俺と後輩と酒と文学少女と 作:JOS
人生の転機とは往々にして思いもしない時に不意打ちの様に急にやってくる。多くの人がそうである、あるいはそうであった様に私の場合もまるで予想もしないようなある平日に急にやってきた。私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あの日のこと、そしてあの日からの一連の出来事を。
――冬のある日、曇天の曇り空の下、私の人生は漸く始まったのだ。
「それにしても今日はグンと冷えますね」
さきほど購買で購入したカップのホットコーヒーの蓋を開けながら私は向かいに座る彼女に言った。
場所は大学の食堂の一角、いつもの特等席。そこは観葉植物の陰になっているため見落とし易いということと四限の講義中ということもあり、周囲に人影はなかった。毎週この日のこの時間にこの場所で軽くお茶をするのが私と彼女との習慣だった。
「そうね、大分気温も落ちてきたわね。本格的に衣替えしないと」
彼女はスティックシュガーを一本とミルクを二つ自らのカップに注ぎ、マドラーでかき混ぜながら窓に目をやった。
私もつられて窓を見る。
曇り一つない食堂の大きな窓から外を見上げれば重い曇天が空を覆っていた。先月までは秋の香りが強く過ごしやすい気温とどこまでも澄んだ青空が見えたのだが、今週に入ってからは曇りや雨の日ばかり、すっかり冬がはじまり気温もグンと下がった。何でも来週には強い寒波がきて雪が降るかもしれないとテレビで言っていたことを思い出す。
「楓、そういえば貴方が表紙を飾っている雑誌をこの間生協で見たわ。相変わらず凄い人気ね。すぐに売り切れてたわよ」
貴方と小学校低学年の時からずっと同じクラスの腐れ縁だって言ったら皆どういう表情をするかしら?
彼女は一口コーヒーを飲むとそう続けて笑った。
そう私と彼女との関係は小学校から続く友人関係。先輩である彼を除くと彼女との付き合いが一番長い。長い付き合いということもあり彼とも面識がある。数回なら私と彼女と彼とで遊んだことだってある。
少し直球でものをいうことが多く初対面の人には誤解されがちな彼女だが、努力家で友達思いな女性であることは長い付き合いの中で良くわかっている。
彼女は常に真っすぐだった。
「うふふふ、私も少しは人気も出てきたようで嬉しいです」
そう言ってコーヒーを一口。彼に倣ってブラックを飲み始めた当初は苦すぎて水と交互に飲まないと飲めなかったが、ずっと飲み続けたお陰か最近になって漸くこの苦さの良さにも慣れてきた。冬の昼下がりはホットコーヒーに限る。
「何が少しよ。高田馬場のカリスマモデルって呼ばれているのよ、楓のこと。間違いなくうちの大学で今、一番有名なのは貴方よ」
あきれ半分で彼女は笑う。それにつられて私も口だけで笑顔を作る。
別に人気になるためにモデルになった訳ではない。ただある日彼と一緒に街中を歩いているときにスカウトされ、話の流れでモデルをやることになっただけだ。別に自分の容姿が悪いとは思ったことはなかったが、特段いいとも思っていなかった。私よりも美人な人もスタイルがいい人も身長が高い人もいっぱいいる。そんな人たちの中でやっていけるのか心配だったが、星の巡りあわせがよかったのかそれとも何か別の要因があったのか、それは分からないが結果として多くの人に評価され多くのお仕事をもらえるようになっていた。私にとってすればモデル仕事というのは少し忙しいイト同じ感覚だった。
勿論、評価されることは嬉しいが、別に人気が出なくても構わない。いずれモデルを辞めて一般企業で働くのが私の人生プランだった。
「カリスマだなんて言いすぎですよ。私よりも素敵な女性はいっぱいいます」
その言葉は本心だった。
「アンタねぇ……。まぁいいわ。それよりもさっきの中間試験の手ごたえどうだった?」
先ほどの中間試験とは、私と彼女が同じくとっている三限の講義の試験だ。
「うーん、そこまで酷い出来ではないと思いますよ……」
「楓がそういうってことはまたクラストップね……。モデル業で忙しいのに本当に良くやるわよ……。そりゃ、学長が名指しでほめるわけだ」
「去年がたまたまそうだっただけで、今年もそうかはわかりませんよ。貴女も頑張っているようですし、私ももっと頑張らないと」
学問と仕事の両立は確かに大変だが、やってみれば案外できるものだった。幼い時から何かを両立させることが得意だったことも幸いしてかモデル業が多忙になってからも生活ペースも学力も落とさずに済んでいた。
私のその言葉を受け、目の間に座る彼女はマドラーをかき混ぜるその手を止めた。くるくると茶色の渦が湯気を立てながらコップの中に浮かんでいたのがやけに目についた。
「…………? どうかしました?」
「…………ねぇ、楓」
そう切り出したあと、彼女は数秒間を空けた。その間に逡巡するかのように視界を窓の外と私の交互に合わせ、そして目を閉じた。刹那、開いた瞳には確かに強い決意のようなものが浮かんでいた。
「ねぇ、楓一つ聞きたいことがあるのだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「来年から入るゼミのことだけど……やっぱり芦屋ゼミに入るのかしら?」
彼女が言う芦屋ゼミとは私と彼女が来年から所属するゼミの名前だ。もちろん彼も今年三年として一足早く入っているゼミのことだ。
「えぇ、そうですね」
「ねぇ、楓、芦屋ゼミに入るのやめてくれない」
――え?
