堕ちた歌姫 作:舞花恋
変わりたかった。
家族という役割、幼馴染という役割、友人という役割、恋人という役割。そんな役割を演じ続けるだけの日常に、酷く嫌気が差していた。
だからこそ変化を、下らない日常を壊す『非日常』を欲しがった。この名前から、役割から抜け出したかったんだ。ただ、それだけのこと。
それはちょっとした出来心。この程度で変わるとは思っていなかった。自分自身を見誤っていた。
自分の存在は、役割は、彼女にとってあまりにも大きくなりすぎたらしい。
「──だったら私は、もう……」
予想外? 想定外? こんなはずじゃなかった?
だから、俺は悪くない。悪いのは、この程度で壊れるその信念だ。
「……あなただけいれば、それでいい」
──違う。
そうさ、全部わかっていた。こうなることくらい。
わかっていたけど、それでも彼女を壊した。俺のために、彼女のために。
俺たちは、病んでいる。だからこそ、
俺にとって、湊友希那の
まるで麻薬のようだった。
◆◇◆◇
「さっきから難しい顔をしているけれど、そんなに悩むくらいなら辞めればいいじゃない」
月曜日の午後。平日にもかかわらず、俺は自分の部屋にこもってパソコンの画面とにらめっこしていた。
「……悩むくらいなら辞めろってのは、よくわからない理屈だな」
耳に当てていたヘッドフォンを外し、首にかける。その動作とともに、ベッドの上に座る友希那に目を向けた。
「私は悩んでる奏も好きだから、別にいいのだけど」
そう言って彼女はベッドから降りて、俺の手元に腰を下ろした。そこは正しく机の上なのだが、その割には品のある座り方をする。
「奏に夢を見ている人たちは、あなたが悩んでる姿なんて見たくないでしょうに」
「一体何をしに来たかと思えば、嫌味を言いにきたのか、お前は」
その言葉に、若干の苛立ちが湧いてくる。
ただでさえイライラしているというのに、いきなり家に来た友希那にこんな嫌味を言われると、流石に苛立ちを覚えてしまう。
「それにしたって、珍しい。奏が音楽で悩むだなんて」
「……まあ、な」
「いつもみたいに、感覚に任せて適当にやればいいのに」
「そんな感覚だけで曲なんか作れるなら、音楽理論なんてこの世に必要ないだろ」
なるべく嫌味ったらしく言ってみせるが、友希那は「そうね」とだけ言って微笑む。
友希那のその表情は、音楽そのものをバカにしたような、もはやあの孤高の歌姫とは思えないものだった。
それを見てると、苛立っている自分がなんだかバカらしく思えてくる。
「てかお前、学園はどうした? さっきから当たり前のようにここにいるけど、学園には行ってないのか?」
間違いなく今日は月曜日だ。休日は終わって、友希那たち学生には学園があるはずだ。
それなのに彼女がどうしてここにいるのか。
そんなの聞かなくてもわかってはいるのだが、敢えて友希那の口から聞き出してみる。
「それは奏だって一緒。奏も学園をサボっているじゃない」
「俺は別にいいんだよ。それより、お前もサボったのか」
その質問に、友希那はなんでもないかのように沈黙で返す。
「……まあいいけどよ」
俺たちが学園をサボるのは、今に始まったことじゃない。
だからいちいち詮索する必要なんてないくらいには、俺たちはお互いのことを理解しているはずだ。
「それで、今日はどうしたんだ」
そう言ってパソコンの電源を落とす。友希那がウチに来るときは俺に用がある──というよりは、俺と何かをしたいときだ。
だから今日も学園をサボって、俺といつもみたいに遊びでもしたいんだろう。
そう思って友希那を見つめる。だがしかし、友希那の口から出た言葉は予想とは少し離れたものだった。
「昨日、リサに言われたわ。奏が随分と疲れてる様子だって」
「……リサに、か?」
リサが友希那に俺のことを話すなんて珍しことだ。昨日久しぶりに甘えたからだろうか。
「それで、どうなのかしら?」
「いや、まあ……。確かに疲れてるっちゃ疲れてるけど、別に心配するほどじゃないさ」
なんだかんだ言っても、疲れてるのは事実だ。
リサの行動か珍しいとはいえ、心配してくれてるだけなら別に問題はない。
「違う」
「は?」
強く、そしてハッキリと否定される。どうも友希那は、俺の答えが不服みたいだった。
違うって、いったいなにが違うのだろう。
「私は別に身体のことなんて気にしていない。どうして奏がリサに心配されているのかが気にしているのよ」
「……ああ、そういう」
その言葉で、どうして今日友希那がウチに来たのかがわかった。
今日はなんだか友希那の態度にイライラとしていたが、どうやら友希那のほうがずっとイライラしていたらしい。
「……そんなこと、俺に聞かれたって知らないな」
答え方次第では、友希那をさらに不機嫌にしてしまう。だからしらばっくれてみる。
「疲れてるだなんて、そんなのリサが勝手に心配しただけだ。俺には関係ないな」
なんて言って、責任をリサに押し付ける。
全部リサが勝手に思って、勝手に心配したことだ。それでどうして心配されているかなんて、俺の知ったことではない。
「……質問の答えになっていないのだけれど……まあいいわ」
どうやら、俺の答えに満足したらしい。不機嫌そうなその表情は、すぐに元どおりになった。
「──どのみち、リサの心配は全く必要ないものだったわね」
「……?」
言いながら友希那は、俺の頬へとその手を伸ばして触れる。そうして俺の目を覗き込むようにじっと見つめ、妖しく笑った。
「だって奏は、こんなにもいつも通りなのだから」
さっきの俺の答えで、リサに対する冷たさを感じ取ったのか、そんなことを言ってきた。
「……そうだな。俺はいつも通りだ」
いつも通り友希那の機嫌を損なわないよう、俺の欲求を満たしながら、友希那の欲求も満たして生きている。
彼女は病んでいる。だからそれを悪化させないよう、薬を与え続けるのだ。
そしてこの場合の薬は、俺自身だ。俺自身が友希那を常に想い、友希那のために身を削る。
そんなことを一年も続けてきた。だからきっと、俺も病んでしまったんだろう。
だから今井リサなんて麻酔で、痛みを溶かして生きている。俺は、病気だった。
だけどその事実は、友希那にとって毒となってしまう。だから、隠す。やましいことはなにもないけど。
それが俺の日常。病気みたいな日々。いつも通り。
そうだ。日常だって病気じゃないか。
誰にも治せない、ただ生きているだけで心が侵される。
その日常に侵されながら、クスリを求めて生きている俺たちは、なにもおかしくなんてない。