鎮定使、及び鎮定総督とは大規模な叛乱の鎮圧、広域大災害への初期対応、感染症の封じ込めなど、強力な権限を必要とされる事態に皇帝から臨時的に任命される役職である。一定の地域における軍事・行政の全権(場合によっては司法権も)を委任され、その権限は極めて強力である。大まかな目安として、一つの星系を管轄する場合は鎮定総督が、複数の星系を管轄する場合は鎮定使が任命されることが多いがその限りではない。
鎮定使、及び鎮定総督の下には各省庁と軍部から多くの人員が付けられるが、この人員によって形成される行政組織を、鎮定使が長となる場合は鎮定庁、鎮定総督が長となる場合は鎮定総督府と呼称する。どちらも原則として皇帝官房の下に置かれ、皇帝が必要と考える時は、長を鎮定担当無任所尚書として入閣させることができる。
鎮定庁及び鎮定総督府の軍事的側面に着目した呼称が鎮定総軍である。鎮定庁・鎮定総督府と鎮定総軍は通常別組織として扱われる一方で、その線引きは非常に曖昧である。
鎮定総軍は宇宙軍・地上軍の通常の指揮系統から独立した組織であるが、通説では皇帝の軍事行政権代行者である軍務尚書及び皇帝の軍事命令権代行者である統帥本部総長の指揮監督には服す義務があると解されている。
一方で、皇帝が鎮定使を任命した段階で鎮定使の管轄する地域に関する軍政権と軍令権は皇帝の下に戻っているから、軍務尚書及び統帥本部総長は鎮定使に対し指揮監督権を有さないという見解も有力である。
なお、皇帝が直接行政権を行使する皇帝官房に置かれた組織は所掌事務において重複があった場合、各省庁に優越してその権限を行使できるため、鎮定庁及び鎮定総督府は各中央省庁の指揮監督を受けないとされている。この点を重視する立場から、軍事行政においても鎮定総軍は軍務省と統帥本部から独立するという主張もある。
決起の日から一〇日が経った。粛軍派と反粛軍派で睨みあう帝星オーディン。その様相は膠着状態と言って良い。……既に粛軍派の劣勢が明らかな膠着状態ではあったが。
第四・第五・第九軍集団が反粛軍に動いたことは、粛軍派にとって脅威となり得なかった。どの軍集団も連携も準備も不足している状態で殆ど衝動的に決起した。完全に戦闘態勢を整えていた粛軍派を脅かすには至らず、帝都に進軍しようとした第五軍集団はカールシュタットで中央軍集団の後援を受けた第八軍集団即応部隊を前に敗走を余儀なくされた。
第九軍集団はレオバラードとヴァルター・ヴァルリモントにて麾下部隊を結集させようと試みていたが、粛軍派が先んじて鉄道網を抑えている為に思うように果たせていない。
第四軍集団は後退を重ねている。司令部は駐屯地すら捨てて中央大陸北端のアドルフスハーフェンへと逃れた。殆どの部隊は同行できず、一部の部隊は既に恭順の意を示している。粛軍派はここに優勢を確立した……ように見える。
……薄氷の上に築かれた優勢であった。多くの部隊が不穏な動きを見せていた。粛軍派の戦力にも限りがあり、対応が間に合っていない。
エイレーネ山にて冬季戦訓練中だった第一一装甲軍と第二装甲擲弾兵師団はアドルフスハーフェンへの移動を開始した。反粛軍派への合流を企図しているのは明らかである。教育総監部教導監部エイレーネ冬季演習計画部長フォン・シェドルツェ地上軍少将、第一〇軍集団戒厳部隊指揮官カントロヴィチ地上軍少将は制度上の指揮権を行使し続けているが、両部隊は完全にこれを黙殺している。粛軍派は両部隊が第四軍集団司令部と合流することを止められない。
オーディンで二番目に大きい空軍拠点、ライムント航空基地は第五軍集団司令部に「占拠」され、協力を「強制」されている。同基地の輸送部隊の「強制されているとは思えない程の勤勉さ」により遠からぬ未来、二個師団が第五軍集団司令部と合流するだろう。
中立を維持するとの内意を伝えていた帝都防衛軍司令官シュリーフェン地上軍中将、粛軍派を早々に支持すると予想されていたゲルマニア防衛軍司令官ファルケンハイン地上軍中将は揃って戒厳司令部の統制を拒絶する姿勢を見せた。シュリーフェン中将は戒厳司令部の命令書を三度に渡って「手続きの不備」を指摘して突き返し、ファルケンハイン中将は「戒厳令下においてもゲルマニア防衛軍司令官の職権は全面的に停止されている訳ではなく、その本来の職責の範囲内で秩序維持に努めるのは当然の事である」と応じ、帝都の海の玄関口、ハンブルガーハーフェンを臨むカラン高地に砲兵部隊を展開した。
拘束を免れた憲兵副総監グライフェンベルク地上軍中将と軍務省尚書官房高等参事官補ヴァイマール宇宙軍中将がキルヒェンジッテンバッハから反粛軍の檄文を発した。『庇護下』のラムスドルフ近衛軍元帥とビューロー宇宙軍大将は戒厳司令部への協力を明確に拒絶した。グロックラー地上軍中将を初めとする軍部リッテンハイム派も不穏な動きを見せている。帝国屈指の貴族たるリッテンハイム公爵領やその縁故の家々の領からは、多くの兵士が帝国地上軍に志願「させられている」。ここオーディンにおいても一二〇万~一三〇万――二個軍集団に匹敵する――近い地上軍兵士がリッテンハイム一門の領地出身者であった。地上軍以外の所属や後方要員を含めればその数は数倍へと膨れ上がる。
西大陸のニダヴェリエール防衛軍司令部は戒厳司令部の承認を得ず隷下部隊と西大陸に駐留する第一一軍集団に対し治安出動を命じた。未だ敵対には踏み切っていないが、時間の問題だろう。西大陸の僅かな粛軍派部隊は大陸東部のオクトゴーンに集結し、西方艦隊の根拠地を死守する構えだ。
装甲擲弾兵総監部は「装甲擲弾兵総監部は伝統に従い、ただ皇帝陛下への忠節を全うする」との声明を発した。この言葉は粛軍派への強い警告と捉えられた。銀河帝国の長い歴史の中で軍にあって唯一政治不介入を貫徹し続けている組織が装甲擲弾兵総監部である。その尋常ではない徹底振りからすると、進行中の政変にこのような声明を発表すること自体が異例の事であり、その裏には「中立不介入」以外の何らかの意図があると考えられた。
第一衛星フギンに位置する帝都防衛軍宇宙部隊司令部と第二警衛線統括司令部、第一警衛線の中核を為すヴァルハラ星系第一防衛要塞「グラム」防衛司令部は戒厳司令部に従う意思を示しながらも、戒厳部隊指揮官の受け入れを明確に拒絶した。粛軍派の赤色胸甲騎兵艦隊及び第二猟兵分艦隊の艦艇の入港も拒否している。第二警衛線の各要塞・砲台・衛星は厳戒態勢を敷き、その砲口は明らかに周辺の粛軍派艦隊に向けられていた。
第二衛星ムニンに位置する第一警衛線統括司令部と近衛第二艦隊司令部は早々に戒厳指揮官を受け入れ粛軍派に屈服したが、一部の将兵が反発し宇宙港合同管理庁舎――司法省領邦間移動管理庁オーディン査証監査局・財務省オーディン税関部本関・国務省ムニン宇宙港警備支局・国務省航路保安局ヴァルハラ保安部本署・内務省民政局麻薬情報課オーディン密輸対策官室ムニン事務所・内務省民政局オーディン検疫部ムニン検疫所・典礼省オーディン迎務局ムニン警衛部などが存在――を占拠して立てこもっている。脅威になり得る勢力ではないが、巻き込まれた形の各省庁は人質となった職員への配慮を強く求めており、対応を誤れば官界との間にさらなる亀裂が入る。
粛軍派の『保護』を拒んだ多くの閣僚級官僚は国務省レーヴェンスハーゲン分室に立て籠もっている。レーヴェンスハーゲン分室は国務省尚書官房情報通信課に所属し、国務省の機密通信網を管理する組織だが、実際には情報機関たる国務省
中央省庁の官僚たちは、レーヴェンスハーゲン分室に立て籠もる閣僚たちの存在を盾に戒厳司令官の指揮に消極的抵抗を試みている。扇動者はルーゲ公爵の盟友たる皇宮警察本部長シャーヘン伯爵と娘婿であり官界五大公爵家の一つローゼンベルク公爵家嫡男、大審院最高公検部総長ローゼンベルク名誉子爵の二人だ。特にローゼンベルク名誉子爵は戒厳司令部の行動一つ一つを「司法権の独立を脅かす」「帝国法に反する疑いがある」と非難する。官界の雄たる一九名の侯爵の内、半数以上がそれに同調し、ローゼンベルク公爵家を初めとする官界五大公爵家――これにルーゲ公爵家を加えて六大公爵家とも言う――も公的には沈黙を保ちながらも、これを支持する構えだ。
自由惑星同盟最高評議会は賛成六反対三で新たな出兵案を可決。それに伴い七八〇年度第一次国防補正予算案を下院に提出した。下院・上院、共に可決されるかどうかは怪しいという政治情勢ではあるが、否決された場合も最高評議会議長の国防大権が発動され、出兵案が実行に移される見通しである。この国防大権の発動を止めるには上院の特別多数による大権命令無効決議の可決が必要である。しかし、出兵反対派の野党「自由進歩党」「社会共和会議」「平和市民戦線」「イニシアティブ諸宗派議員連盟」に加え、仮に与党「国民平和会議」から旧「自由共和党」「新進党」系のリベラル議員が出兵反対派に回っても、上院議員の半数程度に留まり、国防大権の発動を止めることは出来ない。
またそれに先立ち国防委員会は財務委員会に対して国防予備費の支出を求めた。財務委員会はこれを承認し、イゼルローン要塞に駐留する第一一・第一二艦隊が慌ただしく出撃の準備を整えている。正確には両艦隊に随伴する地上部隊が、であるが。
第一辺境艦隊司令官フォーゲル宇宙軍中将は反粛軍派に近い考えの持ち主であるが、戒厳司令部に対しエルザス=ロートリンゲンの防衛に必要な範囲内で従う事を明言した。一方、第二辺境艦隊司令官ヴェスターラント宇宙軍中将はこの機に乗じてヴェスターラント星系へと軍を進め、一方的にヴェスターラント伯爵位とヴィレンシュタイン公爵位の継承を宣言、独自の勢力圏を築いている。隣接する旧ブラウンシュヴァイク派諸侯は揃ってこの“ヴェスターラント伯爵”の襲爵を支持する構えだ。
「見渡せば敵ばかり。不味い状況だ。……反粛軍派が態勢を整えるのは時間の問題ですな」
「……帝星の状況だけを見れば、ね」
私の言葉に対し、粛軍派の上層部は重い沈黙で応える。無理もない。帝国は今、無政府状態へと陥ろうとしている。引き金を引いたのは自分達だ。幸いと言うべきなのは、弾丸が今の所自分達に向かっていない事だろう。
「我々は今、まさに啓蒙されている訳だね」
私は嘆息しながら沈黙を破った。幾人かが私に責めるような目線を寄越す。私はそれを静かに見返した。
