正直に言って、思った以上に呆気なく士官学校での半年は過ぎ去っていった。
勉強して、鍛錬して、食べて、寝て、時には怒ったり時には笑ったり。人として当たり前の、されどスラムでは絶対に不可能な恵まれた生活を送ることができたのだ。勉強なんて辛いだけ、鍛錬なんて苦しいだけ。そう考える人が多いのは事実だし否定もしないが、それでも不満は少しもなかった。
この価値はオレたちをスラム出身と嘲笑う者たちにはきっと理解できない、オレたちの胸だけにある宝物だろう。だからこそ他の者たちの堕落やら蔑視を受けてもなお、三人で正道を貫くことが出来たのだから。
「ま、そういう訳でオレたちもめでたく戦場送りってことだけどさ。どうする、何が入用だと思うよ?」
「私服は一着あった方が良いんじゃないのか? オレたちの着てた襤褸なんざ有っても仕方ないしよ。後は日用品の類も用意しとかねぇと」
「あまり持ち込める私物は多くない、必要最低限で済まさねばな。その辺りはしっかり弁えておけよ、二人とも。ピクニックに行くわけではないのだから」
人の波をかき分け歩きながら「そりゃそうだな」と答えておいた。雑踏の中ではぐれないようにするのは一苦労だが、俺よりもだいぶ背の高くなった二人が居るから意外と困らない。
あと数日もすれば俺たちは士官学校を卒業し、ついに東部戦線に送られる。だからその為に入用な物、特に私服や日用品の類を持ってない俺たちは、与えられた一日だけの休暇の間に買い求める必要があったのだ。
アドラー帝国の街並みは、同じ首都の一部といえどスラムとは比較にならないくらい活気と清潔さに溢れていた。誰も彼も、生きるのに必死じゃない。綺麗な服を着て、笑顔を浮かべて、当然のように日々を送っている。別に誰が悪い訳でもないし、その事自体の是非を問うても仕方ない話なのだが……やっぱりどこか、羨望とも嫉妬とも思える感情が渦巻いてしまう。
「……まぁ、今更いってもホントに仕方ないよな」
「どうしたよレーテ?」
「いいや、何でもないよ。それにしても、ちゃんと給料自体は出してくれるってのが意外だったなーってさ。ぶっちゃけ『お前たちに払う金なんざねぇから!』とか言われても不思議じゃなかったし」
「あ、それはすごい分かるぜ」
見習いだからまだ正式な軍人ではないのだが、実は給料も出ているのだ。
それだけかつてが頭のおかしい環境だったと痛感すると同時、こうしてマトモに金を持てた事実が嬉しいものだ。まあその金も軍から支給されない私服だとか、そういう私物を買うために消えていくのだが。今も軍服のまま街中を歩き回ってるので割と違和感はある。軍事国家だからそこまで変に思われてないが、早く着替えたいものだ。
「つーか、私服と言っても何を買うよ? 俺たちってそういう知識全然ないだろ?」
「……確かにな。こればかりは学ぶ機会も全く無かった。そもそも俺は私服など必要ないと考えているが」
「おいおいクリス、ここまで来てそれ言うのかよ。さすがに毎日軍服なんてのもどうかと思うし、もう少し自分のことも気にした方が良いぞ」
「構わん、そういったものは俺には不要だ。むしろお前たちに俺の分まで渡してしまっても良いと思っているが……」
「いや、それこそ友人としてどうなのよって話だ。使わないにせよ取り敢えず持っとけよ、それはお前のもんだろ」
相変わらず頑なで、しかも自分の欲が薄いクリスだ。たかが私服一つ、確かに必要ないかもしれないが……
スラムの頃から見慣れた在り方、いっそ清々しいくらいに潔癖で自己に対して緩みがない。だからカッコ良い男だと信じているが、こうしてふとした瞬間に物悲しくさせられるのもどうかと思う。
ちょっとだけオレとクリスの間に沈黙が流れるが、それを遮るようにアルが割って入って来た。大雑把に肩に手を置きこちらへと笑いかけてくる。
「ま、考え方は人それぞれってことさ。むしろクリスが変なことに金を使い出したら俺はひっくり返って驚く自信があるぜ」
「そ、そういうもんかぁ……?」
「確かに、もし俺が散財でも始めたらそれは偽物だろうな。その時は二人が斬り捨ててくれることを願うばかりだ」
「お、おう……」
それはクリスなりの冗談なのか、それとも真面目に考えた末の言葉なのか。
何だか珍しいものを見た気がして、オレもアルも揃って曖昧な返答しか出来なかった。
◇
結局、買い物自体はほぼ滞りなく終了した。
