あの日から、たぶん一年くらいが経ったのだろう。日々を生きるので精一杯だから律儀に数えることだってしていないが、定期的に購読してるニュースペーパーの日付からしてそれくらいは経ったはずだ。
その間、オレとクリスの日常はほとんど変化してない。ジャンクを集めて僅かばかりでも金にし、それで食いつなぐ日々。ねぐらに戻れば勉強会を開き、そして泥のように眠って明日への体力を取り戻すだけだ。
最低辺からの脱出、なんて夢はまだまだ遠い話だった。クリスはともかくオレは今を生きていくので精一杯、これから先で何をしたいかもまるで分からぬ人の形をした塵の一人にすぎない。
それでも、自慢したくなるくらいすごい友人がいるから諦めることだけはしない。いつだって不平をこぼさず前を向いて進み続けるクリストファー・ヴァルゼライドという男が隣にいるからには腐ることなどあり得ないのだ。
「よぉクリス、また随分と派手に喧嘩したみたいだな」
「心配ない、かすり傷だ」
ジャンクを金に換えて一人ねぐらで待っていたオレのところに、喧嘩したらしくかなりボロボロになったクリスが帰ってきた。全身に青痣や切り傷といった怪我が散見されるが、クリスの鉄面皮は少しも崩れていない。どこも相当痛むだろうに、きっと気合だけで痛みを押し殺しているのだろう。
「取り敢えずこっち座れよ、治療してやるからさ」
「恩に着る。いつもすまないな」
「別に良いってことよ」
質の悪い包帯と消毒液を両手に持ち、服を脱いで腰を下ろしたクリスの後ろに立つ。子供ながらによく鍛えられた身体に元男としては憧れを禁じ得ない。一切の無駄がない努力だけで鍛え上げた叩き上げの結晶だ。それを傷つけることがないよう、慎重に消毒しつつ包帯を巻く。かなりシミて痛いだろうにうめき声一つあげないのはいつものことである。
自らの意志をどこまでもどこまでも貫き通し、他者の手など絶対に借りなそうなクリスであるが、これで意外と他者に頼るべきときは素直に頼る。いざとなれば独力で道を切り開いてしまう勇者の癖に、平常時はできる事とできない事の分別をしっかり付けているのだ。
とはいえ、ならば誰にでも頼るかといえば絶対にそんなことはない。基本方針として彼は愚直なまでの努力で不可能を突破する挑戦者だし、そもそも最初から全てを誰かに頼るようならこうも凄まじい男と感じることすらないだろう。
そんな彼が他者の手を借りるとすれば、それはよほどの専門的な知識が必要となる場面か、それなりに心を許している相手だけになるか。間違いなくかなり限定される訳で、ならばこうして包帯を巻いているオレは、
「ま、友人冥利に尽きるってわけだ……そら、終わったぞ。今度は何があったんだよ? また誰かが襲われてたか?」
「いや、そうではない。数人規模だが、何やら下らぬ諍いで争っている者たちがいてな。俺にはどちらにも道理があるように見えなかったから、両方とも力づくで止めてきた」
「力づくってなぁ……毎度の事とはいえよくもまあやるよ」
相変わらずとんでもないことを平然としてくる男である。感情の秤が正しさの方に振り切れているというか、どのような難敵だろうと間違っているなら決して与することも見逃すこともない。悪徳が蔓延るスラムにおいてはあまりに損な生き方であるが、それでも一心不乱に勝利を目指して走り続けられるからクリスは強いのだ。
オレもこの男のように強く生きることが出来れば──夜中に一人そう願ったことは一度だけじゃない。ただ不貞腐れるだけじゃなくて例えば筋トレをしてみたりとか、その辺に落ちていた鉄パイプをひたすら素振りするとか、出来そうなことは勿論してる。
それでもオレは悲しいことに非力な少女でしかなく、努力しても成果はたかが知れている。力の面でクリスの足を引っ張っているのは明白だった。
「なぁ、オレもクリスみたいにひたすら頑張ればそれだけ強くなれるのかな?」
思わず口を衝いて出た言葉に、彼は神妙な顔をした。肯定はしないが否定もしない、そのような態度だ。
「分からないな。俺には人の才能を見抜く眼力など備わっていないからどうとも言い難い。だが、お前が俺を目指す必要が無いのは確かだ。こんな前にしか進めないような破綻者など倣うべきではないのだから」
「……あんま自分のこと卑下すんなよな。それじゃ、そんなお前に憧れているオレはどうなんだよ?」
「俺には分不相応な評価と受け取っておこう。逆に俺の方こそお前には敬意を表しているくらいだ。多くの知識を俺に教えてくれ、このスラムにおいて善悪の道理を見失わなかった。その良さをみすみす捨てる必要がどこにある」
