南一局一本場、穏乃の連荘。
靄は、局を重ねる毎に、巡が進む毎に濃くなって行く。しかし、その靄が効かない人間がいる。
「カン!」
その者は、衣の一向聴地獄が効力を失った今、普通に手を進めてくる。そして、
「ツモ。嶺上開花。2100、4100!」
嶺上開花を決めた。しかも、満貫手。
その少女こそ、深い山々にかかる靄や霧のさらに上、森林限界を超えたところに平気で花を咲かせる人物…インターハイチャンピオンの咲だ。
その場所には、穏乃の靄は届かない。晴れ渡っているのだ。
南二局、衣の親。ドラは{6}。
衣は、この親で取り返すべく、スパートをかけることにした。ここで支配力を全て出し切るつもりで対局に臨むのだ。そうしなければ、穏乃の支配を打ち破ることは出来ないだろう。
幸運にも、衣の配牌は、
{二三五七八[⑤]⑦⑧66東南北發}
ドラが三枚あった。
ここから、穏乃の支配を撥ね退け、{⑤}、{⑥}、{六}と鬼ツモが続く。そして、他家には再び一向聴地獄がふりかかる。
中盤、
{二三五六七八[⑤]⑤⑥⑦⑧66}
衣は、この手牌から、
「ポン!」
光が捨てた{⑤}を鳴いた。打{八}。さらに衣は、
「チー!」
穏乃が捨てた{一}を鳴いて{横一二三}を副露して打{七}。これで海底牌を掴むのは衣になった。
そのまま、誰も鳴けずに最後の一巡に突入。そして、衣は海底牌をツモると、
「ツモ。海底撈月ドラ5。6000オール!」
当然のように和了った。しかも、和了り役は海底撈月のみ。
開かれた手牌は、
{五⑥⑦⑧666} ポン{[⑤]横⑤⑤} チー{横一二三} ツモ{[五]}
これで各選手の点数は、
1位:宮永咲 32600
2位:宮永光 26800
3位:高鴨穏乃 20600
4位:天江衣 20000
親ハネツモで、衣が一気に持ち直した。
しかし、これで衣は想定以上に支配力を使い果たした。しばらくは穏乃の支配を跳ね返せそうにない。
続く南二局一本場では、
「ツモ。嶺上開花。1100、2100。」
咲に和了られた。これで、衣の親は流れ、咲は2位との差を広げた。
南三局、咲の親。
現在トップは咲。2位との差は11200点。
しかし、最下位の衣との差は19000点であり、まだ、大きな手を和了れれば、咲以外の三人もトップが取れる位置にいる。
例えば衣も、ハネ満ツモなら咲に親カブリさせて一気に1000点差の2位まで詰め寄ることができる。
もっとも、今の衣は支配力を取り戻すには休憩時間が必要だが…。
穏乃も山支配で咲と光の和了りを抑え、自らがハネ満をツモれれば逆転トップに立てる。
ただ、この局、動いたのは、光だった。
「ポン!」
衣が捨てた{中}を鳴き、
「ツモ! 中ドラ3。2000、3900!」
ドラと赤牌に愛された和了りだ。
各選手の点数は、
1位:宮永光 33600
2位:宮永咲 33000
3位:高鴨穏乃 17500
4位:天江衣 15900
これで、光がトップに立った。
オーラス。光の親。
まだ、誰もが1位になれる可能性を残している。
穏乃のトップ条件は倍満。ただし、光からの直取りか、ツモ和了りが必要となる。
衣もツモなら倍満、ロンなら三倍満の和了りで逆転は可能だ。
ただ、どちらも条件としては厳しい。
光は、安手で流せば1位。咲も、光とは600点差のため、1000点でも和了れれば1位になれる。
当然、咲と光のスピード勝負になる。
とは言え、穏乃も和了りを諦めたわけではない。オーラスならば山支配は最高状態になるし、可能な限り逆転を目指す。最低でも後半戦で逆転できるよう、少しでも多く稼ぎたいところだ。
「ポン!」
咲が、穏乃がツモ切りした{白}を鳴いた。特急券だ。
穏乃としても和了りを目指したい。まだ聴牌気配を誰からも感じていない以上、ここは不要牌である{白}を処理したい。鳴かせたこと自体は、仕方がないであろう。