そもそも大部分──例えば下着や歯ブラシ、タオルなど──は軍から支給されているので当然なのだが、買うもの自体はそう多くない。なので必需品の買い物自体は半ばおまけのようなものであり、どちらかというとオレの本命は都会の探索にあったといえよう。スラムの外をじっくり歩くのは初めての経験なのだから。
「おーいクリスー、本当に良いのかー?」
「何度も言わせるな、構わないと言っている。俺は外で待っているから好きに見てくるといい」
「マジかよ。んじゃまあ、俺とレーテだけで行ってきますか。がさつなレーテならそう時間かからないだろうし、ぱっぱと終わらせてくるさ」
なんてやり取りが見つけた服屋の前であり、ひとまず失礼なアルの頭を引っ叩いてから入店した。かつて纏っていた襤褸とは文字通り格の違う服の数々には、あまり衣装に興味のないオレでも目が右往左往してしまう。
もちろん、だからといって女性服のセンスなんざ微塵もないので、店員さんに頼んでそれっぽく似合うものを用意してもらったが。でもスカートは即刻却下した。今までは他に無いから我慢していたのだが、これでもうあんなスースーする格好とはおさらばである。
そんなこんなで見た目の良い服装案をいくつか選んでもらい、その中から出来るだけ安く済むのを買ったのだが──
「……で、こうなるのもどうなのよ」
「良いじゃねぇか、割と似合ってるぜ。なんつーかレーテらしいな」
「そりゃどーも。確かにスカートじゃないけどさぁ……」
白いシャツにカーキ色のズボンを履いたアルは、オレからしても中々シンプルにまとまっている。素朴だがそれ故に飾らない良さがあるというべきなのか。これにエプロンでも付けたら元不良少年とは思えないくらい優しそうな見た目である。
一方でオレの方はと言えば、白いワイシャツにグレーの薄い上着と、黒いショートパンツに水色のストッキングという格好だった。まあ確かにスカートじゃないし、一つ一つの値段は安かったので高く付いてはいないものの……まさかタイツを履くことになろうとは。恥ずかしさとはまた違った違和感を覚えてしまうものである。
「なんかこう、ぴっちりしてるというか……どうしよ、やっぱり普通のズボンに変えてこようかな。スースーはしないけどこれはこれでどうかと思ってきた」
「いやいや、別にそうしょっちゅう着る訳でもないし気にしなくともいいだろ。それよりクリスも待たせてるから早く行こうぜ」
「むむむ、確かに……ならもうこれで良いか」
別に個人的な感覚以外に嫌なところは一つもないのだ。動きやすいし、普通に可愛い服装だなとも思う。
ただ何となく、女性らしい格好に未だ抵抗感が残っているだけで。客観的に見たらオレは間違いなく女性なのだし、誰もこの姿を気にすることはないだろう。
なので開き直ってこの格好で通すことにした。どう足掻いても今生では女性なのだ、いい加減にそれを受け入れなければ始まらない。会計を済ませ、着ていた軍服を入れた袋を抱えて店の外へと出た。アルの方は先に出ている。
「悪い、待たせたな」
「問題ない。無事に気に入った服を買えたのならば幸いだ」
そんな事を言ってくれたものだから、ふとオレは訊いてみたくなった。こんな男でも誰かの外見について、なにがしかの感想を持つことがあるのだろうか。
「どうよ、オレのこの格好はさ? 似合ってるか?」
「ああ、よく似合っていると思うぞ。アルも言ったことらしいが、お前らしい装いだ」
「あ、ありがとよ……お前がそう言ってくれるなら、私も嬉しいよ」
余計に今の格好を意識して、ちょっとだけ頬が熱くなったのはきっと気のせいじゃないだろう。
うん、素直に嬉しかったのだ。そればっかりは否定するのも惜しいと感じて、照れ隠しに俯くのだった。
◇
その後はのんびりと適当に必要な物を買いがてら、帝都を歩きに歩き回った。
雑貨屋に入って色んな品物を見物したり。
パスタが美味しいらしい店に入ってみたら、出てきたのがまさかのうどんにミートソース乗っけたものだったり。
運よく東部戦線を生き延びればたどり着けるだろう
他にも他にも、未知のアレコレを求めて三人で歩き回った。この半年はずっと士官学校に居た訳だから、こうしているだけでも凄く楽しい。見るもの全てが新鮮という驚きは、今しか味わえないものだろう。
そして陽が傾き始めたところで、オレはある願いを口にした。
「なぁ、最後にスラムの方に寄っていかないか? 何だかんだあそこも思い出がある訳だし、ちょっとだけ行ってみたいんだけど……」