……リューベックのクーデターと同じ日、惑星ヨーゼフ・ゲッペルスで平民の下級将校が蜂起した。第六辺境艦隊司令官クリストフ・フォン・スウィトナー宇宙軍中将は拘束――下級将校の主観では救出――され、粛軍派への支持と協力を表明させられた。反粛軍派と見做された何人かの将校が「文字通りの意味で」吊るし上げられたのに対し、スウィトナー中将がそうならなかったのは、彼がシュタイエルマルク退役元帥直系の実戦派軍人として高い声望を有していたからだろう。貴族軍人たちはこの事件に驚きはしたが、さして気には止めなかった。スウィトナーは平民の味方を気取るシュタイエルマルク派の夢想家の一人であり、その部隊で平民が「図に乗る」のは充分考えられることであったからだ。
しかしながら、それは始まりに過ぎなかった。多くの無垢な兵士たちにとって、ヨーゼフ・ゲッペルスは皇帝陛下の忠実な剣であり、盾である、帝国軍将兵の模範を示した英雄的行動と映ったのだろう。
一二月一四日。ブランデンブルク星系警衛軍司令官が戒厳令を根拠として部隊を動かし、軍務省ブランデンブルク地方軍務局を皮切りに行政機関を相次いで占拠。さらに地上軍オストプロイセン警備管区総軍第二軍集団司令官と第四軍集団司令官が独断で粛軍派支持を表明し、戒厳司令部の正当性に疑義を呈する管区総軍司令官から指揮権を停止される。いずれも平民階級の指揮官である。
一二月一五日。カラシニコフ星系にある兵站輜重総監部管理下の兵器工場地帯で労働者と兵士による叛乱が発生。ニーダザクセン鎮定総軍第一統合軍地上部隊(征討総軍第六軍集団)で大規模な兵士叛乱発生。憲兵総監部ノルトライン憲兵司令部に迫撃砲が撃ち込まれる。
一二月一六日。ケヴィン・バッへム地上軍准尉らがローゼンベルク星系の第九猟兵分艦隊司令部ビルにて「ローゼンベルク愛国兵士分艦隊」の結成を宣言し、大多数の兵士がバッヘムらを支持し、第九猟兵分艦隊司令官は在ローゼンベルク・フェザーン
同日。トラーバッハ星系の叛乱鎮圧に動員されていた帝国地上軍第一五軍集団において命令不服従が広がり事実上軍集団としての機能を停止。ザルツブルク公爵家は第三猟兵分艦隊に支援を要請し、第三猟兵分艦隊司令部は一旦受諾するが、貴族将校も含む多くの将兵から「ザルツブルク公爵の私戦、いや大規模な強盗に加担するのか」と批判を浴び、四時間後に要請拒否に転じる。
一二月一七日。かねてから黒い噂が絶えなかった第二一警備艦隊の戦艦「アドルフⅣ」において兵士叛乱が発生。瞬く間に各艦に波及。叛乱勢力は第二一警備艦隊第二戦隊司令官フォン・トゥルナイゼン宇宙軍准将に対し「トゥルナイゼン愛国兵士分艦隊」司令官就任を嘆願。トゥルナイゼン宇宙軍准将は二度にわたり拒否するも、上位司令部及び同輩の逃走を受け嘆願を受諾する。
一二月一八日。第四辺境艦隊司令官ハウサー中将・ラインラント警備管区司令オーベルシュタイン中将・ザールラント警備管区司令ドロイセン中将が中立協定を締結、将兵に冷静な判断を呼びかける。が、これに憤慨した粛軍派兵士がハウサー中将の暗殺を試みる事件が発生。ザクセン地方総軍司令部でも参謀同士で刀傷沙汰に発展。
同日、カラシニコフ星系において「国家の諸問題に対応する皇帝陛下のカラシニコフ星系労兵評議会」(通称カラシニコフ・レーテ)の結成が宣言される。以後、各地で蜂起した兵士・民衆の多くはカラシニコフと同様の組織を設立し、自らの立ち位置を「皇帝陛下の直接命令にのみ服する臣民の自主的な統治組織の一員」――ゼネラル・レーテ運営実施要綱より引用――と定義していくことになる。
一二月一九日。オーベルシュタイン中将が第四辺境艦隊の指揮権を奪取しようと試み、副司令官エルラッハ少将に面罵される。
同日。ゲアハルト・フォン・シュテーガー宇宙軍大佐の扇動によりオストプロイセン警備管区で兵士による叛乱が発生。叛乱勢力は警備管区司令バルタザール・フォン・ハーゼ宇宙軍中将を惨殺。この段になって紫色胸甲騎兵艦隊司令官ハンス・ディードリッヒ・フォン・ゼークト宇宙軍大将が粛軍派不支持を明言。叛乱勢力の「史上類を見ない程、徹底的かつ完璧な掃討」を行うと表明。
一二月二〇日にはズデーテン域外鎮定総督フォン・カルナップ中将の暗殺事件や、ディッセンクルップ星系における独立派と地元出身の将兵の蜂起、映画『ホテル・アルマダ』で有名なラドヴィリシュギス自治領虐殺事件などが発生し、混乱は完全に帝国全土に広がった。
この間、民衆レベルでの騒乱も多発しており、ロールシャッハ星系、キール星系、ヘルツェゴビナ星系、ビブリス星系、ボーデン星系、バルヒェット星系、ランズベルク星系などは完全な無政府状態に陥った。ブランデンブルグ星系、バイエルン星系第三惑星リュテッヒ、シレジア星系第四惑星ビルバオなどの統治組織は流血を避けるべく
「白薔薇の乱」において、帝国中央地域――国務省によって「全土に安定した行政システムの構築が為されている」と評価されるユグドラシル中央区及び一一行政区の俗称――の有人四六八星系の内、一一二星系で粛軍派民衆による決起が発生した。正確な人口分布も定かではない辺縁地域に至っては有人星系の九割近くにおいて何らかの形で暴動、叛乱、蜂起と称すことが出来るような混乱が発生したと推定されている。それら混乱を起こした側の勢力全てに共通していたのが「皇帝支持」「粛軍支持」の旗印であったが、実際の所それは大義名分に過ぎず、二〇数年間続いてきた農作物の不作、行政機能の低下、重税、社会資本の摩耗、富の偏重、不公正な統治、それらによって蓄積された不満こそが民衆を、そして兵士を暴力へと走らせた原動力だった。
「白薔薇の乱」において混乱を免れた星系はほぼイコールで「豊かな星系」と言い換えて間違いない。(つまり、国務省から一度成熟した星系というお墨付きを得ていた中央地域の四分の一が「貧しき星系」と化していたということでもある)
そのような背景からするととりわけ異彩を放っていたのはカストロプ星系である。何しろ、帝国中央地域でも一〇本の指に入る「貧しき星系」、それがカストロプ星系である。にも関わらず、カストロプにおいては何の混乱も発生しなかった。
「不思議な事ではないさ。カストロプの民は、皆等しく『希望』という精神的財産を有している」
少し後の話になるが、カストロプ臣民未来会議議長・人民カストロプ再生機構代表マクシミリアン・フォン・カストロプ男爵はフェザーンメディアに対してこう語った。カストロプは粛軍中も抜け目なく立ち回った。プロイセン行政区地方軍務局長のフォン・ノートン中将と膝詰めで会談し、自分と共に粛軍派を支持することを認めさせた。その上で、後見役たるマリーンドルフ侯爵など当主が身動きを封じられた近隣諸侯の領土に支援を申し出た。
「奪われたから、奪い返す。それは将来再び奪われることを『是』とすることだ。施し、施される。それで良いではないか。奪い、奪われる。それと効用の総量は変わらないだろう」
カストロプのこの言葉は称賛を浴びた。彼の父が帝国全土から富を収奪したことを差し引いても、彼が父の死後置かれた厳しい境遇を考えると、強欲かつ冷酷にカストロプ公爵領から富を奪った周辺貴族たちに復讐心を抱かなかったことは驚嘆に値する。後見役のマリーンドルフ侯爵もまた、カストロプ男爵を立派に育て上げたことについて称賛された。
周辺貴族たちは内心はどうあれ表向きは感激し、恥じ入る態度を見せた。そうせざるを得なかった。カストロプ男爵はひたすら無私に旧カストロプ公爵領を含むプロイセン行政区の秩序を保つことに尽力した。その間、やろうと思えばいくらでも私腹を肥やす機会があったにもかかわらず彼はそうしなかった。カストロプの民もともすれば自領以上に行政区の秩序維持に尽力する彼を支持し、一切騒乱を起こさなかった。プロイセン行政区最貧のカストロプ星系が「そう」なのである。まして彼等よりは恵まれている他の星系の人々が、軽々に騒乱を起こすことは出来なかった。
彼は粛軍派の支持を表明しながらも、実質的には中立の立場を取った。一切の混乱を、対立を、流血を起こさないことによって彼は名声を高めた。かねてより一部界隈で「人民公子」と持て囃されていたカストロプが一躍時代の寵児として帝国政界に飛躍するきっかけとなったのが「白薔薇の乱」である。
……全くの余談だが時間的棄民政策と後世評される『未来移民』が事実上の強制政策となったのはこの時だ。これについて、「カストロプは経済学的アプローチにより不穏分子となり得る集団を特定し、それらが組織化・過激化しないよう、公費負担でのコールドスリープを持ち掛けた。つまり、『未来移民』は
「我々の理念が不逞の輩に汚されている……。帝国全土で賊共が我等と皇帝陛下への忠誠を叫びながら叛乱を起こしている……」
ブルクミュラー大将は内面に抑え込んだ激情を感じさせる苦渋の表情でそう言った。彼がそう感じるのも無理はない。「粛軍」という言葉故だろうか。民衆は自分達を苦しめる叛徒として、領主と並んで軍を口々に罵りながら畑に火を放ち、館を打ち壊し、「貴族」と名乗る盗賊を吊るし上げている。その姿はブルクミュラー大将からすると醜悪としか言いようがないのだろう。「在るべき物を在るべき場所へ戻す」ことについて何ら抵抗のない私であっても、その無秩序な破壊には心を痛めざるを得ない。
混乱の性質は場所によって違うが、ヴェスターラントのように一定の秩序を保ち、「貴族」対「民衆」という分かりやすい構図で争っているならまだマシだ。フォルゲンでは領主不在の中で伯爵家を敵視する「自主独立派」と帝国中央を敵視する「伯領分離派」によるテロリズムの嵐が吹き荒れる、その中で「
「戒厳司令部情報部の分析によると、帝国正規軍の八%から一五%に及ぶ部隊が『粛軍派』を名乗る兵士によって掌握されたようですな。推計ですが粛軍支持派の将兵が何らかの行動を取った部隊は既に全軍の四割を超すようです。これはあくまで帝国軍の実戦部隊に限った数字です。予備役や後備役、非正規戦部隊や各基地の動向は今も調査中です。ただまあ、実戦部隊と同程度には我々への支持を表明する将兵が居るでしょう」
ヘンリクが淡々と報告するが、それを聞いても高官たちの顔に喜色は無い。
「喜ばしい事だとは思えないな!新任将校の頃世話になった上官がノルトラインで殺された。憲兵隊に努める娘婿が平民共に部隊を追われた。命の危険を感じた義叔父と弟が自衛の為に反粛軍派に合流した。奴等は本当に我々の『味方』なのかね?」
「
「ハーゼ中将の最期を見たか!?人があんな死に方をして良いものか!」
「『粛軍派』を名乗る暴徒の一部が貴族資本への略奪を行っている。これは由々しき事態だ。……諸侯から戒厳渉外部に凄まじい量の抗議、批判が殺到している!官公庁も黙っちゃいない!」
「そんなことはどうでも良い!兵卒とはいえ仮にも、
「あの連中はただの叛徒です!
