SSSS.GRIDMAN うたかたのそらゆめ【完結】 作:カサノリ
あの夜に何が起こったのか、よく分かっていない。気が付いた時には、全てが終わっていたから。
覚えているのは、アカネさんの家に向かって、怪獣と遭遇して、それを避けようと走り出したことだけ。怪獣を倒したわけでも、アレクシスと戦ったわけでもない。
それでも、霞んだ記憶の向こうで、光り輝く二人の巨人を見た気がする。
そのうちの一人が俺を見下ろして……。
「……また、この夢」
悪夢じゃないが心に残る夢。あの日から何度となく見た夢。もう慣れてしまったからか、目覚めはすっきり穏やかだった。
ただ一点、悔いが残るのは早起きしすぎたこと。枕元の時計を見ると、土曜の午前四時。五時に起床予定だったから、一時間も早く起きてしまったことになる。
目をこすりながら体を起こすと、右手がずきりと痛んだ。動かせるようになって久しいのに、時折こうなるのが邪魔で仕方ない。この傷跡を見るたびにアカネさんが悲しそうな顔をするから、跡形もなくなって欲しいのだが……。そうそう都合よくはないみたいだ。
右手首の傷。
顔の前にかざしてみると、今でも、千切れたような引きつった傷跡がはっきりと残っている。幅も広く、目立った、大きな傷。それを隠すために、最近はリストバンドを付けることも多くなった。
そんな傷ができた理由も分からない。
アカネさんの部屋で、彼女に抱きかかえられながら目覚めた時には、治りかけていた不思議な傷でもある。泣きながら介抱してくれたアカネさんも、記憶は曖昧なのだとか。他にも、肩口とかにも深い傷はあったけれど、今でもたまに痛むのはこれだけ。
「終わり良ければ、すべてよし。……なんていうけど」
はっきりしているのは、アレクシスと名乗った悪魔は消え去ったこと。
怪獣が現れなくなったこと。
そして、アカネさんが壊した全てが元に戻ったこと。堀井も刈谷も、おそらくはあの不良たちも。みんなが気づかぬうちに生き返っていた。
(どこまでが夢で、現か。ウクバールに誘われたおっちゃんも、こんな気分だったのかな)
ただ、自分の内にある腑の落ちなさは、正直に言えばどうでもいい。今、この世界にアカネさんがいて、一緒に生きてくれることが嬉しい。そこに失くした友人たちが戻ってきたのなら、これ以上望むことはないだろう。
ハッピーエンド。
ご都合主義な気もするが、文句をつける気はない。
「……さて」
一言、気負いを入れてベッドから出る。
早く起きすぎて、余計なことを考えてしまった。だが、今日に限ってはちょうどいいかもしれないと思い直す。朝練もなく、ランニングの予定もない。でも、今日は年に一度の特別な日。
『文化祭』
高校生らしくクラス一丸となって準備してきた一大イベントである。当然、俺だって高校生の一人であり、そのために奔走してきた。それに、
(アカネさんと一緒に回るのは、絶対に楽しい)
いつものように怪獣の話をするのもいいけど、たまには青春を謳歌する恋人らしく。来年も学園祭が開かれるか分からないのだから。
まだ暗い秋空の下で、俺は気合を入れながら身支度を整え始めた。
どんな事情があったのかは、一学生の俺からは分からないが、ツツジ台高校で文化祭が開かれるのは、何年振りかの出来事らしい。何か事故があったのか、教員たちの気まぐれか。そんなわけで、一年から三年まで、生徒全員が文化祭初体験。当然、盛り上がりは相当のものだった。
各クラスに各部活、それに加えて有志団体。全体の出し物はかなりの数。
その中で、うちのクラスでは、いつも騒がしい問川達によって『男女逆転喫茶』が企画されていた。男子は女装、女子は男装をしての喫茶店。最初の頃は、男子から恥ずかしいとの声が上がったが、準備を進める中でみんなテンションを上げている。
