ノット・アクターズ   作:ルシエド

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百城千世子の『アクターズ』

 好きになれないと、そう思っていた。

 

 いつも綺麗に笑っている千世子ちゃんを、人形みたいだと思った。

 心の無い演技を。

 他の人の心ある演技を、そうでないものに加工してしまう演技を。

 好きになれないと、思っていた。

 私の芝居の心を否定された時、友達になれないと思った。

 

 私は何も知らなかった。

 英二くんと手塚監督は知っていた。

 あの仮面は、千世子ちゃんの映画への執念そのものなんだって。

 だから英二くんはそれを守ろうとして、手塚監督はそれを壊そうとした。

 手塚監督はそれ以外のものが見たい人で、英二くんは友達が大切にしているものを同じように大切にしている人だったから。

 

 私は何も知らなかった。

 千世子ちゃんのその勇ましさを、その優しさを、その美しさを。

 英二くんが守ろうとしていたものを。

 多くの人の羨望と、期待と、信頼を向けられる千世子ちゃんのその強さを。

 

 それを知った時、私は初めて千世子ちゃんを好きになれた。

 

 私じゃきっと同じにはなれないその美しさを尊敬して、初めて好きになれた。

 

 だから『カレン』。私はあなたを、大切に想っている。

 

「よーい、スタート!」

 

 皆死んでしまった。

 皆いなくなってしまった。

 残っているのは私とカレンだけ。

 

「森の中のあの建物に、きっとこのゲームの主催者がいるんだわ。

 直接会ってちゃんと話し合うの! きっと分かってくれるはず……!

 大丈夫、ケイコは私が絶対守るから。こんなの捨てちゃおう」

 

 カレンが私の手を引いてくれる。

 流されるだけだった私の手を引いてくれる。

 それがいつも通りで、とても気楽で、でも申し訳なくて。

 私にできる何かは無いかと探しても、何もない。

 私は結局最後まで、"流されるだけのケイコ"だった。

 

 カレンは、とても綺麗だ。

 キラキラしていて、遠くを見ていて、本当は誰よりも優しくて、皆から憧れられる存在。

 その周りにはいつもたくさんの人が居て、いつだって皆を引っ張っていく。

 強く綺麗な憧れの気持ちを、カレンに対してだけは抱ける。

 

 カレンは本当に、天使みたいに綺麗だった。

 

「時間がない。夜明けまでに見つけないと! 行くよ、ケイコ」

 

「うん」

 

 だから思った。

 

 私()必ず、あなたを守る。

 

 "カレン"。あなたを守る。

 

 

 

 

 

 夜凪さんは、私を好きになれない人だったんだと思う。

 でも明確に嫌いかと言うと、また少し違う感じだったんだと思う。

 夜凪さんから私に対する感情は、どこまでいっても"好きになれない"止まりだった気がする。

 でも私は、初対面の時から……夜凪さんが少し嫌いだった。

 

 きっと私が一千時間かけても、片鱗すら掴めないような演技。

 私が一万時間かけて得たような力量を、鼻歌混じりに獲得する才覚。

 これは嫉妬? もっと醜い感情? もっと綺麗な感情?

 私は英二君ほど言語化が上手くない。

 でもきっと、今ここにあるこれは、憧れと言っていい感情だと思う。

 

 何も知らなかったから。

 私は、夜凪さんのことを何も知らなかったから。

 懸命なことも、必死なことも、生真面目なことも知らないで、勝手に知った気になってた。

 色んなことが羨ましくて、妬ましくて……他の人の前ではちゃんと被れていた仮面が、夜凪さんの前では度々外れかけてしまった。

 

 だから、ちゃんと手を引こう。

 あなたの手を引き、必要ならその芝居を加工しよう。

 この作品に、私に向き合おうとしてくれているあなたに応えるために。

 私とあなたでこの撮影を最後まで走り切るために。

 

 夜凪さんは、とても綺麗だ。

 キラキラしていて、遠くを見ていて、本当は誰よりも優しくて、皆から憧れられる存在。

 望んでもいないのに自然と人を惹きつけて、いつだって皆を引っ張っていく。

 今なら素直に、その芝居に憧れていた自分を受け入れられる。

 

 夜凪さんは本当に、夜空のように綺麗だった。

 

「時間がない。夜明けまでに見つけないと! 行くよ、ケイコ」

 

「うん」

 

 行こう、夜凪さん。

 

 この作品を、私達二人で完成させるために。

 

 

 

 

 

 千世子ちゃんと一緒に走っている私がいる。

 そんな私と千世子ちゃんを、少し離れて眺めている私がいる。

 私は一人で、私はたくさん。

 私の心はたくさんあって、私の視点はたくさんある。

 黒山さんはこれを、俯瞰と言っていた。

 