「奴等の粛清は度が過ぎている。大義無きただの殺人では無いか!あれでは魔女狩りのようなものだ!」
グリーセンベック宇宙軍上級大将が、ゾンネンフェルス退役元帥が、アルトドルファー地上軍元帥が、メクリンゲン=ライヘンバッハ地上軍大将が、クナップシュタイン宇宙軍少将が、マイヤーホーフェン宇宙軍中将が、ブルッフ宇宙軍上級大将が、口々に否定的な言葉を発する。
ついに罵詈雑言も含めて一二ダース――誤字ではない――程の嘆きが場に吐き出され、部屋の中を漂う。おおよそ理性的に吐き出せる限りの悪態をつき終わり、いよいよブルクミュラー大将らが本能に任せてより制御されていない、戦場で吐き出されるような悪態をつき始めようかとしたその時、私の隣に座る男がこの場に現れて初めて口を開いた。
「それがどうした。些細な事さ」
男は平静を装った表情で静かにそう言い切った。
「誰が針を進めようと、
私は彼が化粧をしてこの場に居ることを知っている。彼はまだ回復していない。事故の傷は深かった。しかし深いだけの傷ならば問題は無かった。手術後に起こした感染症が彼を生死の狭間に追い込んだ。……果たしてそれが本当に感染症だったのか、
「……求めよ、されば与えられん。というやつだ。意味は分かるかい?欲しいものがあるなら、進め、ということさ」
彼は何度も退院を希望したが、その度にアクシデントが起きて彼は希望を果たせなかった。粛軍派は善意四割警戒心六割で、彼の早く退院したいという希望に力を貸さなかった。ここに座る数時間前、ついに彼は自身に対する『深刻な医療ミス』の存在を手に主治医を半ば恫喝して自身を封じる檻から逃れ出た。
「……何が言いたいか分からんな」
「そうかな?簡単だよ。白薔薇が作った流れにとことん乗ってやれと言っているだけだからね」
「貴様……」
居殺さんばかりに睨みつける強面のブルクミュラー大将に対し、軍服を脱げば学者と言われても納得するような風情の優男は臆せず断言する。
「白薔薇が求める通り……いや、それ以上に徹底して粛軍をやれば良い。反抗する人間は全力で潰す。そうすれば今暴れてる民衆も満足するさ。内乱?大いに結構……思い出せ、彼等にその覚悟は無いが、我々はそれを覚悟して決起したはずだ。……例えこの命尽き果てようとも、国家を正道に戻す。そういう覚悟を我々はしてきたはずだ。先に覚悟を決めた側が勝つ、事はそういう段階に来ているし、そうであるならば本来我々は既に勝っていなければならない。違うかい?」
銀河の歴史はこうして進みだす。……クルト・フォン・シュタイエルマルク宇宙軍大将の帰還を以って。
「呼び立ててすまないなぁ。ライヘンバッハ伯爵。本来ならこちらから出向くべきだと思うのだがな」
「いえ、伯爵閣下に不自由を強いているのは我々ですから」
宇宙暦七八〇年一二月二二日。私は激務の合間を縫ってヒンデンブルク特別収容所を訪れた。
「不自由、不自由ときたか?儂にはそうは思えんし、卿も本音を言えばそうであろう?」
私がヒンデンブルク特別収容所を訪れた目的……それは目の前にいる人好きのする笑みを浮かべる老人に会う事である。老人の名前はガイエス・オトフリート・フォン・カベルツェ=ヴァルトハイム。地上軍大将にして伯爵家当主。第一軍集団司令官を務める地上軍の英雄である。元々はヴァルトハイム伯爵家の分家の三男だったが、ライヒハートでその命を散らしたルーゲンドルフ公爵に幼い日から仕え、その厚い信任と比類なき武勲、そして将兵からの高い声望によって、第一軍集団の要職を一六年に渡って務めている。
「……不自由でしょう。閣下は今この収容所の一室に拘禁されている訳ですから」
「収容所、収容所か?ふん、卿は犬小屋を
「しかし、閣下に相応しい場所ではない筈です」
「かもしれん。かもしれんが、卿の部下達が儂を引きづり出した『第一軍集団司令部』なんて豪勢な建物も儂に相応しい場所ではなかったわ。そうさな……スヴァログ星系第三惑星モーコシはルイン川西岸地域に置かれた野戦司令部。振り返ればあそこが一番儂に相応しい場所であったわ」
そう言うとヴァルトハイム大将はかかかと笑う。ヴァルトハイム大将の輝かしい軍歴の中でも、『ルイン川の奇跡』は特筆に値する。
四二年前『銀河帝国サジタリウス辺境軍管区属領サジタリウス』と『ファイアザード独立国』という二つの名前を使い分ける当地の政府で政変が発生したのを機に、銀河帝国は大規模な侵攻部隊を送り込んだ。そうして発生したのが、かの天才ブルース・アッシュビーの前に帝国軍が惨敗・完敗・大敗を喫したファイアザード星域会戦である。その際、帝国地上軍征討総軍第五軍集団の内二個軍はファイアザード独立国領内にあって自由惑星同盟宇宙軍の軍事拠点と大規模な資源採掘拠点があったスヴァログ星系に展開した。二六歳のヴァルトハイム地上軍少将は師団長として部隊と共に第三惑星モーコシへと降下した。
そして、ファイアザードの大敗を受けてその後七年間に渡って孤立無援のまま抗戦を続けることとなる。元より、外征部隊たる征討総軍はそれを想定した部隊である。軍集団付属の支援部隊はその土地に資源さえあれば自力でそれを採集し、加工することが出来る。地球時代で例えると小国の全軍と同等かそれ以上の能力と戦力を有するのが征討総軍軍集団と呼ばれる存在である。が、それはあくまでカタログスペックの話であり、現実には宇宙軍の支援も無ければ星系外部からの補給も無い状況で、部隊が組織的抵抗を続けるのは極めて困難だ。
第五軍集団はその困難をやり遂げた。モーコシに同盟軍が築いていた生産設備に助けられたとはいえ、その帝国軍史でも稀な成功は、最激戦区カルガノ地峡の側面を流れるルイン川を僅か一個師団と二個連隊で四年間守り続けた「ルイン川の軍神」ヴァルトハイム地上軍中将(戦時昇進)の存在無くして有り得なかっただろう。宇宙暦七四五年、ヴァルトハイム地上軍中将は英雄として帝国本土へ凱旋した。しかし彼への称賛はその武功と比べれば控えめなものだった。……なぜなら、彼をオリオン腕へと運んだのが第二次ティアマト会戦の敗残軍だったからである。
「……」
私はそんなヴァルトハイム大将を油断なく見据える。この御仁は地上軍の中でも最も無能という言葉と程遠い所にあり……そしてこの一六年は無為という言葉と程近い所にあった人物だ。それはどちらもルーゲンドルフ公爵の為に行動した結果だろう。……この人物はルーゲンドルフ公爵の親友だったのだ。親友を死地に、それもライヒハートなんて場所に送った男の事を快く思う理由はないだろう。
「閣下。そろそろ本題に入りましょう」
「……ん、そうだな。卿は忙しいだろうからな。では手短に済ませようか。儂は、ルーゲンドルフの親友であるが皇帝陛下の臣下も帝国軍人も辞めたつもりはない。よって儂は同じ
私はヴァルトハイム大将を見て沈黙する。私が聞きたいのはその先の話であった。しかしヴァルトハイム大将が口を開く様子はない。仕方なく私は口を開く。
「……それはかなり興味深い申し出です。しかし閣下。現実的な成算はあるのですか?」
「あるとも。それが儂の役割故にな。……ルーゲンドルフ公爵閣下が第一軍集団司令官なんてポジションで儂を飼殺していた理由は『それ』よ。地上軍の安全装置、それが儂の役割よ」
「……なんですって?」
「あのファビアンが、地上軍人の増長に気付かなかったとでも?コントロールする者が居なくなった時、貴族意識を肥大化させた者達がどう動くか。それくらいは分かる男だ」
ヴァルトハイム大将はニヤっと笑って続けた。
「卿等はファビアンの事をただの無能な石頭と思っておるだろう?だがファビアンはファビアンなりに時代の趨勢という奴を掴んで色々と備えておった。終わりなき栄華など存在しない。ルーゲンドルフもまた例外ではない。ファビアンは自分が凶刃に斃れることも想定しておった。……流石にライヒハートは、ちと誤算だったろうが」
「……」
「儂はまあ、地上軍の象徴という奴だ。土がつかんように随分と長い事仕舞い込まれていたがな。……卿の下に居る暴れん坊共ですらも、儂の事を嫌ってはおらん。そういう立場に儂は祀り上げられた。一つの軍を維持すること、それは儂が命に代えても成し遂げなければならん使命であるし、儂にはそれをする力がある」
ヴァルトハイム大将は達観したような表情で語る。その口調はいかにも出来て当然、当たり前の事を言っているようなさらりとしたものだ。……他の誰が言っても妄言だろうが、この御仁の言葉には説得力がある。単純な話だ。この御仁が半世紀近い軍歴の中で一体何百万……あるいは何千万の同胞の命を救ってきたのか、という事だ。この御仁はつまるところ、地上軍における私の父であり、シュタイエルマルク退役元帥なのだ。
「この老骨に万事任せてくれんか。ライヘンバッハ伯爵。儂の言葉であれば、きっと多くの地上軍将兵が耳を傾けてくれるだろう。頼む。皇帝陛下の臣下が殺し合う事態を引き起こしてはならんのだ」
「これは『停滞』だ。アルベルト。君も諸卿もアリもしない希望に縋っている」
「……」
銀河帝国軍上級大将へと昇進したクルト・フォン・シュタイエルマルクは辛辣な言葉を私に吐きかけた。私たちは軍務省の一室……通称シュテファンス・ツィンマーに足を運んでいた。演説を好んだ四代軍務尚書シュテファン・アロイス・フォン・ツィーテン宇宙軍元帥が多額の費用を投じて整備した演説室である。
「内戦は元より覚悟していたはずだよ……怖気づいたのかい」
「避けられる『流血』は避ける。それだけの話だ」
クルトは壁に背を預け、上級大将に不釣り合いな無骨な軍用水筒を傾けながら私を批判する。私も自然、素っ気ない口調でクルトに応えた。眼前の光景、演台のセットアップに尽力する数人の将校を何気なく見渡しながら、である。
「悪い癖が出たねアルベルト。君は君自身に嘘を付けない人間だ。だから、君が嫌な事はどうしても出来ないんだろう。……好きにすると良いさ。昔と同じだ。少し出遅れたが君が立ち止まっている間は僕が進んでおく。君もそう望んでいるようだしね」
「……」
「僕が好きに動き出したのは知っているだろうに……それが君から見れば火薬庫の側で火遊びするようなことだろう……だが君は止めないのさ。自分が立ち止まっている自覚があるのに、他人の足を止めるのは君の格率に照らして『正しくない』んだろう」
「……何だって?確率?」
「君はカール・ベルトルトより余程道徳的だ、と言っているんだよ。……少なくない後世の歴史家は君を嫌うだろう」
クルトはやりきれなさそうに、馬鹿にするように、あるいは吐き捨てるようにそう言った。私が反論しようとしたその時、控室側の扉が静かに開いた。端正だがやや神経質そうな顔立ちの青年を筆頭に数人の屈強な地上軍人に囲まれ、ヴァルトハイム地上軍大将が入室する。
「ミュラー准将、ミュラー中佐、悪いな。貴官らには迷惑をかけた」
「謝罪すべきは小官と愚弟です。閣下。恩を仇で返すような真似をしてしまい……」
「良い良い。若人というのはな、大人しいよりは騒々しい方が良いものだ」
かかかと笑いながら歩く老人に、謝罪した青年軍人は恐縮しきりの様子だ。その斜め後方に立つ青年軍人は憮然とした表情である。頬が赤く腫れている。
「ライヘンバッハ伯爵。紹介しよう。アルフレッド・ミュラー地上軍准将。地上軍総監部経理部第三課長を務めている」
「総監部ですか……」
地上軍総監部と言えば帝国軍でも貴族軍人の牙城だ。ティアマト以降、平民軍人にも出世の道は開けたというが、地上軍の場合は現場レベルの話に留まっている。中央軍機関の課長クラスに平民軍人……それも恐らくは門閥や軍閥との関わりも無い人間が昇進するのは並大抵の事ではない。
「伯爵閣下のお力添えがあっての事です」
「儂は優秀な人材を相応しい場所に配置するよう助言しただけだ……。そして彼がフェルディナント・ミュラー宇宙軍中佐。准将の弟でな、監獄を抜けるのに協力してくれた」
「……戒厳司令部の意向に従ったまでの事です。『白薔薇』はあくまで戒厳司令部の指揮下にある、考えるまでも無い事です」
フェルディナント・ミュラー宇宙軍中佐は仏頂面で応える。ヴァルトハイム地上軍大将ともう一人の輸送は白薔薇党に対して秘密裏に行われた。白薔薇党の指導者達が存在するライヒハートではなく、ヒンデンブルクに彼等が拘禁されていたのは幸運だった。
「良く言う。自分の仕出かしたことの重大性に漸く気づいただけだろう」
「長兄殿。勘違いされては困る。小官は自分の行いが誤っているとは微塵も考えてない」
「お前……まだそんな世迷言事を!」
「また殴りますか。一発は長兄殿の迷惑料として受けましたが次も同じとは考えないで欲しいものだ」