俺はそのクラスの出し物と、サッカー部の方にも参加が決まっていた。
そんな文化祭を、アカネさんと二人、ゆっくりと回ろうと計画していたのだが……。
「うわ、人多い……」
「想像以上だね」
「……ゾイガーの群れ」
「その想像は、だめ」
「じゃあ、ドビシ……」
「俺たちも巻き添えだって」
今のアカネさんの頭の中を想像するのは、ちょっと怖い。
彼女がつぶやく通り、想像以上の人入りだった。狭い通路にひしめくほどの人、人、人。こうしてぴったりと身を寄せていないと離されてしまいそうなくらい。彼女と触れ合えるのは嬉しいけれど、お花畑思考ではいられないほどの人の多さ。
数年ぶりの開催という話題が、近所の人を呼び寄せたのか。元々、住宅街の真ん中にある立地がそうさせたのか。ツツジ台を志望しているのだろう、制服姿の中学生まで見える。こら、そこのガキンチョ、アカネさんに鼻の下伸ばしてんじゃない。
なにより、そんな人混みは、アカネさんにとって苦手なものだった。
「……っ」
「アカネさん、手」
「う、うん」
差し出した腕に、彼女がぎゅっと力を籠めて。どこかにある安寧の地を探し、書生風の男装に身を包んだアカネさんと二人、人波の中を進んでいきながら、頭の片隅で後悔。
(……タイミングずらした方が良かったかな?)
シフトを考えて、抜け出せるタイミングで二人きり。なんて、甘い計画をしていたのだけれど、文字通り、予想が甘かったのだろう。パンフレットで当たりをつけていた出し物は満員だし、押し合いへし合いで移動するのも一苦労。
不意に人に押され、アカネさんを握った右手が痛んだ。
「リュウタ君?」
また、悲しい顔をさせてしまう。やせ我慢をしていても、アカネさんにはバレバレなのだろう。だけど、こういう時くらいは我慢をさせてほしいとも思う。しかし、このままではせっかくの文化祭デートが台無しなのも確実だ、と焦りだした頃だった。
意外な救いの手が現れる。
「ちょいとそこのお二人さん、寄って行ってはいかんかね?」
怪しげな声。無理に作った老婆風。
救いの声というより、悪魔の囁きか何かじゃないか。けれども、俺たちはいきなり横からかけられた声によって、暗い小部屋へと導かれていった。果たして、二人の運命はいかに。なんて、シリアスには当然ならない。
「なんだ、なみこさんか」
「なみこかー」
「なんだよ! その気のない返事!! このバカップル!!」
いや、助かったのは確かなんだが。
声の主は、クラスメイトのなみこさん。彼女に連れていかれた先は、彼女が所属する茶道部の茶室だった。そこは正しく、俺たちが求めていた安息の地。茶道部の部屋が、人で溢れるはずもなし。和風の静かな雰囲気は、人混みで疲れた俺たちを癒すのに十分だった。
しんと音も染み入る部屋に入った途端、アカネさんは俺の手を引いて、畳の上に転がる様に避難する。為されるままの俺の背に、柔らかい感覚も加わった。柔らかな声が、首元をくすぐってくる。
「ちょっと充電させて……」
「うん、いいよ」
「やっぱり、背中、安心する。……ごめんね」
「大丈夫。俺も、アカネさんとこうしてると、安心するから」
アカネさん、こうするの好きだよね、なんて。俺はされる方が好きだから、この格好はちょうどいい。
「いや、茶室なんですけど。休憩室じゃないんですけど」
なみこさん、ごめん。
そうは思いつつも、なみこさんのジト目は無視させてもらった。ついでにその後ろからチラチラとこちらを見てくる他のクラスの女子たちも、当然無視。後でちゃんとお茶も楽しませてもらうから、許して欲しい。
そうして十分ほど、気力と体力を回復させて、ようやく俺たちは一つ目の出し物を楽しむことができた。茶を点ててもらうことなんて、めったにないから、苦くも甘みのある味は新鮮。活発で猫みたいななみこさんも、いつもを忘れるほど綺麗な所作だった。
