「おいおいおい、なんで今の不意打ちを完全無傷で防ぐんだよ……!?」
たった今、ほんの少し刃を交えた巨漢の男から全速力で逃亡する。
恐ろしい事態への動揺を隠すことなく、むしろ心を落ち着けるために口は独り言を喚き続けていた。バクバクとなる鼓動がうるさい。後ろを振り返らずにひたすら森の中をひた走る。戦場において致命的なまでに隙だらけな逃亡だが、それくらいしなければ先の理不尽から立ち直ることも逃げることも出来そうにないのだ。
だっておかしいだろう、向こうにしてみれば完璧に不意打ちだった。こちらに気が付いている様子もなかったし、それで先手必勝とばかりに仕掛けた途端に動き出して、流れるような動作でこちらの奇襲を防いだのだ。
なまじ勝算があると考えてしまったのと、アンタルヤ側の拠点が男を越えた先にあるのが悪かった。どうせならばと欲をかいて一人で奇襲を仕掛けた結果がこれだ。笑ってしまう限りである。
幸いなのは、クリスとアルはいったんオレと別行動で周囲を警戒していることだろうか。おかげでオレさえどうにか逃げきれれば、合流して別のルートを探すのは容易い。
「アレはまずいぞ、オレたちとは格が違う類の相手だ。あんなのと関わったら命が幾つあっても足りないぞ……!」
後ろから微かに葉や落ちた枝を踏みしめる音が聞こえてきた。きっと先の巨漢の男だ。まだ見つかってはいないはずだがそれも時間の問題だろう。急がなければ。
どれだけ努力を積んで戦場へ臨んだところで自分たちはまだ若造、年季の違う相手なんてそこら中に居るのだ。アンタルヤの傭兵たちに勝てている事だって半ば奇跡のようなもの、このうえ明らかに数段格上の相手に喧嘩を売るほどオレたちだって考え無しじゃない。
走りながらチラリと隣の木を見た。さりげなく真新しい傷のついた幹がある。これはアルが目印に付けたものだろう、つまり彼らはこの近くにいるはずだ。静かに目を凝らして──いた、ちょうど茂みの陰に潜んでいる。
彼らの方へと滑り込みつつ、まずは端的に要点だけを伝えた。
「悪い、しくじった」
「マジか。そんなヤバい相手なのか?」
すぐに顔つきの変わったアルへとオレは頷く。クリスもより表情を引き締めている。
「とびきりだ、アレはオレたちが敵う相手じゃない」
「なるほど……これは噂の”血塗れの雛罌粟”の者と遭遇してしまったと考えるべきか」
遠くからでも響く銃声や悲鳴より、微かに聞こえる枝葉の音が今はよっぽど危険だ。それだけの圧と脅威をあの男は備えている。
とにかく事態の深刻さを呑み込んでくれたらしい二人を引っ張って、この場から離脱しなければならない。アレと交戦でもしたら最後、
「だからとにかく今はここを離れるぞ。モタモタしてると手遅れになる」
「しかしレーテがそうまで言う相手だ、下手に逃げたところで追いつかれるのが関の山だろう。ここは迎撃をしても良い場面だと思うが?」
「待てよクリス、目的を間違えるな。アドラーの目標はアンタルヤ側の拠点の制圧で、俺らの目的は生きてここから帰ることだ。下手なリスクは冒せないし他の仲間を見つけた方が絶対良い」
「だが、肝心の帝国兵はここに至るまでほとんど見ない。そう都合よく見つかると考えない方が良いだろう。ならば万全の内に勝利を掴む方がいい」
──などと二人していきなり口論を始めてしまうものだから、かなり焦ってしまった。
待て待て、今議論すべきはそこじゃない。確かにどちらも正論だろうが、それはこの場で留まってまでする内容ではないはず。むしろ正しいからこそ議論してまで迷っているのだろうが、今は違うのだ。
「その話はここから移動しながらで良いだろ! とにかく今は──」
言いかけたその時だった。背後から迫る圧倒的な殺意の奔流。それまで何一つ感じなかったはずなのに、まるで裏表が反転したかのように襲い掛かってきた。
背筋がゾクリと震える。これまでの戦場の熱とは比べ物にならない冷たい殺意だ。その本物と呼ぶべき害意に晒され、足が竦んで動かないのが情けないし命取りだ。マズいと頭が考え、けれど何も出来ないでいるところを、
「──ッ! 伏せろレーテ!」