そして、咲は打{發}。これを、
「ポン!」
光が鳴いた。
ただ、咲は一巡前にチュンチャン牌を捨てている。光は、嫌な予感がした。
「(もし、咲が{發}を前の巡に捨ててたら、私が{發}を鳴くから{白}は天江さんに行く。そこでもツモ切りするだろうけど、そうなると、次の咲のツモ牌は、そこから四枚目。でも、今回は私が{發}を鳴いたから、咲のツモ牌は三枚目になる。もし、咲がこれを全部分かってやっていることだったら?)」
普通、こんなことまで考えられない。そもそも、山で裏返しになっている牌が何なのかは分からないはずなのだから。
しかし、次巡、
「カン!」
光の予感どおりなのかもしれない。咲が{白}を加槓した。そして、
「ツモ。嶺上開花白ドラ1。1300、2600。」
咲が和了って決勝前半戦を終了した。
各選手の点数は、以下の通りになった。
1位:宮永咲 38200:+28
2位:宮永光 31000:+1
3位:高鴨穏乃 16200:-14
4位:天江衣 14600:-15
ここから、十分間の休憩のあと、後半戦が開始される。
衣と咲は、旧長野組で交流が深い。
光と咲は従姉妹。
穏乃と咲はチームメイト。
穏乃と衣はインターハイ前の練習試合から交流を持つ。
しかし、今は敵同士。衣は馴れ合いをせずに、一人、自販機に向かうと紙パックのオレンジジュースを購入した。
「夏の県大会決勝の休憩時間でも、衣は、これを飲んだな。あの時は、この辺に藤田がいて、『そろそろ麻雀を打てよ』って言われたんだ。その意味が、衣には最初は分からなかったが、それを教えてくれたのが咲だった。あの時は咲に負けたが、後半戦は衣が勝つ。勿論、穏乃にも、咲の従姉妹にも…。」
衣の目に活力が戻った。
咲は、光と一緒にトイレに向かった。
光も方向音痴だが、少なくとも建物の中でトイレに迷う咲ほどは重症ではない。それで、咲を連れてトイレに行った。
穏乃は、一人で卓に付いたまま目を閉じていた。
団体戦の時は、憧が様子を見に来てくれたが、今日は一人だ。しかし、別に一人が怖いわけではない。山に入る時は、いつも一人だ。一人は慣れている。
しばらくして、咲、光、衣の三人が対局室に戻ってきた。三人とも落ち着いているのが、穏乃には良く分かった。
「(私の優勝条件は、最低でも後半戦で宮永さんをマイナスにした上で1位を取ること。難しいけど、諦めない!)」
追い詰められる程、穏乃は燃える。今も頭の中にあるのは後半戦での巻き返しのことだけだ。
衣も、穏乃と同様のことを考えていた。
一方の光は、
「(咲は、ここで私をマイナスにした上で自分はプラマイゼロをやる可能性がある。あの支配をやられたら、結構キツイかな…。)」
穏乃と衣とは別のことを考えていた。
たしかに、2位で一応プラスなので、穏乃や衣とは違う立場になる。ならば、目指す点数も違ってきて当然であろう。
しかし、光がそう考えていたのは、やはり咲と従姉妹であるがゆえに、咲の支配力が最も高まる条件を良く知っているからであった。
光は、咲のプラスマイナスゼロを今まで一度も破ったことがない。光だけではない。照もだ。あれは、単なる支配力ではない。強制力とも言える強力な力だ。
しかも、家族麻雀では、咲は自身の得点だけではなく他家の点数まで操作していた。数局打つと全体が平らになり、金をかけていても誰も得も損もしない結果にしてしまう。
言い換えれば、プラスマイナスゼロのスイッチが入った咲は、どの半荘で誰を1位にするか、しかも何点取らせるか、そこまでコントロールしてしまうのだ。
それをやられたら、光は後半戦で3位以下に落とされるだろう。咲が確実に優勝するためには、前半戦でプラスだった光を、後半戦もプラスにしてはならないからだ。
ならば、光の取る対抗策は一つしかない。敢えて咲のプラスマイナスは達成させてやるが、光の順位はコントロールさせない。それだけの支配力を自分自身も示すしかない。
