彼がまだ、二桁の歳もとっていなかった頃の話である。
習慣と言うものは体に染みつくもので、何度も繰り返し訪れた西住宅の門を、まひろは走りながら通る。
玄関に備え付けられてボタンを押すより先に、戸が開いた。
「君か」
予想外の出迎えだった。
いつもなら年下の妹分のどちらかが迎えるものだが、今目の前にいるのは彼女らの母──西住しほである。
「こんにちは」
「こんにちは!みほとまほ、いますか?」
「……ああ」
挨拶と共に、分かり切った質問をした。
それに応えるしほの顔は、やけに浮かばれない。
「どうしたんですか?」
「いや……これはあの子たちの問題か。何でもない」
遅くならないうちに帰りなさい、と言い残して彼女は庭を出る。
何のことか、この時のまひろには分からなかった。
そして、すぐに理解することになった。
とても簡単にまとめると、あの西住姉妹が喧嘩をしたのだ。
普段の付き合いから見ても、彼女らが真っ向から対立することなどありえない。少なくとも、これまで大きな喧嘩などなかった。
みほは現在、部屋にこもってしまったという。
仕方なしに、まひろは姉であるまほから話を聞く事にした。
「それで、原因はなんだ」
「意見の、相違だ……」
「いや、そうじゃなくてだな」
小学生と言えど、曲がりなりにも、血の繋がりがなくとも、彼は兄として接してきた。
だから、彼女らが不器用なことは知っているつもりでだった。
「何が原因で意見が食い違ったかって話だ」
「それは……」
まほは目を逸らし、俯く」
「……それは、言えない」
「言えないって、なんでまた」
「みほのためだ」
ああ、彼女は譲らないだろう。
まひろはまほの瞳を覗いて確信した。
「なら、どうすればいい」
「分からない。時間が経てば、どうにかなる、だろうか……?」
「何があってこうなったのか分かんないんだし、俺からはなんとも」
「そう、だな……ごめん、なさい」
「謝んなよ。つか、謝るなら、俺じゃなくみほにだろ?」
「多分、謝って済むことじゃないんだ」
いつになく自信なさげなまほの姿に、まひろはガシガシと寝癖の立った頭を掻く。
ため息が出る。
まひろは、無意識に部屋の外に視線を向けた。
何も意味はない。ただ、まほの悲しむ姿など、見たくはなかった。
「分かった。みほのことは俺に任せろ」
「え……?」
「だから、まほは前を向いてくれ」
彼女が口を開くより先に、まひろは末っ子のいる部屋に向かった。
見慣れた天井だった。
重い瞼を強引に開けながら、まひろは今まで何をしていたのかを思い出そうとしている。
今は、何時だ。
時間。
——時間が、ない。
そう、彼に時間はなかったはずだ。
飛び起き、携帯で日付と時間を確認する。
「うそ、だろ……」
もうすでに、運命を分ける試合は始まっていた。
まひろが自家用のヘリを使って会場に着いたときには既に、試合は終盤に差し掛かろうとしていた。
しかし、そこで見た光景は大洗がボコボコにされたものではなく、むしろ逆──。
統一性のない戦車軍の中に、シャーマン、チャーチル、ティーガー。KV2やBT-42、九七式にP40と、異文化交流もすぎる戦車たちがある。
さながら、高校戦車道連合軍。かつて激しい戦いを繰り広げた彼女たちが、大洗の危機に集合した。
連合軍は、大学選抜に引きを取らぬ戦果を挙げている。数だけでいえばむしろ有利だ。
こんな展開は予想していなかった。
まひろは何が起きたのかを調べようと携帯を操作する。その過程で、ある通話履歴を見つけた。
全く記憶のない、ダージリンとの通話記録。
「全く、すげぇよ、まほ」
気がつけば、熱い何かが目頭から頬を伝って落ちた。
ああ、すごい。本当にすごくて、歯痒い。
彼はずっと、彼女に憧れていた。あの真っ直ぐで強い姿に。