 千世子ちゃんを本気でカレンだと思い、千世子ちゃんと一緒に走っている私を、カメラに貼り付けられた目玉の私が見ている。

 それを見ながら、私はふと、英二くんがぽろっとこぼしていたことを思い出した。

 

『俳優の俳の字は、神事などで仮面を付けて踊った人のことを指したものだそうです。

 仮面を付け、人の顔を捨て、人に非ざる者になる……

 やがて歌舞伎、演劇の祖になったものが、その仮面を付けた舞踊であるとか』

 

 千世子ちゃんは今日も仮面を付けたまま。

 仮面を付けた千世子ちゃんと私が、台風の中、暴風雨の中を駆けている。

 

『日本におけるその手の神事は、アメノウズメ……

 アマテラスの岩戸の前で踊った踊り子が起源だと言われています。

 だから"人に非ず"と書いて、"俳"なんですね。

 日本における俳優、演劇というものの祖は、女優と言うこともできるのかもしれません』

 

 なんて綺麗に走るんだろう。

 雨の中、風の中、靴は泥だらけで、跳ねた泥水が足に着いてるくらいなのに。

 髪は雨に濡れて、風で乱れて、服もぐしょ濡れになって髪と一緒に貼り付いてるのに。

 綺麗にしか見えない。

 全然汚れてるように見えない。

 

 まるで、人間じゃないみたい。

 千世子ちゃんを周りの人が天使って呼び始めた理由が、よく分かった。

 

『人に非ず、ゆえに俳。

 俳にして優れている者こそが"俳優"。

 もしかしたら、昔は俳優というものは……

 人間じゃないように見えるくらいに優れた人を意味する名称だったのかもしれません』

 

 千世子ちゃんを見てると、英二くんが言ってたことに納得できる。

 仮面を付け、人じゃなく見えるくらいに美しく、手が届かない高さまで上がっていきそうなくらいに綺麗に、巧みに泥の上を・風雨の中を駆ける千世子ちゃん。

 その姿は、こうなりたいっていう憧れと、こうはなれないって諦めを同時に抱かせる。

 冷静さの怪物だ。

 

 私は懸命に、千世子ちゃんに並走した。

 いつも通りの綺麗な表情で私の一歩前を常に走り続ける千世子ちゃんは、やっぱり凄い。

 『カレン』は私の友達だから、それが当然のことだった。

 

 

 

 

 

 英二君が前に言ってた……人に非ず、だっけ。

 夜凪さんを見てると、この人こそがそうなんだって思い知る。

 私は色んなものを研究して、色んなものを技術として取り込んできた。

 だから分かる。

 これって、人間に可能なものなの?

 

 地面には穴や凸凹がたくさんあって、泥の水たまりにぬかるんだ部分、草が生えた部分に樹木の根っこが露出してる部分まである。

 私みたいに事前に徹底的に検討し、足場の調査もしていたなら分かる。

 でも夜凪さんは、そんなことはもちろんしてないし、それどころか自分が今お芝居をしていることすら忘れている。

 

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 完全に主観視点で走っているはずなのに、しっかりと周りが見えてる。

 照明の光を頼りに、分厚い雲のせいで光がほとんどない暗いこの道で、地面の凸凹に足を取られることすらない。

 映画としては、それが当然。

 でもリアルな芝居をする夜凪さんなら、一回くらいは転ぶのが自然だ。

 なのに転んでいないのは、夜凪さんが転ばないようにしてるから。

 それは夜凪さんが、自分をコントロールしない芝居をしながらも、自分を俯瞰して視てコントロールしているっていう矛盾だ。

 

 良い視力で地面を捉え、高い反射神経で素早く反応し、リアルな動きで地面のぬかるんだ部分などを回避して、私が走った場所=安全に走れる場所と認識し記憶し、的確に走る。

 泥臭い芝居なのに、転ばない。

 なんて人間らしい、人間離れした芝居。

 

 脚力が勝る夜凪さんと私が並走できているのは、私がこういう状況でどう走るかを十分に練習してきた人間で、どのルートを走るかを事前に考えて、計算し尽くした無駄の無い走りをしているからだ。

 夜凪さんはその場その場で反射的に最善の走り方・足の踏み場・走行ルートを選択している分、本気で走っていても私ほど全力を出し切れていない。

 逆に言えばその前提で初めて、私と夜凪さんは互角だっていうことだ。

 

 熱意一つで全て乗り越えられる、人に非ざる優れた者。

 一緒に演技しているだけで思い知らされる。

 その姿は、こうなりたいっていう憧れと、こうはなれないって諦めを同時に抱かせる。

 熱意の怪物だ。

 

