針の音が大きく聞こえた。