ミュラー准将が「どうしてお前は……!」と言いながら拳を握りしめ、ミュラー中佐が憮然とした面持ちで兄の事を睨みつける。その時、ヴァルトハイム大将の隣に立っていた大男がミュラー准将の肩を抑えながら口を開いた。
「……儂とヴァルトハイム伯は貴官の兄弟喧嘩にいつまで付き合えば良い?」
「げ、元帥閣下……失礼いたしました」
「ふん……叛徒共の暴虐極まりない振る舞いがその身に流れる下賤の血故という事がよく分かったわ。平民とて、血というモノの束縛からは逃れることが出来んのだな」
不機嫌そうに大男……宇宙艦隊司令長官オスカー・フォン・バッセンハイム宇宙軍元帥は吐き捨てる。その言葉を聞きミュラー中佐が色めき立つが、ミュラー准将が無理矢理頭を下げさせた。
「……似合わない物言いですね」
「そうか?常々儂は平民というモノのどうしようもない知性の欠如に辟易していた。卿の前でもそれを隠した覚えはないが」
「『敬意』だろ」
私とバッセンハイム元帥の会話に横から口を挟んだのはクルトだ。
「今の元帥閣下には罵倒に『敬意』が無い。……ああ、後余裕もない。優雅じゃないね」
「……父親は貴様ほど敵意を振りまいていなかったぞ。シュタイエルマルク大将。貴官こそ余程余裕がないようだ。それとも足りんのは思慮か?」
「いいや、適度な運動と知的活動さ。あとはカフェインか?……藪医者に軟禁されててね」
苦々し気なバッセンハイム元帥に対しクルトは飄々としたものである。……クルトの言葉を聞いて分かった。バッセンハイム元帥は確かに勇気ある者への敬意を忘れない人物だ。そして平民であろうと優秀な軍人に対しては相応の評価をし、敬意を持つ人物だ。……どうやら私が引き起こした事態は身分卑しき勇ある者に対するバッセンハイム元帥の敬意を失わせるに十分だったらしい。
「閣下に不自由を強いたことは……」
「やかましい。謝罪など求めとらんわ。思いつめた物よなライヘンバッハ伯。……儂はな、愚物堅物俗物揃いの老人共に比べれば、これでも卿の思考を理解し、気持ちに共感できる方だと思っていた。だがこれは……」
バッセンハイム元帥は顔にありありと失望の色を浮かべている。「理解も共感も出来てなかった、という事じゃあないかい?」とクルトが口を挟む。バッセンハイム元帥はそちらには一瞥もくれない。
「他に手は無かった、儂にはそう思えんぞ伯よ」
「だが帯剣貴族が道を誤ろうとしていたのは事実。そして卿にもその自覚はあった。だからこうして儂と共にここに来たんだろ」
絞り出すようなバッセンハイム元帥の非難を即座に淡々とした口調で遮ったのはヴァルトハイム大将である。
「……一族郎党の為だ。ライヒハートに送られては一溜りもない」
「オスカー、儂も卿も『止められなかった』人間であり、その一事に責任はある。ライヘンバッハ伯は形はどうあれ愚行を止めた。……聞いているぞ。『
「……」
バッセンハイム元帥は苦渋の表情だ。無念・悲憤・後悔……その内面に渦巻く感情の嵐がひしひしと伝わってくる。ヴァルトハイム大将は一瞬同情の色を見せたが、それをすぐに飲み込み険しい表情で続ける。
「帝軍相撃つ危機を目前に恨み言を吐くのが、『双璧を継ぐ者』と謳われた名将オスカー・フォン・バッセンハイムの生き方か!」
「……分かった!分かってる!ヴァルトハイム伯。……感情の整理を付ける為に言っただけの事だ。協力しない訳じゃない。ライヘンバッハ伯。卿の尻拭いをしてやる。赤色胸甲騎兵艦隊司令官の上位司令官が帝国宇宙艦隊司令長官だからな!……だがこれが最後だ」
「分かっております。……深く感謝申し上げます」
私は深々と頭を下げる。その耳にクルトの皮肉気な声が届いた。
「……もう遅い。帝軍は既に相撃っている」
「キフォイザーもカールシュタットも所詮小競り合いだ。本格的な衝突は止められる」
私は頭を上げると顔は合わせずクルトに言い返した。だが言葉に力があったとは……到底思えない。実の所、私もクルトの見解に賛同する部分はある。今更引き返すことが出来る、そんな都合が良い展開があるのか。そんな疑問はあった。だが眼前の二人の老将の絶大な名声を以ってすればあるいは、そう思える程度にオスカー・フォン・バッセンハイムとガイエス・オトフリート・フォン・カベルツェ=ヴァルトハイムは偉大な英雄であったのだ。彼等が「出来る」と言った事に、私の如き若輩が「無理だ」とは言えなかった。少なくともこの時までは。
「時間だな。……シュタイエルマルク上級大将。卿は儂達を軽蔑し、憎んている。それは良い。だが自らが否定すべきと思い定める相手が皆愚劣である可能性というのは、そう高くは無いのだ。それは本来、人間に個性を認める卿こそが辿り着くべき答えであるが……卿はまだ若い。故に世界の深みを未だ捉えられていないのだろう。……生き急ぐでない。卿はこれからの帝軍に必要な人間である」
「……一つだけ。ヴァルトハイム大将閣下。私は貴方も貴方の御友人も誰も憎んでいない。貴方を快く思わない全ての人間が貴方より劣っていると、そう自然と考える傲慢さと、貴方を敵視する何者かを悉く感情の徒と見做すその狭量さ。しかしそれは貴方が栄光に満ちた軍歴の中で得た勲章ともいえる。私にとってそれは忌々しくもあるが敬意を払うべきものでもあった。……過去を誇りながら貴方はこれからの帝軍を見守っていれば良かったのです。それは老害と呼ばれるものなのでしょう。……しかし、貴方という英雄にはそうなる権利すらあった。必要悪としての役割もあったかもしれない。あるいはもしかしたら、貴方ならば上手く老兵として消えていくことが出来たかもしれない」
クルトはどこか哀れむような表情でヴァルトハイム大将に語り掛ける。無礼にも程がある言葉の弾丸に対し、しかしヴァルトハイム大将は残念そうな表情をするだけだ。むしろバッセンハイム大将の方が気色ばんだ。しかしヴァルトハイム大将がセッティングされた壇上へと歩み始めたため、バッセンハイム大将も何も言わずその後に続く。その背中を見ながらクルトは小さく呟いた。
「今この瞬間、貴方方は帝軍に必要とされない人間へと堕ちることになった。僕はそれを本当に残念に思う」
「クルト!言葉が過ぎ……」
私はクルトを強く窘めようと向き直ったが、その表情を見て言葉を失った。……彼の表情から苛立ちの色も嘲りの色も消えていた。眉尻は下がり、「泣き出しそう」とも形容できるような沈痛な表情を浮かべていた。……これもまたバッセンハイム・ヴァルトハイム両大将への挑発ないし嘲りであると考える人は多いだろう。だが二〇数年来の友人である私には彼がふざけている訳ではないことが分かった。そもそも彼は皮肉を好むが悪趣味でも無礼でもない。振り返れば、今日のクルトはバッセンハイム・ヴァルトハイム両将に対し、あまりにも「らしくなかった」。
「アルベルト。覚えておくんだ。象徴を象徴足らしめるのは神秘性だ。僕は最早祈る事しか出来ない。オスカー・フォン・バッセンハイムとガイエス・オトフリート・フォン・カベルツェ=ヴァルトハイムに対して、彼等の名誉ある軍歴に相応しい評価を下す歴史学者が生まれることを。その歴史学者が、能力と名声で他に比類なきことを」
宇宙暦七八〇年一二月二五日に行われたオスカー・フォン・バッセンハイムとガイエス・オトフリート・フォン・カベルツェ=ヴァルトハイムによる和解の呼びかけは多くの歴史学者が酷評するような「致命的な思い上がりと現実感覚の欠如の産物による世紀の迷演説」ではなかった。彼等はベストを尽くし、そこに勝算は確かにあった。彼等の尊大とも取れる兵士への「投降」の呼びかけは、彼等が将の中の将、勇者の中の勇者、バッセンハイムとヴァルトハイムである事実により許された。彼等が身勝手に人々へ押し付けた「
グッゲンハイム地上軍大将とヴェネト地上軍中将がそれぞれ「妥協」を示唆するコメントを発信した。粛軍派を標榜する少なくないレーテで臨時会合が持たれた。いくつかの粛軍派部隊につく戒厳部隊司令官は演説に合わせて発された戒厳司令部の停戦命令――実際それが必要とされるような戦闘状態にある部隊は未だ極少数であったが――を遵守する意向を表明した。官界五大公爵家当主で帝国産業報国会会長のフライエンフェルス公爵、皇枝一八家門筆頭ルクセンブルク公爵、統帥本部最高幕僚会議名誉議員アルレンシュタイン宇宙軍退役元帥、国防臣民会教導部長パウムガルトナー予備役上級大将、帝国領主会議議長シュレージエン公爵、ゲルマン教理庁長官アンドレアス司教枢機卿が相次いで「和解」への賛意を表明した。
宇宙暦七八〇年一二月二五日
『バッセンハイムとヴァルトハイムを吊るせ!』
民衆は激怒した。彼等には難しい事は分からないが、バッセンハイム・ヴァルトハイム両将が正しい事をしている自分達の事を非難していることは分かった。民衆は彼等の演説を酷く理不尽なものだと受け取った。民衆は多くを望まない。せめて日々を生きていけるだけの食糧が欲しい。せめて飲んでも病気になる恐れが無い水を飲みたい。せめて子供たちの人生が貴族の理不尽で汚されないようにしてほしい。せめて無実の罪で突然官憲に襲われることはないようにしてほしい。せめて突然機械が爆発するような環境ではなく、少なくとも命の危険が無い環境で働かせて欲しい。せめて給与は額面通りに払って欲しいし税金は法律で決まっている分だけ持っていって欲しい……。
元来、帝国民衆の多くは権利意識が希薄である。そんな帝国民衆が、それでも自分達に要求と復讐の正当な権利があると確信して決起した意味を、両将は……いや、私も含め粛軍派は誰も理解していなかった。民衆にとって、オスカー・フォン・バッセンハイムも、ガイエス・オトフリート・フォン・カベルツェ=ヴァルトハイムも、政府が垂れ流す公式発表によく出てくる老人以上の存在ではなかった。そして民衆は長い歴史からそこに名前が出てくる老人が自分達にとっては本当にどうでも良い存在であることを学んでいた。帝国正規軍において一兵卒に至るまで悉くが敬愛と畏怖の対象とする両雄は、民衆の大半にとっては道端の石のような存在であった。
一方的かつ高圧的に、なんら民衆の苦境に寄り添わず、何なら民衆など眼中になく帝国軍の和解を呼びかけたことで、道端の石は、憎悪の対象となった。両将は間違いなく一つの時代を代表する偉大な将帥であり、そう評されるに足る戦功と栄誉はこれでもかと大衆に喧伝されていたが、民衆には二人の老人が権力を使って適当な美辞麗句で自らを飾り立てているだけにしか見えなかった。……他の欺瞞に満ちた空虚な栄光で自らを包む老人達がそうしているように。
『これが帯剣貴族の認識である。……彼等は民衆を顧みない。彼等は忠誠を尽くす自分に陶酔し、戦功を挙げることにしか興味を持っていないのだ。彼等は皇帝陛下や国の為に剣を振るっているのではない。ただ、己の欲望の為に剣を振るっているのだ』
後に白薔薇党六人衆――白薔薇党の指導層たる六人の将官、ゾンネンフェルス宇宙軍中将を除き全員が平民の地上軍将官――と呼ばれる中の一人アルトゥール・クライスヴァルト地上軍中将は民衆の激昂を見届けた後でそう演説した。このクライスヴァルト地上軍中将は、戒厳司令部と白薔薇党の間に立ち、バッセンハイム・ヴァルトハイム両将の一時解放に尽力した人物だ。白薔薇党の中では穏健派……というかそもそも白薔薇党よりも戒厳司令部寄りの立場を取っていた人物の筈だった。しかし、この演説を皮切りにクライスヴァルト地上軍中将は白薔薇党の指導者の一人である事を隠さないようになっていく。
……つまり一杯食わされた、という事だ。白薔薇党はバッセンハイム・ヴァルトハイム両将の演説が民衆にどう受け取られるか、正確に洞察した上で、敢えて和解演説をさせたのだ。
各地の
「反粛軍派は態度を軟化させつつあります。彼等に中央機関と実戦部隊における一定の勢力を認め、ある程度の権益を返還すれば妥協は可能でしょう。幕僚総監か後備兵総監あたりにファルケンホルン元帥閣下を押し込んで、その元帥府に反粛軍派……というよりか旧ルーゲンドルフ派諸将を集める方向で如何でしょうか」
「師団長以下、実際に部隊指揮に携わる中級指揮官の人事を刷新する事について、旧ルーゲンドルフ派は『未来志向の建設的人事』であれば受け容れたいという意向を示しています。……平たく言えば、ある程度手足を縛られることは覚悟するが、手足を切り捨てて生き延びるような体裁の悪い形にはしないで欲しい、という事でしょう」
「……また、グライフェンベルク憲兵副総監から重大な情報を入手しました。こちらをご覧ください」
