女帝アーザルミードゥフト(試し読み)   作:獺祭り改め水蜜桃

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 皇宮の宴は佳境に達しようとしていた。

 召使いがひっきりなしに、銀の食盆(ハーン)を運んでいる。

 壁際に座を占めた楽人たちが曲頚琵琶(バルバト)(ムシュタク)竪笛(ネイ)を奏で、美しい少女が竪箜篌(チャング)を爪弾きながら玲瓏たる歌声を響かせている。酌人がバビロニア産の最上の酒を惜しげもなく注ぎ、高級遊女たちが宴の参列者の肌を温める。

 饗宴は華やかななかにも緊張をはらんでいた。

 対立している貴族たちは互いに睨み合ったり、冷笑したり、まったく無視したりする。いまだ旗幟を明らかにしていない者は無関心を装いつつ、どちらの陣営に与したものかと思案する。

 無音の嵐の中心にいるのは、エーラーンシャフル(サーサーン朝ペルシア)を代表する二人の大貴族だった。

 現女帝アーザルミードゥフトの大宰相(ヴズルグ・フラマーダール)フィールーザーン、そして前女帝ボーラーンドゥフトの大宰相ファルロフ・ホルミズドである。

 相手と目が合ったファルロフ・ホルミズドは微笑み、盃を掲げてみせた。フィールーザーンも苦々しげに返礼する。

 食盆(ハーン)で次々に運ばれてくる料理の豊富さは、帝国の広大さと繁栄の象徴である。

 各地からもたらされたさまざまな食材が腕のいい料理人によって調理され、客の目と舌を喜ばせている。

 子羊の炙り肉。雉の蒸し焼き。酢の酸味をきかせた牛胸肉の煮込みに飴を添えたもの。葡萄の葉でくるんだ挽肉料理。ティグリス河で採れた魚の揚げ物。洎夫藍(さふらん)で色づけし、棗椰子と豆を混ぜた炒飯(ピラーヴ)。薄い麺麭(ナーン)。小麦粉を練って棒状にした揚げ菓子。扁桃(アーモンド)と蜂蜜の菓子。たわわに実をつけた葡萄、無花果(いちじく)(すもも)。葡萄酒、棗椰子酒、李酒、蜜酒といった佳醴芳醇(かれいほうじゅん)のかずかず。

 ファルロフ・ホルミズドの二人の息子のうち、年嵩のほうは若者らしい健啖ぶりを見せている。父と政敵らとの暗闘も意に介さないようだった。

 大広間の上座には金の房飾りのついた赤い錦織りの(とばり)が垂れ、座蒲団が積み重ねられている。

 しかし、座の主はそこには居ない。銀の水差しだけが空しく光っている。

 こうした饗宴(バズム)は政策を討議したり、功臣に褒美の品を下賜するための場なのだが、新しく即位した女王は騒々しい場所を好まないのだ。

 視線をそちらに向けていたロスタムは薔薇水の鉢で手を漱ぐと、傍らの父親に会釈した。

「父上、ちょっと失礼します」

「兄者、どこに行くのだ」

 弟のファルロフザードの質問に、笑みだけで答えたロスタムは足早に大広間を横切っていく。

 ファルロフ・ホルミズドは息子の後ろ姿を意味ありげな眼差しで見送っていた。

 

 内苑の池に月が映り、水面(みなも)をわたる夜風が涼を運んでくる。

 表御殿で行われている宴がいまや(たけなわ)であろうことは、闇の奥に瞬く灯火の輝きからも察せられた。

 しかし、豊かな木立と楼門が夜の静寂(しじま)を守り、後宮の住人を煩わせはしない。

 正方形の池を囲む大理石の縁石に、一人の美女が腰を下ろしていた。

 金の刺繍をした白い(うすぎぬ)の寛衣に、真珠の縁取りをつけた上掛けをまとい、黄金の円盤を連ねた首飾りが胸のうえで煌めいている。淡褐色の長い髪は宝石を編み込んだいくつもの房にされて両肩にかかっていた。

 容貌はどこまでも甘やかで、優しい曲線を描く顔の輪郭とやや薄い唇が彼女がローマ人の血を引いていることを表している。双眸は睫墨(スルマ)で黒く隈取られ、魅惑的な扁桃(アーモンド)形を強調しているものの、瞼は夢見るようになかば閉ざされている。

