アルベルト・フォン・ライヘンバッハ自叙伝   作:富川

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壮年期・第二幕(宇宙暦780年11月18日~宇宙暦780年12月12日)

「大将閣下、陸戦軍司令部より報告です。第一三化学防護大隊が要塞空調システムのNBC兵器を無力化しました。第一三工兵大隊による爆発物処理も本日中には完了するとの事」

 

 宇宙暦七八〇年一一月一八日。グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー宇宙軍大将率いる橙色胸甲騎兵艦隊はザクセン行政区における旧ブラウンシュヴァイク派――自称・リップシュタット愛国貴族連合――最大の拠点であるレンテンベルク要塞を制圧した。二か月前のゾンネベルク星系会戦における大勝――ザクセン行政区におけるリップシュタット愛国貴族連合指導者カール・エドマンド・フォン・シュミットバウアー=ブラウンシュヴァイク侯爵を戦死させた――と合わせ、これでザクセン行政区におけるリップシュタット愛国貴族連合の宇宙戦力はほぼ壊滅したと言えよう。

 

 尤も、リップシュタット愛国貴族連合は新たなブラウンシュヴァイク公爵の席を巡る内部対立が激しく、他の派閥との繋がりが薄い。シュミットバウアー侯爵派を壊滅させたところでリップシュタット愛国貴族連合全体に与える影響は限定的である。

 

 ニーダザクセンに陣取るヒルデスハイム伯爵派、ザクセン=アンハルトを抑えるフレーゲル侯爵派はシュミットバウアー侯爵派の苦境に殆ど支援の手を差し伸べなかった。それ故に両派がシュミットバウアー侯爵派の壊滅によって受けるダメージは殆ど無いだろう。

 

「こちらは情報部と陸戦軍第一三情報保全群からの報告書です。要塞守備兵に対する捕虜尋問の結果が載っております」

 

 ミュッケンベルガーは「ああ」と一言だけ発し、副官から渡された紙の資料に目を通す。最初は普通に目を通していが、突然怪訝な顔をすると、資料を最初から読み直し始めた。段々とその顔が険しくなっていく。

 

 ミュッケンベルガーの険しい表情を見た副官は自身が叱責されるのではないかと内心心穏やかでは無かったが、表面上は素知らぬ顔で控えていた。その副官、アレクサンドル・バルトハウザー宇宙軍中佐は軍部門閥派・リッテンハイム系に連なる士官であるが、元々ノルトライン公爵家の私兵軍に属していた所を私、アルベルト・フォン・ライヘンバッハに見出されたという経緯を持つ。そんなバルトハウザーがミュッケンベルガーの副官に選ばれた事情には、ミュッケンベルガーの悲願であるミュッケンベルガー伯爵家再興が関わっていた。

 

 ミュッケンベルガー伯爵家――現在は男爵家――の再興を目指すミュッケンベルガーにとって一番手っ取り早い選択肢は「伯爵家以上の縁者が務める」という不文律がある帝国軍三長官に就任すること――バッセンハイム元帥も伯爵位を賜った上で宇宙艦隊司令長官となった――である。しかし、ライヘンバッハ派に付いたところで新参者の自分が年功序列を無視して三長官に付けるとは思えない。

 

 となると、あえて派閥の外に出てライヘンバッハ派以外の勢力が抑えるであろう三長官の職を目指す――第二次ティアマト会戦や『三・二四政変』直後のような非常事態を除き、基本的に一つの派閥が三長官職を独占することは無い――か、政官界に工作をして爵位を上げるしかない。三長官のポストを狙うことができ、同時に政官界にパイプを持つ勢力としては軍部門閥派、そして開明派と近い軍部シュタイエルマルク派が挙げられるが、後者に近づくことは軍部ライヘンバッハ派との対立を意味し、帯剣貴族家集団から排斥されるリスクを負わなくてはならない。(そもそも保守的なミュッケンベルガーに革新的なシュタイエルマルク派は合わなかったが)前者もライヘンバッハ派から嫌われてはいるが、クルムバッハ上級大将やオッペンハイマー大将の例で分かるようにやり方次第で妥協の余地はあった。

 

 ミュッケンベルガーは自らの孤立を防ぐために門閥派に取り込まれることは避けたが、パイプを築こうと試み、その一環として門閥派に属しながら私の覚えも良いバルトハウザー中佐を副官に選んだ。

 

「……捕虜はこれで全員か?」

「は。その通りであります」

 

 資料から目を離さずミュッケンベルガーが問う。バルトハウザーは即座に答える。この上司は曖昧な返答を一番嫌うのだ。いついかなる時に、どのような質問が来ても「はい」か「いいえ」はハッキリ答えなければならない。それがバルトハウザーが親切な古参の副参謀長から教えられ、また自分でも実感しているミュッケンベルガーと上手に付き合うコツであった。

 

「貴官はこの資料を見て何も感じなかったのか?」

 

 ミュッケンベルガーはバルトハウザーの顔を見ながらそう尋ねる。バルトハウザーは内心で焦る。上司の機嫌はそこまで悪くなさそうだが、自分の返答次第ではどうなるか分からない。曖昧な返事は返せない。バルトハウザーは自分がこの資料を見た時に感じたことを思い出そうとする。

 

「……」

 

 上司の指が苛立たし気に机を叩き始めた。バルトハウザーは必死で頭を働かせるが思いつかない。これ以上は上司の不興を被るだろう。バルトハウザーは半分諦めの気持ちで口を開く。

 

「……捕虜が多いな、と感じました」

「それだけか?」

 

 バルトハウザーは叱責を覚悟で素人のような感想を述べたが、ミュッケンベルガーの叱責は無かった。しかし窮地を脱した訳では無い。さらなる質問に苦慮しつつ、バルトハウザーは半ばヤケクソになって答える。

 

「要塞戦らしく地上戦要員が多かったかと」

「地上戦要員が多い、では無い。正しくは『しかいない』だ。しかも貴族の捕虜は一人もいない。見ろ」

 

 ミュッケンベルガーは不機嫌そうに自らが持つ資料を副官に突きつける。バルトハウザーは慌てて資料にある捕虜リストに目を通す。

 

「これは……」

「気づかなかったのか?作戦部の結論通りレンテンベルクの駐留艦隊がゾンネベルクで壊滅したとしてもだ、これはどう考えてもおかしい。……逃げ遅れた奴も、見捨てられた奴も、『滅びの美学』を信じる奴も、降伏する奴も、誰一人居ない。ここが奴等の最後の拠点だったはずなんだがな」

 

 バルトハウザーは冷や汗をかく。上司は明らかに立腹している。こんな簡単な事に気付かなかった自分を呪った。

 

(妙だとは思っていた。ゾンネベルクで大勝したとはいえ、レンテンベルクの宇宙戦力が枯渇する程の損害は与えていないはずだ。指導者のシュミットバウアーが死んだから取り巻き共が私兵を連れて自領に逃げ帰ったのかとも思ったが……)

 

 ミュッケンベルガーはそんなことを考える一方で、帝国軍が抱える構造的問題に内心、苛立ってていた。凡庸なバルトハウザーは捕虜リストのおかしさに気付かなかったが、ミュッケンベルガーにしてみればその事はさして問題ではない。バルトハウザーもしっかりと読み込めば異常に気付けたのだろうが、司令官に対する報告書を副官が長々と読んでいる訳にもいかない。自分の行った質問にある程度答えられたことから考えるに、最低限目は通し、すぐに持ってきたのだろう。それで気付かなかったのであれば仕方がない。問題は異常に気付いたはずの情報セクションの担当者たちが報告書でこの点を指摘していないことだ。

 

