『それ』は、油断した時に現れる。
『それ』は、明確な殺意をもって跳びかかる。
『それ』に遭ったら、全てが終わる。

※あの沼引き摺りピエロは全くの無関係です。

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※ペニーワイズは出てきません。




『それ』

 中央司令部は、今日も慌ただしい日を迎えていた。

 北の国境では、ドラクマが目を光らせて、このアメストリスの寝首を掻こうと身構えている。

 イシュヴァール人の問題も解決されておらず、あの国家錬金術師殺しである凶悪犯『傷の男(スカー)』の動向も掴めていない。問題は山積みの状態にある。

 そんな、アメストリスの中央に位置するこの司令部は、今日も変わらず怒号が飛び交っていた。

 

「おい、あの資料はまだか!」

「すみません、まだ完成しておらず──」

「鋼の錬金術師が、北に向かっただって? 一体なんでそんなとこに──」

「これ、傷の男(スカー)の目撃情報じゃないか!?」

 

 誰も彼もが、紙の束と電話を片手にそれぞれの仕事に汗を流す。

 そんな、騒がしい事務室の横を。人がごった返しになったこの廊下を。颯爽とコートを靡かせる、白衣の錬金術師が一人。

 

「~~♪」

 

 どこか上機嫌な様子で、鼻歌交じりで。

 彼は、軽やかな足取りのまま、横から響く騒音にもまるで気に留めず歩き続ける。

 

 ──彼の名は『ゾルフ・J・キンブリー』。

 紅蓮の錬金術師という二つ名を与えられた、傷の男(スカー)を追い求める男。

 彼もまた、国家錬金術師だった。

 

 

 

 そんな彼が向かうは、傷の男(スカー)を追い求めてこの司令部の外────では、ない。

 実はこの男、涼しい顔をしているが、便意を我慢している。

 

 もう一度言う。如何にも有能な悪の幹部のような、不敵な笑みを溢しているが、実はこの男────便意を我慢している。

 

 では彼が向かう場所はどこか? 

 

 傷の男(スカー)か?

 まさか。河川敷に集う土方業の男でもないのだ。今はまだその時ではないと、キンブリーは理解している。

 

 ではどこか?

 決まっている。

 

 ────便所だ。

 

 

 

 

「……ふぅ、なんとか間に合いましたか……」

 

 司令部南棟二階、男性用トイレ。

 彼は。国家錬金術師──別名、『紅蓮の錬金術師』のゾルフ・J・キンブリーは。

 腹に溜まる猛烈な不快感を抑え切り、なおかつそれが周囲に伝わらぬよう何食わぬ顔を崩さぬままに、ここ、司令部南棟二階男性用トイレへと辿り着いたのだった。

 そこへ踏み込んで、なおかつ誰もいないこと──もちろん個室の方も──を確認した上で、彼はようやく、安堵の声を溢した。

 

「全く……この私をこうも手古摺(てこず)らせるとはね。でも、これでピリオドです」

 

 小便用の便器はもちろんのこと、大便用の個室にも誰もいない。計三つ用意されているこれらの個室には、誰一人として入っている気配はなく、それはつまり、このトイレは今キンブリーの貸し切り状態となっていることの証明でもあった。

 そのために彼は十分に羽を伸ばし、それでいて優雅に、自分のこもる部屋を選ぶことができた。

 最も騒音から離れ、自分と向き合う時間をゆったりととれる一番奥の個室もいい。

 逆に時間をかけずに事を済まし、早急に自分の任務に戻ることのできる手前の部屋もいいだろう。

 

 だが、あえて、彼は真ん中の個室を選んだ。

 何が彼にそうさせたかは、定かではない。だが、あえてその様子に言葉を当てるならば。運命の力とでもいうべきか、人の目には見えない何か大きな力が働いたのではないだろうか。

 もし仮にここにホムンクルスがいたとすれば、きっとそう思ったに違いない。

 

 閑話休題(それはさておき)

 

「ふっ、この瞬間は……案外嫌いじゃありませんね」

 

 彼は、真ん中の個室を選んだ。

 吸い込まれるようにその部屋へと入り、優雅な手付きで扉を閉めて。

 そうして、静かにズボンを下ろす。店単位で選り好みし、選択に選択を重ねて手に取った高級ベルト。それを丁寧に外しながら、彼は自らの腰に重ねた純白のズボンを下ろしていった。

 

「さて……」

 

 ようやく、準備が整った。

 全てを解放する準備が整った。

 先程までの苦難が、まるで嘘のよう。貯水湖を満たし、いよいよ決壊せんと言わんばかりのダムさながらだった彼の肛門括約筋が、安堵の声を上げている。自分はもう頑張らなくていいと分かり、ほっと胸を撫で下ろしている。