居並ぶ諸将を前に、アイゼナッハ宇宙軍大将とゼーフェヒルト地上軍中将が代わる代わる口を開く。両将はキルヒェンジッテンバッハにおいて、反粛軍派のグライフェンベルク地上軍中将、ゲッフェル宇宙軍中将との間で秘密裏に折衝を行っている。その場にはカベルツェ=ヴァルトハイム大将が同席しており、事実上はカベルツェ=ヴァルトハイム大将と粛軍派の交渉と言っても良いかもしれない。
「憲兵総監部の捜査によると、ライヒハートにおける悲劇は、戦線系反政府組織が主体的関与を行った可能性が濃厚であると事」
「ほう……」
殊更真面目くさった表情でアイゼナッハ大将が放った言葉に、諸将は一斉に驚きの声を挙げる。……一つの儀式である。
「首謀者は帝国臣民最大の敵、アルカディアの叛乱勢力首魁エマニュエル・ゴールドスタイン、その背後にはブランデンブルク侯爵閣下とサジタリウス叛乱軍の存在が疑われます」
「……あー、何だ。証拠はあるか?」
白けきった表情でブルクミュラー大将が問うと、メインスクリーンに何らかの書類らしきものが映し出される。
「憲兵総監部外事局の資料です。外事局が陰謀を察知してすぐ、グライフェンベルク副総監にも報告が上がったそうですが、オッペンハイマー元憲兵総監が緘口令を敷き、特事局に捜査チームを設置。グライフェンベルク副総監は完全に蚊帳の外に置かれていたそうです」
「一義的責任はオッペンハイマー元憲兵総監にあるとはいえ、グライフェンベルク地上軍中将も責任を痛感し、この混迷の事態を収拾し次第、一線を退くとのこと」
「一刻も早く帝国軍内部に浸透した叛乱勢力及びその危険思想に同調した者達を排除し、軍内秩序を回復する必要があります。その限りにおいて、諸将は戒厳司令官の統制に完全に服す意思を示しています」
二人が報告を終えると会議室に沈黙が訪れた。これは提案だ。反粛軍派が粛軍派に提案したストーリーだ。それを呑むか呑まないか、諸将は必死に頭の中で検討している。
「……常套手段ではある。とりあえず全て
投げやりな口調でクルトがそう呟くと、数名が咎める視線を送る。自由惑星同盟はサジタリウス叛乱軍というのが正式な呼称であり、銀河共和戦線は本拠地の名前を取ってアルカディアの叛乱勢力と呼ぶのが正式な呼称である。
「シュタイエルマルク上級大将、発言は慎みたまえ……」
「お言葉ですがゾンネンフェルス元帥閣下。我々は一応終戦を是とする者達の集まりです。それを休戦と呼ぶか停戦と呼ぶか、そんな見解の違いはあるかもしれませんが、何にせよ一旦は戦争を止めて内憂にあたろうと考えている勢力です。我々は国と認めぬ相手と終戦なり休戦なり停戦なりの条約を結ぼうとしている訳ですか?」
「そういう話は今しなくても良いだろう……」
ゾンネンフェルス元帥は疲れたように肩を竦める。クルトも溜息をついて矛先を納めた。
「……ま、止むを得んでしょうな、この線で行きますか」
「しかしな……これだけの事を全部サジタリウスとアルカディアの仕業にするのはな……それはそれで帝軍の権威が」
「オッペンハイマーに泥を被せますか、反政府勢力の陰謀が成功したのではなく、奴が仕事に失敗した、と」
「そうしたところで、だな。そんな無能者に帝国軍は一体何年間憲兵総監を任せていたんだ?……皇帝陛下の威信にも関わる」
「そういう発想があの寄生虫を生かしてきたわけだ。そろそろ汚泥と一緒に消すのも良いだろう」
粛軍派の高官たちは皆苦虫を嚙み潰したような表情でストーリーについて話し合い始める。やがてそれは反粛軍派にどれだけのポストを残すか、反粛軍派の中級指揮官たちをどの地域に飛ばすか、白薔薇党をどう処刑するか、そんな話へと変わっていく。私はその様子を見守っていたが、余りに現実が見えていないその討議についに口を挟んだ。
「諸卿等は民衆の反応を見ていないのか?民衆は反粛軍派の事を完全に『皇帝の敵』と考えている、そんな連中と生半可な妥協をすれば我々への信用も完全に失墜する。違うか?」
「学のない民衆などどうにでもなるでしょう。皇帝の敵は滅びた、帝国万歳、そう伝えれば問題ありません」
「それで通用しなかったからこの騒ぎなんだ!『民衆は無知ではあるが、真実を見抜く力を持っている』。ああ、故人マキャヴェリは良く言ったものだ。……私も見誤っていた。まさかバッセンハイム大将閣下とカベルツェ=ヴァルトハイム大将の演説が、民衆を激発させるとは……。彼等がそこまで追い詰められている事を、私は気付いていなかった」
屈辱と恥ずかしさで一杯になりながら私は話す。自分がここまで間抜けな言葉を話すことになるとは、全く予想できなかった。……いや、予想できなかったこともまた、私の傲慢さなのだろうか。私は人々の想いをくみ取れる人間であると、そんな風に自分を評価していたのだろうか。全く情けない話だ。
「いいか?このオーディンですら民衆の暴動が起きているんだぞ、三部会の議員崩れか文理科大の学士か知らないが、活動家が地方都市で民衆を煽り立てている。ビーレフェルト、ダレス、ヴェステンカールシュタット、グナイセナウ、ハンブルガーハーフェン、ノイヴィート、これらの都市が白薔薇に扇動された民衆の勢力下におかれていることについて、諸卿等に危機感は無いのか?」
「閣下、それらの都市は丁度、粛軍派と反粛軍派の勢力圏の境界に位置しています。故に、今現在我々は反粛軍派を刺激しない為にそれらの都市から手を退いています。反粛軍派も恐らく同様でしょう。一たび反粛軍派と和解できれば、我々の部隊と反粛軍派の部隊にそれらの都市は挟撃、包囲され容易く屈服するでしょう」
「屈服しなければどうする?私は虐殺者にはなるつもりはないぞ。殺すのが一人だろうが一万人だろうが『私が』殺人者であることは変わりない。だが私が殺すのが一人か、一万人かで『九九九九人が』死者となるかどうかが変わる。故に私は殺人を常に恐れている。諸卿等の中には私を弱腰と罵りたい者も居るかもしれないが、私は私の決断で死ぬ人間に可能な限り責任を持ちたいのだ」
シュレーゲル=ライヘンバッハ近衛軍兼地上軍中将(昇進)が軍事的な見地から民衆暴動の脅威を低く見積もって見せるが、それに対する私の反応は苛烈だった。シュレーゲル=ライヘンバッハ中将は私の想定外の激発に一瞬口ごもった。それを横目にブルクミュラー大将が口を開く。
「閣下。小官とて、軍人の矜持はあります。弱き者に好き好んで銃を向けるつもりはありません。しかし、それが襲い掛かってくる相手であれば、好みなど横に置いて銃を向ける他無いのです。人間という生き物は意外と脆い。弱き者とて、拳程の石があれば人間を殺せる。運が弱き者に味方すれば、屈強な軍人とて万が一があるかもしれない。小官はそう考えております。閣下、地方都市を占領する者共を『民衆』と考えるのはお止めください。そこに居るのは敵なのです」
「……ブルクミュラー大将、貴官は思い違いをしている。貴官が言うような事はそれこそ私がこの身で知る事である。私は知った上で、貴官の考えを否定しているのだ」
「は……?」
「リューベックで私を撃ったのは、一三歳の少女だった。四日前まで箱入り娘で、父親が帝国軍に処刑された三日前から復讐者になった。私はリューベック政府にそう聞かされた」
「……何と」
「貴官らは戦場を良く知っているかもしれないが、リューベックの事はさして知るまい。ローザンヌの事も、トラーバッハの事も。故に、諸卿には謙虚に今から私のいう事を胸に刻んで、この未曽有の危機に真剣に対処して欲しい。私がこの帝国で起きてきた騒乱から学んだことだ」
私は会議室を見渡す。私の言葉に納得の行っていない人間も明らかに見受けられる。それでも私はこの場の誰よりも辺境政策に長らく携わってきた人間だ。予備役復帰後は実戦部隊に身を置き本省での辺境関連業務と縁が遠のいたが、その代わり第二次エルザス=ロートリンゲン戦役を通じてその目で辺境の実情を見てきた。その経歴に価値を見出せない人間はハッキリ言って無能だ。そして、この場にそこまでの無能は居ない筈だ。
私は真剣な表情で語り掛ける。
「国家にとって民衆とは統治すべき対象である。その原則を見誤ってはならない。……社会と秩序の防衛の為、集団を弾圧すべき時が国家にはあるのかもしれないが、それは守られる圧倒的多数の民衆を背後に背負って行うから統治行為になるのだ。一たび、国家がその背後に民衆を庇う事を忘れては……建前であっても国家が民衆を守るという姿を放棄すれば、それは最早国の体を為していない。『民衆は無知であるが、真実を見抜く目を持っている』。銃口を向けられた民衆は自分達が見捨てられたことに気付くだろう。帝国国民としてのアイデンティティを失うだろう。その時に今までと違うのは、我々の後ろに帝国国民としてのアイデンティティを持った民衆が存在しない点だ。この動乱に脅威を感じる民衆は皆無に近い。希望を抱く民衆は世に溢れ返っている。臣民に銃口を向ける我々の背中に希望を持つ人間は、およそ民衆と言う言葉がつかえない程に絶対的な少数派なのだ」
私はそう言って会議室を見渡すが、私の言っている事がイマイチ理解できていないような顔色ばかりが並んでいる。例外はメクリンゲン=ライヘンバッハ地上軍大将を含め極僅かだ。その僅かな例外の一人であるクルトが溜息をつき、話を始めた。
「……要するにアルベルトはこう言いたい訳だ。今軍がたった一人でも民衆に銃を向ければ、我々は統治すべき国民を失う。すなわち我々は国家ではなくなり、この争いは単なる集団と集団の最終戦争……あるいは階級闘争へと変貌すると。そして我々はその争いで圧倒的な少数派であり、敗亡は必至であると」
私はその言葉に大いに頷き、そして身を乗り出す。
「反粛軍派との内戦を避ける、それは確かに重要なことだ。だが、私たちは私たち自身の拠るべき場所を見失ってはいけない。諸卿等には厳に安易な強硬論を慎んでほしい。……これは繊細な話なんだ。反粛軍派と如何に妥協するかと同程度に、いやそれ以上に私たちは民衆と如何に妥協するかを考える必要があるんだ」
諸卿は分かったような分かって無いような表情だが、ひとまず一様に頷く。その様子に不安を感じながらも、私はひとまず口を閉じる。
「……僕から一つ付け足そう。諸卿は民衆を愚かだと考えている。僕はそれを否定はできない。当然だ、上流階級とどれほど教育レベルに差があるのかを考えればね。……でもそれは、我々が民衆を容易くコントロールできることを意味しない」
クルトは険しい表情で続ける。話しながら、私にもその厳しい目線を向けてきた。
「諸卿等が、反粛軍派との和解をどう民衆に説明するつもりかは分からない。ライヒハートの処刑をどう説明するつもりかも分からない。皇帝陛下に逆らったはずの逆賊と肩を並べる正当性をどう説明するつもりかも分からない。ただ分かる事が一つある。無知蒙昧なる民衆は、高尚にして賢明なる我等貴族が知恵を絞って絞って絞り切って、やっとの事で出した非の打ちどころのない見事な
私はクルトの問いに言葉少なく答える。「何が不可能であるかを言うのは難しい事だ」と。その言葉に力が籠っていたかどうかは私には分からない。ただ、六年前に読んだグリーセンベック上級大将の手記には私が「憔悴した様子であった」と書かれていたし、オーソン大佐(当時)は「苛立たし気に見えた」と証言を残している。彼等がそういうのであれば……そうなのであろう。
「センセーショナルな見出しばかりだな」
一二月二七日朝刊号の
『二提督陸軍皇帝に謁見せり』
『許すなカノッサの再演!臣民の怒り帝都に吹き荒れる!』
『ヴィルヘルム街(官庁街)を占拠せよ!』
『「国家の中に国家は要らぬ」荘厳クロプシュトック公、軍国主義者に鉄槌を』
「クラウン氏も良くやる。国営といくつかの諸侯資本以外はどこも追従して民衆を煽ってるよ。……暫くテレスクリーンは暫く見たくないね」
クルトはそう言ってコーヒーカップを口に運ぶ。淡々としたものだ。
「……」
「大分参ってるね。……だから余計な事はせずさっさと鉈を振るっとけばよかったんだ」
「よせよ……結果論だろ」
「どうかな?」
私が黙り込んでいるのを落ち込んでいると解釈したのか、クルトがそう声をかける。ハルトマンが私を庇うがクルトは皮肉気に肩を竦め、ソファーにその身を沈めた。
「ユリウス、機関の方はどうだ?」
「ヴェスターラントの思惑通りだ。地方の奴等は完全にあの貴族主義者のクソ野郎にのせられてる。ヴェスターラントの成功が連中を独立の夢に酔わせた。……組織の分裂を避けるために同志たちは白薔薇を支持するとさ。地方閥を取り込んだのは失敗だった。連中は視野が狭い、思慮が浅い、そして欲が深い。呉越同舟とは言うが、あんな小カストロプみたいな連中を内部に取り込めばこうなるのは目に見えていた」
「……それも結果論だ」
「クソ!スウィトナー中将が拘束されて無ければ……!」