お茶を頂いて、小さな羊羹を二人で食べあって。その時、扉が開いて、思わぬ客が茶室へ入ってくる。
「……あ」
「あ」
驚く声が重なる。俺も驚きで口が開いてしまう。だって、俺たちにとっても見知った顔だったけど、その二人の組み合わせは珍しかったから。
そして、その二人を見てアカネさんの雰囲気が大きく変わった。休んで気力も回復できたのか、面白そうに目を弧にする。話しかける声も、からかい混じりを隠そうとしない。
「あれー、六花ー。響君と何してるの?」
「別に、なにって……」
「もしかしてー、隠れてデートとか?」
アカネさんと仲がいい宝多六花さん。昔からの幼馴染だそうで、家も隣同士の友達だと聞いている。よく知らないうちは、なに考えているか分からないし、口数も少ないから、まともに話したこともなかったクラスメイト。けれど、最近は彼女も分かりやすいところがある、と思うようになった。
そんな宝多さんが、響を連れて茶室にやってきた。響である。響裕太である。我がクラスの純朴少年。宝多さんに片思いをしていた響裕太その人である。
二人の後ろには後ろでマスクをつけたはっすさんがいるから、二人そろって誘導されてきたのだろう。目がめちゃくちゃ笑っている。
さて、状況をもう一度まとめてみよう。片思いで不器用なアプローチを繰り返していた響が宝多さんと文化祭で二人きり。二人きりである。加えて、
「……ぅ」
宝多さんが声を詰まらせる。クラス企画のせいで、凛々しい軍服姿に身を包んでいる彼女だが、その涼やかな顔が微かに赤く染まっていった。隣の響の狼狽えようと、髪の色には負けるけど、俺が見たこともないほどに。
それを見て何かを考え付かないほど鈍感でもない。
「響、よく頑張った」
「うぇ!? いや、その、頑張ったりとかは、その……」
響へ向かって大きくサムズアップ。あの夏の時といい、老婆心ながら、色々と見守ってきた甲斐があった。内海と一緒に何か奢ってやろう。
真っ赤になる響の横では、アカネさんによる追及が更にヒートアップしていく。宝多さんの顔をじっと覗き込むように見つめ、心の底から楽しそうだ。
「いやー、六花には驚いたよ。いつの間に響君と? 告白したの? 顔真っ赤で、まんざらでもなさそうだけど?」
時に思うのだが、アカネさんって宝多さんには容赦ないところがある。遠慮がなく、距離が近い。あの小悪魔なところは、クラスの前だと中々出さないのに。
「……アカネだってデートしてるじゃん」
「えへへー。そーなんだー、リュウタ君と文化祭デート、たのしいよー!」
「そこまで訊いてないって……」
アカネさんに上機嫌な様子で、俺は腕を取られ、顔を寄せられ。宝多さんのジト目が痛い。
(さっきまで人混みにやられてたけどね……)
そこまでは口に出さず、『アカネだって』と墓穴を掘った宝多さんと、それに気づいて更に赤くなった響を見る。デートの認識ありだ。よかったな、響。
最後まで二人を祝福しつつ、邪魔者は退散とばかりに俺たちは茶室を後にする。
「六花はあのくらい言わないと、進展しないからね」
外に出たアカネさんは、どこか優しい目をしながら、後ろを見つめていた。顔を赤くしつつも、響の隣に寄り添うような宝多さんと、少し男らしく彼女をリードする響。アカネさんの目を見ながら、ふと言葉が漏れた。
「アカネさんにとって、宝多さんは特別?」
「あれ? リュウタ君、嫉妬してる?」
「正直、ちょっとだけ」
相手は女の子だけど。アカネさんが袖で口を隠して、くすぐったそうに笑顔を浮かべる。
「ふふ、もー! 変なの。でも、ちょっと嬉しいな。
……六花は、うん、特別だよ。性格とか、好みとか、違うけど、それでも私を好きでいてくれたし。六花にも私を見てほしいからイジワルしちゃうし。……でも、」