微塵も想像していなかったことを言われ、一瞬私の脳内が真っ白になった。
「そ、それはどういう意味でしょうか?」
どうにか動揺を落ち着かせて言葉を紡ぐ。
「どうもこうもその儘の意味よ。芦屋ゼミを諦めて別のゼミに入ってくれない、と言っているの。貴方の人気とその学力なら今からでもどんなゼミでも入れるわ。だから、お願い芦屋ゼミは諦めて」
彼女は確かに口が悪い。変化球を好む人が大半を占めるこの世の中で常に真っすぐに勝負する。そして、そんな言葉の中には彼女なりの意味があることを私は知っている。だから、私は彼女の真意を聞くことにした。
「それは一体どういう積りですか?」
彼女は眼を逸らさず真っすぐに私の目を見ながら口を開く。
「今から私が言う言葉は楓にとっては酷い言葉かもしれない。ひどく傷つくかもしれない。でも、私は言わないといけないと思った。本当ならずっと前から言わないといけなかったことかもしれない。うんうん、本当なら高校の時に伝えるべきだった。でも私は伝えることが出来なかった。だから、いま伝える。今ならまだ間に合うと思うから伝える」
「私と貴女の仲です。思い切って何でも言ってください」
私も目を逸らさず彼女と目を合わせる。
「ねぇ、楓今更分かり切ったことを聞くけど、貴方が芦屋ゼミを選んだ理由は何?」
「それは……」
返答に少し困った。
「彼がいたからでしょ?」
ずばりと言われた。
「でなければ芦屋ゼミなんていうパッとしないゼミを貴方が選ぶわけないもの」
「…………」
「じゃあ次に聞くけど、貴方がこの大学を選んだ理由は?」
「そ、それはここ以外の大学に全部落ちたからで……」
「それは私も知っているわ……。でも違うわよね」
「…………」
「確かに貴方は大学に落ちた。でも、ただ落ちたんじゃないわよね。“わざと”落ちたわよね」
「…………」
何も返せない私に彼女はさらに言葉を続ける。その口調は段々と熱を帯びているように感じた。
「沈黙は肯定と捉えるわ……。まぁこれはウチの高校の人間ならだれでもわかることだし。毎年数人だけど現役東大入学生を出すウチの高校創立以来の天才と謳われた貴方が落ちるなんてそういうことしか考えられないし……でも、まぁ私はそれでいいと思うわ」
「え?」
責める言葉が飛んでくると思ってばかりいたので少し驚いた。
「別にいいと思うわ。母校の進学実績とか興味ないし、楓の人生だもの楓の好きにすればいい。ゼミだって楓の好きにすればいいと思っていたわ」
「じゃあ、なんであんな事を――」
「――彼が、彼がいるからよ!」
私の言葉はもっと強い彼女の言葉によってかき消された。
彼女は数回深く呼吸し、気持ちを落ち着かせる動作をした後、ゆっくりとした口調でつづけた。窓の外はまだ曇天の鈍色の空が覆っていた。
「彼がいなければ……あるいは彼の存在を知らなければ私はゼミを諦めてなんて言っていない。少し疑問を抱くかもしれないけど楓の好きにさせていたわ。でも、私は彼を知っている。彼のことを知ってしまっている」
「…………」
「楓、断言するわ。貴方このままだと彼を不幸にするわ。いえ、違うわね、なんていっても彼は既にずっとずっと不幸だから……。なら、こういうほうが正解ね」
そして、彼女は言葉を紡ぐ。はっきりと、強い意志の籠った口調で、
――――――高垣 楓といる限り彼が幸福になることはない。
そのセリフに息が止まった。比喩ではなく、本当にこの時の私は呼吸をしていなかったと思う。今まで生きてきた中で一番の衝撃だった。後ろからハンマーで殴られたような、そんな衝撃が私を襲った。
「ねぇ、楓、貴方はもっと自分自身ことについて知るべきよ。容姿についても、学力についても、才能についても……そして、気持ちについても。貴方には自分がない、だからこそ他人を、彼を傷つける」