「おう、奇遇だな。俺もまさに同じことを考えてたさ。やっぱりこう、自分たちの過去を振り返っておくのも必要かなと思ってさ」
「……なるほどな」
貧民窟はオレたちの始まりの場所であり、惨めな生活を強いられた肥溜めのような場所である。けれど、そんなところだろうとオレたちの故郷であるのも間違いない訳で、最後かもしれないなら一度は見納めしておきたかったのだ。
というオレの提案に、アルは乗り気だがクリスはちょっと迷ってる。やはり彼からすれば悪の温床たるスラムに訪れるのは嫌なのだろうか。それとも何か、他に理由でもあるのか。どこか迷っているようなクリスの姿は、今日何度目かも分からない見慣れないものである。
「別に嫌ならクリスは先に戻っててくれても構わないけど……」
「いや……俺も同行しよう。自らの過去を知るというのもまた、間違いなく大切な事の一つだ。俺個人の感覚どうこうの前にな」
「なんだよクリス、お前は嫌だったのか?」
「嫌というより、過去は振り返るものではないと考えている。礎にして未来を目指すならともかく、そればかりに拘泥してしまえば後ろ向きな思考に偏ってしまうだろう。未来とは、
なるほど、その考え方も一理ある。オレたちはひたすら前を目指して突き進む者であり、そこで後ろ向きになってしまえば足を止めてしまうだろう。あるいは後悔だとか、悲しみだとか、どうしようもない感情に囚われることもままあるはず。誰よりも光を目指して歩む者にとって、
だけどまあ、それだって一念的なものだろう。過去から得るものだってたくさんあるし、礎にしてこれからも頑張ろうと決意するのも立派なことだ。クリスだって頭では理解しているから、嫌とは言い切らずに理解を示す姿を見せたのだ。
「ならさっさと行こうぜ。あんまうだうだしてたら日が暮れちまうし、原点を確認するのも悪いことじゃないハズだ」
「よっし、なら行くか! ほら、クリスもな!」
「分かっている、そう急かすな」
そうして華やかな帝都を抜けて、廃れたかつての住処へと足を踏み入れる。たった半年程度離れていたくらいじゃ何も変わらない、底辺の掃き溜めと称すべき土地。飢えた子供たちがこちらへ好奇の視線を寄越すのを自覚しながら、悪に染まった少年たちが虎視眈々と狙ってくるのを警戒しながら、数年間を過ごした懐かしきねぐらへと歩を進める。
果たして、ねぐらにしていた廃ビルは変わらずそこに聳え立っていた。崩れかけた威容はそのままに、住む人が消えてより寂れたようにも見える。何だかそれが少しばかり寂しくて、隣に立っているクリスとアルの方を見た。
「どしたよ?」
「いや……変わらないものがあるのは良い事だなってさ」
言葉少なに答えてから、静かに足を踏み入れた。何年も何年も住んでいたねぐらだから、楽しかったことも辛かったことも昨日のように思い出せる。置かれているボロ布も、かろうじて生きていた水道も、貯め込んだニュースペーパーも、全部がそのまま残っている。
「……そのまま?」
「埃も積もらず、やけに綺麗に残ってるな。まるで誰かが触れたかのようだ」
半年も放置していたのだ、もう少し荒れていてもおかしくない。なのに意外なほど綺麗に残っているということは、つまりこのねぐらに誰かが入り込んだのか──
「誰か住んでるってことか。おーい、誰かいるのかー?」
「あっ、おいアル!?」
「良いじゃねぇか、こういうのは呼びかけてみるのに限る」
廃ビルの中にアルの声が響き渡る。しばらく反響して、それから残響も消えていって、ようやく静かになったところで奥の方から物音がした。ちょうどこちらから死角になっているスペースだった。
出てきたのは、黒髪の少女と少年だ。おそらく姉弟なのだろう、少年の方はまだ三歳くらいに見える一方で、少女の方は十歳手前くらいに見える。おそらく七、八歳くらいか。
「……あなた達、誰? 怖い人なの?」
「あー、いや悪い、驚かせるつもりはなかったんだ。何というかな、昔ここに住んでた人だよ」
「住んでたの、お姉さんが? とてもそうは見えないけど」
「色々あってな、今は軍の方に居るんだ。それで今はどうなってるのかなーって思って来てみたんだけど……あはは」
ヤバい、滅茶苦茶警戒されてる。弟らしい子供を背後に隠して、姉として精いっぱいの意地で向き合っているのが丸分かりだ。足が震えてるし、声音から警戒心を隠そうともしていない。このスラムに善人なんてほとんど居ないと理解してるのだ。