 帝国軍人、特に中央艦隊のエリートは悪い意味で官僚らしい所があり、自身の職務範囲を超えた責任を負いたがらない。彼らは司令官に判断材料を提供することに関して優秀だが、自身の判断を提供することに関しては落第点を付けざるを得ない。……尤も、それは帝国軍の厳罰主義にも原因があるだろう。同盟軍では単に敗戦しただけで更迭されることは無い。実際にはその敗北の原因となる様々な事項に対する責任を追及され、時に予備役編入を余儀なくされることもあるが、戦争犯罪でも犯していない限り制裁は人事上のものに限られ、少なくとも「無能であること」を理由に法的に裁かれることは無い。

 

 しかし、帝国軍は違う。敗戦の度に司令官の首が飛ぶ。時には物理的に。そんな有様だからダゴンのインゴルシュタット、シャンダルーアのクロッペンドルフの例を見るまでもなく、司令官は責任逃れの為に幕僚に責任を被せようとする。それを知っている、あるいは実際に目撃してきた幕僚たちは自身の判断・意見・思考を表明することで司令官から責任を転嫁されることを極度に恐れている。結果として帝国軍では時に無為・無能・無責任が蔓延ることになるのだ。

 

 後に聞いた話によると、そういった帝国軍の悪弊に悩んでいたミュッケンベルガーは凡庸ではあるが責任から逃れようとはしないバルトハウザーの事を高く評価していたという。

 

「……副官。情報部に賊軍の戦死者のリストを急いで作らせろ。貴族、あとそうだな……自決者は別に分かるようにさせろ」

「了解しました」

 

 そう言ってミュッケンベルガーの前を離れたバルトハウザーを見送り、ミュッケンベルガーは思索にふける。

 

(……恐らくレンテンベルクには練度の低い地上軍(捨て駒)だけが残された。宇宙艦隊の残党と貴族共はどこかへ逃げ出した。何故だ?何処に行った?あれだけの数、見逃すはずがない)

 

 ミュッケンベルガー大将率いる橙色胸甲騎兵艦隊はザクセン行政区を貫く「帝立基幹星道六号線」を帝都オーディン側から進んできた。反対方向のメルレンベルク=フォアポンメルン行政区側には第六辺境艦隊の警戒部隊が布陣している。その六号線と丁度交錯するブラウンシュヴァイク公爵家が派閥を挙げて整備した「私立副都心環状星道」はザクセン=アンハルト行政区側を紫色胸甲騎兵艦隊が封鎖し、ブランデンブルグ警備管区側はノイケルン星系の叛乱勢力の存在が遮断している。

 

 勿論、宇宙は広く、どこまでも繋がっている。理屈で言えば航路は自由に設定でき、星道を通る必要はない。しかし、ワープには重力制御が必要不可欠であり、星系間ワープともなると誘導基地の観測データ、補助制御無しで跳ぶのは自殺行為だ。軍艦ならば軍務省情報監査局航路情報課に集積されていた情報によって誘導基地がなくともある程度自力で跳べる(叛乱以前、つまり一〇年以上前のしかも穴抜けのデータではある)が、だとしても正規軍の警戒網に一切引っかからないというのは有り得ない。

 

「……どうもきなぐさいな」

 

 ミュッケンベルガーは思索にふける。様々な可能性を想定し、その時自分が取るべき行動を考える。祖国と、そしてミュッケンベルガー伯爵家の栄光を取り戻す為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「諸卿等に見て貰いたい資料がある。……おい」

 

 宇宙暦七八〇年一二月一二日、リントシュタット宮殿、第一七回国防諮問会議。リッテンハイム侯爵は唐突にそう述べると、後方に控えていた従者たちが紙の束を抱えて一斉に散らばる。それに対し帯剣貴族の後方に控える副官や幕僚たちが身構え、数名がリッテンハイム侯爵の従者の前に立ちはだかり、主に近づけないようにブロックする。

 

「剣呑な。見て貰いたい資料があると言っただろう。儂に後ろめたい事は何もないぞ。卿等と違ってな」

「……オークレール准将。資料を」

 

 リッテンハイム侯爵は不機嫌そうにそう言う。その後も少し睨み合いが続いたが、帯剣貴族を除く貴族たちの席に資料が配られたのを見て私はヘンリクに資料を受け取り、配るように促した。

 

「……ぐう」

「ほう……」

 

 先に資料に目を落とした貴族たちが次々と顔を顰めたり、絶句したりしている。ブラッケ侯爵が冷笑を浮かべ、リヒテンラーデ侯爵が溜息をついた。クロプシュトック公爵が鼻白み、ノイエ・バイエルン伯爵が眉間に指をあて揉み解す。エーレンベルク公爵とシュタイエルマルク退役元帥だけが変わらない様子で淡々と資料に目を通していた。

 

「何だこれは……」

 

 資料に書かれていたのは大貴族たちの不正の証拠であった。アンドレアス公爵、エーレンベルク公爵、シュレージエン公爵……主要な領地貴族の名前が軒並み並び、主に現地の警備艦隊や要塞防衛部隊との癒着が暴かれている。だがそれだけには留まらずさらに軍務省の地方軍務局、内務省の行政総督府、国務省の通商代表部や高等弁務官府、司法省の地方法院や高等公検部、国税庁の地方支署、典礼省の地方調停部、さらに警察総局や社会秩序維持庁を初めとする治安維持機関の支署との癒着まで調べ上げられている。

 

 場にそぐわない口笛が小さく響いた。

 

「お見事。勝負あったね」

 

 口笛に比して明らかに小さな声で発せられたラルフの言葉であったが、近くに座っていた者たちの耳には確かに届いた。気楽な物でラルフは明らかにこの状況を楽しんでいる。その様子に小さく苛立ちを覚えている自分に気付き、少しだけ驚いた。徹底的に傍観者・観察者を気取る友人の気性には慣れたつもりであったが、それは気のせいだったらしい。

 

 恐ろしい程張り詰めた空気の中、出席者たちが資料をめくる音だけが響く。よく見ればリッテンハイム侯爵自身やその一門の不正までが明記されている。出席者たちの困惑と不安が漂い、誰もが互いの様子を伺う。破裂寸前の風船が議場に存在し、発声するだけでそれが割れる、そんな感じの危惧を皆が共有していたように思える。

 

 この空気を打破できるであろう数人の人物の内、リッテンハイム侯爵はただ悠然と笑みを浮かべながら座っている。間違いなく貴族の不正と無関係なルートヴィヒ皇太子もショックから立ち直っておらず、顔は恐ろしく蒼白だ。開明派の三巨頭、ブラッケ、リヒター、バルトバッフェルも沈黙する。清廉潔白なブラッケは冷笑を受かべ、清廉だが清濁併せ吞むが故に裏工作も厭わないリヒターは黙り込んだまま目を瞑る。主に軍部開明派との癒着が明記されているバルトバッフェルは引き攣った笑みを浮かべながらお手上げのポーズを取った。帯剣貴族たちはリッテンハイム侯爵の意図を図りかね困惑している様子だが、カール・ベルトルトだけは蒼白な顔でリッテンハイム侯爵を睨みつけている。国防諮問会議議員たちに目をやると、ゾンネンフェルス退役元帥がロマンスグレーの紳士的な雰囲気に似合わない渋面を浮かべ、シュタイエルマルク退役元帥は机の上に資料を投げ出して天を仰いでいる。諸侯の中では珍しく資料に何も汚点が書かれていないマリーンドルフ侯爵が先程から口を開こうとしては何を言って良いのか分からない様子で断念する。

 

 バサッ、資料を机に放りだす音がやけに響いた。視線が一人の人物に集まる。……退役元帥エーレンベルク公爵だ。エーレンベルク公爵の顔色は全く変わっていない。いつもと全く同じ、平静なままだ。その事がむしろ私を……そして恐らく出席者の大半を困惑させ、不安にさせた。周囲の視線とそこに込められた猜疑を全く気にしない様子でエーレンベルク公爵は口を開いた。