「でも?」
そっとアカネさんの香りが近づいてくる。まだ周りに人がいて、それでも、彼女は関係ないと。
頬に熱を感じた。
目を見開いて横を見ると、唇を押さえたアカネさんが頬を染めている。目線は響でも、宝多さんでもなく、俺にだけ向けられていた。
「一番の友達は六花でも、大好きな恋人はキミだけだよ?」
そんな言葉も、行動も、誰に見せても恥ずかしくないと言いたそうに。アカネさんはぐるっと回って、左腕をとって、強いくらいに抱き着いてきた。熱も鼓動も、心の奥まで伝わるほど、強くしっかりと。
周りの他人の目が呆然として、中には羨まし気なものも混じっているけど、誰の目にも俺たちの関係は伝わるだろう。
ああ、まったく。
「アカネさんには、かなわないな」
「私も、リュウタ君には勝てないって思うんだよね。だから、私たちはお似合いでしょ?」
「ガイアとアグルみたいに?」
「んー。喧嘩したくないから、その例えはヤダ」
それもそうだ。
俺は彼女と腕を組んだまま、温かい手のひらを重ね、強く握りしめる。ウルトラマンの名コンビと比べることもない。もっとずっと彼女は俺にとって大切で、きっと心も通じているから。
昼を過ぎる頃、人混みは少しだけ薄れていった。食事時ということで屋台や喫茶店に集まっているのだろう。今頃、クラスの前は人だかり。クラスLineで地獄の惨状が伝わってくるが、残念、俺たちのシフトは午後の後半。今は自由に楽しませてもらう。
俺たちはあらかじめ買っておいたスペシャルドッグをあっさりと食べて、今のうちに催し物を見て回ることに決めた。
三年生のお化け屋敷。
「演出は良い線言ってたけど、造形がイマイチ」
「アカネさんらしいけど……。もう腕、離してもいいよ?」
「……やだ」
漫研の即売会。
「怪獣モノないじゃん!!」
「同じオタクなのに……」
「リュウタ君、来年、展示出そう! 私、怪獣つくるから!!」
二年生の占い。
「えへへ、『お二人はお似合いでしょう』だって!」
「でも、『気持ちは十分に伝わっているから、スキンシップは控えめに』っていうのは」
「え? 何のこと? ほら、もっと、ぎゅってして?」
そして、休憩時間の最後に。
「おーい、来たぞー」
「おっせえよ、リュウ。……って」
「……見せつけやがって」
うぎぎぎと、歯ぎしりの音が俺にまで届いてきた。
サッカー部の出し物が開かれている校庭。いつものサッカー部連中は、アカネさんと腕組んだまま来たせいで、目つきと恨み節が厳しい。ただ、彼等にとっては幸いなことに、その声がアカネさんに届くことはなかった。
アカネさんは、目を丸くして、校庭に鎮座した大きさ装置に向かっている。
「……よく作ったね」
「フフフ、それほどでも。俺たちも少年の端くれ! と、くれば熱い想いがあふれ出してしまったんだ!」
俺をちょいと押して。今のうちにと刈谷がめいっぱいアピールを始めた。
サッカー部の出し物『ウルトラ的当て』。
離れたところから、青いボールを蹴っ飛ばし、ターゲットを倒せば景品という単純なゲーム。そのターゲットはすべて、ウルトラシリーズの怪獣だった。
訪れるだろう客はお子様連れも多いはず! なんて一年生の強い主張に折れた上級生たち。だが、俺だけは彼らの目的がアカネさんだったことを知っている。最近は、アカネさんのウルトラシリーズ趣味もうっすらと浸透してきたからだろう。
俺が様子見をしていると、調子づいた刈谷はアカネさんにゲームを勧め、足元にボールを置いた。めったにない距離に近づいて、アカネさんにあれこれと喋っているようだが、
「新条さんでも当てやすいのは、あのゴジ」
「ゴモラ」
「んんっ、ゴモラ。それか、あっちの、ロ」
「キングジョー」
「……すみません」
