「痒いところはありませんか~?」
バスチェアに腰掛ける彼の後ろに陣取った私は、定番のセリフを使いながら彼の頭を洗っていく。
ワシャワシャと髪を泡だらけにしながら、正対するように取り付けられた曇りかけの鏡を見ると、目に泡が入らないようにと瞼をキュッと閉じた彼の顔が映されていた。
「ん…もう少し力入れていいよ」
「おっけー」
誰かに髪を洗ってもらうと、とても気持ちがいいのは何故だろうか、そんなことを考えながら引掻かないように気を付けて力加減を調節する。
彼はヘアサロンに行ったことがない、したがってプロが行う洗髪の気持ちよさを知らない。
素人の私が行うそれしか知らないと思うと、いつかヘアサロンに連れて行ってあげたいと思うのだが、彼の洗髪も私の特権だと思うと今しばらくは私で我慢してもらいたい。
そもそも彼は滅多に外へ出たがらないのだから、必然的にカットも私が行うことになる。
…一瞬本気で理容学校へ通おうかと思ったが、新社会人にそんな暇はない。
やはり彼には私で我慢してもらうしかなさそうだ。
「ほい、じゃあ流すよー」
空のバスタブに向かってお湯を吐き出し続けていたシャワーヘッドを手に取り、片手で泡を流していく。
一通り流したら、仕上げにリンスをして終わり。
彼はもともと中性的な顔立ちだが、ミディアムの黒髪が肌に張り付き水滴を垂らす姿は、ぱっと見女性にしか見えない。
ふと私の視線が、彼の腕に移る。
薄らと白い線が何本も短く這い、その上から新しくできた、未だ治癒しきれていない赤紫のリスカ跡。
中にはケロイドになっている物も少なくない。
反対の腕には傷口が水に触れないようサランラップが巻いてある。
「少しずつでも止めていけたらいいね」
私が彼の肩に顎を載せて呟くと、彼は小さく頷いた。
それが少しだけ嬉しかった私はそのまま彼に抱き着く。
「ねぇねぇ!次は私の髪を洗ってよっ!」
「いいけど、僕きっと下手だよ?」
「いいからいいから!」
私はその場で反転し正座で待機する。
幾ら夏場とは言えバスルームの床は少し寒いが、彼が私の髪を洗ってくれると思うとそんなことは大した問題ではない。
期待を胸に待っていると、ぎこちない手つきで彼の手が私に触れる。
髪ではなく肩だったのは少し予想外だった。
そのまま何度か肩を撫でた後、思い出したかのようにシャンプーを手に取る。
カシュッカシュッと2度のプッシュで吐き出されたシャンプー液からは、洗いたての彼の髪と同じシトラスミントが香りが漂う。
それを私の髪に乗せたところで、重要な事を思い出した。
「私…買ってきた食料品、玄関に置いたままだ…」
幾らクーラーを付けているとはいえ、夏場に常温で生鮮食品を放置するのはいただけない。
しかも、あれから割と時間が経っているため、傷み始めているかもしれない。
…が、あとで買い直せばいいか、と開き直ることにした。
それよりも今は彼の手を感じることが最優先だ。
背後からは、彼の苦笑いが聞こえた。