「これで良し。本当に応急処置程度でしかないけど、ほっとくよりはまだマシだと思うよ」
「感謝する。わざわざ俺などのためにすまないな」
「まさか、こっちこそアンタは恩人なんだ。好きになりこそすれ、邪険になんかできないって」
あの鮮烈な出会いの後、オレは多少なりとも傷を負ったヴァルゼライドを自分のねぐらに招いていた。水場で擦り傷などを洗い消毒、打撲なども簡単に冷やしておく。雀の涙でしかない治療もどきでも、この
それにしても、助けてくれた方なのに嫌味なくらい腰が低い少年である。その視線に宿る強烈な意志は今もなお衰えることなく燃え盛っているのに、真摯に頭を下げる姿はスラム育ちにあるまじき誠実さだ。なのに自分のことを卑下するような言葉を平然と吐くあたりがよく分からない。
ひとまず彼を座らせ、自らもまたその対面へと腰を下ろした。拾い物の錆びたナイフで簡単に林檎を切り分けてその半分をヴァルゼライドへと放り投げる。
「小さいけど今回のお礼だよ。改めて、助けてくれてありがとう」
「重ね重ねすまないな。それに礼を言われることでもない。ただ俺があの場を見過ごせなかったから介入した、これはそれだけの話だ」
「だとしてもだ。あのままだったらきっと酷い目に遭ってただろうし、それを助けてくれたアンタは紛れもなく俺にとっての恩人だよ。素直に感謝させてくれ」
そこまで言って彼はようやく納得してくれたようだった。態度にはありありと”自分には過ぎたもの”という感情が見えているが、それでも否定しないなら十分である。
しばらくお互いにしゃくしゃくと林檎を齧る音だけが響くも、すぐにそれらは腹の底へと消え去った。多少の満足感を得られたところで何となしに話を再開してみる。
「なぁ、なんでオレのことを助けてくれたんだよ? オレとアンタは間違いなく初対面で、しかもそっちは多勢に無勢だったんだぞ。そりゃああんだけ強かったとはいえ、普通は見過ごしたってなんもおかしくないだろ」
少なくとも自分なら怖いし見てみぬふりをする。だって普通に考えて格上を相手に挑むなんて恐ろしいじゃないか。しかも助ける相手すら全く見ず知らずの他人、これでは勇気を振り絞る甲斐すらない。
なのに彼はなんの躊躇いも見せず、圧倒的な意志と力でオレを助けてくれたのだ。もちろん感謝はしているが、”どうしてそのようなことを”という好奇心も隠せない。
「決まっている、俺がそれを見過ごせない性分だからだ」
よって何の
同時に、思い知る羽目になる。クリストファー・ヴァルゼライドという少年の中に潜む、あまりにも圧倒的な悪への怒りを。
「生まれた時から染みついた本能なのだろうな。不条理がのさばり正義が価値を失う世界の中で、俺は悪党が勝つ姿が許せなかった。正しく生きる者が報われてほしいし、悪人は相応の罰を受ければよい。そう考えて、俺はこれまで生きてきた」
「だから、オレも助けてくれた?」
「当然だ。他の皆がそうだからと、俺まで
彼は本当にオレと同じくらいの子供なのだろうか? そんな疑問が脳裏を掠める。
とても子供とは思えないくらいに達観したその態度、スラムどころか
悪を許さず、勝利を重ね、周りに流されず潔癖を貫く。言葉にすればなんと素晴らしいことだろう。だが、正しいことはすなわち苦しいことなのだ。ほとんどはその痛みに耐えられず、悪に走り、敗北に甘んじ、周囲に流され腐敗へと迎合してしまう。
オレだって今はまだ犯罪には手を染めていないが、このまま数年もすればきっと小さな犯罪には手を出し始めることだろう。そこから段々と大胆になり、最後は殺人のような取り返しのつかないところまで進んでいくのは明らかだ。でもそれがスラムの流儀である以上、良心も躊躇いも簡単に振り切れてしまうのは想像に難くない。
人間とは所詮そんなものである。周囲の人間や環境によって簡単に悪へと転んでしまうし、悲しいが悪い行いの方が楽に出来ているのが世の中だ。ならばいったい誰が正道を脇目も振らずに進めるだろうか、辛く苦しい茨の道を踏破できるのは一握りの勇者を置いて他にない。
──故に、彼こそ勇者と感じることに躊躇いは微塵もなかった。