 

「………………で、これが何か?」

 

 概念上の風船が急速に萎む。拍子抜けしたような空気が議場に流れた。それはリッテンハイム侯爵の先の一言以上に耳を疑う発言だった。

 

「え、エーレンベルク公爵……その……え?」

 

 先程から口を開いては閉じるを繰り返していたマリーンドルフ侯爵が困惑を隠そうとせずエーレンベルク公爵に話しかけた。エーレンベルク公爵はそんな青年貴族の方に顔を向けると何でもないような口調で言った。

 

「……まあ機密であるこの情報がどこから漏れたのかは分かりませんし、その点は問題でしょうが……。ただ単に諸侯の普通の統治行為(・・・・・・・)が記されているだけでしょう?」

「は?」

 

 哀れな青年貴族はエーレンベルク公爵の発言に理解が追い付かずフリーズする。大半の出席者たちが同じような様子だったが、ただ一人、カール・ベルトルトだけは悔しそうに歯を食いしばっている。いつでも冷静沈着な彼がそのような様子を見せることに、帯剣貴族たちは底知れぬ不安を感じている。……そんな中、私はエーレンベルク公爵の言わんとするところ、リッテンハイム侯爵の言わんとするところに理解が追い付いた。

 

「は……ははは……」

 

 もはや呆れを通り越して感心する。思わず小さな笑いが漏れ、他の出席者から視線が集まる。私が理解に至ったことをリッテンハイム侯爵も分かったのだろう。勝ち誇った笑みで私を見る。エーレンベルク公爵もどこか蔑みの籠った視線を私に向けた。

 

 ……エーレンベルク公爵のこの様子、リッテンハイム侯爵と事前に組んでいたのだろうか?今でも分からない疑問ではあるが、確かなのはやはり彼が只者ではないということだ。組んでいればその深謀は凄まじいし、組んでいなければ胆力と場の流れを掴む力が異常だ。どちらにせよ、リッテンハイム侯爵はエーレンベルク公爵が自らに都合の良い発言を行ったことを評価し、適切に報いるだろう。

 

「先ほどから不思議でならなかったのですが、臣が手に染めた不正とは一体何を指すのです?どうも帯剣貴族諸卿は臣がドレーアーに金や女を与えたことを不正と言い張っているようですが、そもそもそれは不正なのですかな?(・・・・・・・・・・・・・・・・)司法尚書?臣は一体何の法を破っておるのです?」

 

 あんまりと言えばあんまりな問いだ。リッテンハイム侯爵は居並ぶ帝国の権力者たちに対し、不正の概念そのものを変えるよう迫っている。それによって自分の行為を正当化しようとしているのだ。

 

 視線を感じた。天を仰いでいたはずのシュタイエルマルクがこちらを真っすぐ見ていた。その目はおおよそいつものシュタイエルマルクからしたら考えられない程暗く、無機質だった。私は一見して何の感情も読み取れないその冷たい目に、何よりも熱く激しい激情を見て取った。……銀河帝国の暗部、専制主義の現実を見つめ続けていたジークマイスター機関の元リーダーは何よりも雄弁に私に語り掛けていた。『これがこの国の姿だ』と。

 

「……大審院長。答えたまえ」

 

 リヒテンラーデ侯爵は自分に向けられた問いを部下に投げた。投げられた方の大審院長ヘルダー子爵は一瞬ビクッとした後に、愛想笑いを浮かべる。

 

「デリケートな問題故に、正式な司法の場以外で大審院長が発言するのは望ましくないかと……。宰相府制令起草局長官にご回答をお願いしたい」

「……リッテンハイム侯爵の行為は『勅令集解』、『高等法院判例解説』及び『大審院判例解説』、『法解全書』に照らし合わせると、ジギスムント一世帝陛下二六号詔勅が禁じる私戦等準備行為の類型に当てはまると考えます。また、ドレーアー中将への利益供与は当然ながら贈賄罪にあたると思われ……」

 

 ヘルダー子爵、こちらも回答を回避。しかし投げた相手が悪かった。開明派の宰相府制令起草局長官ヴァレンシュタイン法務博士は気骨の人だ。帝国で五指に入る権力者、リッテンハイム侯爵が相手だろうが微塵も臆すことなく理路整然とその「不正」を指摘し始める。ところがその指摘は思わぬ所から遮られた。

 

「もういい!制令起草局長官、黙りたまえ!」

「……は?しかし……」

「黙れと言っているんだ!……ヴァレンシュタイン長官、今回の事はデリケートな領域だ。事は貴族自治権……いや貴族制度そのものに関わるのだ。貴様の口出しするべき話ではないのだ」

 

 国務尚書ウィルヘルム・フォン・クロプシュトック公爵だ。苦虫を潰したような表情でヴァレンシュタイン法務博士を黙らせようとする。

 

「……法に関する話題で行政・立法側の法解釈の『番人』たる制令起草局長官が口出しするべきでない話などあり得るのですか?特に司法側の『番人』たる大審院長直々の指名……」

「皆まで言わせる気か。平民(・・)

「な……」

「リッテンハイム侯爵!卿の質問には筆頭閣僚たる国務尚書クロプシュトック公爵が答えよう。卿の行為は全く以って問題ない。何の法にも反していない」

「ま、待て!クロプシュトック公、卿は何を言っているのだ!」

 

 クロプシュトック公爵はヴァレンシュタイン法務博士が怯んでいる内に勝手にリッテンハイム侯爵に潔白を言い渡した。そこで漸く宰相たるルートヴィヒ皇太子が介入する。

 

「皇太子殿下。進言申し上げます。閣僚一同リッテンハイム侯爵の無実を確信しております。どうか軍部の求める制裁には応じませぬよう」

 

 しかし、ルートヴィヒ皇太子を遮る形で宮内尚書ルーゲ公爵が口を開く。その横では典礼尚書グレーテル伯爵が頷く。二人とも苦渋の表情だ。

 

「……一体卿等は何を言っておるのだ……?リヒテンラーデ侯爵、卿はどう思う?」

 

 ルートヴィヒ皇太子は何か恐ろしい物を見たような表情で縋るように能吏リヒテンラーデ侯爵に質問するが、リヒテンラーデ侯爵は無言で頭を下げて何も言わない。

 

「リ、リヒター伯爵?レムシャイド伯爵?」

 

 ルートヴィヒ皇太子はさらに宮廷書記官長と内務尚書に問いを重ねるが、リヒター伯爵は「罪がないとは申しません。ただ、裁けませぬ」と淡々と答え、レムシャイド伯爵は「リヒター伯爵の見解に概ね賛同いたします」と答えた。

 

 そうだろうな、と私も思う。リッテンハイム侯爵の行為を罪とすれば、リッテンハイム侯爵が調べ上げ、ここに提出した資料に記された各貴族の行為も全て罪とせざるを得ない。リッテンハイム侯爵の提出した資料を黙殺するという選択肢は無い。既に大勢の貴族がその内容を目にしてしまったのだ。

 

 ……帝国は公私の境目が曖昧すぎるのだ。大帝陛下は確かに贈収賄を厳格に取り締まったが、その大帝陛下の時代からして、私人と公務員の間における金品のやり取りは大規模に……そして大っぴらに行われていた。ルドルフが重んじたのは目的だ。ルドルフは地方に送り込んだ部下と、地方で取り込まざるを得なかった有力者にかなりの裁量を与えた。地方貴族となった彼等は統治を成功させる為に奔走した、中央も著しく混乱している以上、支援を当てにするべきではない。制度的、法的に問題があるやり方であっても効果が見込めるならば手段は選んでいられなかった。それは資金や物資の調達においても例外ではなく、客観的に見れば賄賂以外の何物でも無いような金品