「頼むからそんな真っすぐ言わないでくれよ、照れるってば」
真摯な想いの込められた実直な言葉がとても嬉しい。だがその評価こそオレには不相応な気がしてならなかった。
彼がオレを評価してくれているのは、言うなれば
ならどうすればオレはオレらしく正道を歩めるのだろうか。この男に相応しい自分へとなれるのだろうか。
答えはまだ、とても出そうになかった。互いに相手を評価してるのにそれを不相応と感じてしまう
「まあ、オレの良さはさておき。今はお腹も空いたし飯食べようぜ飯!」
「そうだな。腹が減っては出せる力も出ないか」
ひとまず質素な食事を二人並んで食べ始めたのだった。
◇
それから数日経ち、オレは一人スラムの街中を歩いていた。とんだ無法地帯なスラムでの一人歩きは慎重にするべきだが、今では圧倒的な強さと覇気を持つクリスの唯一の友人という立場もあり、そうそう手を出してくる相手もいない。虎の威を借る狐だがありがたい話だ。
大抵の場合はクリスと共に過ごし、ジャンクを集める時や彼が喧嘩に巻き込まれたときだけは邪魔にならないよう別行動するのが常なのだが、今日は意図的に一人でいる。たぶん彼はいつも通りジャンク集めを頑張ってるか、自らの鍛錬に全力かだろう。
何故かといえば、ちょっとしたサプライズを用意したいと考えたからだ。
「さーて、何を買おうかなーっと」
しばらく前に判明したのだが、クリスはオレのおよそ一歳上らしい。なのでオレが現在八歳くらいに対して、彼はだいたい九歳程度と予想できる。……九歳児があれだけ達観した思惟を持っているのが信じがたいが、そこは”ヴァルゼライドだから仕方ない”で納得できるのがなんともはや。
ともあれ、それなら誕生日プレゼントでも買って驚かせてみようと考えた次第である。いつが誕生日なのかは本人も分かってないのはご愛敬だが、こういうのは気持ちの問題なのだし別に構いやしないだろう。
まあ、たかがスラムの孤児がなけなしの金で買えるプレゼントなど限られているのだが。それに我欲が異常なまでに薄い彼のことだから変な物を贈っても困るだけだろう。なので無難に普段よりちょっとだけお高い食べ物か、安物のお守り程度にするのがいいだろう。
ちまちまと貯めた金を懐に抱えて、いつものようにスラムの境にまでやって来た。胡散臭い露天商やいつも世話になっている回収店が並ぶそこを、今日は普通の客として歩いていく。
しばらく色んな店を物色しては何にするか決めるのは中々楽しい経験だった。あれは良さげ、これは微妙、そんな風に品々を見定めていくだけなのに飽きがこない。なるほど、女性が買い物好きというのも頷ける話だった。女になってしまった今なら心から頷ける。
結局散々迷った末に、一つ決めて店頭に持っていった。
「すみません、これをくださいな」
「あいよ。金はあるかい?」
「もちろん」
粗末な上着とスカートを着たオレの姿はとても金を持っているようには見えないらしいが、それも懐から金を出したことで問題ないと判断されたようだ。しっかり包みに入れてもらった品を大事に抱えてその店を後にする。
さて、これを渡したら彼はどのような顔をするだろうか。たぶんあの鉄面皮は少しも揺るがないとは思うが、それでも喜んでもらえれば純粋に嬉しい。もし俺には必要ないと言われようと、意地でも渡すつもりである。
──だからホクホク顔でスラムを歩くオレは、完全に油断しきっていた。
いつもならかつてクリスに助けられた際の教訓もあり、最低限の警戒はいつも怠らないようにしていた。だが今日ばかりはこれから先の事ばかり考えていたせいで足元がお留守になっていたのだ。端的に、あまりにも分かりやすい鴨になっていたのである。
「よし、コイツでいいか」
「──ッ!? なんだおま、むぐっ……!」
そんな呟きが背後から聞こえ、咄嗟に振り向いた時には既に遅く。
口元に押し当てられた布に沁み込んだ薬液にやられ、オレの意識はすぐにブラックアウトしてしまったのだ。
◇
目が覚めたとき、最初に覚えたのは危機感と既視感だった。
「ここは……?」
崩れかけた壁や床という特徴からして、たぶんスラムのどこかなのは間違いない。ただし手は後ろ手に縛られており、口には猿轡よろしく布を噛まされていた。唯一自由なのは足だけだが、それも床に転がされた状態ではあまり役に立ちそうにない。
