『新西暦1032年(ヴェンデッタ本編)当時においてヴァルゼライド閣下は38歳だった』
と仮定し、これを基準にしております。
この二か月ほど、オレの朝はかなり早い。陽が出るとほぼ同じ頃に目を覚まし粗末な毛布の下から這い出てくる。かつては太陽が昇り切るまで寝てることもままあったのに、今では信じられないほど早起きだ。それもこれも、朝っぱらから鍛錬を欠かさない友人の姿に感化されてのものだ。
軽く顔を洗ってから身だしなみを整えねぐらの外へと向かえば、そこには既に先客がいた。朝霧の中には一心不乱に鉄パイプを振るう見慣れた少年の姿、朝早くから鍛錬にいそしんでいるのはクリストファー・ヴァルゼライドに他ならない。
何回も何回も、子供には重たい鉄パイプを上に持ち上げては下へと振り下ろす、その繰り返しを飽きもせずにひたすら行う。もはや数えるのも億劫になるくらいに行っているはずだが、それでもクリスは一度として「飽きた」とも「やめたい」とも言わなかった。
何となく邪魔をするのも悪くて遠めから眺めていたら、向こうの方がこちらに気が付いたらしい。鉄の棒を振るう腕は一切止めず、視線だけこちらに寄越してきた。
「レーテか」
「よぉ、今日も朝からご苦労さん」
軽く腕を上げて返事してから、クリスのすぐ近くにまで寄る。鍛え上げられた身体は正確無比な振り下ろしを成し遂げており、愚直なまでに繰り返された動作が身体に染みついているのが見て取れる。独力でひたすら修練を積んだ結果として至った境地なのだろう。たぶんクリスが剣を握ったとしてもこの動きだけは間違うまい。
継続は力なりとは有名な言葉だが、すぐ間近に生きた実例が居るのも妙な気分だ。この男を見ていると自分も怠けてはいられない、努力すればどんなことでも可能になるのではと思えてしまう。
「オレも付き合っていいかな?」
「いつも通り、好きにすればいい。お前が努力するというなら俺にとっても喜ばしいことだ」
小難しい言い回しだが、ようは別に構わないということだ。クリスは自らが努力の徒だけあってか、他人の努力に対してはかなり敬意を払う傾向にある。
なので早速いつも隠し持っている錆びたナイフを取り出し、それをひたすら横薙ぎに振るう練習を開始する。型とか動きとかそういう細かい話は何も知らないので、ひたすら早く
「ふっ! はっ! はぁっ!」
一回一回短い掛け声を上げながらナイフを振るう。最初にこの練習を始めた二か月前はほんの十数回振るう程度で筋肉痛になっていたが、今では慣れたのか百回を超えてもまだ余裕だ。牛歩の歩みで動きも段々とよくなっており、初期と比べて明らかに無駄がなくなっているのが肌で感じ取れる。
努力なんて苦しいだけ、好んでやりたがる人間はそういない。これは変わらず世の真理だろうし、オレだってやはり出来ることなら楽をして過ごしたいものだ。毎日のように腕を疲れさせる鍛錬を続けるなんて昔はきっと出来なかった。
なのでただの凡人でしかないオレは、今でもたまに心が折れそうになる。しかしそういうときは、隣で今も黙々と鉄パイプを振るい続ける男の姿を目に焼き付けるのだ。
呆れるほど長い時間、オレよりも密度の濃い鍛錬を続けている者の姿を見てしまえばとても泣き言なんて漏らせない。むしろ自分も頑張ろうと思えるし、そうやって頑張った果てに成果を実感できる瞬間は素直に嬉しいと思えた。
「なぁ、クリスは鍛錬するのが楽しいのか?」
ふと気になってナイフを振るいながら隣へと問いかける。オレはこうして先駆者や努力の楽しみがあるから良いものの、では本人は何を想ってこうも苦しいことを続けているのか。やはり成果を実感できる瞬間が良いとか、そういう理由だったりするのか。
それを問うと、クリスは「あまり面白い答えではないと思うが」と前置きして答えてくれた。
「辛いと感じたことはないが、楽しいと感じたこともまたないな。必要だからやるし、そもやらなければ俺の気が済まない。だから努力だけは人一倍続けるのだ。俺がひたすら鍛錬を続ける動機なぞそのようなもの、あまり面白い理由でもあるまい」
「気が済まない……こんな苦しい努力を続けなきゃ呼吸もできないくらいに?」
「そうだ。こんな自分は常人を外れた異常者だという自覚はあるが、しかしその上で俺は止まる気など微塵もない。例えお前がそれを言おうとな」
率直に、まるで深海魚のようだと感じた。
一般人はとてもじゃないが棲めないような
ともあれ、そんな男こそクリスだとオレは知っている。身体を大事にしてほしいとは思うが、そのような言葉で止まるはずがないのもまた同様。ならばオレは友人としてその道を応援しつつ、自分もまた光に倣ってより良い明日を目指すのだ。
「悪い、変なこと聞いちまったな。別にオレは止めようなんて思わないからさ、オレが目指す理想の努力にさせてくれ」
「気にするな、俺は少しも気にしてない」
短く答えたクリスに軽く頷いて、さらにナイフを振るう腕へと意識を戻す。
目指すは最低限の護身くらいは出来るようになること、この底辺にて自力で立脚するための基盤を得るのだ。かつてのように助けられるだけの少女などではいたくない、その想いを胸に今日もちまちまと歩んでいくのだ。
◇