そして、知っていた。自分がそうは慣れないことを。
だから彼は願ったのだ。願って努力した。
せめて彼女の隣に、彼女らの傍にいられる存在になるために。
やがて、会場を動く戦車は三台のみとなる。
誰が乗っているのかは知っていた。
みほと、まほと、──愛里寿。
壮絶な撃ち合い、読み合いの末に、決着を見る。
大洗、西住姉妹の勝利。
見届けて、まひろは寝癖を強く握りしめる。
治す気など無い。
昔、彼女らが自分の寝癖を見て笑ったことがあったのだ。それ以来、寝癖を治そうとしなくなった。
自分には何もできないから。こんなことでも彼女らを笑わせられるなら。
ただ彼女らに、笑っていてほしいから。
まひろは会場を後にした。
今、彼女らに合わせる顔がなかった。
大洗存続の決定から一週間が経った。
大事件の代償は、どうやら高くつくらしい。大洗の廃校を促したどこかの委員会はバッシングを大いに浴び、責任者の一部は辞職と相成った。
余談かもしれないが、この件に否定的な意見を貫きながらも試合当日に大学選抜に有利なルールを追加した辻は、どうにか懲戒免職を間逃れたらしい。一部、コネを使ったという噂も立っている。
「むしろ、これだけ大きな事件があってなんも影響なくてよかったな、愛里寿」
「そんなことない。島田流が西住流に劣るって、話も聞いてる」
「何も知らない評論家気取りの言葉なんて、気にすることじゃないよ。……あ、詰んだ」
最後の布石を看破され、まひろのコマは大破する。
戦車のゲーム盤を挟みながら、まひろと愛里寿は世間話に花を咲かせていた。
「……」
「よし、もう一回な。次こそ勝つ」
「…………」
コマを並べ直す動作中に、愛里寿はまひろの表情を盗み見る。
いつになく明るいのに、その笑顔に違和感があった。
「まひろ」
「ん、なんだ?」
「なにか、あったの?」
「…………」
顔が強張った。
とっさにいつもの調子で笑顔に変える。
「今まさにゲームで負けたんだけどな」
「まひろ」
「いや、ここまで連敗すると心折れそうになるわ~」
「まひろ」
「……ああ」
「約束」
「ああ、分かってる……」
話したくはなかった。けれど、約束を破ることはもっと嫌だった。
愛里寿には、話さなければならない。
「ちょっと、自信なくしてさ」
そんな言葉から切り出した。
「俺、結構頑張って来たんだよ、色々。ほら、料理とか、勉強とか」
「うん」
「んで、そうしたら少しはマシになるかなって思ってたんだ」
「うん」
「けど、足りなかった。俺は相変わらず、無力で無能で、何もしてやれてなかった」
「そう、なの……?」
「ああ」
愛里寿はまひろのことを高く評価している。普段から優しいところや、色々なことを知っていたりできたりすることが、彼女にはとてもすごい人物に見えた。
「まひろは、自分を小さく見せようとする」
「そんなことないよ。普通に小さいから。身長じゃなくてさ」
「うん。でも、多分、まひろはまひろが思ってるより、すごいと思うよ?」
上手く伝えらているか自信はなかった。とにかく言いたいことを言っただけな気もした。愛里寿は不安げに彼を見る。
愛里寿の言葉に、まひろはありがとうと答えた。
結局、あれから一度も彼はまほにもみほにも会いに行っていない。
まほに散々言っておいて、自分が気まずくなるとこのざまだった。
本当に情けない兄だ。
「ま、でも、愛里寿が言うんだしな。よし」
情けないから、足りないから、もっと努力しなければならない。
自分はあの二人の兄だから。
たとえ無能で無力で何もしてやれなくても、兄でいなければならないのだから。
それが、彼の誇りなのだから。
「愛里寿、手伝ってくれ」
「え……?」
「ボコはあきらめが悪いんだ」
感想貰えると嬉しいです。