森の中を進み、広場に出る。
広場、と一言に言っても木々が入り組む周囲より多少開けている程度の狭い場所で、依然として森の中であることに変わりはない。
時折鳥の鳴き声だけが響く静謐な、しかし獰猛な獣の気配が漂うその場所に、修太郎は立っていた。
「…………」
無言の脱力。
瞑想するかのように目を閉じ、静かに佇む姿は誰が見てもわかる隙だらけの格好だ。
これが他の者であったなら自殺志願者か何かと思っただろう。しかし、この場この時この行動をとっているのは尋常に収まらぬ剣鬼なのだ。
背後に気配を感じ、そちらに振り向けば獲物に誘われた猛獣が一匹。
森に同化するかのような迷彩色の、狼に似た魔物だ。木々を押しのけるほどの巨体、そこに刻まれた無数の傷跡は歴戦の証。彼もまた、この森の中における偉大な戦士だった。
必然、目が合う。
戦う者同士が出会った時、どうするかなど無粋な問い。
魔物は獲物が脅威足りえる猛者だと気付く。修太郎は獣がこの森の実力者であることを感じ取った。
そして激突。
超速で振るわれる爪を紙一重で躱した修太郎は、一瞬にして相手の懐に潜り込む。虚をつく運足は健在であるならば、この程度は息をするより容易い。
大地の奥深くまで響く震脚。中国武術の神髄、発勁の技を用いた拳が魔物の腹に突き刺さった。
巨体をわずか浮き上がらせた魔物は、しかし即座に体を捻り修太郎の勁を受け流す。歴戦は伊達ではないと言うことか。なるほど強い。
獣はそのまま懐の修太郎を押し潰さんとする。
寸でのところで飛び退り回避すれば、相手も同様に互いの距離を離した。
同時に、拳に違和感。見れば、刃を当てたかのような傷がついている。獣の体毛は、一本一本が硬い刃の特性を備えていた。
やはり、人間界の魔物とは比べ物にならない。
侮っていたことを目線で詫び、今度こそ闘気を纏うと、やはり実力を隠していた獣は獰猛に笑ってオーラを開放した。
ここまでは様子見。そしてここからは全力だ――――!
―○●○―
「という訳でここら一帯の森は俺たちの縄張りになった」
「何をやってるんですか、あなたは!?」
傷だらけになって戻ってきた修太郎へ、開口一番にロスヴァイセは突っ込んだ。ちなみに彼女は最初の鎧姿ではない。亜空間から取り出した洋服を着ていた。
上半身裸で血まみれの男の背後には、同じく血まみれで傷だらけの大きな獣が従うように佇んでいる。
遭難からすでに七日、浜辺から割と近い位置にある森の中の洞窟に、二人は居を構えていた。
これは元々あったものではなく、ロスヴァイセが岩壁に魔法で穴を開けて作ったもので、各種魔法で補強しているため割とガチで城塞染みた強度を持っている。
「安全圏の確保だ。これで他の肉食系魔物に襲われず、草食系魔物を狩ることができる。肉食は不味いからな」
「そう言うことではなく……いえ、確かに食事の質も重要なことではありますが! あなたはこの島を支配でもするつもりなんですか!」
「そんなつもりは無いが」
とぼけたような返答に、ロスヴァイセは男の後ろに控える獣を一瞥する。
緑に紛れる迷彩色は今でこそ傷だらけで痛々しいが、感じ取れるオーラの質は断片だけでも相当に強力な魔物と知れる。少なくとも正面からぶつかれば、ロスヴァイセでも苦戦するだろう。
「寝言は後ろの魔物を下げてから言ってください。昨日は蛇、一昨日は熊、最初にドラゴンを引っ張ってきて紹介されたときは一体何事かと思いましたよ!」
「あれには俺も驚いた。得意な得物が無いからどうなるものかと思ったが、意外と何とかなるものだな」
「まるで他人事のように……。はぁ……この島の魔物の多さにも驚きましたが、あなたもあなたで大概ですね……」
諦めたように項垂れる戦乙女をよそに、着いて来た獣へと帰るよう身振りする修太郎。
獣は少し残念そうな視線で修太郎を窺いつつ、とぼとぼと元いた場所へ帰って行った。
「しかし、これで島の半分程を大手を振って探索できるわけだ。今後救助が来るのにどれほどかかるのかわからないのなら、生活の基盤を整えるのも悪くは無い」
「ええ、まあそうなんでしょうが……なんだか私の思い描いていたサバイバルとかけ離れ過ぎているような気が……。と言うか、もう島の半分を傘下に収めたんですね……。ふふっ、別にいいんですけどね……ヴァルハラと違ってそれほど大きな苦労も無いから」
呟く彼女の背中はすすけている。苦労性な少女だ、と修太郎は思った。
そんな様子を見ながら、やはり修太郎は一抹の物足りなさを感じていた。
手の平を見て、握り、開く。もう何日も剣を握っていない。
武器を使うだけならロスヴァイセの持つヴァルキリーの槍があり、修太郎自身も刀剣ほどではないにしろ槍の心得はあるのだが、何か物足りない。