これはどうしたものだろうか。さっさと退散するのが一番なのだろうが、それはそれで此処に来た甲斐がない。けれどいつまでも警戒している子供を前に大人げないこともしたくないし……さてどうしよう。
「おいアル、何かお菓子とか持ってるか? 甘い奴かそういうの」
「いいや、持ってないっつうの。てか買おうとしたときに『ピクニックじゃないんだし止めとけ』って言ったのはお前だろ」
「げっ、そうだったけか……」
オレとアルが情けなくコソコソと相談する横で、クリスは静かに懐から小袋を取り出した。それは彼の所持金が入っている財布であり、ほとんど私物を買ってないからまだまだ潤沢に余っている。
それをあろうことか、クリスはそのまま少女へと手渡した。いきなり手のひらに乗せられた重みに、さしもの彼女も面食らったような顔をしてクリスを見つめ返している。
「あの、お兄さん、これ……」
「あまり芸が無いとは思うが、俺には必要のない代物だからな。お前が有効に扱うと良い」
「でもこれ、本当にいいの……?」
「構わない。今の俺に出来るのはこの程度だからな。けれど待っていてくれ。俺が必ず、
まるで押し付けるかのように金の詰まった袋を渡して、クリスはそう締めくくった。少女の方はかなり困惑気味だが、それでも返そうとはしない辺り結構したたかだ。
オレとアルはといえば、予想外すぎる行いに言葉が出ない。同類というか、スラムの後輩とはいえまさかそこまでしてしまうとは。本当に欲が無さ過ぎるし、弱者を救うために躊躇うことを知らない男だと感心してしまう。もしここに居たのが別の人間であろうと、間違いなくクリスは同じことをしていたはずだ。
「その、本当に貰ってしまって良いの?」
「……まあ、クリスは良いって言うなら良いんだろうさ。俺たちが止める義理もない」
「そっか……ありがとうございます。これで私も、ゼファーも、もう少しだけ生きていける」
彼女はもしかしたら、クリスと出会えなかったオレなのかもしれない。スラムという誰も信用できない世界に放り込まれ、擦り減りやつれて野垂死ぬ。そんなありきたりな未来しか、もはやその先に残っていない哀れな少女だ。
けれど彼女にオレたちが出来ることなど一つもない。今やオレたちの所属はアドラー軍であるから世話を焼くなど出来ないし、他に渡せる物もない。ほんの少しだけスラムで生きる時間が伸びるだけで、結局最後は本人がどれだけしぶとく生きていけるかに掛かっているから。
「まあそうだな……勝手な言い分かもしれないけど、スラムだろうと光はある。絶対にあるんだ。前を向いて希望を抱けば、道は必ず開けるとオレは信じてる。難しいかもしれないけど、どうか忘れないで欲しい。明日はきっと、今よりも少しは良くなるはずだから」
無責任な言葉という自覚はあるが、それでも言わずにはいられなかった。オレはこうしてどうにか生きられたのだから、彼女も同じように生きられるかもしれない。その希望を少しでも持ってほしかったのだ。
少女は困ったように微笑んでから、オレたちに背を向けて隅へと下がった。これ以上こっちに構うつもりはないという事だろう。寂しいが仕方のないことだ。こっちもこれ以上は長居せず、そそくさとかつてのねぐらに背を向けて立ち去った。
これで今度こそ、本当に過去との決別だ。あの廃ビルもオレたちの足跡は消え去り、次第にあの姉弟へと染まっていくのだろう。吹けば飛ぶような小さな小さな砂粒でも、前を向いて生きてくれると信じている。いいや、もはやそれしか出来ないのだ。
「なんつーか、昔の俺たちを見てるようで辛いわな。そりゃ底辺じゃこんなことが日常茶飯事だなんてよく知ってるけどよ……」
「
「そんなこと、決まっているだろう」
堂々と、どこまでも力強くクリスは答えた。太陽の如く燃える決意が、瞳の奥に強く強く輝いている。
「このアドラーを変えれば良いのだ。せめて自らの手で未来を切り開けるような、そんな国にすれば良い。出来る出来ないではなく、成し遂げるのだ。例えどのような不条理に襲われようとも」
そうだ──勘違いしてはいけない。
今こうして居るオレたちだって、先の少女と何も変わらない。一歩間違えれば呆気なく死ぬような戦場で、勝利を掴み生き延びる必要があるのだから。戦うのは彼女だけでない、オレたちもまた同じだった。
戦い、生き残り、そしてその果てに勝利を掴むのだ──。
なんか想像より長くなってしまいましたが、次こそはたぶん東部戦線編に入れる……と思います。