かつては働き口など全く見つからず、金を稼ぐなど夢のまた夢だったが、今はクリスのおかげで最低限の職らしきものにはありつけている。もちろん真っ当な感性を持つ者からすれば信じられないような低賃金なのだろうけど、それでもオレたちスラム育ちにとっては大金も同然だった。
なので少しは真っ当な食事にもありつけるようになったし、余った金はチマチマと貯金に回している。いつかはスラム脱出の軍資金にする予定だが、最近はひとまず情報集めに切り崩しているところだ。
「一週間前か……ま、いいや。これ一つください」
粗末な店頭でニュースペーパーを一つ買っていく。情報の鮮度としてはかなり遅れたものだが、そのぶん信じられないくらい安値だ。まあ売っている方もほぼスラムの浮浪者じみた装いだしオレたちとあまり変わらない立場なのだろう。
そうして手に入れたニュースペーパーを読むべくスラム街の適当なところに腰かけた。念のため周囲に人がいないのを確認してから紙面を開く。
「まあ大したことは無さげ、かな?」
ペラペラと薄い紙をめくりながらそう呟いた。一応転生者なオレではあるが、情報を読むのに苦労したことは一度もない。
何故なら、このアドラー帝国において用いられる言語は面白いことに英語と日本語のミックスだからだ。基本は英語が主体のようなのだが所々に平然と漢字を用いた日本語が混じり、純日本人の知識を持つオレに優しい仕様となっている。結果として英語がそう得意でもなかったオレでも問題なく文章を読める訳だ。
しかも会話においても似たような調子であり、そのおかげで慣れてしまえばほぼ日本語同然に意思疎通ができる。悲惨すぎるどん底転生を果たしたオレだが、この点だけは恵まれていたのだろう。
そういう訳で問題なく文字を読めるオレはとうとうこの世界について知識を増やす段階に入った。わざわざ貴重な金を払ってまで購入している価値は──今のところある。
例えばこれまでに買った紙面から得た知識。それらは総じてオレを驚愕させるのに十分だった。
「西暦二五七八年の
こうして世界に満ちた
しかも不思議なことに、ぶっちゃけ戦犯レベルのやらかしをした日本は今や神格化されているらしい。旧ブリテン領に存在するカンタベリー聖教国とやらには『
きっとそのような世界だからあの空に浮かぶ大穴に
「武官の
指折り数えながらどうしても抑えきれない愚痴を零してしまう。こっちだって仮にも元日本人だというのにどうしてこうも差がつくのか。きっとこの紙面にある『カナエ』とかいう娘も、貴族として何不自由ない生活を送るのだろう。全くもって羨ましい。
割と不当だという自覚のある悪態を吐きながら文章へと目を走らせるものの、やはり目立って有用な情報はない。所詮日刊紙なんてこんなもの、スラムで生きるオレたちには関係のない世界の話なのだから。ショーケース越しに綺麗な服を眺めても虚しくなるだけだ。
「はぁ……やめやめ、
仕方なくニュースペーパーを畳んで重い腰を上げた。有用な情報こそないとはいえ、これはこれで役に立つ。例えば毛布にしてしまうとか、ねぐらの汚れを拭き取るだとか、いざとなれば燃やして暖を取ることもできる優れモノだ。
加えて肉体的な努力だけでなく、勉強面ですら学ぶことを怠らないクリスにニュースペーパーは良い教材だった。彼も毎度のように時間をかけてじっくり読み解き、着実に文字についてもマスターしている。しかも社会を知ることも出来るのだから一石二鳥というものだ。
そのようなことを考えつつ、ねぐらの廃ビルへと向かって歩き出す。何処か遠くの方からはいつものように怒号が聞こえる。たぶん血気盛んな誰かが喧嘩しているのだろう。いつだって腹を空かせてイライラしているのがここの常識なのだから。
そしてうずくまる同年代くらいの子供たちも心なしか少なくなっているように見えた。この
ならばこうして光を仰ぎ前へ進める自分の、何と恵まれたことか。飢えてはいても心は常に満たされている。おかげで余裕はあるし希望も持てる。善悪の秤を見失うことなく生き抜けているのだから。
「誰かを殺してまで奪わなくても良い、これだけでも大したもんだよ」
オレもクリスも人殺しの経験は全くない。けれど青年くらいの年齢になるとそういう後ろめたい犯罪にも手を染めるようになるらしいし、きっとオレもいざとなれば躊躇しないことだろう。どこであろうと潔癖さを保てるのは一握りの
まあいざとなれば箍が外れるのかもしれないが……その時はその時だろう。こんな身にまで堕ちたのだ、今更何を躊躇うやら。現状でやる必要がないから犯罪にまで手を染めていないだけで、危機に陥れば間違いなく良心の枷など吹き飛ぶはずだ。
何より、悪徳に対して
──もし彼が誰かを手に掛けた時、オレはいったいどう感じるのだろうか?
自分でも答えの分からぬ問いを裡へと投げかけながら、段々と小さくなる喧嘩の騒音に背を向けてねぐらへと急ぐのだった。
アドラー帝国(というより新西暦全体)での言語に関しては完全な独自解釈及び設定です。
ゼファーや閣下といった明らかに西洋人ちっくな名前がある一方で、アマツなどの名前に漢字が含まれていることから英語+日本語の入り混じったようなものだろうと解釈しました。
これなら漢字にカタカナのルビ振るような話し方も違和感出ませんし、