ジークマイスター機関はリューデリッツの攻勢を受けてその勢力を一時期大きく減じていた。そこから回復する過程で、ジークマイスター機関は変質せざるを得なかった。統一国家志向のジークマイスター機関とは本来相容れない地方出身者の取り込みに注力した。政争の敗者や犯罪者も協力者として招き入れた。さらには、これまで完全に接触を断っていた体制外反政府組織との連携を模索した。戦線・革民同・コミューンを代表とする急進的な共和主義勢力だ。
……ジークマイスター機関のメンバーからすると、彼等の行動は無秩序で残虐で過激に過ぎた。ジークマイスター機関の構成員からすれば、幼年学校を爆弾で吹き飛ばすことで何かが変わるとは思えなかったし、救貧物資を満載した輸送船を奪取したことから正義の一かけらも感じることは出来なかったし、幹部殺害の報復で人口密集地に劣化ウラン弾をばら撒いたことに対しては正気を疑った。
「そんな
「クルトは私達の『粛軍計画』がジークマイスター機関から漏れたと思ってるのか?」
エマニュエル・コールドスタイン銀河連邦亡命政府副首相兼内務兼国防大臣兼銀河共和戦線最高司令官。
ジン・ジャナハム革命的民主主義者武装同盟統一執行部書記長。
ファン・ヒューリック流星旗軍第一三独立外郭部隊司令官。
いずれも名高い反帝国主義者である。コールドスタインは
ジン・ジャナハムは革民同の前身組織である共和主義・分権主義的小組織の統合体である『軍事同盟』の頃から組織の指導層が使用しているコードネームの一つである。その為、ジン・ジャナハムは複数人存在しているが、一応、『真のジン・ジャナハム』は統一執行部書記長であるとされている。……連邦末期には辛うじて機動戦士が生き残っていたらしい。だとするならば今のオリオン腕でそれが忘れられている事もまた帝国の重大な罪ではなかろうか。サジタリウスに一部の作品が持ち出されていたことは不幸中の幸いと言える。
ファン・ヒューリックは流星旗軍の古参幹部で最強の軍事指導者とされている。流星旗軍の一派を率いて辺境宙域、特にズィーリオス特別区方面で活動している。アウタースペースに『解放区』を設けると共に、ズィーリオス各地の惑星を『解放』して回っており、宇宙海賊という叛逆の次に重い罪に問われ、性犯罪者の次に嫌われる立場に有りながら、その人気は高い。自由惑星同盟では彼を主人公とする「オリオン腕のロレンス」なる映画が製作されるほどだ。当然、銀河帝国は全力を挙げてその封殺に動いているが、どうも
「共和派諸組織が動いたと仮定すれば、機関内部の寄生虫から情報が流出したと考えるしかない……フェザーンでの忠告は覚えているかい?」
「亡命したシェーンコップ准将が会いに来た件か。……なるほど、地球教への調査を優先しすぎたな、先に足元を固めるべきだった。あの人はきちんと『同志を疑え』と言ってくれていたのに」
「我々が今回の逆クーデターを成功させることが出来たのは、返還された捕虜の協力があったからだ。……そして、我々の行動を利用した者達がこの想定以上の混乱を巻き起こすことに成功したのも、恐らく返還された捕虜の協力があったからだ。……まあゾンネンフェルス中将を見れば言うまでも無い事だけどね」
部屋が沈黙に包まれる。クルトがカップをテーブルの上に置く音が嫌にハッキリ聞こえる。私は額を嫌な汗が流れたことを自覚しながら前のめりになって口を開いた。
オトフリート・フォン・ゾンネンフェルス宇宙軍中将は私の艦隊の副司令官を務めている。この人事は私が一敗地に塗れて軍内で蔑視される彼の後ろ盾となったことを広く示す目的があった。……その裏には自由惑星同盟に「仕込まれた」可能性がある彼に対する監視という目的があった。その目的は果たせず、今彼は平民の過激派下級将校たちと行動を共にしている。
「連中の望みはなんだ?」
「流石に分からないさ。ただまあ、少なくともこの事態が全て望み通りかは怪しいね。きっと、この混乱は僕たちも含めて多くのプレイヤーが動いた結果だろうから」
「……」
「アルベルト。決意は固まったかい?……主導権を取り戻す必要がある。ところが、僕達は今、僕達自身の主導権すら握れていない。粛軍派は多くを取り込み過ぎた。だから……ゾンネンフェルス退役元帥やアルトドルファー地上軍元帥、老人達を排除するんだ」
クルトは目に危険な色を帯びさせて、私に尋ねた。ハルトマンも私を見つめている。
「敵だらけのこの状況で、曲がりなりにも味方となっている者達に銃を向けるのは……自殺行為としか思えない」
「死んだって良いじゃないかアルベルト。死を恐れてこのまま反粛軍派と妥協するのか?納得しない民衆を力づくで押さえ込むのか?君は保身で民衆に死を齎すのか?不作為もまた故意には違いないんだ。君は可能な限り殺人者になりたくないんじゃないのか?」
「無責任にはなれないということだクルト!私は結果に責任を持ちたいんだ。私は失敗を恐れない。私が失敗しても歴史は必ず正道へと戻される。だからと言って『失敗したって構わない』そんな心持ちになれるものか!ヴァルハラで死んだ者達に、『最善は尽くしたから評価してくれ』と言えるものか!リスクを負うべき場面はあるが、今は本当にそうすべきなのか?老人達を排除してこの粛軍派すら二つに割るリスクを負うべきなのか?」
「リスクが怖いなら何で粛軍計画に乗った!?」
「それが絶対的に正しいからだ!ルーゲンドルフ老たちは軍の為に、権力の為に内戦を起こそうとした。ならば我々が国家の為に内戦を覚悟して起つことは最早非常手段だ!君は違う考えなのか!?」
私とクルトは思わず立ち上がって睨みあう。クルトはこれまでに見たことが無い程険しい表情をしている。私もきっとそうだろう。クルトは自分を落ち着かせるようにゆっくりとした口調で応えた。
「これだって正しいさ。反粛軍派に迎合すれば僕たちは帝国史に残る民衆弾圧を行うことになる。それは国の滅亡を意味する。滅亡しない可能性は……実の所ゼロとは言えない。だがそんなことを許容するなら、僕たちは何のために国を裏切ってきたんだ?億単位の民衆の血を代償にこの腐った体制の寿命を一〇〇年ばかり伸ばす為か?……いや、そもそもこの弾圧行為は僕達が国を裏切らなければ必要とされなかった。今より多少は国家の命数が残っていただろうからね。ならばここで日和ったら僕たちは完全な道化じゃないか。民衆に流血を強いただけの、とびっきり迷惑な道化だ」
「私はいくつも命を奪っている。それは最早変えようのない事実だ。だが個々の民が命を奪われる者になるかどうかは、今からでもいくらでも変えようがある事実だ。……私の決断で、誰が死に、誰が生きるかが変わるんだ。粛軍計画は、きっと歴史から命を奪われる者を減らす。それを私は疑いようもなく確信していた。だから乗った。これはどうだ?反粛軍派と妥協したら民衆弾圧を避けることは無理だろう。だがその規模は私たちの努力で減らせるんじゃないのか?老人を殺した後、私たちが失敗したら反粛軍派と妥協した時以上の惨禍を人々に齎すことになるんじゃないのか?それは正しいのか?それは……」
「アルベルト!」
クルトは堪えられないという様子で頭を振って私の言葉を遮った。そして、意を決したという様子でその言葉を放つ。
「歴史家の批判がそんなに怖いのか?」
「クルト!」
じっと私たちを見守っていたハルトマンが血相を変えて叫ぶ。クルトは少し顔を青褪めさせながら続ける。
「……何だって?今何といった?」
「僕は君が自分の命を惜しむ人間ではないことを知っている。だが同時に、僕は君が無意識的にせよ歴史家の評価を惜しむ人間だとも思っている」
私は言葉を失う。顔が紅潮するのが分かった。私はその瞬間、人生で五本の指に入る程の屈辱を感じた。しかしそれよりも大きく「裏切られた」と感じた。……恐らくクルトも停滞し続ける私にそういう感情を抱いていたのかもしれない。
「ああクルト……それは最上級の罵倒だぞ……私は今君に対して感じたことの無い程の怒りを……ああもう良い。少し一人にしてくれ、私は君を今許せそうにない」
あまりの事に私は頭を抱え身振りでクルトに出ていくように促した。しかしクルトは一歩も引かない。
「それは僕の台詞だ。僕は歴史家の評価を気にする事が悪いとは思ってない。だがそれは一つの指標であるべきだ。今目の前で生きる人々の為に、君は歴史家の罵倒を甘受すべきだ!君にそれが出来ないとは、今この瞬間まで考えたことも無かった!」
「ふざけるな!……歴史家だと?私がそんな軽い次元の話をしているものか!君こそかくあるべきという理想ばかり並べて、いつも失われる命を考えてない!」
「君が言えたことか!」
「そこまでだ!頭を、冷やせ、二人共……」
ハルトマンが立ち上がり私とクルトの肩を抑え、強引に座らせた。「互いを貶め合ってるだけで何の生産性も無い会話をしているぞ、自覚しろ」とハルトマンは私たちを見ながら叱責する。
「……私はな、ハルトマン。要はクルトが無謀な道を歩こうとしていると言いたいんだ。老人老人と言うが自分の片腕や片足に等しい存在を切り捨てて、どうやって敵と戦うんだ?民衆を巻き込んで玉砕する気か?馬鹿げた冒険主義だ」
「僕はアルベルトが臆病になっていると言いたいね……。民衆を共通の敵として圧政者と握手をする、民衆と共に圧制者を打倒する、その二者択一でアルベルトは前者を選ぼうとしている。明らかに血迷った決断だろ、そうは思わないかユリウス?」
「……私は一介の宇宙軍少佐だぞ。どっちが正しいかなんて分かる訳がないだろ。だが……クルトが馬鹿げた冒険主義に陥っているとは思わないな。むしろ我々の原則に忠実なのはクルトだ」
「しかしな……」
「もちろん!」
私はハルトマンの言葉に異議を唱えようとしたが、ハルトマンは掌を私に向けながらそれを遮った。そして続ける。
「勿論……アルベルトが血迷っているとは思えない。クルトは流石に言いすぎだ。アルベルトが言う通り、犠牲ばかり増やして何も得られない可能性は低くない、いや高いかもしれない。……ただ、粛軍派で内部抗争を起こして、それが失敗して泥沼の内戦や粛軍派の壊滅を招いてしまったとしても、ここで我々自身が民衆を殺戮するよりは幾分マシな結果だと思う。道義的な話をするならな」
「人の生き死にを、我々の道義で決める訳にはいかない。我々は我々の道義ではなく民衆の幸福にとって最適の選択をするべきだ」
「……民衆に銃を向けることになる選択が、民衆の幸福にとって最善の選択になるのか」
「最善じゃない、最適だ。私は別に反粛軍派と妥協するからといって民衆弾圧を全面的に支持するつもりはない。だが敢えて言おうか……相対的には!相対的には銃を向けることも最適の選択になり得る。そういう状況だってある。勿論、これは最終的な話だ。反粛軍派と妥協した後、彼等が考えるような大規模で不必要な武力鎮圧は絶対に許すつもりは無い。私の命に変えても」
私がそう言うとハルトマンは険しい表情で黙り込む。一方クルトは頭を振って立ち上がった。
「アルベルト、君がそうまで言うなら僕は引き下がる。君の言う通りにしようじゃないか」
「クルト……。すまない」
「その謝罪は愚弄だ。君は正しいと思ってるんだろう。民衆に銃を向けることが」
「それは言い方が悪すぎる……。私は一人でも多くの命が守られる結果を見て行動したいだけだ。その結果の為ならばそういう手段も許容する覚悟を示しただけだ。……これまでと同じだ!より多くの人々の幸福の為に、友軍を死地に送り込んできたじゃないか」
クルトは何も言わず、部屋の扉へと歩いていく。「クルト!」と私が呼びかけると、振り返り片手を振って言った。
「大丈夫。大丈夫だ。君の迷惑になるような事はしない。……馬鹿げた冒険もしない。心配するな」
「閣下の懸念通り、特警隊の一部で不穏な動きがあります。第一司令部から警護を名目に特警隊員を将官に付けるべきだという案が上がってきました」
「それは不穏な動きか?」
「……閣下が言うように、シュタイエルマルク上級大将が良からぬことを考えているのであれば間違いなく。第一司令部はシュタイエルマルク派の巣窟です。それが突然こんな提案をしてきた訳ですから」
クルト、ハルトマンと話した後、私はすぐにシュトローゼマンを呼びシュタイエルマルク派の動きを精査させた。クルトは私に従うと言った。だが変な話、私にはそれがクルトからの決別にしか聞こえなかった。クルトが私の日和った考え――彼から見れば――を受け容れるはずがないのだ。言葉での抵抗を辞めた、ということは言葉以外の抵抗を始める、ということにしか思えなかった。……結果は翌日すぐに出た。
「よく特警隊から動くと分かりましたね」