 私は懸命に、主人公として、夜凪さんの前を走り続ける。

 芝居の途中でも成長を続ける夜凪さんの一歩先を走り続けるだけで、私は精一杯だった。

 

「A地点通過しました!」

「あいよ」

「この雨でちゃんと点火してくれますかね!?」

「なめんな」

 

 聞こえる。

 夜凪さんには聞こえてないかもしれないけど、周りさえ見ていれば、私達の撮影を支えてくれている裏方の人達の姿も見える。その声も聞こえる。

 カメラに映ってない範囲を駆け回ってる英二君の姿も見える。

 来る。爆発だ。

 

 どぉん、と地面が爆発する。

 

 英二君のテクニックで"尖った"爆発は、私が事前に言っておいたルートを走る限り、絶対に私に当たることはない。

 私は芝居をしながら予定ルートから誤差1cm以内で走り、英二君も爆発位置と爆風の通過範囲を誤差1cm以内に抑える。

 私達は互いを信頼し、互いの信頼に応える。だからこそ怪我も事故もありえない。

 

 英二君の本領はウルトラマンの光線が当たった怪獣が爆発する瞬間を表現する人形の爆発らしいけど、地面を爆発させても彼は一流だ。

 私は走るルートを調整し、身振り手振りの動きを加えて、私と一緒に走っている夜凪さんの走行ルートをコントロールして、爆発に当てないようにする。

 役に入れ込みすぎる夜凪さんだとうっかり爆発に巻き込まれることも……いや、最悪、ミサイルに当たる自分の方がリアルだと判断して、爆発をそもそも避けないかもしれない。

 芝居をしながら、爆発の合間を抜けつつ、夜凪さんをコントロールして、全力で走らないと。

 

 それにしても夜凪さん。本当に、怪物だ。

 

 このシーンは、ミサイルが空から飛んで来て、走る私達の近くの地面が爆裂するシーン。

 夜凪さんはこのシーンに合わせて、爆発の直前に空を見上げる仕草を見せた。

 後で英二君が作った模型のミサイルを空に合成すれば、爆発の直前に空を見上げた夜凪さんの動きのおかげで、随分リアルに見えるかもしれない。

 

 でもこれは。これまでの夜凪さんの演技とは、決定的に違う。

 

 目の前に殺人者がいて、それに妥当な反応を見せるなら分かる。

 目の前に崖があって、そこに妥当に飛び込んで逃げるなら分かる。

 役に入り込んだ夜凪さんの目に見えて、耳に聞こえたんだから、反応するのは当然なんだから。

 

 でも今、夜凪さんが空を見上げる理由は無かったはず。

 空には何も無いし、空から何も音はしなかったんだから。

 爆発の直前だったから、何も起こってなかったはずなんだから。

 なのに夜凪さんは、空にミサイルを見つけたかのように、空を急に見上げた。

 何も起こってない爆発の直前に、夜凪さんは空にミサイルの幻覚を確かに見ていた。

 

 "私はカレンと一緒に走っているケイコだ"と思い込んで走っていて、芝居をしていることすら忘れている夜凪さんがいた。

 自分をケイコだと思い込んでいる夜凪さんを、俯瞰視点で見ている夜凪さんがいて、その夜凪さんが、自分をケイコだと思い込んでいる夜凪さんにミサイルのイメージを見せた。

 幻覚を見せた夜凪さんと、幻覚を見せられた夜凪さん。

 二重人格じみた一人二役。

 そうでもしないと、夜凪さんがミサイルの幻覚を見て空を見上げるなんて出来やしない。

 

 なんて、異常。

 自分の思い込みで、芝居をしている自分にとっての現実を捻じ曲げて、それを見ている周りに人にすら一定の錯覚を生みその人達にとっての現実まで捻じ曲げてしまう。

 私達の周りで続いている爆発より、こっちの方がずっと怖い。

 私まで夜凪さんに飲まれてしまったら。

 夜凪さんがこの場面の主役になって、私が主役でなくなって、作品が破綻してしまう。

 

「―――あ」

 

 小さく漏れた夜凪さんの声が爆発に飲まれて、私は夜凪さんに押し倒されるように、夜凪さんに庇われた。

 予定にない演技。

 けれど"ケイコが爆発からカレンを庇う"というワンシーンが成立して、カメラ視点だと最高のワンカットになったことが、感覚的に分かった。

 予定にない芝居は、私がコントロールしないと。……流れが、不味い。

 

「カレン! 大丈夫!?」

 