「すごいな、アンタは……こんな塵屑しかいないようなスラムの中で、アンタみたいな人間に会えるなんて思ってもみなかった」
他の誰が彼と同じことを言おうとも、ただの理想論か法螺吹きにしか聞こえないはず。現実という痛みの前に虚しく破れ去るのがオチなのは間違いなく。
だがこの少年、ヴァルゼライドに限ってはあり得ないと断言できた。心の裡から常時放たれている気迫が説得力を持たせ、鋼のようにブレない姿が世迷言と馬鹿にさせないのだ。さらに言えばその実例、不利を覆し勝利を手にした強さをオレは間近で知ったのだ。あの光景を見てもなお大言壮語と笑うなど以ての外である。
人として、男として、あまりにも格好良いから心の底から感服してしまう。オレもこんな風になれたら良いのにと憧憬さえ抱く始末。だからだろうか、助けられたときと同じく飾りのない正直な心をそのまま吐露してしまった。
「なあ、そっちさえ良ければオレと友達になってくれないか? アンタみたいな立派な人間と胸を張って並べるような、そんな人間になりたいんだ」
言いながら手を差し出す。どうしても面と向かって友達になってと告げるのは気恥ずかしいが、それでも眼前の少年と友達になりたい感情が勝ったのだ。こんなにもすごい男とこれきりで終わるなんて耐えられない。
そうして握手を求める手を前にして、ヴァルゼライドは初めてその鉄面皮を微かに崩した。ほんの少し漏れ出た表情は驚きだろうか。一瞬だけオレの行動に戸惑ってから、けれど力強くその手を握り返してくれた。
「そちらが望むというのなら。これまで友などいなかった俺ではあるが、その想いを無碍にしないよう努力すると誓おう」
「そんなに堅苦しく考えないでくれって。もっと気安い仲になれればまずは良いんだからさ。でも、ありがとうな」
嬉しかった。こんな男がオレと友達になってくれるなんて夢みたいだ。オレだってスラムにおける初めての友達が彼なのだから、その喜びはひとしおである。
握った手の大きさを、オレはきっと忘れない。これから先で何が有ろうと、この輝きを目に焼き付けておくのだ。そうすればこのスラムという最低辺すら、いつかは意志の力で抜け出せると信じて──
◇
とは意気込んだものの、物事はそう簡単に出来ていない。
いくら途轍もない人間と友達になれたからといって、状況が簡単に好転するなどあり得ないのだ。どのようなことだろうとまずは地道に努力せねば始まらない。当たり前の真理だった。
そういう訳でオレがゴミ漁りの他に新たに始めたのは、スラムに廃棄されるジャンクの回収だった。ほとんどは
もちろん、スラムの人間を相手にマトモな商売をしてもらおうなどと期待してない。実際ほとんどは信じられない安値で買い叩かれるし、モノによっては追い出されることすらある。それはオレにこの仕事を教えてくれたクリスにしても同様らしいが、彼の方は文句の一つもこぼさず毎日のように続けていた。
「今日の収穫はどうだったよ、クリス」
「レーテか。特筆するような問題はない、今日も並だな」
いつものようにスラムの影に隠れるように存在する回収店の前へと赴けば、腕一杯にジャンクを抱えたクリスと落ち合えた。友人となってから一月弱、ほとんどいつも一緒にいるせいか、いつの間にか互いに愛称で呼び合うまでになっていた。この距離感がどうにもくすぐったく、そして誇らしい。
並とは言ったが、彼の集めたジャンクはオレの集めた量の二倍はある。それは単純にこの仕事への慣れや男女の差──忘れがちだがオレの身体は少女だ──もあるだろうが、やはり地道な努力を苦とは思わない性格に起因するのだろう。
この一ヶ月で気づいたのだが、クリスは才能の点ではひどく凡庸だ。一を聴いて十を知る天才では断じてないし、何かをやらせればすぐに結果を出せるような人物でもない。どこまでも普通な、天賦などという言葉とは無縁の男だった。
なのに、その全てを努力一つで越えていく。喧嘩が弱ければ勝てるようになるまで鍛錬を積み、知らないことがあれば素直に訊ねた上で必ず自らの知識とする。このジャンク集めだってどこで何が見つけやすいか、ひたすら研究して根気強く集めた上での成果なのだろう。