のやり取りが盛んに行われた。

 

 ルドルフはそれを大義に背いていない限りにおいて容認した。……無理はない話ではあるが、せめて黙認に留めるべきだった。ルドルフは贈収賄罪の違法性阻却事由として「緊急性」「非代替性」「公益性」の三点が認められる場合を挙げ、それを自身の勅令集第二編――刑法典である――に盛り込んだ。……時代が下り、ジギスムント一世鎮定帝時代に確立された「貴族自治権」の概念、オトフリート二世再建帝時代に確立された「下賜財産の不可侵性」、アウグスト一世文治帝(愛髪帝)によって定義された諸侯の「半公権力性」、などが組み合わさった結果、贈収賄罪は死文化した。

 

「馬鹿な………………………こんな事が…………あって良いのか」

「良いはずがありませぬ。殿下!」

 

 息も絶え絶えにルートヴィヒ皇太子が口に出した嘆きに対しヴァレンシュタイン法務博士だけが力強く同意する。正確に言えばヴァレンシュタイン博士以外のルートヴィヒ皇太子が登用した身分の低いブレーンたちも同様だ。彼等は軒並みこの事態に憤っているのだ。

 

 無理もない話だ。先ほど「贈収賄罪は死文化した」とは言ったが、そうはいっても「緊急性」「非代替性」「公益性」の三点を取り繕うことができなければ贈収賄罪は成立するのだ。……リッテンハイム侯爵の例は明らかにどの点も取り繕えていない。三点の中で最も証明が簡単なのは「公益性」であるのだが、その「公益性」にしても、ドレーアーが正式な転属命令に従っていなかったこと、それをリッテンハイム侯爵の一派が不遜にも公然と支持していたことから認められる可能性は低い。これを「違法性無し」と認めてしまうのは流石に行き過ぎというものだ。

 

 ……流石に行き過ぎなのだが、それに近い不適当な関係が各地で行政機関と諸侯の間に築かれている以上、リッテンハイム侯爵を罪に問うと他の諸侯にも飛び火する可能性がある。故にクロプシュトック公爵はヴァレンシュタイン博士の言葉を遮った。

 

「……そうだ。軍務尚書閣下、ドレーアー中将は軍法を犯しています。その事はどうお考えになられるのですか?」

「!そうだ。起草局長官の言う通りだ!」

 

 唖然として固まっていた軍務尚書ルーゲンドルフ元帥がヴァレンシュタイン法務博士の指摘を受けて再び口を開くが、リッテンハイム侯爵の返答で再び固まらざるを得なかった。

 

「そうですな。で?それが我々に何の関係があるのです?軍の内部の話を持ち出されても困る」

 

 ルーゲンドルフ元帥に反論は出来ない。「ドレーアー中将とリッテンハイム侯爵の癒着が~」という論法はもう使えない。使えばそれに近似した関係……分かりやすい例としてはクロプシュトック公爵家とクライスト中将の関係だろうか……そう言ったものも軒並み問題としなくてはならない。

 

(リッテンハイム侯爵がドレーアー中将に叛逆を指示した、という証拠があれば良いんだけどね。……まあある訳もない。帯剣貴族(こちら側)の自作自演なんだから。……癒着の事実で押し切れなかった以上どうしようもない)

 

「……リッテンハイム侯爵にはドレーアー中将の軍法違反を誘発した罪がある」

「判例に照らしても私戦等準備罪に当てはまるのは歴然だ、皆様はヴィレンシュタイン元公爵が何を為して裁かれたかを忘れたのですか……!」

「ふむ。卿等がどう思うかは自由だが……諸卿はどう考えられるのかな?」

 

 絞り出すようにバッセンハイム元帥が指摘し、ヴァレンシュタイン法務博士も追及するが、リッテンハイム侯爵は暗に他の貴族に対し「その論法で自分が裁かれるならお前らも無事では済まない、自分が済ませないぞ」と匂わせる。

 

 議場が沈黙に包まれる。明らかに勝負はついた。帯剣貴族側の敗北だ。次にリッテンハイム侯爵はガルミッシュ要塞での『同士討ち』を持ち出すだろう。統制不足に対する責任を軍部に求めるはずだ。前代未聞の――流血帝と止血帝の一件はノーカンである――帝国軍同士の会戦。被害はともかく、その重みで言えば第二次ティアマトやシャンダルーアの大敗を超える。帝国史に残る一大不祥事になることは間違いない。その責任は誰かが負わなくてはならない。そしてリッテンハイム侯爵にそれを負わせることが出来なかった以上、責任を負えるのは軍部の帯剣貴族しか居ない。

 

「……甘いよ」

「え?」

 

 突如として隣に座るラルフが囁いてきた。私はラルフに向きなおる。

 

「どうせ軍部で済むって考えてるんでしょ?君も老人の方々もそういう所視野が狭いよね。……良くて内閣は吹っ飛ぶよ。皇太子殿下の改革も志半ばで終わる。悪くて……『リッテンハイム朝銀河帝国』かな」

「……ぞっとしないね」

 

 ラルフの言葉で私は思わずそう答えてしまう。するとラルフが嫌な笑みを浮かべる。

 

「焦ってないね?これはもう一波乱ありそうだ」

 

 ラルフは目を輝かせながらそんなことを言う。私は思わず舌打ちを――我ながら本当に珍しいことだ――一つして、顔を背けた。

 

 議場ではリッテンハイム侯爵による逆撃がいよいよ華麗なまでに決まろうとしていた。帯剣貴族たちは皆沈痛な表情でその宣言を聞く。

 

「……皇太子殿下、臣、ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム侯爵はここに内閣と軍部の……」

 

 リッテンハイム侯爵は高らかに宣言する。ところが、そこにガタンという物音が水を差した。一人の出席者の椅子の音だ。上質な議場の椅子を乱暴に、文字通り「蹴った」その人物は吐き捨てた。

 

「これ以上茶番に付き合うのは御免だ」

 

 枢密院副議長カール・フォン・ブラッケ侯爵は冷たく吐き捨て一人議場を後にしようとする。隣に座る枢密院副議長マリーンドルフ侯爵がとっさに腕をつかみ慌てて引き止めようとした。言うまでもなく、このままブラッケ侯爵を行かせれば彼は重罪となる。……もっと重大な罪がたった今、罪で無くなったということを考えると釈然としないが。

 

「ブラッケ侯爵、お待ちを……」

「この国は終わりだ!私はもう知らん!」

 

 ブラッケ侯爵はマリーンドルフ侯爵の腕を振りほどくと出席者たちを睨みつけながらそう叫び、再び歩き出した。全くの善意から引き止めようとした善良な青年貴族は哀れにもブラッケ侯爵に振りほどかれた拍子に手の甲を強くテーブルに打ち付けた。

 

「茶番を茶番と言えることも一種の才能だと思うんだ。だって茶番であることを当事者が気づくのは難しいし、気づいたとしてもそれを言い放つのは……」

 

 ラルフの呑気な言葉を黙殺しながら私はブラッケ侯爵を見つめる。私にはブラッケ侯爵の心境が痛い程良く分かった。きっと私も、予備計画の存在が無ければ彼と同じ行動を取っただろう。

 

「ま、待ってくれブラッケ!行くな!」

「殿下……」

「何なんだこれは……何なんだ?」

 

 ルートヴィヒ皇太子がリッテンハイム侯爵の提出した紙の束を掴みながら激情を迸らせる。顔にはハッキリと「理解不能」と書かれている。

 

「……」

「私にはもう卿しか頼れん……。この……このおぞましい者達の中に、私を一人見捨てるのか!?」

 