この気分を解消するべく木刀をでっち上げてみたり、狩った獲物の牙や骨から剣のようなものを作ったりしたが、どれもしっくりこず、何よりもすぐに壊してしまう。結局、今も徒手空拳のままだった。
元々持っていた愛刀は、黒歌と出会う前から使っていた長年の相棒だ。
とにかく頑丈な業物で、退魔処理が施されているため霊体も斬ることができる。
振り返れば、あれほど修太郎と相性がいい剣もそう無いだろう。
単純に良い物を求めるならばやはり名のある聖剣や魔剣などが適当なのだろうが、修太郎に聖剣への適性は無く、自身が何より優れた「剣」であるため魔剣に選ばれることも無い。
だからこそ、聖剣級の頑強さを持ち、魔剣並の切れ味がある刀は貴重だ。修太郎が知る限り、人が打ち鍛える刃であれ以上のものは望めない。
そう思えば、あの時海に取り落としたのは痛恨の出来事だ。記憶にないのがさらに痛い。
しかし、これ以上過去を悔やんでもどうにもならない。
何よりこの話をロスヴァイセの前ですれば、再び謝罪祭りが始まってしまう。余計なことは言うべきではない。
そう言えば、北欧には魔法の品を作りだす鍛冶師・ドヴェルグ――ドワーフがいたことを思いだす。
この件が片付いたら、探してみて剣を鍛えてもらおう、と修太郎は考えた。
「――!」
どばり、と。
突然、降ってきた水の塊に修太郎は目を丸くする。
「いつまでそうしているつもりですか? 怪我の手当てをしますから、早くこちらへ来てください」
ちょいちょいとこちらを招きよせるロスヴァイセの手には、もはやおなじみになった世界樹印の応急キット。
大人しく少女の前に座った修太郎の濡れた体の血を拭い、消毒し、包帯を巻く。
ロスヴァイセの動作には一切のよどみが無く、既に熟練のそれだ。この男のおかげで怪我の手当てスキルが凄まじい速度で上がっていることを自覚して、戦乙女は嬉しいやらそうでないやら複雑な心境だった。
「今回は以前より怪我の数が少ないみたいですね。あの獣は今までの相手より弱かったのですか?」
「いや、そんなことは無い。あれは今までと同様に手強い戦士だった。強いて言うなら、俺の体調が万全に近づいているということだろう」
あれほどの力を持つ魔物を倒しておいて、まだ万全ではないのか。
しかしそれに驚くよりも、ロスヴァイセにとっては後の言葉の方が聞き捨てならない。
「まったくあなたは! 万全ではないというのにこんな真似をしているのですか!!」
この男は大怪我からまだ回復しきっていないにもかかわらず、こんな馬鹿みたいな真似を繰り返しているのだ。
ロスヴァイセには責任がある。戦場にいたことを知らなかったとはいえ、彼をこの事態に巻き込んだのは彼女だからだ。だからこそ、この男の命だけは何としても守らねばならず、本来であればこの場に留まって大人しくしてもらいたかった。
修太郎が食料確保の役割を申し出た時もアドバイスに止めてもらうつもりでいたし、狩りだって自分一人で行うつもりだった。
それを「回復した」と言い切って、話も聞かずに狩りに出たのはこの馬鹿である。その結果大量の食糧を獲ってきたことから役割分担として認めはしたのだが、まさか申告そのものが嘘だったとは。
「嘘まで吐いてそんな無茶をして、死んだらどうするんです! それとも私の力はそんなに信用できませんか?」
「嘘……?」
「何ですかその「訳分からない」とでも言いたげな顔は! 万全でないのに回復しただなんて、嘘もいいところでしょう!」
怒るロスヴァイセに対し疑問の表情を見せる修太郎。しばし考えるように目線を逸らし、そしてまっすぐに少女を見据え答えた。
「戦うのに万全である必要があるのか?」
「――え?」
「万全など、何時も望めるわけではない。戦いに身を置くのなら尚更だ。今回俺は大きな怪我を負い、そしてそれは即時的な回復が難しい状況だった。しかしそれでもやらなければならないことがあるならば、多少の問題は瑣事だ。この島の生活において、キミが無くてはならない人物であるのは疑いようが無く、万が一にでも死ぬような場面に出すわけにはいかない。適材適所、役割分担だロスヴァイセ」
理屈は分からないでもない。分からないでもないがしかし――。
「つまり俺は嘘など吐いていない。「この程度なら大したことはない」という判断に基づき行動した結果だ。もう一つ言うならロスヴァイセ、キミが俺にとって必要だからそうした」
「――――は?」
まっすぐにこちらを見つめる男の目つきは相変わらず鋭い。猛禽か、あるいは刃を連想させるその目にはめ込まれたガラス玉は、今までは気付かなかった"紺碧の色"。
吸い込まれそうだとロスヴァイセは思った。
しかし次いで発せられた言葉に、戦乙女の思考は吹っ飛んだ。
「キミが大切だ。キミを失いたくない」
うん?