「ねぇ、楓、物の価値って一番と二番では大きく変わると思わない?」
「それは一体どういうことでしょうか?」
「例えば、日本で一番標高が高い山は?」
「富士山です」
「じゃあ二番目は?」
「北岳です」
「さすが楓よく知ってるわ。でも一般的には知らない人……いや興味もない人が多いの。山だけの話ではないわ。日本で一番大きな湖はみんな知ってても二番目に大きな湖を知っている人は少ない。一番っていうのはそれだけで特別なのよ」
「ねぇ、楓、中学校一年生時に成績が学年で一番良かった生徒って誰か知ってる?」
「それは……私です」
嫌味になるかもしれないが、昔から勉強は出来たほうだった。彼と一緒に本を読む機会が多かったからかも知れないが、中学高校両方で私の成績がトップ以外だったことはない。
「じゃあ、学年二位は誰でしょうか?」
「それは……分かりません」
「まぁ、普通はそうだよね。知らないのが当然だよね。では、正解を発表します。総合二位は私だったのよ」
想定していた言葉だった。でも、その予想を私は口に出せなかった。
「じゃあ、二年生の時、学年一位は?」
「私です」
「じゃあ二位は?」
「…………貴女ですか?」
「ご名答その通り。じゃあ三年生の時は?」
「一位が私で……二位は貴女ですか?」
「大正解。そう、私は中学時代こう見えてずっと次席だったんだ。じゃあ、楓さらに聞くけど。中学時代、50m走で一番早かったのは誰でしょうか……?」
「……それは」
「まぁ、ここまでくるともう言わなくてもいいと思うけど、一番は当然貴方、そして二番目は陸上部のエースだった私。タイムにして0.1秒。十分の一秒が当時の私にはどれほどの大きな意味をもったか……ねぇ、少し話を聞いてもらえない? とある女の子の話」
「その女の子はどこにでもいるような平凡な女の子だった。少しだけ特徴をあげるとすれば彼女の家は親が教育熱心な方で小学校の低学年の時から塾に通って勉強をしていたくらいね。
少女は順調に成長し、中学生になった。中学の最初の試験、少女は平均88点をとった。小学校と違い中学校の試験は難易度が全く違う。高い点数をとれたことに喜んだ。実際に教師には褒めてもらえた。家に帰れば両親に褒めてもらえると思った。
しかし、実際は違った。点数を見た両親はただ『そうか』としか言わなかった。それどころか学年一をとった子が塾も通信教育もやっていないと知ると、『楓ちゃんは塾にも行ってないのに貴方よりも点数が高いそうじゃない。貴方ももっと頑張らないと』そう、少女に言うのだった。
少女は両親の言葉をうけて頑張った。走ることが好きだった彼女は陸上部に所属していた。少女は毎日部活終わりに深夜まで勉強をした。部活のない日は塾に通った。そんな暮らしを続けた。
でも、結果はだめだった。どれだけ頑張ってもどれほど努力しても通知表の学年二位の文字に変化はなかった。少女と学年一位の女の子は仲が良かった。学校ではよく話すほうだった。少女と彼女はライバルであるのと同時に親友だった。
親友だからこそ少女は頑張れた。彼女に勝とうと努力できた。
しかし、少女はある日気づく。それはある土曜日の事だった。少女が塾から帰る帰り道、もう夜のとばりも降りかけ辺りは薄暗くなっている時間帯。ショッピングモールの扉から見知った顔が出てきた。それは、少女のライバルである彼女と、彼女と仲のいい一つ年上の男の子だった。
親友である少女にも見せたことのない笑顔で男の子に話しかけるその光景を見たとき少女の心にヒビが入った。
『私はこんなにも頑張っているのに、彼女は毎日楽しそうに遊んでいる。そして、遊びながらでも私よりも成績がいい。――――――ねぇなんで?』
そのヒビは初めは小さかったが、一度ヒビの入ったガラスが割れるしかない運命を辿るように、少女の心を徐々にしかし、確実にむしばんでいった。