 ブラッケは初めて沈痛な表情を浮かべるが、しかしルートヴィヒ皇太子に対して「もう少し早く頼っていただければ、ここで私は頷いていたかもしれませぬな。……いや、そもそもこうはならなかったでしょうに」と語り掛けて踵を返す。ルートヴィヒ皇太子はブラッケを政府に戻しながらも枢密院副議長という実権の無い役職に据え、ただリッテンハイム侯爵とやり合わせることしかしなかった、その事もブラッケには失望の対象だったのかもしれない。

 

 ブラッケがいよいよ扉に手を掛け、それを開いた。

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、ブラッケ侯爵は扉の向こうに居た人物に銃底で殴り倒された。

 

「カール!?」

 

 リヒター伯爵が動転して叫ぶ。他の出席者も一様に動揺する。

 

「動くな!」

 

 倒れたブラッケ侯爵には目もくれず、銃を構えた帝国軍兵士たちが議場に突入する。……『一四号行動計画(クーデター)』の発動を知る高官たちはそれまでの沈痛な表情をあっさりと捨て、リッテンハイム侯爵に向き直った。……実際の所、リッテンハイム侯爵が開き直るのも、それが成功してしまうのも(・・・・・・・・・・・・)想定の範囲内だった。手法――つまり、無関係の大勢の貴族を巻き込むことで自分の罪状を矮小化する――は完全に予想外だったが。

 

 とはいえ、帯剣貴族達にしてみると、リッテンハイム侯爵を国防諮問会議の場で裁けなくてもそれは関係無いのだ。可能ならばこの場で有罪にした上で権力を奪取したかったが、出来なかったら出来なかったで構わない。後付けで色々と罪状を上乗せして殺してしまえば良いだけの話なのだから。つまり今までのリアクション一つ一つが全て芝居だった、と言うことになる。

 

 ……尤も、その内の数名は『一四号行動計画』の存在を知らない他の要人と同じく驚愕の表情を浮かべた。といっても理由は違う。彼らの驚愕は先頭の人物――つまりブラッケを殴り倒した人物だ――を見たからだ。……気持ちはよく分かる。一度彼と接した者は、例え地上軍や帝国軍のトップに立とうが、彼の事を忘れはしないだろう。さらに言えばこの帝国で彼を知らない地上軍人が居たらそれはモグリだ。

 

「オフレッサー!?死んだはずじゃ」

「残念だったなぁ、トリックだよ」

 

 軍務尚書ルーゲンドルフ元帥が思わずといった様子で叫ぶ。その男……ザールラント叛乱軍に火だるまにされたはずだったアルバート・フォン・オフレッサー地上軍少将は獰猛な笑みを浮かべながら応じた。

 

 兵士たちが突入した後から後からゆっくりとカールスバート宇宙軍大佐が議場に入る。口元には微笑を携えているが、その顔には隠し切れない優越感が見て取れる。数世代に渡って虐げられていたカールスバート伯爵家、その屈辱を思えばカールスバート大佐の喜びもひとしおの事だろう。……しかしながら足元に頭から血を流して倒れる人物が彼の尊敬するカール・フォン・ブラッケであることに気付いたカールスバート大佐は優越感を滲ませた表情のまま固まった。

 

 そして彼の脳は徐々に現実に追いついていき……一気にパニックに陥った。

 

「馬鹿馬鹿馬鹿!誰がやった!……すぐにブラッケ侯爵の手当てをしろ……急げ!」

「……突然目の前の扉が開いたんだ。反射的に殴っちまっても仕方ないだろ。まさか出てくる奴が居るとは思わんし」

 

 オフレッサーが決まり悪そうにボヤくが、カールスバート大佐は気づかない。そして私は深呼吸を一つする。漸く出番がやってきた。恐らく帯剣貴族の老人方はオフレッサーの存在に驚きながらも自分の周りの兵士たちが味方だと信じて疑っていないことだろう。状況をコントロールしていると信じている彼らの背中を撃つのは心苦しい。

 

「第二幕開始か」

「そうなるのかな」

 

 ラルフの言葉に適当に答え、私は立ち上がる。最後に一度、シュタイエルマルク退役元帥に視線を向ける。……この計画についてシュタイエルマルク退役元帥は何も知らない。だが何も知らないことが、何も分からないことを意味するとは限らないのだ。

 

『やれ』

 

 シュタイエルマルク退役元帥の唇がそういう風に動いた気がした。私は小さく頷いて口を開く。

 

「突然の非礼、お許しください。しかし小官は正義の為、人道の為、そして祖国の為にやり抜くべき使命を負っている。……皆様、暫しお時間を小官に頂きたい」

 

 さあ、昨日の夢物語は今日希望となった。明日の現実を創り、「あり得ないことなどない」と高らかに宣言しようではないか。

 

 ……と格好つけた所でこれを読んでいる諸君が結末を知っていることを考えると甚だバツが悪いのだが。

 

「私は、帝国軍上層部による組織的暗殺、背任及び叛逆行為の存在を告発する。帝国軍を振粛し、皇帝陛下の御手と、祖国と臣民の下に、正義と栄光を帰さん!」

 

 

 

 

 

 

 

 ダニエル・ライト・マーセナスは銀河連邦第二代最高元首であり、ルドルフ以前に唯一銀河連邦の最高元首職と筆頭首相職を兼任した人物として知られている。尤も、ルドルフと違って独裁者という訳では無い。初代筆頭首相を務めている最中の選挙によって第二代最高元首に指名されたために、後継首相が正式に就任するまでの数日間、図らずとも両職を兼任することになったというだけの話だ。が、悪辣なルドルフ・フォン・ゴールデンバウムはこの「前例」を掘り返して首相職を退くことを拒否した。共和派が起死回生の一手として打ち出した、最高元首就任によるルドルフの首相職「追放」作戦は失敗し、逆に名誉職であったはずの最高元首職に行政府のトップである首相職が組み合わさり、絶大な権限を与える結果となってしまった。

 

 ユングリング市カッセル街一九番地。帝都オーディンから車で四〇分程のこの場所にはそんなダニエル・ライト・マーセナスの名を冠した大聖堂が存在する。帝国国内での布教を許されている「六五公認分派」の一つ、「地球教派」のオーディン支部だ。マーセナスは地球・シリウスといった『旧戦犯諸国』の銀河連邦受け入れに尽力した人物であり、さらにかなり薄いが旧地球系財閥創業者一族の血を引いていた為に地球教から聖人認定を受けている。地球教の史観によると、マーセナスは欲望に囚われ畜生道に堕ちたシリウスの引き起こした動乱に終止符を打ち、平和と秩序を回復した聡明で偉大な地球人なのだ。……尤も、当時の民衆――マーセナス自身も含めて――に彼が地球人であるという思いは全く無かった(有ればそもそも当時の連邦で高官になれる訳がない)だろうが

 

 

 話を戻そう。聖マーセナス大聖堂は地球教が保有する宗教施設の中でも五本の指に入る大規模施設として知られ、帝国中の地球教徒が生涯の内一度は訪れるとされている。とはいえ、今までは地球教徒自体が少数であったことから、大聖堂を訪れる人は疎らであった。ところが、分権主義や個人主義が各地で力を持ち過激化する中で、そのカウンターパートの一つとして「地球人類」というアイデンティティの共有を人々に呼びかけ、団結と連帯を訴える地球教派が急速に支持を集めており、当時のカッセル街は地球教の巡礼者で溢れ返っていた。

 

 そんなカッセル街一九番地に、黒塗りの複数のワゴン車が乗り付けたのは国防諮問会議が始まったのとほぼ同時刻である。中から降りたスーツ姿の男たちは聖マーセナス大聖堂に隣接する地球教オーディン支部事務局ビルに隊列を組んで雪崩れ込んだ。折り畳み式の携帯ケースを小脇に抱えた男たちは一斉にビルの各所に散らばり、手当たり次第に資料や端末を押収する。