クリスの手によって強制的に頭を下げさせられた。その次の瞬間、髪の毛を擦過しながらナイフのようなものが数本飛んで行った。殺意の正体、というより大元が投げた武器だろう。つまり、追いつかれた。
「……見つけたぞ」
低く重々しい声が正面の大木の影から聞こえてくる。それと同時、ピシリと大木に閃光が走った。
なんだ、今のは? 疑念を抱いたのもつかの間、信じがたいことに大木が真っ二つに折れた。斬られた大木はメキメキと音を立てて地面へ豪快にダイブし、周囲の木諸共に薙ぎ倒される。悪い冗談のような光景だ。
あまりの力業にさしものクリスすら絶句する中で、残った切り株の後ろから悠々と出てきたのはやはりというか、あの巨漢の大剣使いだった。天を衝くような巨体、鍛え上げられた筋肉、全てがオレたちと桁外れの圧を誇っている。
「いいな、泳がせた甲斐があった」
意図も容易くこちらの位置を見破った、というより最初から敢えて逃がされたのか。つまりあの微かな移動音も、全速力で逃げたのも、全て相手の掌の上だったという訳だ。
彼我の距離は十五メートルはある。なのに知らず足が一歩後ろに下がりかけ、気合で我慢した。さっき無様を晒したばかりなのだ、これ以上は譲れない。
「なるほど、な……これは確かに圧倒的な相手だ」
「レーテが呑まれたのも分かる気がするぜ。正直ビビって震えが止まんねぇぞ」
無骨な大男を前にさしもの二人も冷や汗が流れるのを止められないようだ。それでも気丈に前に出て武器を構える。向こうもそれを見て大剣の切っ先をこちらに向けてきた。まるで隙のない身のこなしはムラサメ教官を彷彿とさせてあまりある。
勝てるだろうか? いいや大丈夫、三人揃えばオレたちは無敵だ。どんな相手にだって必ず勝てると信じ抜け。心の中でそう唱えたと同時、戦闘に立ったクリスが信じられないようなことを囁いた。
「レーテ、アル。お前たちは先に行け。ここは俺一人で食い止める」
「はァ!? お前いきなり何言ってやがる!?」
「そうだって、あんなヤバい相手は三人がかりでやっとだろ? いくらクリスの実力でも……」
「否、むしろ逆だ。三人で勝てる可能性が無いというのなら、逆に二人を確実に生かすべきだ。元より俺がつまらぬことを言ったばかりに足が止まったのだ、その意味でも俺が適任だろう」
「だからって……」
そりゃあクリストファー・ヴァルゼライドは諦めの悪い男だ。相手が強いからといって膝を屈することはない。むしろより闘志を燃やし、格上殺しを成し遂げようと足掻くだろう。オレもアルもそんな姿が容易に想像できてしまう。
だけど今回の相手はあまりにもマズい。不意打ちで、しかも死角から放たれた銃弾を容易に躱す男だぞ? おまけに追撃すら鼻であしらうような気軽さで防ぎ、巨体に見合わぬ狡猾さと慎重さまで見せつけてきたほどの実力者だ。
潜った修羅場も含めて実力差は明白、たった一人では足掻く間もなく磨り潰されてしまう。なのに鋼の男は前言を撤回することなく、さらに一歩前へと出た。まるでオレたちを庇うかのように。
「おいクリス……本気なのか?」
「先ほどお前が言ったことだぞ。目的を間違えるなアル、ここで俺たちが全滅する方が最悪だ。ならば少しでも生存率の高い手段を取るまで。それに、俺とてただで負けてやるつもりは毛頭ない」
「そこまで言うなら……分かったよ。お前の意見に乗ってやる」
「ちょっと待てって、クリスを一人で置いてくなんざ──」
理解は出来るが納得がいかない。それはアルバート・ロデオンもまた同じだろうに、彼は覚悟を決めた顔つきでオレの手を取った。ゴツゴツした男性らしい手、そこから伝わる熱量にハッとさせられる。
──彼は既に、覚悟を決めていた。
「ここはクリスの案に乗るぞ。ここで全滅したら本当に洒落にならねぇ。まずは引いて体勢を立て直す」
「……ッ! 分かったよ」
ここでうだうだしていたところで意味はない。例え見殺しにも等しい行いだろうと、まずはオレたちが動かなければ何も始まらないのだ。時間も相手も律儀に待ってくれるはずがない。
その証拠にあの巨漢は一歩を踏み出していた。きっと十数メートルの距離なんて数秒で詰めてくる。その確信があったからこそ、いよいよこっちの手を引いて走り出したアルに逆らわず駆け始めた。