 ―――ああ、そっか。そうなれたんだ、そう思えたんだ、夜凪さん。

 

「伏せて! 遠くから狙われてる! 私達を近づかせないつもりだわ!」

 

 理由は分からない。でも確かにこの子は、私をカレンだと認識し始めている。厄介だ。

 

「ありがとうケイコ。行こう」

 

 役に入れば入り込むほど、夜凪さんの芝居の質は上がる。

 周りを引き込むものになる。

 私を本当に友達だと思えたなら、その時こそ夜凪さんは最大の能力を発揮して……夜凪さんの最高の演技と、最高の見せ場が揃ってしまう。

 端役止まりのシーンならまだしも、ここでそれをやられたら。

 ……そうなったら、あまりよろしくないかな。

 早めに芝居を仕上げて……え?

 

 夜凪さんが、座り込んだまま私の手を無言で掴んでる。

 

 ―――"カレンに傷付いてほしくない"って感情が、伝わってくる。

 

 これは、凄いなぁ。本当に。思わず歯噛みしたくなる。

 夜凪さんは何も言ってないのに、感情が伝わってくる。百の言葉が伝わってくる。

 カメラ横の手塚監督にも、画面を見てる他の俳優さん達にも、きっと無言のままの夜凪さんの気持ちは伝わってるだろう。

 カレンに傷付いてほしくなくて、怖がってて、こんなことをしてるんだって気持ちが、誤解なく全員に伝わってるだろう。

 カメラ越しにも絶対に伝わる。

 どんな人間にも共通の見解を伝える。

 たった一つの解釈しか許さず、カメラ越しにも観客に伝える強烈な伝達力と演技力。

 

 ケイコはこの場面なら絶対にこうする、と他の人も皆頷くような、場面に合った妥当で最適なアドリブ。撮影の破壊行動だ。

 私も一瞬、夜凪さんがケイコにしか見えなかった。

 

 生半可な芝居をしても、こうなった夜凪さんは動かせない。

 中途半端な芝居をすれば、夜凪さんの芝居に引っ張られてもう前に進む流れには戻せない。

 全ての裏方と俳優が作り上げた一連のストーリーを、夜凪さんの芝居が持つ破壊力と説得力は覆してしまいかねない。

 それを止められるのは、私一人。

 うん、そうだ。

 やってやろう。

 手塚監督は私の仮面が夜凪さんに壊されることを……夜凪さんが私に勝つことを期待してるみたいだけど、少なくとも英二君は、私の方を信じてくれているらしいから。

 

「ケイコ。大丈夫」

 

 夜凪さん―――喰わせないよ。

 

「行こう」

 

 私は夜凪さんの頬に手を当てて、『大切な親友同士のように』、優しく語りかけた。

 

 

 

 

 

 千世子ちゃんは凄い。

 

 どんな人生を生きて、どんな選択をして生きたらそうなれるんだろう。

 私はきっと、千世子ちゃんのそれには及ばない。

 私はずっと逃げていただけだ。

 映画の世界に逃げて、逃げて、逃げた先で黒山さんに拾われて、女優になっただけ。

 

 私より千世子ちゃんの方が素敵なことは、私が一番よく知っている。

 

 父に捨てられ、母は死に、ルイとレイのために毎日余った時間を全てバイトに費やした。

 そんな現実に向き合いたくなくて、映画を見て架空の世界に逃げ込んだのは、私の弱さだ。

 英二くんだって、きっと千世子ちゃんだって、楽なだけの人生を送ってたわけがない。

 少なくとも、私が見てきた凄い人達は、私がしてこなかったような努力をした人達だった。

 

「ケイコ。大丈夫」

 

 もう知っている。その仮面の意味を。

 

「行こう」

 

 それはあなたの、映画への執念そのものなんだと。

 

「うん、行こう」

 

 立ち上がって、千世子ちゃんに手を引かれて走り出す。

 

 千世子ちゃんに出会えてよかったと、素直に思える。

 この人となら、どこへでも行ける。

 英二くんが俳優同士高め合うことを願っていた理由が、少しだけ分かった。

 自分一人では行けなそうな場所にも、千世子ちゃんに"行こう"と言われると、千世子ちゃんと一緒ならと思うと、行けると思える。

 千世子ちゃんに対して"負けるか"と思うと、たくさん力が湧いてくる。

 私の少し先を走っている千世子ちゃんが、私を引っ張って、もっと高めてくれる。

 

 英二くんが時々言ってた『戦友』っていうのは、きっとこれだ。

 私達俳優は。

 役者で在り続ける限り。

 きっとずっと、ひとりじゃない。

 

 それはきっと、とても幸せなことなんだわ。

 