 

 一五分ほどして、さらに数台のワゴン車が到着する。赤色胸甲騎兵艦隊司令部憲兵隊長マーシャル・ペイン宇宙軍准将は険しい表情でそのワゴン車を降りた。他の車から降りた男たちが一斉にその後ろに並び、三〇代前半に見える男がペイン准将の横に並んだ。

 

「クソッ!内警の奴ら抜け駆けしやがった!」

「……やってくれたね」

「やはり内警に声をかけるべきではありませんでした」

「しかし公調だけでは手が足りない。特に地球教地方拠点へのガサ入れはそれが顕著だ。君たちが動かせるのは行政管区単位で置かれる司法省公安調査局、彼等が動かせるのは州単位で置かれる州警察警備部。警察が庁か総局に格下げされ、建前上各行政管区の警察本部が旧保安警察庁のラインから外れ社会秩序維持庁のラインにつけられた今でも、各警察本部の警備部は警察総局公安部の指揮に従っている」

 

 ペインは隣に並んだ男に対しそう応じながらも考える。ちなみに内警とは内務省警察総局、公調とは司法省公安調査庁の事を指す略称である。「公安」という場合はこれに内務省社会秩序維持庁を加え、「公安警察」という場合はそこから公調を除く。さらに言えば内警という呼称は自治領(貴族領)警察(領警)、国務省地方行政統括局(地方支分部局)公安総局(国警)との区別を目的とする為、一般的には単に警察と呼ばれることが多い。

 

「公調第二部の他の部署に声をかけた方がマシでしたよ。何なら『亡霊』を追っていた私のチームだけじゃなくもっと公調第一部(うち)から人を出しても良かった」

「……別々に動いていたとはいえ、この件に元々関わっていた内警を外す理由はない。いくら地下空間を突き止めたのが公調自慢の宗教対策部門、調査第二部第四課とはいえね」

 

 ペインは内警の抜け駆けに関しては必要経費と割り切ることにしたが、隣を歩く男は不満そうな表情だ。ペインは眼前の地球教オーディン支部事務局ビルを見上げる。至って凡庸な、一般的な建物のように見えるが、その地下には内務省習俗良化局・典礼省神祇局・内務省消防総局・国務省帝星振興局・帝都特別行政府といった公的機関には報告されていない大規模施設があるという。

 

「……チェックが済んでいる人員は限られている。内警も公調も……勿論憲兵も信頼に足る人間しか動かせなかった」

「『亡霊』と繋がっていないだけで、信頼に足る人間では無かったようですがね。これなら質は落ちてもうちの地方支局を動かした方が良かったかもしれない。『亡霊』の連中もそんな下っ端まではスリーパーを入れてないでしょう。逆にね」

 

 隣の男……公安調査庁調査第一部のヴェッセル上席調査官は忌々し気に応えた。そしてそのヴェッセルが指揮する公安調査庁の職員たちも当然調査第一部の所属……と言いたい所だが、半数以上が第一部ではなく調査第二部第四課の精鋭たちだ。

 

 調査第二部は国内の反体制組織を監視する部門であるが、その中でも第四課は宗教組織を担当している。第五課……海賊を担当する課と同じく元々分室に過ぎなかったが、数年前に課に格上げされた。これまで宗教組織を専門で監視する情報機関は殆ど存在しなかったが、宗教過激派の出現に危機感を抱いた公安調査庁が一早く宗教対策分室の予算と人員を増強、今では国内最初かつ最大かつ最精鋭の宗教対策部門として知られている。

 

 ……まあ最大・最精鋭とはいってもそもそも宗教対策部門が公調第二部第四課の他には内務省習俗良化局統合政策課調査官室(宗教担当)と内務省良化特務機関調査部第五課位しか無い。習俗良化局の情報機関に比べれば大規模であっても、公調全体の中ではむしろ小規模な位の組織であったりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ペイン准将ですね。帝都憲兵隊のラフト少尉です。ハルテンベルク警部から准将閣下をご案内するように仰せつかっております」

 

 公調の捜査官を従えながら支部に入ろうとしたペイン准将に対し、パンツスーツに身を包み、長い金髪を後ろで一括りにした女性が話しかけてきた。帝都でこのような格好をしている女性は旅行客かフェザーン企業の社員と相場が決まっている。

 

「……少尉?貴女がかね?」

「女性が軍人に成ってはいけない、という法はありませんから」

 

 ペインが困惑のまま発した疑問に対してラフト少尉はそう応じた。ペインはその口調から、彼女が何度も同じような疑問に対し何度も同じような返答を返してきたことを察した。……確かにラフト少尉の言うように女性の帝国軍人は存在するが、その大半が医官や技術職の人間――大抵は自治領出身者――であり、尉官以上の階級を持つ者に限れば帝国軍全体で僅かに七〇〇名程度に限られる。その七〇〇名にしても、大半が近衛兵総監部や後宮警備局、軍務省宣撫局等、「女性にしかできない軍務」がある職場に勤務している。

 

「……そうか。まあ……頑張りなさい。同じ憲兵として力にはなろう」

「御厚意には感謝しますが、准将閣下が想像するような複雑な事情等はありませんので。小官は小官の意思のみで憲兵となりました」

 

 ペインが同情の色を浮かべたのを見て取ったのか、ラフト少尉はすげなくそう言って踵を返した。

 

「待ちたまえ、貴官は貴族だろう。……自分の意思だって?信じられん……それは御家族は承知なさっているのか」

「承知なさっていないなら小官はここに居ませんよ。……着きました。こちらです」

「ああ……」

 

 ペインは奇怪な物を見るような目でラフト少尉を見つつ、彼女の指し示す部屋に入る。

 

「ライヘンバッハ晴眼伯」

「ん?」

「いえ、そう呼ばれている方の腹心ですから、もっと違う反応を期待していたのですが」

 

 ラフト少尉はそう言って扉の横に立った。部屋は応接室のようで、古風な暖炉の横にアンティークのテーブルとソファが置かれている。暖炉の上には煤に塗れた猟銃が飾られており、壁にはペインが見たことの無い生物のはく製がいくつも掛かっている。他にも大小さまざまな装飾品がこれでもかと並んでいるが、特に部屋の隅に置かれたくすんだ赤くて丸い珍妙な置物は独特の存在感を放っている。顔?のようなものが書かれていたようだが、どうにもはっきりしない。その置物を一人の青年がパイプを咥えながら見分していた。青年は入室したペイン達には目もくれずに話す。

 

「一見すればガラクタだがね。相当な珍品だよ。かつて三大陸合州国の寒冷地帯に伝わっていた民芸品で『だるま』という。……見たまえ、中に一回り小さなサイズの同じ置物が格納されている。おい」

 

 青年は咥えていたパイプで置物を指し示す。部屋の隅に控えていた黒服が青年の指示に従って置物に触れるが、暫くしてどこか困惑した様子で立ち尽くし、「開きません」と言った。

 

「うん?おかしいな……。まあ無理もない。驚嘆するべきことにこの部屋の装飾品は全て一三日戦争以前の遺物らしい。この『だるま』も長い年月の中でどこか劣化したんだろうよ。……ああ、勿論そのソファもだ。間違っても座るな。地球教徒共もこのソファは使ってなかったらしい。……何のための応接室だという話だがね」

 

 青年……エーリッヒ・フォン・ハルテンベルク伯爵令息は無表情のままそう語った。二二歳にして公安総務課総務統括係係長の要職にあるエーリッヒ・フォン・ハルテンベルク警部は官僚貴族の名門ハルテンベルク伯爵家の嫡子である。官僚貴族の常として外見や雰囲気は貴族然としていないが、その立ち居振る舞いを少し眺めれば、彼が名門の出であることは分かるだろう。