(……刈谷、むちゃすんな)
何だろう。
ほんとは自分の彼女が言い寄られている場面なのに、居たたまれなくなってくるのは。口を開くたび、アカネさんの刈谷への評価が急転直下で落ちていくのが分かってしまう。
アカネさんはボールをちょんちょんとつつきながら、十数個あるターゲットをぐるっと見回していった。俺が監修を務めたから、デザイン的には間違っていない怪獣たち。
その中に一つだけ、こっそりと用意しておいたターゲットを見つけ、アカネさんの目が上機嫌に染まった。
「アレ、狙っていいでしょ?」
「い、いや、新条さん。あれは怪獣じゃなくて……」
「ふんっ!!」
刈谷が止める間もなく、アカネさんの渾身のシュート。俺がちょっと前に教えた蹴り方で、見事な振り抜き。青い流星と化したサッカーボールは、ちょっと通常の軌道から外れて右に逸れ……。
「おぉ、ナイスシュート」
思わずつぶやいてしまうほど綺麗にターゲットの頭を打ち抜いた。
ウルトラマンの頭を。
「よっし、よっし、やったー!!!」
呆然とする刈谷や堀井を後目に、アカネさんは勝利の雄たけびを上げて、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。コスプレの袴でよかった、と心底思う喜び様の後、すぐにこちらに飛びついてきた。
「わわ!?」
「ねえ! 見てたよね! ウルトラマン倒したの!! リュウタ君のおかげ!!」
「……うん。すごかった」
あの事件の後も、アカネさんが怪獣派なことに変わりはない。ウルトラマン派兼任の俺にとっては、ちょっと複雑な気持ちはあるが、彼女が喜んでくれるのを見るのが何より嬉しいから、余計なことは言わず。
最近は、ウルトラマンもちょっとは応援してくれるんだけどね、アカネさんも。
俺の教え方が良かったのか、アカネさんの気合がすごかったのか。アカネさんのボールは何回もウルトラマンを倒していった。
そうして、楽しい文化祭の時間が過ぎていく。怪獣が現れることもなく、特撮やアニメのように、大きなトラブルが起きるわけもなく。文化祭は文化祭で、高校生がめいっぱいに楽しめる祭りのまま。
その後、俺はサッカー部の手伝いだったり、喫茶店のシフトに入ったりと、いやいやながらアカネさんと一旦分かれるしかなかった。アカネさんも友達と巡ったりする約束もあったらしい。
刈谷たちにジトジトと嫌味を言われたり、喫茶店ではメイド服に身を包んだ内海を笑ったり。内海から逆に衣装を笑われたり。先輩に猛烈に言い寄られていたセーラー服衣装の響を救出したりと楽しんで。
そんな慌ただしさも、ちょうど一段落したころ。
ふと渡り廊下が目に入った。秘密も何もなくなったので、自然と足が離れた場所。
懐かしくなり、足を延ばす。昔は秘密の手紙をやり取りしたり、昼休みにこっそり、ここで怪獣の話をした。手すりに体をもたせて、遠い景色を見つめながら、まだ遠かったアカネさんの横顔を伺う日々。今も変わらない思い出の場所からは秋らしく綺麗な夕空が広がっていた。
それを眺めて、一、二分。彼女がやってくる気がしていた。
そして、
「やっほー」
現実感を伴わない、透き通る声。
最初に声をかけられた時と同じ、懐かしい調子で。ふわりと、袴を靡かせながらアカネさんが跳ぶようにやってくる。あの時と違う、楽しそうな笑顔。
その手には彼女の瞳のように赤いリンゴ飴が握られていた。何処かの出店で買ったのだろう。ただ、大玉のそれは、彼女一人で食べるには多すぎると思い、けれど、アカネさんはそれを俺の口の方に寄せてくる。
「一緒に食べる、でしょ?」
俺は苦笑いをしながら受け取って、まだ艶立つ場所を一かじり。飴の甘さと、リンゴの酸っぱさが疲れた体にちょうど良かった。それをアカネさんに返すと、彼女も口を近づけて……。
