なんと卒業をすっ飛ばして、今月無事入社致しました。
そして先日ようやく我が家にWi-fiが繋がったので、折角だからと書きました。
お待たせしてしまい申し訳ございません。
今後も働きながらなので不定期になるとは思いますが、気が向いたらまた書きますので、これからもよろしくお願いします。
ガシャン、とキッチンに音が響いた。とっさに目を瞑り、恐る恐る目を開けると、そこには最悪の光景が広がっていた。
――やってしまった。
一瞬にして、自分の顔が青ざめるのが分かった。
目の前に散らばっている破片は、かつてミカンのお気に入りのマグカップだったものだ。
◆
『ほら見ろ林檎。昔の私みたいじゃないか?』
その日買い物から帰ってきたミカンは、珍しくテンションが高かった。なんでも、可愛いマグカップを見つけたらしい。
やたら楽しそうな顔でエコバッグの中をごそごそと探る様子を、なんだか昔のミカンがおもちゃ見せに来るみたいだな……と、勝手に懐かしんで眺めていたのを覚えている。
これだ! とミカンが取り出したのは、淡いグレーのマグカップ。至ってシンプルなデザインに見えるが、一体なぜこれをそんなに気に入ったのだろうか。
私がそう思った時、ミカンはそのコップで、中身を飲む仕草をして見せた。
すると――
「あっははははは!」
目の前のその光景に、私は思わず吹き出してしまった。
マグカップの底には犬の鼻と口が描かれており、飲む仕草をするとまるで口元が犬になったように見えるのだ。
得意げな顔でその状態をキープしているミカンに、私は数分間お腹を抱えて笑っていた。
やっと収まってきた頃、ミカンが懐かしそうに目を細めて
「これ、昔の私みたいじゃないか?」
と呟いたので、また脳裏に狼だった頃のミカンの姿が浮かんだ。
「ふふ、ほんとだね」
「昔の私も私だから、これ使う度に林檎が思い出してくれたらなぁ、って」
そう微笑むミカンに、胸の奥が温かくなった。
◆
はっと我に返る。まるで走馬灯かのように、マグカップを買った日の情景がフラッシュバックしていた。
しかし現実逃避しても起こってしまった出来事は覆らない。
どうしよう……と一人立ち尽くしていると、物音を聞きつけて寝室からミカンが駆けつけてきた。
「林檎、なんか割れた落としたけど大丈夫か!?」
週末の昼前ということもあり、ミカンの髪には寝癖がしっかりとついていた。恐らく、快眠していたところを物音で起こしてしまったのだろう。二重に申し訳なくなる。
ミカンは私の傍によると、怪我をしていないかを確認してきた。
「だ、大丈夫……。どこも切ってないよ」
「そうか、良かったよ。ん? このマグカップ……」
ミカンは床に散らばった破片見ると、早くも割れたものが何かを察したようだ。
私は咄嗟に頭を勢いよく下げた。恐らく腰は90度に曲がっている。
「ごめん! ミカンのお気に入りのマグカップ割っちゃった!」
頭を下げて数秒待つも、ミカンからの返答はない。そのまま恐る恐る目を開けると、私の視界に映るミカンの脚は微動だにしていなかった。
何もレスポンスがないことに、私は激しく怯えていた。まさか大激怒させてしまっただろうか。
「ほんとにごめん、うっかり手を滑らせちゃって……」
「……」
「お、同じやつ買いなおしてくるから!」
「……」
何を言っても無言のミカンに、私の焦りは加速していく。そして、
「な、何でも言うこと聞くから!!」
そう叫び気味に言葉を放つと、漸くミカンが反応を示した。
「何でも……?」
私が頭を上げると、そこには不敵な笑みを浮かべたミカンが、目を細めて私を見つめていた。
「今、何でも言うこと聞くって言ったな……?」
「は、はい……」
焦りのあまり余計なことを口走ったかもしれない。
私は蛇に睨まれた蛙のように固まりながら、頭の中で「グッバイマイライフ」と人生終了を覚悟した。
◆
「ね、ねぇ。本当にこんなんでいいの……?」
「いいの。お前が何でも言うこと聞くって言ったんだろ」
そうだけど……と、私は膝に乗せたミカンの頭をそっと撫でる。
命を覚悟した私の予想とは反して、ミカンが要求してきたのはただの膝枕だった。
ミカンに「ソファで膝枕してくれ」と言われたときは拍子抜けだったが、これで許してもらえるのならば安いものだ。
「なんか、もっときついこと言われるかと思った」
私がそう言うと、ミカンは可笑しそうに笑う。
「そんなことするわけないだろ。そもそも、別に怒ってないしな」
怒ってない? ならばあの沈黙は何だったのだ。
「勝手に思い詰めて謝り倒してる林檎が可愛くてつい、な」
意地悪な笑顔でミカンはそう言った。私はなんだか恥ずかしくなって、ミカンの癖っ毛をわしゃわしゃと撫でまわした。
「……折角だったらもっとえっちなこと強要してくれればいいのに」
「それただの林檎の欲求じゃないか」
私たちは顔を見合わせて笑った。
まだ寝たりなかったらしいミカンは、やがてうとうとし始めた。私のせいで起こしてしまったから、私は膝の上のミカンを起こさないように、優しく髪を撫でる。
あとでミカンが起きてご飯を食べたら、二人でマグカップを買いに行こう。
「スゥ、スゥ、スゥ……」
「ありがと、ミカン。大好きだよ」
寝息を立てるミカンの髪に触れながら、私もソファに身を委ねて目を閉じた。