夢の海原
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ぐらり、と体が揺れる感覚で、ルークスは目を覚ます。
最初に見えたのは、ここ数日で見慣れた木の天井であった。窓から差し込んでくる陽の光は青白く、流れてくる風には潮の匂いが乗っている。軋む体をゆっくりと起こすと、体にかけられた毛布が床へと滑り落ちた。
ぼやけた視界をこすりながら、ルークスがベッドの下へと足を降ろす。触れた床は冷たくて、しばらくそのままでいると、秋の始めの寒さが感じられた。
そうして立ち上がった拍子に、もういちど船が揺れて、ルークスの体を強く揺さぶった。覚束ない足取りのままで彼はそのままベッドへと倒れ込み、そこで初めてルークスは、何かに気が付いたようにぽつりと言葉を漏らす。
「…………レヴィ?」
呟いた言葉に、返ってくるものは何もない。
ふわふわとした意識で首を傾げながら、とりあえずルークスは彼女を探すべく、部屋の扉へと手をかけるのであった。
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『新大陸へか? いいぜ、乗せてってやるよ』
ラギアクルス亜種を討伐したその日の、翌日。
ルークスが彼――船長と名乗る男から聞いたのは、そんな快闊な言葉であった。
『……いいのか? いや、もともと交渉するつもりではあったが……』
『ま、タダで乗せてくれってならブン殴るところだったがな。お前さんはあのラギアクルス亜種を追っ払ってくれた恩人だ。なら断る理由なんざねえさ』
「しかし、何も……そんな、簡単に』
『それによ、お前さんならここの海域にも詳しいんだろ? ってことで、ちゃんと案内役として雇ってやるから身振りは安心しな。密航者なんかじゃなくて、ちゃんとした船員として乗っけてやるよ』
『だが……』
『なんだお前さん、新大陸に行きたくねえのか?』
『……行きたいと、思っている』
『ならいいじゃねえか。ま、安心して乗ってってくれよ! なあに、旅の安全は保障してやる! それこそ大船に乗ったつもりでな! はっはっは!』
そんな豪快に笑う船長を見たのが、三日前。
四日目に突入した航海は、思ったよりも順調なものであった。
船上での生活にはまだ慣れが必要だが、基本的にはカザミを中心としたほかの船員の手伝いをしたり、船長へ付近の海域の案内を行ったりなど、与えられる仕事は多い。
船員にもタンジアの港からのハンター、ということで顔は広く認知されており、付き合いも悪いものでもない。仕事もよく回してくれるし、食卓も違和感なく囲むことができる。港での話をすれば皆はこぞって耳を傾けるし、また彼らも新大陸での様々な出来事を語ってくれる。
レヴィに対しても、彼らは寛容だった。
はじめはどのように説明するか、と悩んでいたが、まるで孫娘へのようにもてはやされるレヴィを見れば、その悩みも必要なくなった。人嫌いの彼女はそれが少し不満だったようだが、今は船員との会話ができるまでになっている。
そういった意味でなら、この旅は充実したものだった。
新たなる大陸への旅路。語らいができる仲間たち。
ただひとつ、不満があるとすれば――
「……ここはどこだ」
この船の広大さについてだった。
新大陸への貿易船。未開の地へ送る資源は当然通常のそれよりも多く、となれば船そのものが大きくなるのも必然である。
そしてそれは、ルークスにとって苦痛以外の何物でもなかった。
「……レヴィ? カザミ?」
数多に並ぶ扉へとルークスが問いかけるが、返事が来ることはない。
おそらく全てが貿易品を収納している倉庫なのだろう。試しに扉を一つ空けると、中身は立てられた樽やいくつもの革袋でぎっしりと埋め尽くされていた。
その扉を静かにしめて、ルークスが溜め息を漏らす。
「困るな……」
来た道を戻ろうにも、眠気のままに歩いてきたため、おおよその検討すらつかない。それに周囲の景色は、どこまで歩いても扉が並ぶだけの変わらないもの。