 そんな、まるでこの世の全てのしがらみから解放されたかのような感覚に彼は酔いしれて、うんと背伸びをした。狭い個室の壁に、大切な錬成陣を刻んだ両手がぶつからぬよう少しその身を小さくしながら、彼は凝り固まった我が身をほぐした。

 首を回せば、ぱきぱきと小気味良い音が鳴る。その表情は、かつてないほど満足そうなものだった。

 ──だが。

 

「……ん?」

 

 そろそろ本腰を入れよう。そう言わんばかりに括目した彼の瞳に、『それ』が映る。

 まるでこの世の闇を一つに集約させたかのようなドス黒い塊。それが、彼の冷えた両目に映り込んだのだった。

 

 一瞬の静寂。

 その様相を例えるなら、それがいいだろう。青天の霹靂、なんて言葉も相応しいかもしれない。

 どちらにせよ、彼は、キンブリーは、このような状況など想定していなかった。

 目の前に、突然害悪な存在が現れるなど、まるで想定していなかった。

 

 否。

 現れたのではない。『それ』は、最初からそこにいたのだ。

 『それ』は一寸も動くことなく、ただそこにいた。

 逆である。踏み入ってしまったのは────彼の方だったのだ。

 

「──ひっ……!?」

 

 まさに、運命の悪戯だろう。

 この状況は、無自覚にも真ん中の個室を選んでしまったこの状況は、運命の悪戯以外何者でもなかった。

 

「……あっ……あぁ……」

 

 キンブリーの瞳に、恐怖の色が灯る。

 あのイシュヴァール殲滅戦で心に傷を負うことなく生還し、大量のイシュヴァール人、さらには同胞にまで手をかけたあのゾルフ・J・キンブリーが。

 今、トイレの中で枯れたような恐怖の声を上げている。

 

 しかし、それも仕方がなかった。

 彼には、あの爆弾狂とまで謳われたキンブリーには、あるトラウマがあったのだ。

 

 

 

 

 

 ──それは先々週にまで遡る。

 彼はアメストリス市街にあるアパートの一室で、優雅にアフタヌーン・ティーを楽しんでいた。

 仕事に追われる毎日の中で、されど偶然に生まれたその空白の時間に。彼にしては珍しく、現在の住まいであるそのアパートへと戻り、ゆったりと紅茶を楽しむことにしたのだった。

 

 そんな、幸福感に満ち溢れた時間をも台無しにしてしまう存在。無慈悲にもそれが、キンブリーの前へと現れた。

 

 そこで、彼の記憶は途切れている。

 ただひたすらに、両の手袋を解放し、太陽と月が描かれた掌の錬成陣を重ね合わせ、視界の全てが紅蓮に染まるまで────

 

 その存在は、彼の優雅な時間を奪っただけではなく、強烈な不快感と、そして多額の弁償代を残していった。

 黒き者。這いずり回る者。この世の汚物という汚物を練り固めた者。

 人はそれを、『G』と呼んだ。

 

 

 

 

 

 だが。

 今、彼の目の前にいる『それ』は、ややGとはその形状が異なる。

 キンブリーは、国家錬金術師として認められるほどの才能を有する男だ。イシュヴァール殲滅戦にも大きな戦果をもたらした、有能な、それでいていつでも冷静沈着でいられる男だった。

 故に、動揺しているとしても。その存在の姿形を、即座に捉えることは難しいことではなかったのだ。

 

「……あ……貴方は……ッ!」

 

 Gよりも小柄な体に、丸みを帯びた頭部。

 細く短い前脚に、それとは不釣り合いなほどに発達した後脚。

 その形状は、Gよりもバッタに近い。さらに言えば、コオロギと呼ばれるものに近い風貌だった。

 『それ』が、彼の声に反応する。

 反応して────跳ねた。

 

「ヒィッ……!!」

 

 驚きなのか、威嚇なのか。全く捉えることのできない無感情な動き。そしてその、まさに機械的な表情。

 それらをもって、恐怖に竦むキンブリーの目の前を、その足の横を。

 『それ』は、跳ねた。

 

 思わず顔を引き攣らせるキンブリー。反射的に、それを避けようと自らの体に鞭を打った。

 ──それが悪手になるとは、全く思いもよらないままに。

 

 『それ』は、跳ねる。

 跳ね続ける。

 

 キンブリーを煽るかのように。小馬鹿にするかのように。

 名状し難い動きで、彼の足元を、忙しなく足をバタつかせる彼の足元を、これでもかと言わんばかりに跳ねた。

 

「ひっ、この……やめっ、やめなさいッ……!」

 

 飛び跳ねる『それ』を避けようと、キンブリーは立ち上がった。

 全てを解放することも、ズボンを上げることすら忘れ、むしろそのズボンがまるで足枷のようになって。ただひたすらに、無様な動きで彼も飛び跳ねた。

 

 『それ』が跳ね、キンブリーが跳ねる。

 まるで一進一退の戦いのようで、情熱的なダンスのようでもある。

 