……うん?
な に を い っ て る の か し ら こ の ひ と は ?
「は、はいィィい!?」
――キミが大切だ……。
――キミがたいせつだ……。
――がたいせつだ……。
――たいせつ……。
――キミを失いたくない……。
――キミをうしないたくない……。
――をうしないたくない……。
――うしないたくない……。
何語だろうかこの言葉。
知らない。理解できない。それよりも一体誰に向かって言ってるの?
思考が空回る。混乱しているのが自覚できる。自分が全く正気じゃなくなっているのが把握できる。
才女と謳われた銀髪の少女に、未だかつてない感情の激流が渡来する。
顔に血流が集中し、熱に浮かされたように熱くなる。心臓の鼓動がバクバクと、耳の傍で五月蠅くてたまらない。周囲の景色は曖昧に、ただ目の前の男の顔だけがはっきりと映る。
(何? 何を言われたの私? 大切? 失いたくない? それって、これって、もしかして……ププププ、プロポーズ!?)
プロポーズ。
つまりは告白。
つまりは清いお付き合い。
つまりは彼氏と彼女。
つまりはデート。
互いの両親へご挨拶して。
そして結婚。
新婚初夜に。
可愛い子供。
素敵な素敵な家族計画!
駆け巡る妄想――否、未来予想は留まるところを知らず、男日照りなヴァルキリーの脳内を占領していく。
(どどどどどどどどどどうすれば!? いきなり! だってまさか、いきなりこんなことになるなんて思わない! 助くてお祖母ちゃん! わたす、どうすればいいの!? ……でも、でもでも、これはひょっとしてチャンスだったりするのでは? 彼氏いない歴=年齢を払拭するなら今しかないんじゃ? この人ちょっと頭がおかしいけど顔は悪くないし、頭おかしいけど強いし、勇者と言えば勇者と言えなくもない……私の
未だ十代後半、まだまだ女盛りにもなっていない若年で、ここまで男を知らないことを焦るのは、主神オーディンの焚き付けが悪い。
昔がどうだか知らないが、今はロスヴァイセの年齢で経験が無くとも仕方は無いのだ。加えて彼女は思春期の大半を勉学に費やした身、そのことについて責めるのはもはやセクハラ以上の理不尽さ。謂れなきいじめと同義の所業である。
知らないか? 社会人になると職場によっては出会いが無くなるケースもあると言うことを。
しかしながら、真面目で堅物で有能な彼女であるからして、普通はこんな歯の浮いたようなセリフを言われても疑いが先に走るはずなのだが……。
だがこの剣鬼は嘘を吐けない人種である。言葉よりもその目で雄弁に語る男であった。
故に!
そう、故に!
その言葉が本心であることを理解した、させられた彼女は――自身の境遇と、男女二人きりのサバイバルというある種の異空間的状況、そして何より男の真摯な視線に心打たれた!!
男は狼狽える戦乙女の
「……あっ」
それだけで経験絶無な少女は釘づけだ。
甘い雰囲気が場を満たし、男への感情が否応なく高まる。
「わ、私も……あなたのことが――」
ドキドキと胸の鼓動が止まらない。きっと顔は林檎よりもなお赤いだろう。表情だって、今までになく蕩けているに違いない。
恥ずかしいと思っていても、その感情を止めることはできなかった。
刷り込みか? それとも真実か?
なんにせよ、これはそう、恋――。
二人の男女の影が重なる。
そし『誰だ、貴様は』――っといやはや何とも、調子に乗り過ぎたかなァ?」
いつからこれが現実だと錯覚していた?→ロスヴァイセ