「死ぬなよ、クリス──ッ!」
最後に叫んだその言葉に、彼は、
「無論、”勝つ”のは俺だ」
どこまでも雄々しい宣言と共に、刀剣を抜き放ち前へと猛進を開始した。
◇
とにかく走って走って走り続け、クリスと大男の戦いから離脱したオレたちは木陰に隠れて息を整えていた。全力疾走をしたせいで身体中が酸素を求めている。肩で大きく呼吸をしながら、二人して周囲一帯を見渡した。
「他に人はいないか……そっちは?」
「同じだ、帝国兵も傭兵共もいやしねぇ。つーかまずこの場所がどの辺なのかも分かんないけどよ。コンパスでもありゃ別なんだが」
肩を竦めたアルに「どうしたもんか」と相槌を打つ。敵も味方もいない以上、危険はないが援軍も望めない。しかも場所が分からないとなれば、開き直って自軍に戻ることすら出来ないのだ。こうしている間にもクリスは最強の敵と戦い続けているというのに。
「こっからどうする? 気取られないように戻って、上手いこと寝首を掻くか?」
「出来んのか? 奇襲にはもう失敗してんだろ、相手も警戒してるぜ」
「なら打つ手なしでクリスを見捨てろってか?」
「そうは言ってねぇよ!」
とても戦場とは思えない静けさな森の中にアルの大声が木霊した。一瞬ドキリとしたが幸い敵に見つかったなんて事はないようだ。
だがそれよりも、アルの張り詰めた顔の方がよほど気になって仕方ない。
「……ハッキリ言って、さっき俺は滅茶苦茶ビビった。意外と殺人にも慣れて、案外軍属でもやってけるんじゃねぇかと思った矢先になんだありゃ。俺たちとは格が違いすぎる、言っちまえばバケモノだよ」
「それはオレも同じだっての。でも、ここで勇気を出さなきゃオレたちはクリスを見捨てることになっちまう」
「そう、だよな……」
歯切れの悪い返答に首をかしげる。まるで何か言い辛いことでもあるかのような。
視線で続きを促せば、彼は正直にその心境を語ってくれた。
「白状すりゃあ、俺はクリスの奴が囮をやるって言った時に”安心”したんだ。これでこんな怪物と戦わなくて良い、上手いこと逃げて別の戦場に行けば良いってな。笑ってくれよ、
「誰だって木を剣で斬り倒すような奴と戦いたくなんざないさ。むしろ躊躇なく突っ込めるクリスが異常なんだぜ」
「それも分かってる。だけどよ、レーテの手を握って思い直した。だってお前、ちっとも逃げようなんて考えてなかったろ?」
今度は無言で頷く。もしアルがあの場に居なければ、それとも手を握られてなければ。たぶんクリスと一緒になって無謀な突撃を敢行していたはずだ。それこそ親友と一緒に死ねるなら本望だなんて、彼が最も望まないだろう理屈を胸に。
「女で華奢なマルガレーテ・ブラウンは諦めてなんざないのに、男で力もあるアルバート・ロデオンはここで諦めちまうのか──なんて考えたら目が覚めた。いや、お前を女だなんて意識したことは一度もないけどよ」
「一言余計だ馬鹿。でも、オレだってお前がいたから冷静になれた。お相子だよ」
まあ精神的にはまだまだ男のつもりなので欠片も気にしてはいないのだが。
別にアルを臆病だなんてちっとも思わない。むしろ人として真っ当な危機感と恐怖心だろう。それを指して軟弱者と笑う輩がいるならオレはそいつを許さない。
前だけを見て進むのが絶対に正しい訳じゃない。時には臆病風に吹かれることがあってもなお、正道を歩める者こそ強いのだ。
「いつかお前が俺に向かって戦いを挑んできたみたく、あの勇気を俺も振り絞ってみたい。付き合ってくれるか?」
「バーカ、当然だろそんなの。クリスを助けられてお前の力にもなれる、ならどうしてオレが躊躇うんだ」
空を見上げた。木々の間から微かに見える太陽は中天を通りすぎ、もう少しで夕暮れに染めようとしているところだった。もうずいぶんと長い事、この森の中で戦っているらしい。
今ならまだ戻れる。太陽を頼りにこの森を抜け出せるはずだ。けれどそんなつもりはない。頼まれたってしやしない。
「とはいえ、ただ戻ったところであっさり殺されるだけだろうけどな。アルは何か策とかあるか? 無ければ突撃あるのみだけど」