クエストの際に必ず地図を持ち歩くルークスにとって、それは広大な迷宮のようにも思えた。
「……もう少し、歩くか」
そうして足を進めること、十分と少し。
「……行き止まり、か」
突き当りにあるドアの前で、ルークスはそう、物悲しく呟いた。
肩を落としたまま扉へと背を預け、重く溜め息をひとつ。地図もなければ土地勘もない。こんな場所では迷うに決まっているだろう、と自分を無理やり納得させながら、ルークスがひとり考えを巡らせる。
……………………。
「ふむ」
アテになる記憶が無い。わかることは、それだけであった。
さてどうしたものか、とひとり考えながら、ルークスがとりあえず諦め交じりに一歩を踏み出す。
「……だれか、いるの?」
背を向けた扉から声が聞こえたのは、それと同時だった。
少女のものだった。か細い、消えかけの蝋燭のような、そんな小さな声。弱々しい問いかけにルークスはゆっくりと振り返り、戸惑いながらも口を開く。
「……最近、この船に乗ってきた者だ。ルークスという」
「あー……、たしか、カザミが言ってた、ような……ぅぷ」
口ぶりからして、どうやらカザミの知り合いらしい。
しかし、その声に結びつく姿は、思い描けなかった。
「それで、ここまでどうしたの? カザミに何か頼まれた?」
「いや、恥ずかしい話になるが……道に迷ってしまって」
「…………」
扉の向こうから、呆れたような空気が感じられる。
「本当は、どこに行くつもりだったの?」
「……できれば、カザミの居るところに行きたいのだが」
「カザミは……いまだと船首にいるんじゃないかな。今来た道を戻って……その突き当りを、右にまっすぐ進めば出られると、おもう……ぇぷ」
「なるほど」
「それでも迷ったなら、大声を出せばだれかが気付いてくれると思うから……まあ、頑張って…………おえぇ」
嗚咽のような声を交えながら、少女はそう答えた。
「……さっきから思っていたが、船酔いか?」
「別に。平気だけど」
「……あとで、船酔いの薬でも」
「いらない。あれ、苦いから」
そんな理由で、とルークスは訝しんだが、それ以上を聞くのはやめておいた。
とにかく、道のりは理解した。おそらくその説明なら、いくらルークスでも無事に船首へとたどり着くことができるだろう。
「じゃあ私はもうちょっと寝てるから……頑張ってね」
「ああ。助かった」
「いいよ、減るものでも……げッほ」
…………。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」
「別に大じょおおぼぼぼっぼぼばばぼげぼっぼぼろろっろ」
ぼとぼとぼと。
何か重い液体の落ちる音が、扉の向こうから聞こえてくる。かすかに少し、酸っぱいような香りも漂ってくる気がした。
「……カザミに、伝えておく」
「……………………ネムリ草の補充も、伝えておいて」
少女の望みを胸にして、ルークスは再び歩み出す
背後から続く嘔吐の声が、その足取りを早くさせた。
■
「…………そうか。やらかしたか」
しばらくして辿り着いた、潮風のそよぐ船首にて。
ルークスからの報告を受けたカザミは、うんざりしたような、慣れ切っているような表情のまま、真昼の空を仰いでいた。
「行かなくていいのか?」
「あいつも自分のものの始末くらいできるさ。ガキじゃないからな」
「そうか」
「ま、後でネムリ草は届けておいておくよ。心配しなくていい」
疲れながらも笑みを浮かべたまま、カザミがそう手を振って話す。割と慣れ切っているその対応に、ルークスも頷いて返すだけで、それ以上は語らなかった。
最後にもういちど大きく息を吐いた後に、カザミがルークスへと向き直る。
「それで、こんな時間にどうしたんだ? そろそろ昼食だが……」
「レヴィがいなくなった」
「……なに?」
どこか弱々しいルークスの言葉に、カザミが眉をひそめる。