 

 ハルテンベルク伯爵家は内務系官僚貴族の大物、特に本家は保安警察庁――今は警察総局――の要職を歴任している。当代のシュテファン・フォン・ハルテンベルク伯爵は保安警察庁最後の長官であり、今は内務副尚書の位にあって、警察閥のトップとしてマルシャと近い秩序閥の宮内尚書キールマンゼク伯爵らと次期内務尚書の座を争っている。

 

「『コンポ二スト』ですね?……赤色胸甲騎兵艦隊司令部憲兵隊長マーシャル・ペイン宇宙軍准将です」

「そう言う君が『ディリゲント』か。エーリッヒ・フォン・ハルテンベルク。内務省警察総局公安部公安総務課総務統括係係長、階級は警部だ」

「『ターゲリート』です。司法省公安調査庁調査……」

「ああ、君は良い」

 

 ハルテンベルク警部は煩わしそうに手を振ってヴェッセル上席調査官の挨拶を遮る。同格とはいえハルテンベルク警部よりヴェッセル上席調査官が一応の先任者の筈だが、家格差故か全く気にした様子もない。ヴェッセルも決して寒門出身者という訳では無いのだが。ヴェッセルが気分を害した様子になり、ペインとラフト少尉もどこか非難するような色を浮かべてハルテンベルク警部を見る。

 

「何だね?『公調と仲良くする気はない』。当たり前だろう」

「……我々も、貴方方と仲良くする気は無いですけどね。作戦を破綻させかねない暴走は禁じ手でしょう」

「暴走?君たち公調(しろうと)と一緒にしないでくれ。これは暴走じゃなくて奇襲だよ。作戦を破綻させることも私が指揮を執っている限りあり得ない」

「は!素人はそちらでしょう。優秀な人材は悉くマルシャに持ってかれて、それを拒んだ連中は地方に飛ばされるか他機関に引き抜かれるか。宗教対策部門すら増設できない体たらくではありませんか」

「そんなことも無いさ。口ばかり達者な無能者が軒並み本庁を去った。その一事だけで警視総監を引き継ぐ者として、未来に心が躍るよ」

「貴方がまだ本庁に居座っているのに?」

 

 ハルテンベルク警部とヴェッセル上席調査官が舌戦を交える。公安と公調は管轄の競合する組織の常として険悪な仲だが、二人の様子はそれを考慮しても険悪だ。特にヴェッセル上席調査官は露骨にハルテンベルク警部への敵意を露わにしているように見える。単なる縄張り争いだけではなくそれ以上の因縁か確執がありそうだが、優秀とはいえ任官して日の浅いハルテンベルク警部とヴェッセル上席調査官の個人的な関わり合いは少ない。もしかしたらヴェッセル上席調査官の経歴――内務省保安警察庁が警察総局に再編される際の人員削減で職を失った――が関係しているのかもしれない。

 

「憲兵、君たちにもハッキリ言っておく。こんな事はこれっきりだ。……保安警察庁(われわれ)は七六九年の屈辱を忘れていない」

 

 ハルテンベルク警部は不機嫌そうな様子でペインに対しても釘を刺す。……まあ抜け駆けはともかくとして、ハルテンベルク警部の反応は官僚として普通の物だろう。今、ペインがやっていること、ハルテンベルク警部やヴェッセル上席調査官が協力させられていることは横紙破りにも程がある。公調側でもヴェッセル上席調査官はともかく、その下に付けられた調査第二部の人員には不満が燻っている。憲兵の指揮下に入ることもそうだが、この案件の連絡調整官(リエゾン)を畑違いの調査第一部のヴェッセル上席調査官が務めている事に対しては思う所もあるだろう。

 

「それじゃ、私は部下の方を見てくる。……ああ、ペイン准将。『アレ』は別の部屋で拘束している。お嬢さんに場所は伝えた。……貸すだけだぞ?押収したブツは全部こちらで引き取る約束だ」

「……それは物の話です、参考人は……」

「それは承服しかねますな!公調側(こちら)が指定する押収品は引き渡してもらいます」

 

 ハルテンベルク警部の言葉を受けてペインが口を開くが、ヴェッセル上席調査官がそれを遮る形で話に割り込む。ハルテンベルク警部は煩わしそうに顔を顰めヴェッセル上席調査官に向き直る。

 

「話が違うな……押収品の現物は押収した組織が管理するはずだ」

「先に合意を破ったのは内警です。そちらが先走って我々公調に与えた損害は補填していただく」

「情報は共有する。それで構わんだろう」

「それは大前提だ!補填にはならない!……大体内警(そちら)は宗教犯罪に対して素人でしょう。宝の持ち腐れだ。四課(ウチ)なら現物の些細な痕跡から様々な情報を…」

 

 ハルテンベルク警部とヴェッセル上席調査官が言い合いながら部屋を出ていく、部屋の中に残されたペインは溜息を吐き、何となくもう一度『だるま』を見てから部屋を出る。

 

「何というか……酷いですね」

「対立するのは仕方がない。警察総局公安部と公安調査庁は管轄が重なる部分も多いんだ。流石に内警とマルシャの関係よりはマシだけどね」

「……末端からトップまで年中殺し合っているような両組織と比べればどんな対立もおままごとです」

 

 部屋の扉の横に立ち、一部始終を見ていたラフト少尉は辟易した様子でそう言った。ペインは思わず苦笑するが、ラフト少尉の次の言葉に笑みをひっこめた。

 

「リヒテンラーデ侯爵でもマルシャと内警を協力させるのは無理でしょうね」

「……侯爵の名前を出すか。中々察しが良いじゃないか。少尉」

「……閣下は私を女だからと馬鹿にしてはいませんか?犬猿の仲の内警と公調を一緒に動かせるような殿上人なんてリヒテンラーデ侯爵だけです。そんなこと赤子にだって分かります」

 

 ラフト少尉は明らかに気分を害した様子で応えながら、ペインを案内する。『参考人』に話を聞かなくてはならない。ペインはラフト少尉をまじまじと眺めて呟いた。

 

「顔採用という訳でも無いのか」

「……閣下、『せくはら』って言葉をご存知ですか?フェザーン勤務の機会があれば是非とも赴任前に調べておくことをお勧めします」

 

 ラフト少尉はそう言いながら一つの部屋の前で立ち止まる。扉の前には小銃を携えた屈強な男二人が立つ。シュタイエルマルク大将の手回しで派遣された帝都憲兵隊の所属だろう。ペインが率いている赤色胸甲騎兵艦隊の憲兵隊には内通者が居る。故に今回は単身で密かに帝都に降り、シュタイエルマルク大将が用意したチームと合流した。彼等はこれまで地球教捜査からは全く縁のない仕事をしていた。ペインのチームに何かあった時の予備要員としてシュタイエルマルクから注意深く選定された彼等は地球教と一切関係の無い人物であることと、胡散臭い命令にも従順に従う人物であることが保証されている。

 

 とはいえ、理由も知らされずに変な宗教組織に突入させられたことに思う所が無い訳では無いようで、ペインに対しては胡散臭い物を見るような目線を寄越し、ぞんざいに敬礼してきた。ペインも同等の無礼さを込めた適当な敬礼を返し入室する。

 

 その部屋には先ほどの地球趣味漂う応接室や、その他の清貧を旨とする地球教徒の居室とは違い、フィン・ユールのチェアやアーベントロートのカーペットといった貴族御用達の高級ブランドがある一方で、同盟のマーベルやフェザーンのクラシカル製の安価な――あくまで帝国基準だ――ベットであったり本棚だったりが共存している。普通なら雑多な印象を受けかねないナンセンスなチョイスの仕方ではあるが、それでいて部屋全体で見るとどこか格調高い趣を感じさせる。優雅さと実用性を調和させ、そこに囁かな貴族的感性――例えば同盟企業の中でもマーベルは経営者の右翼的言動から禁輸指定を受けている、その製品を入手した事と公然と使用していることは遠回しな彼の権力の誇示だと言える――を混ぜ込んた部屋の主の独特の感性が窺える。