 

 

 

 

 夜凪さんから不安が消えるのが、見て取れた。

 

「うん、行こう」

 

 夜凪さんの手を引いて、立ち上がった夜凪さんを先導するように走り出す。

 よし。

 なんとかなったかな。

 最初は面倒臭いとか、厄介とか、そんな風に思っていたけど……手がかかった分だけ名演を見せてくれる夜凪さんのコントロールが、ちょっと楽しくなってきた気がする。

 ほんのちょっとだけど。

 

「動き始めました、B地点通過。後30秒ほどでそちらへ着くかと」

 

 ちらちらと、裏方の声も聞こえる。

 後少しだよ。裏方の人達も、もう少しだけ頑張って。

 

 夜凪さんは凄い。

 

 どんな人生を生きて、どんな選択をして生きたらそうなれるのかな。

 私はきっと、夜凪さんのそれには及ばないんだろう。

 私はずっと逃げていただけだ。

 映画の世界に逃げて、逃げて、憧れを理由に女優になって、天職を見つけただけ。

 

 私より夜凪さんの方が素敵なことは、私が一番よく知っている。

 

 横顔を見られるのが怖かった。

 自分の横顔を見られることを怖がらない、夜凪さんとは対照的に。

 

 現実から逃げるために映画を見て、架空の世界に逃げ込み、自分を捨てた。

 自分を使い、自分を見せる、夜凪さんとは対照的に。

 

 とても、とても生き辛かったから、横顔を他人に見られないように、仮面を被せた。

 色とりどりの横顔を他人に見せる夜凪さんとは対照的に。

 

 夜凪さんはいい人だよね。

 私の友達を演じられるということは、私のことを友達だと思えるようになったということで、私のことを仮面ごと大切に思ってくれるようになったってこと。

 それが、嬉しい。

 

「来た、隠れてケイコ!」

 

 地面が弾着で小さく爆発する。

 怪獣のスーツの表面に銃弾が当たる表現と同じものが、英二君の技術によって地面の上に発生している。

 そこに本当に銃弾が当たっているかのように。

 私と夜凪さんは作りものの大岩の影に隠れて、迫真の演技を続けた。

 

「やっぱり脅しだわ! 当てる気ないみたい! どうして!?」

 

「仲間同士で殺し合わせたいだけなんだ!」

 

「酷い……! 何のために!」

 

 なんて迫真の演技。

 リアリティを求める芝居なら、役に入り込む芝居なら、感情が乗った演技なら、もう夜凪さんのそれを私が超えることなんてできない。

 表現力と立ち回りで夜凪さんより目立つことはできるけど、それだけだ。

 夜凪さんをもっと私の芝居を引き立てるために使えるように、調整しないと。

 

 岩陰の演技は走らなくていいから、芝居をしながら一息つく。

 

 ……本物だ。夜凪さんは、本物だ。

 私の芝居と違って、夜凪さんの芝居には魂がこもってる。

 きっとモニター越しにお芝居を見てる俳優の皆も、私の芝居じゃなくて夜凪さんの芝居にばっかり言及してるんだろうな。

 見なくても、なんとなく分かる。

 画面越しに魂を揺さぶるパワーは、夜凪さんだけが持っている強烈な個性だ。

 

―――美しい作り物は魂がこもってるものだけだと、母さんが言ってた

 

 ああ、なんで小学校の時に英二君が言ってたこと思い出しちゃうんだろう。

 夜凪さんは自分全てを加工する。

 心も、体も、魂も、全身何もかもその役になりきるかのような芝居をする。

 魂のこもった仮面を被るのが私なら、全身全てで演じてその全てに魂がこもってるのが夜凪さんで……それがとても、羨ましい。

 

―――良いと思うよ。俺は美しいと思う。だって、魂込めて描いたってことは伝わってくるから

―――……あ、あー。もしかして絵の子?

 

 英二君もすっかり忘れてるような、私はしっかり覚えてること。

 私と英二君が少しの間だけ、同じ小学校に通っていたことも。

 私が描いた絵を褒めてもらったことも。

 あの時の私が、今のままの私じゃ英二君の友達にもなれないと思ったことも、忘れない。

 全部、私の大切な思い出だ。

 

 彼は魂がこもった作り物が好き。十年前も、十年経ってもそうだった。

 私の仮面も、夜凪さんの芝居も。

 そして、好きにあんまり上下を付けない人だってことを、私は知っている。

 なら私はこの仮面を付け続けよう。

 夜凪さんの芝居が私の芝居を喰って主役になりかねないと分かっていても、胸を張って仮面を付け続けよう。

 

 最後まで。

 

 

 

 

 