そしてある日の体育の時間、彼女の唯一の息抜きであり、大好きだった陸上のタイムで少女に敗北したとき、少女の心は完全に壊れた」
「長い話ごめんね。まあ、知っての通りこの少女とは私のこと。つまりこの話は私の実体験なのでした」
「わ、私は貴女の努力を否定したり、そんなつもりは……」
「分かってるわ。楓、貴方に悪意がないことくらい。貴方ほど優しい人間を私は知らないわ。でも、だからこそ知っていてほしい、貴方は紛れもない天才で、貴方の何気ない好意によって心を折られた人間がここにいることを。そして、貴方は知らないといけない。貴方が不用意に隣にいたせいで彼がどんな目にあったのか」
「…………」
「ねぇ楓……。私は貴方と競うことを諦めた。高校時代は陸上に逃げた。勉強で張り合うのを辞めた。頑張ることを辞めるとね、人間嫉妬しなくなるんだ。純粋に凄いと思えるようになるの、いうなれば漫画の主人公を見ているとでもいえばいいのかしら……。諦めるっていうのは物語の登場人物から読者になるということなの。ヒーローより劣っているのはしょうがない、だって彼らは物語の世界の存在だ。だから、張り合うのは無駄だ、ってね。私はそう思うことで、心を守った。でも、ね、彼は違う」
――――ずっと、ずっと彼は貴方の才能と戦い続けてきた。心が折れることもなく、だれからも認められない無意味な戦いをずっと。
「ねぇ、楓は知ってる? 彼がずっと夜遅くまで図書館とかで勉強していたのを。
ねぇ、楓は知っている? 貴方が隣にいるせいでずっと比べられ続けたことを。
ねぇ、楓は知っている? 大学の試験でも貴方に勝とうと努力していることを。
ねぇ、楓は知っている? 誰かが貴方を褒めたとき、『そうだアイツは俺とは比べ物にならないくらい凄い人間なんだ』って、言って自分の努力を自分で認めないことを」
「比べられ続ける辛さを二番目の辛さを貴方は知らない。だって、――――貴方は常に一番だから。いつだって貴方は特別なのよ。そして、自分の才能に気づいていない。誰だって自分と同じようにできるんだと思っている。持っていない人間の事なんてわからない。」
「ねぇ、楓。貴方は彼の事を一番知っていると思っているかもしれない。でも、それはある意味で間違いよ。彼の事を一番知っているのは、貴方に本気で挑んだことがある人間だけ。そう私のような人間だけよ」
「私は知らない。――あそこまで無駄だとわかっている努力を出来る人を。
私は知らない――一番嫉妬心を抱いている人間のことを他人が褒めたときまるで自分の事の様に誇らしげな顔を出来る人間を」
「ねぇ、楓。もう十分じゃない? 貴方がゼミに入ると彼はまた比べられる。彼のこれまでの頑張りはまた全て白紙に返る。私はもう、彼が否定される場面を見たくない。彼はもう十分に頑張った。報われてもいいじゃない。だから、お願い。楓、ゼミだけは諦めてちょうだい」
――――――高垣 楓といる限り彼が幸福になることはない。
彼女は最後にそういった。そして、その頬には涙が一筋伝っていた。それだけで彼女が本気だということが分かった。
「楓、貴方にとって彼はどんな存在なの? ちゃんと考えてほしい。彼は貴方の道しるべじゃないのよ。人が引いたレールの上を歩くのは楽よ、でも本当に貴方がしたいことって何?」
彼女がそう言い切った瞬間、四限の終わりのチャイムが鳴った。彼女はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み切ると、その勢いのまま立ち上がった。
「二週間後また会いましょう。それまでに答えを用意しておいて」
彼女はそういうと食堂から立ち去った。
窓の外では鈍色の空からとうとうポツリポツリと雨が降り出し始めた。
冷めたコーヒーをひどく不味く、私は水が欲しくなった。