 

「そうか、この騒ぎは貴様の仕業か。一本取られたよ。このタイミングで地球教への強制捜査に動くとはね。……ああヨハンナ、紅茶を頼む。そこの可憐なお嬢さん(フロイライン)にも」

 

 フィン・ユールのロッキングチェアに腰掛けながら男は片眉を上げて言った。男の言葉を受けて、妻が奥のキッチンへと向かった。三人の監視役の内一人もついていく。それを一瞥しつつ、ペインは部屋の主に対して嫌悪感を隠さないで語り掛けた。

 

「宇宙軍特別警察隊司令部別班、主任戒厳査察官。マーシャル・ペイン宇宙軍准将です。会えて本当に光栄ですよ。……………クリストフ・フォン・バーゼル『元』宇宙軍少将」




注釈32
 銀河帝国司法省公安調査庁は元々銀河帝国宰相府公共安全庁という名の組織であり、さらにさかのぼると内務省保安警察庁と同じく、その源流を銀河連邦の行政組織に持っていた。内務省保安警察庁が前身組織の銀河連邦広域刑事警察機構から腐敗した人員を一掃しつつも、ルドルフを支持した革新官僚(後の官僚貴族達)を中心に組織をほぼ維持したのに対し、公安調査庁の前身となった機関の殆どは解体、縮小、廃止に追い込まれることになった。
 一握りのルドルフ支持者を除きそれら情報機関の構成員たちは、殆どが下野を余儀なくされ、彼等に取って代わった内務省社会秩序維持局から厳しい監視の目を向けられた。社会秩序維持局員の目を欺いて共和主義勢力に合流した者もいたが、殆どの者は従順に忠実に一般の臣民として暮らしていた。地球時代から権力の中枢に奉仕し続けた『情報閥』はここに無力化された……かに見えた。

 ジギスムント一世鎮定帝の時代に起きた、共和主義者による大反乱、「連邦主義者(フェデラリスト)たちの乱」は帝国中枢に多大な衝撃を与えた。内務省社会秩序維持局の苛烈な粛清によって共和主義者、銀河連邦支持者は完全に駆逐されたはずだった。しかし「連邦主義者(フェデラリスト)たちの乱」によって、今なお相当数の共和主義者達が帝国各地に潜伏し、体制を転覆させようと試みていることが明らかとなった。社会秩序維持局のこれまでの捜査活動は一体何の意味があったのか。当時の社会秩序維持局長ワルトハイム伯爵は「我々の努力があったからこそ、『連邦主義者(フェデラリスト)の乱』はこの程度の規模で済んだのだ」と保安警察庁長官フェーネンダール侯爵の批判に反論したが、ジギスムント一世鎮定帝やノイエ=シュタウフェン大公が抱いた社会秩序維持局への不満と不信を拭い去る程の説得力はなかった。

 元々、強権的な社会秩序維持局の姿勢に反感を抱いていた者たちは少なくない。保安警察庁調査部が公安部と名前を変え、かつての規模と予算を取り戻したのを皮切りに、各省庁が社会秩序維持局の介入を排し自分の縄張りを守るために、それぞれの職域を担当する情報機関を設立し始めた。その過程で旧連邦の情報機関構成員たちが大勢公職に復帰したのは言うまでも無い。

 宰相府公共安全庁はそのような各省庁の情報機関の中で最大規模の組織であり、「連邦主義者(フェデラリスト)の乱」以前から存在した内務省社会秩序維持局、軍務省宣撫情報局、皇帝官房秘密情報部第六課(GI6)(後の国務省情報統括総局)の三大情報機関に匹敵する強力な組織としてノイエ=シュタウフェン大公肝入りで新設された組織であった。

 しかしながら、公共安全庁内部には複数の連邦情報機関出身者が入り混じっていた為、やがて出身機関ごとに激しい派閥争いが繰り広げられるようになる。かつての同部署における同僚たちが他省庁の情報機関に所属していることもあって公共安全庁は一つの組織として纏まることが出来ず、機能不全に陥った。その中で各情報機関の連絡機関であった宰相府中央情報調査室が力を持つようになっていき、公共安全庁は解体されることが決定する。

 これを受けて当時、公共安全庁の主流派であった旧連邦保安庁派はルーツを同じくする司法省刑事局公安課への「身売り」を画策する。しかし、流石に一省庁の主流派をそのまま一つの課で受け入れるというのは非現実的であったために調整は難航した。『宰相府潰し』の急先鋒だった国務尚書ベルンカステル侯爵や社会秩序維持局に近い大審院長メッテルニヒ伯爵らの批判も強く、保守派の大物である枢密顧問官ブローネ侯爵や軍務省尚書官房高等参事官バルトバッフェル侯爵らも難色を示した。誰もがこの構想には無理があると思い、公共安全庁の解体と職員の解雇は避けられないと考えた。

 救いの手はイゼルローン回廊の向こう側から差し出された。再就職先が見つかったという意味ではない。自由惑星同盟の発見、ダゴン星域の敗戦、そして第一次エルザス=ロートリンゲン戦役の大敗である。

 強力な外敵の出現は、帝国内部の不穏分子たちの動きを活発化させた。それだけではない。第一次エルザス=ロートリンゲン戦役では自由惑星同盟情報機関の活動による多くの貴族のサボタージュが問題となり、暗赤色の六年間には多くの皇族・貴族が私利私欲のままに陰謀の糸を張り巡らせ、一部の貴族は帝国を捨て同盟へと走り始めた。

 『特権階級への監視』その必要性を痛感した司法尚書オスヴァルド・フォン・ミュンツァー伯爵によって、公共安全庁は生き永らえ、生まれ変わることになる。帝国唯一の、特権階級を監視対象とする公然部門を有する規制官庁にして情報官庁、司法省公安調査庁として。



 公安調査庁が競合機関に対し優位に立っているのは、その設立の理由でもある特権階級への監視と、亡命貴族に対する追跡・防諜・対策の分野である。しかし、司法省直轄の情報機関として主に司法省指定特別犯罪組織の情報収集や、特別犯罪組織指定令の適用請求などを口実に幅広い分野での情報収集活動を実施している。

 公安調査庁調査第一部は体制内不穏分子を担当する部門であり、国内情報機関で唯一貴族を監視対象とする公然部門である。(社会秩序維持庁・警察総局・国務省・典礼省等には非公然部門が存在)それ故に諸侯から蛇蝎の如く嫌われており、諸侯は事あるごとに「公調廃止論」を唱えていた。

 公安調査庁調査第二部は国内の反体制組織を監視する部門である。第一課がサジタリウス腕の銀河連邦亡命政府とそれに従う戦線系共和主義組織を担当、第二課が革民同系分離主義組織を担当、第三課がコミューン他左派系非合法組織を担当、第四課が宗教過激派を担当、第五課が『流星旗軍』を初めとする宇宙海賊を担当していた。この他、ザールラント叛乱軍等の個別の監視対象組織担当の分室が複数存在した。

 公安調査庁調査第三部は自治領及びサジタリウス叛乱軍を担当している。亡命貴族とその勢力も第三部の担当であり、ブランデンブルク侯爵などが支援する「暁の向こう側」、ハーゼンクレーバー伯爵が関わる「サジタリウス辺境軍管区」、クレーフェ侯爵が最大の支援者の一人である銀河有数の人権団体「アル=アーディル・インターナショナル」、それら全てと関わる「サジタリウス大公国政府」などが監視対象となっている。

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