 最後まで、千世子ちゃんと駆け抜ける。それだけを胸に走り続ける。

 ケイコとしての私。

 現場を見下ろす俯瞰の私。

 ケイコは大事な友だちだと、夜凪景は大切な戦友だと、そう思えてるから。

 

 どんなことが起ころうと『その作品を完成させるという自分の役目を完遂する』っていう、執念って言い換えてもいいくらいの強い想い。

 それが、千世子ちゃんと英二くんにはある。

 それが、私にはまだないのかもしれない。

 執念。

 妄執。

 あの二人には自分の命より大切なものがあって、同じものを大切にしてるんだ。

 私が大切にしているものを、英二くんが同じように大切にしてくれているのと同じように。

 

 天使は、なんでこんなに綺麗でいられるんだろう。

 なんでこんなに、どんどん綺麗になるんだろう。

 千世子ちゃんに追いつこうとしても、追い越そうとしても、私の芝居を1良くするたびに千世子ちゃんの芝居は1綺麗になっていく。

 このワンカットの間にも、千世子ちゃんの芝居はどんどん綺麗になっていく。

 どんどん手が届かないような高みにまで昇っていく。

 本物の天使が羽ばたいて、空高くまで行くように。

 

「やっぱり脅しだわ! 当てる気ないみたい! どうして!?」

 

「仲間同士で殺し合わせたいだけなんだ!」

 

「酷い……! 何のために!」

 

 スターズの天使・百城千世子。

 なんで彼女が私達の世代のトップなのか。

 なんで他の天才がどんなに努力しても、千世子ちゃんには敵わなかったのか。

 なんで私が千世子ちゃんを参考にして技術を吸収してるのに、追いつけないのか。

 その理由が、分かった気がした。

 

「攻撃の止んだ今のうちに!」

 

「うん!」

 

 英二くんが仕込んだ弾着の起動が終わって、私の目に見えていた銃撃が止んで、銃撃が止んだ嵐の中を私と千世子ちゃんが走り出す。

 

 滝のような雨。

 壁のような逆風。

 飛び散る泥水。

 光の無い周囲。

 そのどれもが、千世子ちゃんの綺麗さを損なわない。

 

「ああ」

 

 嵐の中でも、闇の中で光り輝く天使のように、千世子ちゃんの芝居は光り輝いていた。

 

「見えてきたよ、ケイコ」

 

 思わず、千世子ちゃんの笑顔を横から見ていた私は、笑顔になってしまう。

 千世子ちゃんの芝居につられて、つい笑顔にさせられてしまった。

 なんて素敵で、綺麗な笑顔。

 苦境の中でこそ輝く天使……まるで、神話の一幕でも見てるみたい。

 

「……うん!」

 

 私はケイコ。

 カレンは私の友達だ。

 あそこに見える施設に全ての黒幕がいる。だから、私は―――

 

「―――」

 

 ――――。水―――?

 

 増水? 洪水? 鉄砲水?

 カレンが水に足を取られた?

 カレンの足が浮いてる。踏ん張れない?

 ―――カレンが流されて―――そっちは斜面―――カレンが死―――死―――?

 

「カレン!」

 

 考えるより先に、カレンを掴んで、引き戻して、代わりに私が斜面に落ちた。

 うん。

 これでいい。

 洪水に流されながら落ちていって……私はここで死ぬけど、これでいい。

 私はここまで、何もできなかった。

 友達が死んでいくのを見ているだけだった。

 カレンみたいに何かを提案して皆を引っ張って来れなかった。

 でも、何もできない私が最後に、カレンを助けられたなら。

 きっとそこには、意味があると思うの。

 

「行って」

 

 凄い勢いで、体が斜面を流れ落ちていく。

 私の頭を下にして、私の体が流れ落ちていく。

 速いウォータースライダーって、時速40kmくらいあるんだっけ?

 もう助からないと思った私の目には、景色が流れるのがゆっくりに見えて、のんきなことが頭に浮かんできてしまう。

 凄い角度の斜面。

 私、きっと助からないかな。

 

 こんな天然自然の急斜面に、助かる理由なんてあるわけないし。

 

「ケイコ!」

 

 カレンの声が聞こえて、私はやがて来る痛みが怖くなって、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 その叫びは。

 

「ケイコ!」

 

 きっと、百城千世子のもので、カレンのものだった。

 私を助けてくれた夜凪さんへのもので、私を助けてくれたケイコへのものだった。

 咄嗟に役の名前が出たのは、夜凪さんの命がけの行動が……ケイコという芝居が、仮面で演じる私でさえ、心の底から『カレン』にしてしまったということ。

 友達が、私の、代わりに。

 