どうしてこうなったんだ、確か最後の記憶は変な布を押し当てられたところで──まさか。非常に嫌な予感がするが、先ほど直感的に覚えた危機感と既視感がそれを裏付ける。この状況が示すのはたぶん一つだけだ。
「よう、お目覚めか」
そして即座に最悪の予感が的中してしまったことを悟る羽目になる。
視界に映ったのは三人の青年たちだ。たぶん歳の頃は十五、六くらい、だがスラムには似つかわしくない仕立ての良い服を着ている。さらに腰には権威付けか知らないが刀剣らしき武装があり、いやでも貴族か上流階級の者だと認識させられてしまう。
そんな青年たちは心底から吐き気のする態度でこちらを見下ろしていた。悪意に満ち満ちたその顔は一年ほど前に知っている。女の尊厳を粉々に打ち砕こうとする男が浮かべる、心底まで下卑た笑みだ。
「へぇ、ちいせぇけど中々上玉じゃんか。お前、やっぱり見る目あるわ」
「だろ? もうちょい成長してたらもっと良かったんだけど、そこは仕方ねぇ。それにほら、そっちはその方が興奮すんだろ?」
「よく分かってるなぁ。アンタには頭が上がらんよ」
一見すれば気負いない会話を交わしているだけの仲良し三人組だ。しかし、その裏に秘められた恐ろしい企みを隠そうともしていない。あまりの恐怖に身震いが止まらなかった。
まさか貴族らしき者たちがこんなところまで来て、強姦に走ろうとするなんて。腐っているにも程がある、お前らはどれだけ傲慢なのだと叫びたくてたまらない。けれど塞がれた口から出るのはくぐもった無様な声だけだ。
「んーー! んーーッ!」
「なに言ってるか分かんねぇよ。いっそこれ外してやるか」
「おいおい、騒がれたら面倒だぜ? スラムの奴でもあんま集まってこられたら処理が困る」
「なぁに、どうせ適当な浮浪者にでも罪被せればどうとでもなるさ。こいつだって、用が済めば殺して口封じすれば良いわけだし?」
「んぐッ! ぐぅーーー!」
マズい、いよいよもってマズい。このままじゃ本当に終わってしまう。せめて抗おうと本能のまま叫んでみるが状況が変わる訳もない。むしろそんなオレの醜態をみて青年たちは大笑いする有様だ。
さらに一人がオレの口を塞ぐ布を外し、もう一人が両足首を掴んできた。成す術もなく足を大きく開かされそうになって──咄嗟に足首を掴む腕に噛みついた。悲鳴と共に反射的に離れた腕を足蹴にしてズルズルと後ろへと逃げていく。
当然すぐに壁に突き当たったが、今はそれでいい。後ろに隠した両手の内、右手の袖に隠していた錆びたナイフを握り込んだ。これがこの場における唯一の希望、手の縄を切って逃げ出すチャンスを窺うのだ。
どうにか目の前の脅威からは逃げたが、しかしそれは十秒後の悪夢を一分後へと先延ばししただけにすぎない。むしろ思わぬ抵抗にあった青年三人は相当頭に来ていると見える。急がなくては。
「くそ、こいつ……!」
「どんだけ上玉だろうと、所詮はスラムの野良犬ってわけだ。まずは躾してやんねぇとダメみたいだな」
「スラム育ちの屑の癖に、俺ら相手に舐めた真似しやがって」
「やっばいな……」
やはり本格的に怒らせてしまったらしく、先ほどまでのふざけたような空気は微塵も感じられない。このままだと殴られ蹴られの袋叩き確定だ。それも絶対に嫌だ。どうにかして逃げなければ。
しかし焦りと錆びのせいか全然縄が切れてくれない。もどかしいが変な動きをすれば気取られる。必死になって正面を睨みながら後ろでナイフを動かし続けているオレに、つかつかと寄って来る足音が一つ。さっき噛みついた青年だった。
「おらお返しだ、受け取りやがれッ!」
「ガッ──カハッ……!」
鋭い蹴りが思い切り腹に突き刺さった。死ぬほど痛い。涙が出てきた。さらにグリグリとつま先で抉られ呼吸さえままらない。それでもナイフだけは隠し続ける。友人に倣って気合一つのやせ我慢だ。無茶だと思うな、心一つで貫き通せ。
だってそうだろう、このまま終わるなんて認められるものか。何としても足掻いて見せる。そうだ足掻け、足掻いて足掻いてみっともなく生にしがみつけ。お前はこんなとこで終わりたくないのだろう。なら、あの眩い背中に倣ってこの現実を打ち破ってみせなきゃ仕方ない。
「そうだ、
呟いた言葉は短く、そして単なる決意の表明に過ぎない。これは言葉一つで状況が一変するような魔法の呪文じゃ断じてないのだ。ご都合主義でピンチを切り抜けるなぞ英雄にのみ許された特権にすぎない。
そんなことは委細承知済み。現実などそんなもの、気合いだけで覆せるはすがないと分かっているが、ああしかし──
「まだ、まだ、まだ、まだァ……! オレは、こんなところで──!」