「ふふ、甘いね♪」
「そっち?」
「うん」
彼女が口づけた場所に顔を赤くされる。最近は涼しくなってきたのに、随分と熱くなって仕方ない。キスだって何度もしてきたのに、こんなふとした瞬間に、アカネさんにドキドキさせられるし、好きな気持ちが積み重なっていく。
「ほんと、アカネさんはずるいな」
「じゃあ、リュウタ君も」
「うん。ずるいことがしたい」
言葉通り、不意をうって、彼女に近づいて、触れてみた。甘くて、ドキドキする味。リンゴ飴なんて必要ないくらい元気をもらう。
「えへへ」
「……む、予想通り、だったかな?」
「嬉しい予想通り。でも、リュウタ君がずるいのは同じだよ。……私のこと、ドキドキさせてばっかり」
もう一度、今度は彼女から。
夢のような幸福感に包まれながら、
(もしかしたら、傍から見て変な光景かも)
なんて馬鹿げたことを考える。まだ俺たちはクラス企画のコスプレのまま。アカネさんが書生の男装。俺が袴の女装。ちょうど俺の衣装は、体形を隠しがちだから。遠目だと男女が逆に見えるかもしれない。
それを少し照れながら言うと、アカネさんはふと、不思議な色の感情を滲ませた。
「……みんなが言っていたんだ。せっかくだからお揃いの恰好にしたって。……同じ時代に生きてた、恋人だったかもしれない人の衣装」
小さく、ぼんやりと呟くように、言葉が続いていく。
「嬉しいって思った。けどね、そういう時代なら、もっと会うの難しかったかもって思ったんだ。私は貧乏な学生さんで、リュウタ君はお嬢様。コテコテの恋愛ドラマじゃないと、一緒にいるの大変だよね」
俺には彼女の心の全部なんてわからないけど、彼女は何かを抱えているように見える。だから、せめて彼女の言葉をちゃんと受け止めたくて考えを巡らせた。
俺がお嬢様、なんてのは格好だけの話。だけど、身分違いの恋というのも、あながち間違いではないのかもしれない。現実では、アカネさんがお金持ちで、俺は独り暮らしの一般学生。
俺たちを引き離そうとする者は、今はもういない。けど、あの夜を想えば、それも当たり前じゃなくて、奇跡のような出来事だと思えた。ちょっと立場が違ったら、俺たちの関係も変わっていたかもしれない。
それでも。
ちょっとの口を閉ざし、心の中を固くして、俺は口を開く。
「それでも、アカネさんがどんな立場でも、俺はきっと諦めないと思う」
例え、あの夜のすべてが真実でも、たとえ怪獣使いでも。君が君のままでいてくれるなら。俺がアカネさんのことを好きで、幸せにしたいことは変わらない。だから、俺は、あの夜も走ることができたから。
心を込めて、それだけを伝える。
アカネさんは顔を伏せたまま、その表情は見えなかった。少し、腕が震えているように感じる。そんな彼女の唇が、小さく動いた。
「……もしも、私が神様でも?」
小さな、小さな声だった。
神様、その突拍子もない言葉が頭の中で反響して……。
「あはは、ごめんね! なんか、変なこと言っちゃって」
アカネさんは慌てたように、手を振る。曖昧に笑って、いつか見たクラスでの姿と同じように。そのまま、振り返って去ろうとするアカネさんに、言いたいことは決まっていた。
「もし、アカネさんが神様でも、きっと俺は好きになるから」
迷うこともなかった。
彼女からの返事もなかった。
ただ、振り返った彼女は、俺が好きになった笑顔のままで駆け寄ってくる。手を取って、嬉しそうに強く握って。今度こそ、二人並んだまま、まだ騒がしさの残った学校へと戻っていく。
つないだ手は温かくて、神様だなんて思えなかった。
第一話で水着、第二話で文化祭。
アニメで起こったイベントを順調に消化している訳ですが。
こちらで甘々に仕上げたということは、別のルートでの扱いは……
次回は冬。お楽しみに