 台詞が出てこない。

 言え台詞を。

 作れ仮面(かお)を。

 それが私の仕事だ。

 

 いつも私が一人で支えてきた。今回だって。

 「ありがとう」と、最後の台詞を。

 いつものように。

 いつもの仮面(かお)で。

 いつもの仮面(かお)で―――

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 いつもの顔が出来てなかったことは、自覚できていた。

 いつもの仮面が作れていなかったことは、自分でも分かっていた。

 夜凪さんのように、役と自分の境界が無くなって、百城千世子として/カレンとして夜凪景に/ケイコに、『ありがとう』と言っていた。

 本物の涙が、溢れ出そうになっていた。

 

 行ってと言われた。肯定的な返答を返せなかった。行けなかった。足が動かなかった。

 二人分のありがとうを言って、そのままそこにへたりこんでしまった。

 

「カット、OK」

 

 私が、皆が、走り出す。

 

「急げ! 林の向こうに落ちたぞ!!」

 

「千世子さんも避難させて!!」

 

 思わず、声を張り上げていた。きっと今の私は、仮面なんて全く被れてない。

 

「お願い! 急いで!! 夜凪さんを助けて!!」

 

 夜凪さんの体一つをさらってしまうくらいの、川の増水による水の濁流。

 増水した川から流れ込んできたものだから、水の流れはまだ止まってない。

 濁流が通り過ぎた斜面は全部ドロドロかヌルヌルで、足を踏み入れたら確実に滑る。

 そんなことにすら、私は気付いていなかった。

 

「あ」

 

 夜凪さんを身一つで助けに行こうとした私の足が、斜面で滑る。

 迂闊で愚かな私の行動は―――私の怪我という結果には繋がらず、私の体は優しく抱きしめられるようにして、落ちないように支えられていた。

 

「危ないことしないでください、百城さん」

 

「……英二君!」

 

「要救助者を何の準備もなく助けに行こうとして、自分も要救助者になる人っているんですよ」

 

 英二君は私を抱えながら、斜面をロープでするする降りていく。

 その過程で、色んな人に指示を出していた。

 

「助監督!

 レフ板でもなんでもいいです、板状のものを立ててください!

 景さんを流した濁流を一回止めてください!

 手の空いてる人医療班に連絡!

 汚れた水が傷口に触れてたら破傷風までありますよ!

 チーフ! 前に景さんがゲロ吐いた時に使った簡易担架キット準備!

 美術班! 車のウィンチからロープ垂らす準備は完了してるはずです、こっち垂らして!」

 

 指示は冷静だけど、声色はとても焦っていて、英二君にとって夜凪さんがどのくらい大切なのか伝わってくるかのようだった。

 私なんて降ろしちゃえばいいのに、夜凪さんが心配でたまらないくせに、降りるスピードが遅くなると分かっていても私を大事に抱えながら降りていく。

 英二君にとって私がどのくらい大切なのか伝わってくるかのようだった。

 

「いた! ……よし、ネットだ! ネットに引っかかってる!

 頭から突っ込んでる……よかった、ネット以外のものにぶつかってなくて……!」

 

 英二君が心底安堵した声を出して、私を降ろしてくれる。

 私は無我夢中で、夜凪さんに駆け寄った。

 

「夜凪さん!! 夜凪さん大丈夫!?」

 

 夜凪さんがうっすらと目を開けて、こっちを見た。

 

「千世子ちゃん。私……顔、ケガしてない?」

 

 ―――ああ。

 

 今の私、仮面すら付けられてない表情で、とってもいい顔で笑ってる気がする。

 

 自分の命の心配より、自分の顔に傷が付いていないか、撮影に影響が出ないかを気にする女優。

 

 私と同じ考え方ができる女優。

 

「役者さんだもんね。大丈夫。綺麗なままだよ」

 

 滑らないように、木を掴んだり地面の凹凸に足を引っ掛けた人達が、次々降りてくる。

 皆心配そうに降りてくる。

 沢山の人が降りて来る。

 凄いよね、夜凪さんは。

 いつの間にか芝居一つで、裏方の人達にもこんなにも沢山、好かれてたんだから。

 

「朝風さん。斜面上で担架組めました」

 

「じゃあ景さん、ちょっと失礼しますよ。

 俺が抱えて、俺と夜凪さんをセットで上の車が引っ張り上げます。

 ゆっくり引っ張り上げますので、痛い所があったりどこかが引っかかったら言ってください」

 

「うん、わかったわ」

 

「では」

 

「ひゃっ」

 

「あ、夜凪さんお姫様抱っこだ」

 

 女の子の夢ー。

 