「なにぶつぶつ呟いてんだ、気色悪ィ!」
認められるはずがない。誰が死にたいものか。誰が慰み者になりたいものか。心はまだ一つも諦めてはいないのだから、それに見合った全霊を振り絞るのだ。否、振り絞らなければ絶対に生き残ることなどできはしない。
目指すべきはあの背中、誰かのために、
「ふざけるなよ、死んでたまるか冗談じゃない──ああ、
そして一際強く
奴らの下卑た目的のおかげで足を縛られていなかったのは幸いだった。もはやオレを戒めるものは何もない。あらゆる束縛を振り切ってオレは自由だった。
腹を抉る青年の足へと躊躇いなくナイフを振りかぶる。寸前で息をのむ音が聞こえたが既に遅い。錆びて刃毀れしたナイフでも先端は十分鋭く、あっさりと衣類を破くとふくらはぎへと突き刺さった。
ずぶりと肉を貫く感触が手に残る。気持ち悪いはずのそれはしかし、オレに何の感慨ももたらさない。むしろ身体の奥底から湧き出る力に心が奮い立ってそれどころではないのだ。
「なっ──ぎゃああああ! 痛ぇ、なにしやがんだコイツ!?」
「おい、大丈夫か!?」
「馬鹿、調子乗ってるからそうなんだよ!」
三者三様に慌てる姿を横目に、ナイフを構えながらゆっくりと立ち上がった。
やはり身体が軽い。空気すら別物に感じるくらい旨い。どこまでもどこまでも力が湧いてくる気がするこの不思議な感覚は火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。
この力に日々の鍛錬を組み合わせれば、この絶体絶命も乗り越えられるかもしれない。毎日のようにナイフを握って振り込んだ努力を思い出せ。この場において努力だけがオレを裏切らない唯一絶対のアドバンテージなのだから。
「こいつぅ! よくも!」
大振りに振るわれた拳を屈んで避け、さらにナイフを一閃。何度も練習した横薙ぎは過たず腹部へと刃を走らせ、さび付いた刃を信じられない膂力で強引に振りぬき肉を数センチほど抉り出す。直後、室内にむせかえるような血臭と痛々しい悲鳴が木霊した。
さらに背後からの蹴りを見るまでもなく転がって回避、一目散にドアへと走る。まるで眠っていた力が目覚めたかのような、それこそ”覚醒”としか言いようのない現象に希望を見出し、ついに取っ手に手を掛けたが。
「捕まえたぞ、クソ餓鬼ィ!」
……現実はそう甘くないのだ。多少の不意を突いたところで彼我の戦力差はあまりに大きく、混乱から立ち直ってしまえばもう駄目だ。扉の前で首根っこを掴まれたオレの前で、さっき腹を斬りつけた男が腰の刀剣を抜いた。これぞ本当の絶体絶命である。
首を絞められながら体重の軽い身体を簡単に持ち上げられ、そのままドアに勢いよく叩きつけられた。息を吸う事も吐くこともできず、せめてと振るったナイフも呆気なく叩き落されて床に落ちた。
「散々コケにしてくれやがって! お前はもう楽に殺してなんかやんねぇからな! 悔やみながら、泣き叫びながら、地獄の底に落ちていけッ!」
これで本当に詰み、所詮はオレ程度では覚醒しようが何だろうが切り抜けられるはずがないという訳だ。青年の肩越しに前を見れば、残る二人も既に復帰している。もはやオレの嬲り殺しは確定のようだった。
「ごめん、クリス……」
希望はない。足掻きもない。絶望だけが全てを支配する。
その最中、この人生における最初で最後の友へと向けて短い謝罪の言葉を送ったそのとき──
「──いいや、地獄に堕ちるのはお前たちだ。死ねよ塵共、ここが墓場と知るがいい」
雄々しい宣言と共にいきなり扉が外から開けられ。
ここに、全ての闇を払拭する光の英雄が満を持して参戦した。
ややワンパターンだったかと自省しつつ、次回はお待ちかねの英雄無双です。
それから、どうやらシルヴァリオシリーズを知らないながらも拙作を読んでくださる方もいるようで。もちろん光栄なのですが、やはり原作の良さも知ってもらいたいのでこの場を借りて軽く宣伝をば。
一作目、シルヴァリオヴェンデッタは無職のダメ人間が色んな人の手を借りて更生していく成長物語です。頻繁にヒロインの方が主人公っぽくなったり、ラスボスが一番の萌えキャラだったりもしますが些細なことです。決してヴァルゼライド閣下が主人公ではないのであしからず。
二作目、シルヴァリオトリニティは強く優しい青年である主人公が可愛くて格好良い四人のヒロインたちと共に、
他にも「頑張れば誰にでも不可能は無い」と教えてくれる一途で前向きなキャラがいっぱいです、はい。