「……邪推の可能性もあった。だが……もし私を見限ったとすれば、あいつは初手から詰ませにかかるはずだ。それがあいつの十八番だし、私からクルトへの信頼度が高い間に効果的な手を打ってくるはずだ。そう考えれば、特警隊から動かしてくるのは読める。……その提案、通していたら粛軍派の将官は皆クルトに生殺与奪を握られることになっていたな」
私は公用車の中で隣に座るシュトローゼマンに尋ねた。運転席にはヘンリクの甥が、助手席にはヘンリクが座っている。
「新無憂宮外苑警備責任者のウェーバー大佐はどうなった?シュタイエルマルク退役元帥の直参だろ」
「ブレンターノ宇宙軍中将が警備区画を分割し、西苑警備に押し込む手筈です。正門警備責任者は中央軍集団のルッツ大佐が引き継ぎます」
「西苑警備からも外せないのか」
「シュタイエルマルク上級大将の反発を考えなければ可能ではあるでしょう。……『君を疑っている』というメッセージをシュタイエルマルク上級大将に送っても良いのであれば、やりようはあります。自然な再編に見せるならここが限界です」
「そこまでやるなら……クルトは完全に潰しにかからないといけないな。そうしないとこちらの首が取られる」
「同感です」
皮肉な話になりそうだ、と私は心の中で思う。内部抗争を行っている余裕はない、内部抗争を行った上で反粛軍派を潰せる力は無い、そう考えたから私はクルトの考えに同調せず、民衆に犠牲を強いかねない反粛軍派との妥協を考えた。……その結果、私はクルトを敵に回したかもしれない。
「……」
その考えがよぎり、私は一瞬身を震わせた。彼を敵に回す。辛いだけではない、苦しいだけではない、考えるだけで恐ろしい話だ。
「ラムズフェルドとウォルトンの部隊を皇宮に入れておきます。それで少なくとも皇宮内の数的優位は確保できます」
「ヘンリク……正直に教えて欲しいんだが二人は信頼できるか?」
「俺が保証しますよ。あいつらは閣下の事を好いてますし……何より一門衆が大嫌いです」
「ふむ……アルバートソン地上軍少佐は呼べないか?」
「愛好会の後輩か。確かに彼なら信頼できる」
「所属は中央軍集団第一機動軍第二歩兵師団第八歩兵連隊……。特警隊第三司令部の隷下に入って粛軍派の第二猟兵分艦隊司令部があるバレンハイム宇宙軍基地に派遣されてますな」
「督戦部隊か。それは帝都に戻せないな……分かった」
クルト・フォン・シュタイエルマルクとの敵対は避けなければならない。しかし、彼の言いなりになって粛軍派内部の保守的な重鎮たちを悉く粛清しては大変なことになる。私はまさに袋小路に迷い込みつつあった。
「しかし我々が備えていることは察するでしょう。これでシュタイエルマルク上級大将閣下が考えを改めてくれれば……」
「無理だ」「難しいだろうな」
ヘンリクの言葉をシュトローゼマンと私は否定する。いっそクルトに従うべきか。クルトと対立するよりは、ゾンネンフェルス退役元帥やアルトドルファー地上軍元帥と対立する方がまだ勝ちの目が残っているかもしれない。
「……いっそ殺すか」
シュトローゼマンがついにその言葉を口にする。私はすぐにそれを否定した。
「大雑把に言って粛軍派の半分はクルトの信望者だぞ!民心も私から離れるだろう、有り得ない選択だ!」
「閣下が盟友たるシュタイエルマルク上級大将閣下に害を為すと考える人間は居ません。反粛軍派や地球教とかいう例の宗教過激派の仕業に見せかければ……」
「……そう上手く行くものか」
私は半分感情的にシュトローゼマンの提案を否定する。シュトローゼマンも本気で口にしていた訳ではないのだろう。「馬鹿な事を口にしました、申し訳ありません」と引き下がる。
車内を沈黙が満たす。……私は体感にして凡そ一〇分程の間、深く考え込んだ。そして、私はシュトローゼマンの提案が一定の妥当性を持っている事を認めざるを得なかった。……クルトは必要とあれば、私を排除するかもしれない。いや、排除するだろう。そうと分かっていて、私が親友の情で備えるべきを備えないのは、あまりにも愚かな話である。……まさに苦渋の決断だった。
「……シュトローゼマン准将。一応、検討だけはしておいてくれ」
「!……宜しいのですか?」
「……あらゆる状況を想定しなくてはならない」
「承知しました。……小官のチームで、という事ですね?」
「ああ。ヘンリク、君も……」
「分かっております、口外はいたしません」
私は一つ頷き、そして運転手のロベール・フォン・クリストハルト地上軍准尉――ライヘンバッハ伯爵家陪臣たる世襲
「ロベール、車を皇宮警察本部へ」
「了解しました。東側のフォン・ローゼンベルク門から東苑周りで宜しいですか?」
「ああ、それが一番安全だ。頼む。……今日も長い一日になりそうだ。全く頭が痛い」
帝都の外れにある歓楽街、常日頃は煌びやかな通りも戒厳令下の状況では殆ど灯りも無く闇に包まれていた。……しかしどんな時も酒は人類と共にあるもので、広い通りから外れるといくつかの小さな酒場は、命知らずの若者や飲んだくれのろくでなし、果てはその双方を兼ね備えた粛軍派の不真面目な将校や兵士の為にひっそりと店を開けていたという。
帝都とゲルマニア州を管轄とする宇宙軍特別警察隊第一司令部、地上軍中央軍集団、そして帝都憲兵隊と内務省帝都警察局はこれを黙認していた。特警隊は取り締まる余裕の無さから、中央軍集団は取り締まるノウハウの無さから、帝都憲兵隊と警察局は取り締まるやる気の無さからである。勿論、歓楽街からさらに帝都の外へと抜ける道は特警隊の精鋭が張り付き、不審人物は片っ端から拘束していたが。
しかし粛軍派の中にはそんな状況を快く思わない将校も居た。中央軍集団第一独立混成旅団に所属するエドワルド・パウマン地上軍少尉もその一人であり、彼は責任感と幾ばくかの愚かなのんだくれ共への同情から軍が歓楽街の違法営業に対応しないことを不快に感じていた。
「酒目当てで戒厳令に違反する人間は、軍の怠慢で違反『させられている』ようなものだ」
「そうですかねぇ……?やっぱり最後は外に出る奴が悪いと思いますけど」
「臣民は軍の都合で家に閉じ込められているのだから、軍としてはせめて彼等の安全を確保する努力を尽くす必要がある。それは戒厳令違反者として処罰を受けないという意味での安全も含むし、そうであるならば、酒飲み達を誘惑する酒場は封じていかなければならない」
「うーん……」
ワルター・キム曹長は若い小隊長の意見に対して曖昧に返事をした。違法営業を行っている酒場とて、好き好んで戒厳令に反している訳ではあるまい。そうしなければ生活が成り立たないという理由があるのだろう。とはいえ、パウマンもその程度の事は分かっている筈であり、ならばわざわざ口にする必要はない、と考えたからだ。
「別に俺達が頑張ったところで、って感じしません?どうせゲルマニア州との境界では特警隊の連中が頑張ってる訳ですし、本当に不味い人間はそこで捕まるでしょう。……そろそろ御偉方の都合で振り回されてうんざりってもんです」
一方、パウマン少尉に付き合わされている小隊第七班長たるノルトホフ伍長は帝国軍兵士としてはあるまじき悪態を堂々とついた。基本、下士官は師団や軍を跨ぐような異動は無いものだが、地上軍の顔である中央軍集団の、さらに最精鋭部隊である「
小隊先任曹長たるキム曹長としてはこのような発言を叱りつけるべきではあるだろうが、キム曹長も正直、「御偉方の都合で振り回されてうんざり」していた。彼が副分隊長たる軍曹として三・二四政変を経験した際に、自分も悪態をついたことを覚えていたという事情もあった。
「その点は同意したいが、軍から給料を貰っている以上、それに見合った仕事はしなくてはならない。……見えた、あれが『鶯』か。分隊配置に付け。六班は裏手を抑えたか?……よし」
『鶯』。パウマン少尉の第六小隊が今日立ち入る酒場の名称である。帝国軍は「分隊」及び「分遣隊」という戦術単位を流動的に使用しており、五人程度で分けられている班を組み合わせて臨機応変に編成する。第六小隊は六六名一二班体制であり、その内、六・七・八班一七名が分遣隊を構成し、『鶯』摘発に動いていた。
「ん……?『六班待て』」
パウマンが分遣隊を率いて突入しようとしたその時、『鶯』の入り口から一人の大男が現れた。そして真っすぐにパウマンの方へ歩いてくる。パウマンは六班に留まるよう伝える。
「止まれ!」
兵士が銃口を向けて命じると、大男は足を止め、「俺は装甲擲弾兵のオフレッサーだ。指揮官と話をさせてくれ」と言った。そしてカードらしきものを兵士の方に投げた。
「オフレッサー?……『黒い暴風』のオフレッサー少将か?何故こんな所に……」
「小隊長、どうしますか?どうやら……本物の身分証ですが」
「……警戒は続けろ。オフレッサー少将閣下、指揮官の第一独立混成旅団第一歩兵連隊第六小隊長、パウマン地上軍少尉であります」
オフレッサーを名乗る男はそれを聞きゆっくりとパウマンの方へと近づく。
「独混ってことは巡察隊か。この辺りに巡察は来ないって話だったが」
「我々は当地区の巡察隊ではありません。本来はムゼウムコート・プラッツからウンダーアイゼンハイムにかけての巡察を命じられています」
「ムゼウムコート・プラッツだ?おいおい街区を二つは挟んでねぇか?」
「上位指揮官たる第一混成中隊長初め、当地区の警備部隊や巡察部隊からは、我々が担当する地区での戒厳令違反事案に関連する限りで活動を認められています」
「なるほど。……仕事熱心な事で」
オフレッサーは半笑いで肩を竦める。その様子を不快に思ったのか、パウマンはやや声色を硬くする。
「閣下は何故こちらへ?戒厳令下での夜間及び不要不急の外出は原則として禁止されています。軍人とてそれは変わりません」
「軍務中だ」
「夜の違法営業中の酒場で?率直に申し上げて、信じ難い話です」
「ほーう?少尉殿はこの俺を信じられないのか。嘘なんて吐いたこと無いんだがな」
パウマンは表情を変えずオフレッサーを尋問する。オフレッサーは面白がるような口調だったが、その身体からは無言の威圧感がある。兵士たちも緊張の面持ちだ。この状況でよもや襲い掛かってくることは無いだろうが、仮に襲われたらいくら精強で鳴る独混の兵士でも……地上軍最強を自負する独混の戦士でも……並みの装甲擲弾兵など微塵も恐れない独混の勇者でも……たった一〇名ばかりでは到底勝ち目は無い。
中央軍集団最強と言われるカウフマン中佐が「敵として会えば迷わず逃げる、奴は
「……そう怖い顔すんなよ少尉殿。同じ旗の下で戦う同胞じゃあないか。なあ?」
「だからこそ、英雄たる閣下には全将兵の模範となる行動を取っていただきたいと思います。……同行をお願いすべきところではありますが、『軍務中』ということであればそれは現状求めません。ただ、戒厳司令部に照会の方はさせていただきます」
「……んー。そいつは困るな……」
オフレッサーは笑みを浮かべながらパウマンに近づく。その動きを見て周囲の兵士たちが身構えるが、相手が地上軍少将ということもあって制止の声は挙げられない。
「……骨がありそうだな、お前。丁度良い、一枚噛ませてやるよ」
「何ですって?」
「一人で来な、俺の『軍務』を教えてやる。……その代わり、命は張ってもらうぜ」
オフレッサーはそう言うと『鶯』へと踵を返す。
「小隊長……どうされますか」
「……ここで待て。まさか取って食おうという訳でも無いだろうが……二〇分経過して音沙汰無ければ突入、良いな?」
「了解しました」
パウマンは一度深呼吸し、そして『鶯』へと歩みを進める。そして彼は証人となった。アルバート・フォン・オフレッサーが銀河の歴史をまた一ページ書き進めたことの証人に。
注釈36
『未来移民』とは宇宙暦七七二年頃から約三〇年間に渡ってカストロプ星系で実施された政策である。その後、カストロプ自身の知名度上昇と共に政策への注目も集まり、複数の貧しい星系で同様の政策が取られ、いくつかの星系では宇宙暦八三〇年頃に至るまで新規の『移民活動』が続けられていた。
『未来移民』政策とは絶対的貧困状態(生存に支障がある状態)にある人々を『基礎集団』と『余剰集団』に分け、『余剰集団』に超長期間のコールドスリープを実施する政策である。この際、『余剰集団』の資産を行政府が接収し、これを『基礎集団』に無償で分配。これによってその土地の資源と、その政府の行政能力・財政能力に合った適正人口(一人一人の所得水準が絶対的貧困線を上回る)を維持し、円滑な復興・発展が実現するとされた。
さらに、復興・発展が一定の水準に達するごとに、『余剰集団』を順次解凍。復興・発展を通じて生み出された余剰資源を解凍直後の『余剰集団』に優先して配分。その上で住居や職を斡旋し、『基礎集団』化することで、さらなる復興・発展の原動力とするとされた。