努力なんて普通は嫌だ。辛い、疲れる、つまらない、報われる保証はない。そんな言葉を盾に簡単に放り投げてしまうのが当然なのに、クリスだけは一切泣き言を漏らさない。むしろ気合一つで苦しい努力を呼吸するように続けて、重ねて、一日前の自分よりも確実に成長していくのだ。
「今日は結構まとまった金になったな! これならちょっとは美味いもの食べられるかも」
「そうかもしれんな。お前も随分とジャンク集めが様になった、友として喜ばしい限りだ」
「クリスのおかげだよ。そうじゃなきゃここと縁を持つことも、こうまで頑張ることだってできなかった」
全部違わず本音だった。いくらでも努力を続けられる男が隣にいるからこそ、オレもまた投げ出し諦めることなく続けられるのだ。もちろん常にトップギアのクリスに合わせ続けてはこちらの身が保たないが、常識の範囲で彼の光に倣うのはとても効果的なのも間違いない。
帰り際に──あくまで比較的だが──清潔で味の保証されたパンを闇市で買って、スラムのねぐらへと戻る。これまで定住の地を持たずにスラムで生きていたらしいクリスだが、友となってからはそこそこ綺麗な水が飲めるオレのねぐらで共に暮らしていた。男女が一つ屋根の下、と言えば危ない雰囲気だが、オレは精神がまだ男のままだしクリスはそういう感情がこれっぽっちもなさそうだしで全く問題ない。
買ったパンの包みを開ければ香しいパンの匂いが立ち込める。このスラムではあまりに貴重な食べ物、それを頬張れる幸せを感じながら
準備を終えつつパンも食べ終えて、それから日課の時間だ。真面目な顔を崩しもしないクリスと向き合って座り直した。こういう時の彼の前ではとてもじゃないがおどけた態度をとれはしない。
「そんじゃ、やろうか」
「ああ、今日もよろしく頼む」
クリスの片手には折れたペン、さっきまでパンを包んでいた包装紙を即席のノートにして、あたかも学生が授業を受けるようなポーズを作った。もちろんこれは振りではなく、これから本当に簡素ながら授業をするのだ。
「この前やったのは確か、割り算だったか? んじゃ次は割合の方に進んでいこうかね──」
強大な意志の力を秘め、あらゆる努力を真正面から受諾し乗り越えられるクリスだが、一方でスラム育ち所以の無学さとはどうしても切り離せない。教育を受ける機会、権利すら有していないのだから仕方ないといえばその通りだが、彼はその現状を全く許してはいなかった。
逆にオレの方はといえば、スラムでは最弱同然の代わりに教養はある。もちろん専門的なことまでは教えられないが、それでも今のように算数や数学といったことくらいは教えられるのだ。オレがクリスと負い目なく友情を結んでられるのもこうしたwin-winの関係性もあるからなのは否定しない。
「つまりこれは──こういう意味か?」
「その通りさ。こういう考え方をすればより分かりやすくなると思うぞ」
そしてここでもクリスは前進を止めない、ひたすらオレの話す知識を自らの血肉へとし続ける。少しでも分からないことがあれば謙虚に教えを請い、その果てに学んだ一つを確実に我が物としてしまうのだ。
本当に、だからこそこの男には魅了されてしまう。どこまでも真っすぐ王道で、気合一つで常人の不可能すら可能にしてしまう。普通ならあり得ないような出来事をその身一つで起こしてしまいながら、自分ではどうしようもないところは素直に他者の手を借りる。力強さと謙虚さを自然体で兼ね備えた在り方に惹かれてしょうがない。
もしオレが本当に心まで女なら、その雄々しい在り方に恋でもしていたのだろうか。
いいやそれとも、男でありながら魅了されてしまうのか。割と可能性はあるのが恐ろしいところだ。
「なんてな、あり得ないあり得ない。男なのに男を信奉するなんてただのホモだろ」
「どうかしたか?」
「いいや、なんでもないよ。さてと、続きはと──」
この素晴らしい男と友になれた事実を改めて噛み締めながら、オレは記憶を掘り返して講義を再開した。