「脳筋かよ。安心しろ、馬鹿みたいなもんだけどちゃんと考えてあるさ。要は負けなきゃ勝ちなのさ、ならやってやれないことはねぇ」
「はは、それなら頼りにさせてもらうぜ」
軽く笑ってから頷き合い──真っすぐ来た道を戻っていく。全ては”勝利”をこの手に掴むため。
◇
クリストファー・ヴァルゼライドの剣術は、主に抜刀術の方面に特化されている。
刀剣を抜く際の加速を利用した超高速の居合切り。武器を抜き放つたった一度にしか使えないこともありトリッキーさと速度はかなりのものだ。とはいえ主戦法とするには些か特殊な技術なのだが、果たして彼にはこの方法こそ性に合ったのかスラムに居た頃から抜刀術を極めんと力を入れていた。
最初は単に剣を振るう方が抜刀よりも早かった。それでも諦めずに昨日より速く鞘を滑らせるのを繰り返す。さらに士官学校に入学してからは剣の達人であるトナリ・ムラサメとの出会いもあり、彼の我流の剣は紛れもない剣術へと昇華されたのだ。
常軌を逸した密度の鍛錬量と、良い師から学んだ技術の組み合わせは類を見ない程に強力無比だ。それこそ今の彼は力量だけみれば熟練の兵士にも匹敵する強さだ。後は戦場で経験値さえ積んでしまえば向かうところ敵無しになるのも時間の問題だったろう。
ただしそれは──より圧倒的な敵と出会うことがなければの話だが。
足場の悪い中をモノともせずにヴァルゼライドが攻める。右手に持った刀剣で迫りくる大剣を流しながら、左手はもう一つの刀剣を抜刀している。勢いの乗った一撃は常人ならば反応すら出来ず終わっているが、目の前の巨漢は違う。
大剣が蛇になった、などと思えるくらい有機的で不可解な軌道だった。ついさっき振るわれたはずの大剣は魔法のように巨漢の懐へ戻ると、何の苦もなく抜かれた左の刀剣を受け止めてみせたのだ。
さらにそれだけでは終わらない。二刀を構えたヴァルゼライドへ果敢に大剣一つで前に出る。風切り音、たまに鋼の噛み合う音。鉄塊のごとき大剣がナイフのように宙を舞う。一撃一撃は非常に重たい。マトモに受け止めれば腕の骨を折られるだろう。胴や肩に直撃でも許そうものならその瞬間に泣き別れだ。
ほんの少しのミスが死へと繋がる死の綱渡り。ヴァルゼライドがやっとの思いで反撃をねじ込む間に、相手は十や二十では飽き足らない攻撃回数だ。それでもどうにか五体満足で生きているのは他でもない、マルガレーテと何度も繰り返した模擬戦闘があったから。
「……随分と粘るな。お前、新兵なのだろう?」
「力で勝る相手にどのように立ち回るか、無二の友は既に考えていた」
彼女はいつだってヴァルゼライドの攻撃を受け止めたりはしなかった。常に見切り、流し、マトモに相手をしない。剣の実力でいえば彼の方に軍配が上がるものの、自分の弱みと相手の強みを把握した戦い方はとても参考になっている。
そう、ヴァルゼライドの精神は油断も慢心もない。例え戦う相手が今の自分より格下だったとしても、明日には逆転される可能性も皆無ではない。いいや、自分ならば確実に明日の逆転を目指すだろう。ならば彼女がやれない理由がない。
「故に、敬意を持って学ばせてもらったまでだ。所詮は付け焼き刃の猿真似だが、こうして命拾い出来ているのは事実だろう」
「なるほど……」
否、これの一体どこが付け焼き刃なのだ。巨漢の男──クラックは心の中でごちた。
本当にその場しのぎの技でしかないのなら、そもそも戦いが成り立つ以前に彼は死んでいる。こうして同じ土俵にかろうじて乗っている時点で付け焼き刃以上の修練を積んでいたのは明らかだ。
つまりこの恐るべき金髪の青年は、クラックという歴戦の兵と打ち合えるだけの技量を磨きながら、しかも別の相手が使う技術まで吸収してしまったということだ。いうなれば右手で方程式を解きながら左手で銃を撃つようなもの、両立させるなど至難の業と言う他ないのに。
どれだけの時間を鍛錬に費やしたのか。そこらの軟弱な帝国兵など歯牙にもかけない量なのは確かだ。その事実がよりクラックを奮い立たせて憚らない。闘志という燃料が無限に注がれ肉体を駆動させる。