この政策の肝は「四次元的平等」の実現であった。『基礎集団』は『余剰集団』の資産を獲得する一方で、長期間復興・発展の為の労働に従事することになる。『余剰集団』は保有する資産を放棄し、さらに行政府に自らの「時間」を差し出す代わりに、『基礎集団』が生み出した資産から給付を受けることが出来る。
行政府としても数百万人の貧民を救済ないし抑圧するよりは、数百万人のコールドスリープ装置を購入する方が遥かに安上がりであることから、「誰も見捨てない政策」「全ての民衆が幸福の内に生きられる政策」として盛んに喧伝されることとなった。
最終的にカストロプ星系で六二〇〇万人、オリオン腕全域で約一〇億人が『未来移民』政策によって一〇~五〇年後へと「移民」することになった。
……その結末は知っての通りだ。識者によってその数は数百人から一億人まで幅があるが、多くの人々が希望を抱いたまま永遠の眠りにつくことになった。そもそも、コールドスリープは管理者が自由に冬眠期間を制御できるような都合の良い代物ではない。確かに移民事業等で恒常的に使われる技術ではあるが、細心の注意を払いつつ、多大なコストを掛けて運用するからこそ、コールドスリープ技術は信頼性を獲得できるのである。しかしそのような完璧な管理・運用が為されてなお、〇・〇〇二六%の確率(これは航空機死亡事故の約三倍の確率である)で死亡事故が発生するとされる。
そのような繊細な技術を『未来移民』政策を採用するような貧困惑星の行政府が採用した結果、管理者側の技術・知識の不足や資金の不足、設備の故障や運用面での失敗が多発することとなった。また、そもそも地方政府が安価に購入したコールドスリープ装置自体がすこぶる劣悪な代物であり、「稀に死人が生き返る棺桶」としか表現できない例すらあったという。
しかしその実態は悉く隠蔽され、地域によっては問題を政府が把握した後も長く政策が続けられた。さらに、それを告発しようとした関係者やジャーナリストの弾圧、時に暗殺なども行われたという。結局、この問題は宇宙暦八三六年のエルスハイマー=マッケンゼン報告まで半世紀以上放置されることとなった。
同報告は銀河を震撼させ、上院に特別調査委員会が設置されることなった。委員長にはウルリッヒ・ケスラー宇宙軍元帥の「政界に対し暗黙の内に銃口を突きつけるような極めて強力」な推薦でサジタリウス系少数野党党首ダスティ・アッテンボロー下院議員が就任。委員にも『未来移民』政策と無関係であるサジタリウス系やブルーラント系の議員・識者(すなわち、政界では非主流派である)が顔を並べた。これは、エルスハイマー=マッケンゼン報告を強力に後押ししたフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上院議員が、同時に政界主流派が『未来移民』問題を長らく作為的に隠蔽、または暗黙の不作為によって放置していたことを告発したためであった。
同調査委員会は七年間に渡って徹底的な調査を実施、三名の委員が不慮の事故に遭い、一名の委員が暗殺され、アッテンボロー委員長自身も襲撃にあうなど激しい抵抗にあったものの、その全容がほぼ解明。昨年一一月に最終報告書が公表された。この間、六名の議員資格保持者、三五名の議員経験者、六名の首長経験者を含む五〇〇名近い公職者が問題への関与を理由に逮捕されている。最終報告書の公表を以ってアッテンボロー委員会は解散されたが、所管を警察省に移しなおも追及は続いている。一方で、余りに劣悪な条件下にあった為に、解凍処置を保留し、改めて良好な設備下に移された上で現在も二億人近い『余剰集団』が銀河の各地で眠りについている。彼等を安全に目覚めさせる技術の開発が待たれる。
……マクシミリアン・フォン・カストロプは『未来移民』政策の考案者であるが、早い段階で政策からは離れていた。彼がこの事態にどれほどの責任を持つかは、今なお議論の対象となっている。ノーフォーク公爵トマス・バーナード・フィッツアラン=ハワードは、自身がカストロプから私的な場で旧シュレージエン公爵領における『未来移民』政策の実施に口利きを行うように求められたことを証言している。また、コールドスリープ装置の性能や管理体制について質問した所、「私も閣下も彼等が目覚めるか否かを知る術はありません。恐らく寿命が尽きていますから。故にここで議論するのは無意味でしょう」と笑っていたという。
一方、人道危機・平和統合ネットワークのアンリ・サルヴィ事務局長と共和・共栄イニシアティブのテルイチ・マキノ代表はカストロプが少なくともコールドスリープについた者の半数程度が再び目覚めないことを承知していたとした上で、カストロプ星系以外の星系に対し、カストロプが積極的に「棄民」を推奨した事実はなく、この事態に責任を持つ多くの公職者がカストロプ一人にその責任を転嫁しようと試みていることを批判した。
長年の論争に終止符を打つ機会が一度だけ存在した。調査開始から三年後、未来棄民問題を白日の下に晒したヒューマン・ライツ・サーベイヤーズのクラウス・フォン・マッケンゼン統括調査員が衝撃的な証言を行う。『未来移民』政策を通じてカストロプが未必の故意を以って対立者への殺害を企図していたことをいくつかの物証、証言と共に報告書に記載していたものの、ビッテンフェルト上院議員が読み上げた完成版ではその記述が消失していたのだ。これを受けて、アッテンボロー委員長がマッケンゼンを参考人として招致、この場で改めて調査資料を提出しその事実を報告する予定であったが、その三日前にホテルで何者かに射殺された。……そしてカストロプの評価は今なお、定まっていない。ただし政財界にしぶとく生き残っていたカストロプの流れを汲む勢力は、この問題で今度こそ完全に失墜、壊滅した。
一連の事件によってオリオン偏重が指摘されていた政財界のバランスが大きく変動することなり、サジタリウス系やブルーラント系の政治勢力が力を持つことなった。一方政財界の混乱に付け込む形で国防軍将校を中心とする
仮にこれらの勢力がいくつかの加盟国政府の実権を握った時、果たして統合秩序は対応できるのであろうか。集団安全保障、その機能をライヘンバッハ伯爵は人類が必要としている不完全さを備えた制御メカニズムと評した。統合から二〇年が経とうとする今、ライヘンバッハ伯爵が唱えた
注釈37
建国期の二大政党、立憲自由党と国民憲政党は、現在の基準から見れば前者が保守穏健派、後者が保守強硬派と言える政党であった。当初バーラト星系共和国において強い力を持ったのは国民憲政党であった。しかし、自由惑星同盟の成立後は立憲自由党がこれに取って変わった。
サジタリウス六強戦国時代において周辺大国の圧力に晒されていた五つの星系国家(後にセントラル・ファイブと呼ばれる)がバーラト星系共和国、すなわちハイネセン一派の持つ『神話性』に着目し、これを神輿として担ぎ上げた。……セントラル・ファイブには象徴が必要だった。サジタリウス六強戦国時代末期、レべリオ(後のランテマリオ)、サジタリウス大公国(後のエルゴン)、グレートイスパニア(後のジャムシード)、ニュー・カノープス、アムステルダム自由諸邦(後のティアマト)、開拓者共和連合(後のリオ・ヴェルデ)に大勢力が形成され、セントラル・ファイブは六国から見て吹けば飛ぶような小国へと落ちぶれていた。しかし、セントラル・ファイブは長らく血で血を洗う争いを続けており、最早その断絶は互いの歩み寄りでは埋められない程に広まっていた。……故に、セントラル・ファイブは五国間の紛争地帯にひっそりと住み着いた余所者を、象徴とする道を選んだ。今更、他の国の風下に立つ位ならば、バーラトに住み着いた余所者の下につく方がマシだった。都合が良い事に、バーラトの余所者たちはオリオン腕の脅威を盛んに喧伝しながら、六国の勢力圏を突っ切ってここまで辿り着いた。セントラル・ファイブは、ハイネセンの遺志を継ぎ、民主主義の騎士となる事を宣言する。『自由惑星同盟』の誕生である。六国の内比較的健全な共和政を維持していたニュー・カノープスとリオ・ヴェルデ、そしてその従属勢力が相次いで同盟に参加、ティアマトも自由惑星同盟に高等弁務官を送り、国交を樹立した。
困惑したのは国民憲政党である。長征の主流派だった彼等は、長征の中で六国やセントラル・ファイブから冷淡な扱いを受けていた。そもそも、セントラル・ファイブの紛争地帯にひっそりと住み着くことになったのも、各国が受け入れを拒否(あるいは同化を強いてきた)したからだ。サジタリウス腕の人々が急に掌を返して、自分達を称えながら『自由惑星同盟』という枠組みを作ったことが理屈としては理解できても、感情が適合できなかった。対して立憲自由党は上手く『自由惑星同盟』に適合した。
ランテマリオとジャムシードを滅ぼし、エルゴンが降伏するまでの一連の建国戦争の中で、セントラル・ファイブと六強国、すなわち植民星の政治勢力を上手く取り込んだ。セントラル・ファイブや六強国は戦国時代を生き抜く中で多かれ少なかれ民衆を抑圧していた。それを快く思わない政治勢力にとって、ハイネセン神話の登場人物たる立憲自由党の議員たちは非常に都合が良い神輿であった。宇宙暦五八八年民主化運動を経た『黄金の五九〇年代』において、自由惑星同盟の政治・経済統合が進んだ後、立憲自由党は同盟上院・下院の第一党を長らく占めることとなった。尤も、その代償として地域制由来の高い独立性を持つ支部・派閥の乱立に長らく苦しめられることにもなる。
この黄金の五九〇年代に結成されたのが共和独立党、後の自由共和党であり、エルゴン、ランテマリオ、ジャムシード、ティアマトと言った「最初から自由惑星同盟でない」地域の民意を代表する人々が結成した分権派政党だ。立憲自由党には植民系の中でも統合派の政治勢力が参加しており、同盟秩序を不快に思う植民系の人々の受け皿にはなり得なかった。
黄金の五九〇年代を通じて旧戦犯諸国の権利拡大が為され、同盟議会上院・下院の選挙制度が大きく変更されたことで、分権派の政治勢力もまた躍進することとなった。
宇宙暦六七〇年代、コルネリアス帝の大親征の影響により、同盟の人権状況が著しく悪化した。捕虜や亡命者の迫害や、それを批判するリベラル派への弾圧、また広く愛国的でない人々が様々な不利益を被ることになった。これは民衆の復讐意識もさることながら、当時の為政者たちがコルネリアス帝の大親征で明らかになった自分たちの腐敗し、傲慢になり、堕落しきった姿から国民の目を逸らすために憎悪を煽った面がある。そのような時代背景の中、恐怖政治下のフランスパリの如く、陰鬱な空気に包まれたハイネセンの片隅で、新進党は結成された。宇宙暦六八三年、権勢を振るった憲章擁護局長イヴァン・カリニッチが最高評議会議長の大権に基づく命令で逮捕されるまでの間、新進党と社会共和会議は激しく政府を批判し、人権侵害に抵抗し続けた。そして宇宙暦六八〇年の総選挙で憲章擁護局に迎合し続けた立憲自由党の議席はついに過半数を割り、新進党と社会共和会議が躍進した。
以後、星系単位で小選挙区・比例代表並立制が採用される上院では立憲自由党が四、自由共和党が三、新進党が一、国民憲政党と社会共和会議で一、その他の政党で一という割合が、人口単位で大選挙区制が採用される下院では立憲自由党が四~五、国民憲政党と新進党で三~二、自由共和党が一、社会共和会議が一、その他の政党が一という割合が、一世紀弱に渡って維持されていた。左派が社会共和会議、リベラル派が自由共和党・新進党、中道が立憲自由党、右派が国民憲政党である。リベラル派の自由共和党・新進党議員数が上院と下院で逆転しているのは、地域単位の選挙では分権的な自由共和党が強く、人口単位の選挙では集権的な新進党が強い事を示しており、これは同盟有権者の投票行動を端的に示す特徴と言われていた。
宇宙暦七七四年、フレデリック・ジャスパーと「自由と解放の銀河」の躍進によって、この一〇〇年弱に渡って固定されていた議席配分が崩れた。間髪入れず、ジャスパーは下院に人口単位の小選挙区制度を導入。また、それに伴う死票を減らすという口実で上院の比例代表制選出議員を三倍に増やした。これにより、従来に比べ上院の地域代表的な意味合いは薄まり、また下院では従来複数投票制により一人の有権者から複数の候補へ票が流れていたが、一人の有権者が一人の候補にしか投票できなくなったため、政党同士の票の奪い合いがより激しくなり、大規模政党の当選者が激増することになった。