皇宮の宴は佳境に達しようとしていた。
召使いがひっきりなしに、銀の
壁際に座を占めた楽人たちが
饗宴は華やかななかにも緊張をはらんでいた。
対立している貴族たちは互いに睨み合ったり、冷笑したり、まったく無視したりする。いまだ旗幟を明らかにしていない者は無関心を装いつつ、どちらの陣営に与したものかと思案する。
無音の嵐の中心にいるのは、エーラーンシャフル(サーサーン朝ペルシア)を代表する二人の大貴族だった。
現女帝アーザルミードゥフトの
相手と目が合ったファルロフ・ホルミズドは微笑み、盃を掲げてみせた。フィールーザーンも苦々しげに返礼する。
各地からもたらされたさまざまな食材が腕のいい料理人によって調理され、客の目と舌を喜ばせている。
子羊の炙り肉。雉の蒸し焼き。酢の酸味をきかせた牛胸肉の煮込みに飴を添えたもの。葡萄の葉でくるんだ挽肉料理。ティグリス河で採れた魚の揚げ物。
ファルロフ・ホルミズドの二人の息子のうち、年嵩のほうは若者らしい健啖ぶりを見せている。父と政敵らとの暗闘も意に介さないようだった。
大広間の上座には金の房飾りのついた赤い錦織りの
しかし、座の主はそこには居ない。銀の水差しだけが空しく光っている。
こうした
視線をそちらに向けていたロスタムは薔薇水の鉢で手を漱ぐと、傍らの父親に会釈した。
「父上、ちょっと失礼します」
「兄者、どこに行くのだ」
弟のファルロフザードの質問に、笑みだけで答えたロスタムは足早に大広間を横切っていく。
ファルロフ・ホルミズドは息子の後ろ姿を意味ありげな眼差しで見送っていた。
内苑の池に月が映り、
表御殿で行われている宴がいまや
しかし、豊かな木立と楼門が夜の
正方形の池を囲む大理石の縁石に、一人の美女が腰を下ろしていた。
金の刺繍をした白い
容貌はどこまでも甘やかで、優しい曲線を描く顔の輪郭とやや薄い唇が彼女がローマ人の血を引いていることを表している。双眸は
そうしてエーラーンシャフルで最も美しいと謳われるアーザルミードゥフトはたたずんでいる。
繁みの奥で、双つの緑の瞳が悪戯っぽく輝いた。
さわさわと葉が鳴る音がしたかと思うと、サフラン色の
女官にしては背が高いこと、と思った次の瞬間、アーザルミードゥフトは未知の女の腕に捕らえられていた。
「誰です。何をするの」
「しいっ、しぃーっ!」
力強い手が口を塞ごうとする。相手が男で、しかもよく知っている人間であることに気づき、愕きの叫びを上げた。
「ロスタム!」
アーザルミードゥフトの声に応えるように、男が衣を脱ぎ捨てた。眉目凛々しい容貌のなかで緑の双眸が笑っている。
「まあ、いけない人! 後宮は男子禁制よ。前大宰相のご子息といえど、忍び込んだのが露顕したら大事になるわ」
「だから侍女に成り済ましてる」
「そんなお髭を生やした侍女なんていないわよ」
形のいい顎を縁取る黒い髭をつついてみせた。
「こうして布で覆っていれば分かりっこないさ」
ロスタムは
「ああ、逢いたかった。毎晩、あなたの夢を見ていたよ」
「困った人。でも、うれしいわ。わたくしも、いつも、ロスタムのことを想っていたわ」
二人は抱擁と接吻を交わすと、誰かに見つからないうちに、蔓が絡まり葉で覆われた露台の下に身を寄せた。
女官や宦官が通りかかるたびに身体を縮め、うまくやり過ごしてはくすくす笑う。
アーザルミードゥフトはロスタムが持っている
「この被衣、ライラのね。あの子が手引きをしたの?」
「もらっただけだ。あとは自分で。忍び足をしたり、物蔭に隠れたり、なかなか楽しかったよ」
「二人とも困ったこと」
「そうだ。ボーラーンドゥフト様から手紙をお預かりしている」
「お姉様から?」
ロスタムが懐から取り出し、手渡した小さな巻物は東方から交易でもたらされた紙である。開くと、姉が好んだ
「神の
ずっと行方を探していた帝室の血に連なる男御子が見つかったという知らせがありました。
わたくしの弟で、あなたには兄君にあたるシャフリヤール様のお子様がご存命で、イスタフル(イラン南部パールス地方の都市)にいらっしゃるとのことです。いま使者を遣わしていますから、いずれ皇宮にお帰りあそばします。
天を覆う暗雲が払われ、帝国がふたたび光輝で充たされる日も近いでしょう。
そのときまで、
アーザルミードゥフトは手紙を胸に抱きしめた。
「よかった。お姉様はお元気なのね」
ボーラーンドゥフトはいま、彼女の後ろ盾となっているイスパフブド家が治めるアードゥルバーダガーン(イラン北西部。アーゼルバーイジャーンからカスピ海南西の地域)の都ガンザクにいる。
仲が良かった姉妹はエーラーンシャフルの主導権をめぐって対立する二つの派閥に担がれ、引き離され、逢うことすらままならない。二人の交流の仲立ちをしているロスタムは派閥の一方の領袖であるイスパフブド家の当主ファルロフ・ホルミズドの息子だが、双方の父親が従兄弟ということもあって幼い頃から姉妹と親しくしてきた。いまは宮廷の重鎮として帝都に常住する父に代わってガンザクを治め、公務で弟とともに上京していたのである。
アーザルミードゥフトは、なつかしい手蹟と自分の身を案じる文言に切なくなり、涙ぐんだ。
「お姉様に逢いたいわ。わたくしたち、こんなに長く離れていたことはなかったのよ」
「何もかもうまくいく。すぐにまた一緒に暮らせるようになるよ」
ロスタムが彼女を胸に抱き寄せた。
「あなたに贈り物があるんだ」
頬をわずかに紅らめ、ロスタムは大切そうに絹布でつつんだ金の指環を取り出した。アーザルミードゥフトの指に嵌める。月明かりにかざすと、台座にあしらわれた貴石は
「
「おれたちの恋が成就するように」
アーザルミードゥフトの手を取り、口づけする。
「結納金にはとても足りないけど。でも、これは手付けだ。武勲を立て、いずれ宮殿よりも高く財宝を積み上げてみせる」
「無理をなさらないで。わたくしはあなたの身が心配だわ」
「おれなら心配はいらない。太陽の神で、信義を司るミフルに誓って必ずあなたを妻に迎えるよ」
ロスタムの手が彼女の頬をつつみ、情熱をこめた口づけをする。アーザルミードゥフトは吐息をつき、ロスタムの肩にもたれて目を閉じた。
月が庭園を照らし、
二人はいつまでも寄り添いあっていた。
※イスパフブド家(Ispahdudān)、あるいはアスパフバド家とも。
isfahdudまたはisbahbadhはアラビア語で「将軍」。現代ペルシア語ではspāhbed。
この家系が将軍職を代々世襲してきたために、役職名が家名となったもの。パルティアの七大諸侯のひとつ。