「いなくなった、って……船からか?」
「いや、一緒に寝ていたはずなんだが、起きたらいなくなっていた。どこに行ったのかも分からない。先程から探し回っているのだが……検討もつかなくて。心配なんだ」
「ああ……」
一瞬で何かを悟ったような表情へと変わりながら、カザミがそう頷いた。これが無自覚というものらしい。お気に入りのツボをなくしてしょんぼりとするクルルヤックの姿が、どうしてか思い浮かんだ。
「まあ、船の中にはいると思うし……」
「迷ってはないだろうか」
「お前なあ、この船の中で迷うなんて相当の方向音痴だぞ? 初日でもしてやったとおり、地図が無くても案内できる程度なんだ。よっぽどのバカでもない限り、迷って出られなくなるなんて……待てルークス、どうした? そんなに落ち込んで……気分でも悪くなったか? おーい、誰か船酔い用の薬を……」
「いや、いい…………苦いのだろう……」
いくらか沈んだ気分を無理やり持ち上げながら、ルークスがそう震えた声で答えた。
「とにかく、レヴィの居場所に心当たりはないか? できれば、その場所までの順路も」
「あー……あの子の事だから、食堂とか生活圏のとこにはいないだろうし……かといって今日は倉庫でも見てねえから……もうお前の部屋に戻ってるいか、もしくは船長の部屋にいるかもな」
「船長……ああ、なるほど。確かに」
口にされたその言葉に、ルークスが頷いた。
グラン・ミラオスを追う関係上、航路についてレヴィと船長は話し合う機会がよくあった。端々に飛び交う言葉のいくつかをルークスは理解できなかったが、彼女らの顔ぶりを見る限り、それはどうやら順調に進んでいることだけは感じられた。
「また、航路について何か話し合ってるんじゃねえか?」
「……かも、しれないな」
「いいぜ、行って来いよ。船長の部屋はここから倉庫を抜けた、上層部の船尾側にある。何かあったらそこらにいる奴をとっ捕まえて聞いてみな。教えてくれるはずだ」
「ああ。そうしよう」
そう短く告げたあとに、ルークスが船首を後にする。
「……あとで地図でも書いてやるか」
面倒くさそうなその呟きが、彼の耳に届くことはなかった。
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「レヴィか? 今日は来てねえなあ」
眉を顰めながら答える船長に、ついにルークスは膝をついた。
「……では、どこに…………?」
「なんだお前さん、起きてからずっとあの嬢ちゃん探してるのか」
「ああ。聞きまわっている。最初は倉庫のほうにいた……あれは……」
そういえば名前を聞いていなかったことを思い出して、ルークスが言いよどむ。しかしながら倉庫という単語だけで、船長は何かを察したのか、ああ、と納得してから続けた。
「あの子のところまで行ったのか。あの子、船には弱くてなあ。前に一回だけ現大陸へ連れて行ってやったんだが、その時に盛大に吐きやがって」
「俺が行ったときも、吐いていたが」
「…………酔い止めだけでも飲め、って言ってるんだがなあ」
遠くを見ながらの呟きに、ルークスが戸惑っていると、すぐさま彼はルークスの方へと向き直って、また口を開いた。
「で、嬢ちゃんの居場所か?」
「ああ。ここにもいないとなると……どこを探せばいいものか」
「んなもん簡単じゃねえか。中層部第二倉庫の四番部屋だろ?」
「……なに?」
あっさりと出てきたその言葉に、ルークスが俯かせていた顔を上げる。
「それは、どうして」
「どうしても何も、あの嬢ちゃんを見てれば分かるさ。ってことはなんだ、お前さん。あんだけあの子の隣にいながら、分かんなかったのか?」
「……そう、なのだろうな」
からかうような船長の問いかけに、ルークスは言い返すでもなく、肯定した。
「俺はまだ……彼女の事を、何も知らない」
考えてみれば、未だ出会ってから一週間も経っていない。その出会いこそ奇妙であり、忘れられないものであったが、彼女を知るための時間は、まだ多く要るようだった。