だが考えてみれば、この青年は鮮やかな奇襲と引き際を兼ね備えた少女の知り合いなのだ。ならば最初から実力が担保されていたのは当たり前だし、こうして予想を裏切ることなく戦える。その事実が堪らない。
「最近は、弱い者虐めばかりで面白くなかった。待っていたよ、お前みたいな男を」
「そうか。ならば俺はお前の力を糧とし、さらに前へと進ませてもらうまでだ」
剣戟はより苛烈に。もはや二人だけの世界とばかりに互いしか見えていない。
変則的な二刀流と豪快な大剣が嵐のように空を切った。森の中だというのによろめきもせず、木に武器を当てるヘマすらしない。完全に自分たちの武器の間合いを把握し、死線を潜り抜け、飛び越え、下がり、踏み出し、駆け引きを続けながら戦いは続いていく。
「──そこだッ!」
その中でついにヴァルゼライドが仕掛けた。横薙ぎに振るわれた大剣を身を投げ出して避けた直後、右手に持った刀剣をクラックの足元へと投擲した。まるで矢のように一直線に飛び出した刀剣を巨漢は苦もなく弾くが、その時にはもうヴァルゼライドが
この戦いの前にアルバートから譲り受けていた三本目。空いた右手で握りしめたその一刀を鞘から弾き出した。シャッと音が鳴る。乾坤一擲、必殺の抜刀術が逆襲の刃となって遥か
この一撃は過去最速だ。加えて剣の投擲を防いだのもあり、大剣で守るにはわずかに時間が足りない。
その刹那を縫うようにして勝利の刃はひた走り──
「今のは驚かされた」
「なに……ッ!?」
服の袖から飛び出たナイフを握りしめ、クラックは渾身の一撃を受け止めていた。
何も驚くには値しない。初めにクラックがマルガレーテを狙った時、彼はナイフを投擲していた。ならば他にもナイフを所持していても不思議ではないだろう。その隠し場所もまさしくこのような事態を狙っていたとくれば、むしろ予定調和の防御にすら思えてしまう。
豪快な体躯、豪快な剣。そんな第一印象とは裏腹に慎重さを併せ持つクラックは、決して小手先の技をバカにしない。逆にそういったテクニックこそ戦場では細やかに命を繋いでくれるのだ。例えば今のように。
さしものヴァルゼライドもこの瞬間ばかりは無防備だった。咄嗟の事態に対する驚愕と、振り抜いた姿勢の影響で防御が追い付かない。もちろんクラックは最初から”それ”を狙っていたのだが。
先ほどの意趣返しといわんばかりにヴァルゼライドの腹へとナイフが吸い込まれ、トドメとばかりに真横へと振り抜かれる。銀の刃に追従して血飛沫が飛び、クラックをさらなる返り血で染め上げた。
「終わったな」
腹を裂かれて戦える人間などいない。ましてや新兵ともなればなおさら、かつて味わったことの無い痛みを前に頭は正常な思考を保つなど不可能だ。激痛という危険信号に脳は埋め尽くされ、防衛反応として意識が落ちる。そんな兵士たちをクラックは数十年も見てきたのだから間違いない。
終わってしまえば呆気ないものだった。青年はかつてない程に研ぎ澄まされた剣技を持ってはいたものの、年季や経験値の時点でクラックに及ばないのは仕方のない話だ。ここまで食らいついただけでも称賛に値しよう。
これは例えるなら、選択肢を一つも間違えていないのに中盤で最強の敵と出会ってしまったようなもの。誰が悪いなどではなく、単に運が悪かったのだ。
その無情さを噛み締めながらクラックは青年へと目をやって──待て、何かがおかしい。
「まだ、立っているだと?」
腹を裂かれた痛みに悶え、一秒だって我慢できず地面を転がるのが普通の反応だ。我慢強い人間でも膝を屈して耐えようとする。人間の防衛機能からしてそのように痛みに耐えるのだから無理もない。
なのにおかしい、青年はまだ立っている。
それが自然の摂理とばかりに、顔を苦痛に歪めることなく、血に染まる自分の身体を気にすることもなく、一秒ごとに血の失われていく手足にさらに力を籠めて──
「いいや、
勢いよく振り抜かれた一刀は、これまでのどの一撃よりなお鋭く速いものだった。
投稿が遅くなってしまいすみません、忙殺されたりインフルに罹患したりしてました。さすがに光の奴隷よろしく心一つで苦難を跳ね除ける力は無かったようです……