「え、英二くん……別のやり方で……」

 

「どこが怪我してるか分からないんですから、動かないでください」

 

「英二君、夜凪さん抱いてる手付きがやらしくない?」

 

「いや全然やらしくないと思いますけど」

 

「やらしいよね、夜凪さんもそう思うよね」

 

「う……そう言われるとそんな気がしてきたわ……英二くんのドスケベ大魔神……」

 

「二人まとめて斜面に投げ捨てていきましょうか?」

 

 うっわー英二君余裕ない。

 やっぱ余裕なくなってたか。

 ……私も人のことは言えないけど。

 でも英二君、どこか心の問題に決着が付いたような表情してる。

 作品のために命をかけて、無事終わらせた。

 宣誓してから、英二君の前で、事故で死なない姿を、英二君を置いていかない姿を見せた。

 きっとそれは、英二君にとって小さなことじゃないと思う。

 

 ? 英二君がこっちをじっと見てる……?

 

「あ」

 

「どうかした?」

 

「あ、あー。あー! 思い出した、思い出しました!」

 

「何を?」

 

 私見て思い出すことなんてある?

 

 

 

「小学校の時に一つ学年下だった絵の女の子! お久しぶり……って言うのも今更ですかね」

 

「―――」

 

 

 

 ―――。完全に、不意打ちだった。

 

「なんで、今……」

 

「景さんのおかげでしょうか?

 俺、芸能界で百城さんに会ってから初めてですよ。仮面完全に外した百城さん見たの」

 

「……あ」

 

「仮面の下に素顔があることは知ってました。

 仮面越しに見てもいました。

 でも仮面を完全に外した顔を見たのは初めてでしたから」

 

 英二君は、私なんかのことは忘れていたと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。

 小学校で会った時の私は普通の女の子な私。

 芸能界で私より先に人気番組に関わる人間になっていた英二君と、私が一緒の仕事をするようになる頃には、私の仮面は完成していた。

 再会した時の私は、既に仮面を被っていた。

 

 そうだ、そういえば。

 

―――ええと……ごめん、名前なんだっけ?

―――……あ、あー。もしかして絵の子?

 

 あの頃も英二君は、忘れてるんじゃなくて、思い出すきっかけがないだけだった。

 

「よく覚えてたね、英二君も」

 

「絵に魂がこもってましたから。

 そうですね、あの頃から百城さんの作品には魂がこもってたんですね」

 

「……うん」

 

「あと笑顔も可愛い子だったなと。絵とセットで覚えてたので、連鎖的に思い出しました」

 

「うん」

 

「言ってくれればよかったのに、なんで黙ってたんですか?」

 

「私の方だけ覚えてて、英二君は忘れてるって、ちょっと悔しかったから」

 

「それはその、すみません」

 

「いいよ、許してあげる」

 

 夜凪さんは本当に凄い。

 私が心の奥にしまっていたわだかまりを、もののついでみたいに破壊しちゃった。

 ああ、そっか。

 私、思い出してほしかったんだ。

 "私の思い出"じゃなく。

 "私と英二君の友情の思い出"にしたかったのかな。

 

「あははっ」

 

「なんで笑うんですか?」

 

 笑うしかないよ。今は仮面付けてられないから、素直に素顔で笑うしかないんだよ、私。

 

 

 

「ばーかっ」

 

 

 

 あーもう。もう本当に英二君は。本当にもう。

 

「えっ、な、何ですか!?」

 

「言いたくなっただけ。だってもう、これ以外に感想の言葉言えないよ」

 

 なんだろう。

 もう、言葉に出来ない。

 でも、ああ、そうだ。

 もう一度、この気持ちを口にしておこう。

 この気持ちだけは言葉にできるし、胸から溢れてしまいそうだから。

 

「夜凪さん。ありがとう」

 

 英二君にお姫様抱っこされた夜凪さんが、こくりと頷く。

 

 感謝の言葉を言われる理由が分からないといった風に、曖昧に笑う夜凪さんがおかしくて、私まで思わず笑ってしまう。

 

 ああ、良かった。

 

 クライマックスの撮影を、私も夜凪さんも、英二君も皆も、笑って終えられた。

 

 よかった。皆、ありがとう。頑張ってくれた皆、本当にありがとう。

 

 映画の心臓、完成したよ。だから、何度でも言わせてほしい。

 

 ありがとう。

 

 

 




アク:ター's


ack:アク。肯定的な返答の意のスラング。パソコン用語が変じたアメリカ系のスラング英語
ta:ター。イギリス系のスラング英語で「ありがとう」の意
ター's:スラング。多くの人に言われたお礼、一人に繰り返されたお礼

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