その事実が、どうしてかルークスの肩へと重くのしかかる。彼女を探して歩き回ったことが、とてつもなく無駄で、どうしようもないものに感じられた。
「ってことは、何だ。ルークス、お前さんは何も知らねえ奴の言う事を信じて、ここまでやってきたってことか」
「ああ」
「……すぐにそうやって答えるのが、お前なんだろうな」
船長の口にしたその言葉を、ルークスは自分自身で理解することが、できなかった。
「……彼女に、助けを請われた。だから、俺は助けることにした。俺にできることならば――応えなければいけないと、そう思ったから。」
誰に言われたでもない。何かに導かれたでもない。
ただ、あの助けを求める瞳だけは、確かに信じられた。
「……それが、お前の……ルークスの、生き方か」
「それ以外に知らない。ただ、俺はこれまでこうして生きてきた」
「なるほどな」
波の音が、遠くで聞こえている。
静寂を切り開いたのは、船長からだった。
「憧れ、だったんだと思うな。あの子にあったのは」
「憧れ?」
「ああ」
「あれは今、憧れの海に居る」
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「……ルークス様?」
かちゃり、と開かれた扉の先に居る人物を見て、レヴィはそうぽつりと漏らした。
中層部の第二倉庫、四番目の部屋。船尾に一番近いこの部屋には運搬用の大きな扉が取り付けられており、海上でそれを開くと、それは一つの大きな窓のように見えた。
そこから足を放り出して座っているレヴィの側へ、ルークスが静かに歩み寄る。
白い波を立てている海はいつも通りに深く、蒼く、そして広大であった。
「……起きたらいないから、探していた」
「それは……申し訳ありません。至らぬところでした」
「いや、いい。レヴィもしたいことがあったなら、それで」
立ち上がって頭を下げようとした彼女を咎め、ルークスが同じように腰を下ろす。唐突なその行動に、レヴィは不思議そうな視線を彼へと向けたが、止めることはしなかった。
そよぐ風は心地よく、波の音が静かに響いてゆく。
「……海が、好きなのか?」
問いかけへの答えには、少しの時間がかかった。
「……好き、という感情はありません。初めて、このような海を見ました」
「そうか」
「ただ……このような海を見たいと、かねてよりは考えていました。そして、それが叶えられた今は…………どう、なのでしょう。満たされている感覚があります」
――憧れ。
少女の奥底にあるそれを、ルークスは初めて理解した。
青い海原を眺めながら、レヴィはそう語った。いつもの淡々としたものではなく、いくらか優しい、たとえるならば――人間のような、語り方であった。
「また、見たいと思うか?」
「それは、確かにあります。このような、広く美しい海原を眺めたいと。そして、この景色を守らねば、とも考えます。これが失われるというのは……とても、悲しいものだと。そう、思えます」
「……そうか」
流れるように紡ぐレヴィに、ルークスがそれだけで答える。
そうしてまたしばらく、波の音だけが二人を包んでいた。
現大陸はもう見えず、視界に映るのは遠くにある水平線のみ。空は真白の雲と突き抜けるような青が広がっており、それらがレヴィの紅の瞳へと映る。ぼんやりとしたその瞳は、先程彼女が海原へと向けているそれと、同じようにも見えた。
「――夢、なのでしょうか。これは」
ぽつりと、レヴィが言葉を漏らす。
「夢ではない。確かに、君はここにいる。そして、この景色を目に映している」
それは単なる事実であったが、彼女に伝えるには充分なものであった。
レヴィは安らかに、ゆっくりと、瞼を伏せて。
「それは……とても、素晴らしいですね」
満たされた表情で、そう告げた。
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