 そうしてエーラーンシャフルで最も美しいと謳われるアーザルミードゥフトはたたずんでいる。

 繁みの奥で、双つの緑の瞳が悪戯っぽく輝いた。

 さわさわと葉が鳴る音がしたかと思うと、サフラン色の花文綾(けもんりょう)被衣(かつぎ)で全身をおおわれた女が近づいてきた。

 女官にしては背が高いこと、と思った次の瞬間、アーザルミードゥフトは未知の女の腕に捕らえられていた。

「誰です。何をするの」

「しいっ、しぃーっ!」

 力強い手が口を塞ごうとする。相手が男で、しかもよく知っている人間であることに気づき、愕きの叫びを上げた。

「ロスタム!」

 アーザルミードゥフトの声に応えるように、男が衣を脱ぎ捨てた。眉目凛々しい容貌のなかで緑の双眸が笑っている。

「まあ、いけない人! 後宮は男子禁制よ。前大宰相のご子息といえど、忍び込んだのが露顕したら大事になるわ」

「だから侍女に成り済ましてる」

「そんなお髭を生やした侍女なんていないわよ」

 形のいい顎を縁取る黒い髭をつついてみせた。

「こうして布で覆っていれば分かりっこないさ」

 ロスタムは被衣(かつぎ)で顔の下半分を隠してみせる。それから笑い声を上げ、アーザルミードゥフトを抱きかかえた。

「ああ、逢いたかった。毎晩、あなたの夢を見ていたよ」

「困った人。でも、うれしいわ。わたくしも、いつも、ロスタムのことを想っていたわ」

 二人は抱擁と接吻を交わすと、誰かに見つからないうちに、蔓が絡まり葉で覆われた露台の下に身を寄せた。

 女官や宦官が通りかかるたびに身体を縮め、うまくやり過ごしてはくすくす笑う。

 アーザルミードゥフトはロスタムが持っている花文綾(けもんりょう)の衣に見覚えがあることを憶い出した。姉妹のように育った乳母の娘にあげた絹織物だ。彼女はそれで被衣(かつぎ)と衣装の一揃いを仕立てたのだ。

「この被衣、ライラのね。あの子が手引きをしたの?」

「もらっただけだ。あとは自分で。忍び足をしたり、物蔭に隠れたり、なかなか楽しかったよ」

「二人とも困ったこと」

「そうだ。ボーラーンドゥフト様から手紙をお預かりしている」

「お姉様から?」

 ロスタムが懐から取り出し、手渡した小さな巻物は東方から交易でもたらされた紙である。開くと、姉が好んだ(かぐわ)しい香が薫った。

 

「神の()(めぐ)みが、あなたにありますように。あらゆる災いから遠ざかっていられますように。

 ずっと行方を探していた帝室の血に連なる男御子が見つかったという知らせがありました。

 わたくしの弟で、あなたには兄君にあたるシャフリヤール様のお子様がご存命で、イスタフル(イラン南部パールス地方の都市)にいらっしゃるとのことです。いま使者を遣わしていますから、いずれ皇宮にお帰りあそばします。

 天を覆う暗雲が払われ、帝国がふたたび光輝で充たされる日も近いでしょう。

 そのときまで、(つつが)なく過ごされることを願っています。離れていても、わたくしの心がつねにあなたとともにあることを忘れないでください」

 

 アーザルミードゥフトは手紙を胸に抱きしめた。

「よかった。お姉様はお元気なのね」

 ボーラーンドゥフトはいま、彼女の後ろ盾となっているイスパフブド家が治めるアードゥルバーダガーン(イラン北西部。アーゼルバーイジャーンからカスピ海南西の地域)の都ガンザクにいる。

 仲が良かった姉妹はエーラーンシャフルの主導権をめぐって対立する二つの派閥に担がれ、引き離され、逢うことすらままならない。二人の交流の仲立ちをしているロスタムは派閥の一方の領袖であるイスパフブド家の当主ファルロフ・ホルミズドの息子だが、双方の父親が従兄弟ということもあって幼い頃から姉妹と親しくしてきた。いまは宮廷の重鎮として帝都に常住する父に代わってガンザクを治め、公務で弟とともに上京していたのである。

 アーザルミードゥフトは、なつかしい手蹟と自分の身を案じる文言に切なくなり、涙ぐんだ。

「お姉様に逢いたいわ。わたくしたち、こんなに長く離れていたことはなかったのよ」

「何もかもうまくいく。すぐにまた一緒に暮らせるようになるよ」

 ロスタムが彼女を胸に抱き寄せた。

「あなたに贈り物があるんだ」

 頬をわずかに紅らめ、ロスタムは大切そうに絹布でつつんだ金の指環を取り出した。アーザルミードゥフトの指に嵌める。月明かりにかざすと、台座にあしらわれた貴石は(あお)い光を放った。

土耳古石(ピールーズ)。勝利の石ね」

「おれたちの恋が成就するように」

 アーザルミードゥフトの手を取り、口づけする。

「結納金にはとても足りないけど。でも、これは手付けだ。武勲を立て、いずれ宮殿よりも高く財宝を積み上げてみせる」

「無理をなさらないで。わたくしはあなたの身が心配だわ」

「おれなら心配はいらない。太陽の神で、信義を司るミフルに誓って必ずあなたを妻に迎えるよ」

 ロスタムの手が彼女の頬をつつみ、情熱をこめた口づけをする。アーザルミードゥフトは吐息をつき、ロスタムの肩にもたれて目を閉じた。

 月が庭園を照らし、夜鶯(ブルブル)が恋の歌を唄う。

 二人はいつまでも寄り添いあっていた。




※イスパフブド家(Ispahdudān)、あるいはアスパフバド家とも。
isfahdudまたはisbahbadhはアラビア語で「将軍」。現代ペルシア語ではspāhbed。
この家系が将軍職を代々世襲してきたために、役職名が家名となったもの。パルティアの七大諸侯のひとつ。
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