 驚いたキンブリーが踏み抜いた足が、『それ』の真横を荒く穿って。彼に激昂したかのように、『それ』は再び飛び跳ねて。

 

「あぁッ……あぁぁぁ……!?」

 

 いや、違う。『それ』もまた恐れているのだ。

 彼に踏む潰されることを、恐れているのだ。

 『それ』は逃げようとしている。この巨大な存在に殺されないために、ここから逃げようと必死に飛び跳ねているのだ。

 しかしその身は、勝手に跳ねる。何故か、何故か分からないが──体は、勝手にキンブリーの方に向けて跳んでしまうのだった。

 そしてそれに、彼は恐れおののいて。再び、その脚を宙に浮かせてはその身を上下させる。それが、『それ』を再び跳ねさせる引き金になるとも思いもせずに。

 

 キンブリーに、その思いが伝わるはずがない。

 ただ、明確な殺意をもった存在だと。イシュヴァール殲滅戦よりも己の生命の危機を強く感じ、彼はひたすら、か細い悲鳴を上げ続ける。

 

 

 

 ────両者の狭い世界での争いは、その擦り合っていた矛は。

 予想外な形で、その鍔迫り合いを追えることとなった。

 

「……なっ……!?」

 

 不意に、『それ』の姿が消える。

 唐突に、彼の視界からその姿を消した。

 

 タイル貼りの水色の床には、その黒い姿を隠す隙間などありはしない。

 便器も同様だ。清楚さを押し固めたような、真っ白な色に染まっている。『それ』の悍ましい姿を隠すには、あまりにも白すぎる。

 この個室には、『それ』が隠れる隙間など、ありはしないのに。

 しかし『それ』は、その姿を消してしまった。

 

 

 この個室のものに、隠れる隙間はない。

 

 しかし、今はどうか?

 今、この個室には、不確定の存在がある。

 キンブリーという、本来ここにはない、今一時的に存在しているものがある。

 それが、ズボンを下ろしたまま奮闘していたということは。

 ────床と接するほどに下降したズボンが、そこにあるということは。

 

「……そんな……嘘でしょう……?」

 

 唯一隠れられる、ただ一つの聖域。

 純白のズボンのその奥で。しわくちゃに押し潰されたそのズボンの影から。

 ちらっと、『それ』の先端が映る。『それ』の頭から伸びた触覚が、彼の瞳に映る。

 

 そこから跳躍。

 

 『それ』は、彼目掛けて、その渾身の力をもって跳んだ。

 全てを(なげう)って、彼に飛び込むかのように。その太い脚を勢いよく跳ね上げて、跳んだ。

 

 一瞬。いや、刹那。

 彼の瞳に映り込んだ『それ』が剥いた、鋭い牙。

 

 キンブリーは叫んだ。

 叫んで、全てを解放した。

 

「────────ッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 アメストリス中央司令部。

 その南棟が、白昼のど真ん中で弾け飛んだ。

 壁は跡形もなく吹き飛んで、鉄筋が司令部の庭へと突き刺さる。突然の衝撃に多くの軍人が吹き飛んで、大量の資料が爆風に舞った。

 

 爆心地は、南棟二階の男性トイレ。

 最も強く焼け焦げており、個室に至っては跡形もなく吹き飛んでいたとの報告があった。

 爆発の原因は不明。目撃者もおらず、決定的な証拠にも欠ける。アメストリスの未解決事件として、語り継がれることとなるかもしれない。そう、新聞社は報道した。

 

 しかし、その事件にまつわる声として、奇妙な記録があった。

 一つは、謎の黒い影が跳んでいったこと。掌に乗せてもなおかなりの余裕があるほどの小さな影が、その爆発の影に紛れて闇へと消えていったらしい。

 そしてもう一つ。白いコートを、純白のズボンを。紅茶よりもさらに濃く重い色で汚した男が、燃え盛る火の中から現れ、立ち去っていったという。

 

「カマドウマ……殺す……」

 

 そんな、一言と共に。

 






 手元に資料がないので、キンブリーってこんな喋り方だったかなって若干不安です。用語も間違えてるところがあるかも。

 と、先に弁明したところでっと。
 カマドウマ! あれ怖いですよね。先日私、あれにトイレで遭遇したんですよ。クソビビりました。超怖くって、なんかこう、明確に殺意を感じたっていうか、絶対人間殺すマンって感じが凄くしました。なんであれはこっちに跳びかかってくるんでしょうね……。
 とまぁそんな感じに、あの時の恐怖を小説にしたいなってことで書いてみた手前です。なんでキンブリーさん? って言われたら、一番好きなキャラなのと、あとこういうの似合いそうだったから。すみません! 許してください! 何もしませんけど!
 タイトルは遊び……っていうか即興です。そこのクロスも、面白そうですけどね。
 閲覧有り難うございました。


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