場決めがされた。
前半戦と同じで、起家が穏乃、南家が衣、西家が咲、北家が光に決まった。
咲は点数調整に有利であろう…得意とする西家を、光も得意の北家を、まるで必然的に引き当てた感じだ。
東一局、穏乃の親。
穏乃の山支配は、後半戦になり東場に戻るとリセットされる。
衣は、穏乃の支配が弱いうちに、一気にケリをつけるつもりで初っ端から勝負に出た。
幸い南家。誰も鳴かなければ海底牌は自分に来る。ならば、持ち前の支配力で他家を一向聴地獄にして、しかも誰も鳴けない状態にすればよい。それが出来るはずだ。
この局は、衣の思うとおりに進んでいった。そして、
「リーチ!」
衣がラスト一巡前でリーチをかけた。今回は、前半戦と違って咲が槓で衣の海底ツモを邪魔してこない。
そうなると、当然、海底牌は衣の手に渡る。
「ツモ! 3000、6000!」
見事にリーチ一発ツモ海底撈月が決まった。ここにドラが二枚付いてハネ満になった。衣にとって幸先の良いスタートである。
東二局、衣の親。
ここでも前局同様の支配力を、衣は落さずに維持していた。
誰も鳴かなければ、海底牌は咲に行くが、終盤になって咲が捨てた{東}を、
「ポン!」
衣が鳴いた。これで、この後、誰も鳴かなければ海底牌は衣の手にわたることになる。ただ、この局面で咲はツモ切りではなく手出しで{東}を切っていた。
光が観察していた限り、この{東}は序盤から持っていたものである。それを、何故今捨てるのか?
普通に考えたら、その真意は、いま一つ分からないだろう。
しかし、光は、
「(やっぱり、こうきたか…。)」
咲のやろうとしていることに気付いていた。
理由はともあれ、これで衣は海底牌に向けてコースインした。ホクホク顔の衣。そのまま誰も鳴くことができず、
「ツモ。ダブ東海底撈月ドラ3。6000オール!」
衣は親ハネをツモ和了りした。
まさに、
『これが長野最強の魔物、天江衣だ!』
と言わんばかりのスタートダッシュ。これで、衣は55000点まで点数を伸ばした。
東二局一本場、衣の連荘。ドラは{三}。
ここでも衣は強烈な支配力を見せ付け、他家への一向聴地獄が続いた…はずだった。しかし、これを打ち破るものがいた。
「カン!」
咲だ。
この時の咲の手牌は、
{一二三三[五][5]8888西西西} ツモ{西}
そのまま{西}を暗槓し、
{一二三三[五][5]8888} 暗槓{裏西西裏} 嶺上牌{四}
これで聴牌。そして、
「もいっこ、カン!」
{8}を暗槓した。
当然のように、次の嶺上牌で、
「ツモ。嶺上開花ドラ4。3100、6100!」
咲が和了った。新ドラは一枚も乗らなかったが、元々のドラと赤牌に恵まれたハネ満。
これで、咲は原点復帰した。
そして迎えた東三局、咲の親番。
この局、光は絶好調だった。配牌とツモが巧く噛み合い、さくさく手が進む。そして、一向聴地獄を経ずに、すんなり門前で聴牌した。
「(この感じ…、やっぱり咲が能力に干渉して支配してる…。)」
前半戦では、咲が衣の海底撈月を潰すことで衣の精神を揺さぶった。それで、衣の支配がグラ付いた感じを受けた。
しかし、後半戦では衣が東一局で海底撈月を決めている。衣の精神はブレていない。当然、衣の支配は続いているはずだ。
それなのに、光には衣の支配が届いていなかった。咲が前局で派手な和了を見せることで衣の支配の矛先を意図的に自分に集中させ、光の盾となったのだ。
「(いつもそうだよね。そうやって、誰が何処で何点を和了るか、全てをプロデュースしてる。まさに点棒の支配者だよ、咲は…。まあ、ここは咲のシナリオに乗るよ。点数が貰えるからね。)」
そして、次巡、
「ツモタンヤオドラ2。2000、3900!」
光が和了った。
衣は、悔しさから、つい歯ぎしりをした。
「(北欧の巨人(衣より光のほうが背が大きいので、衣は敢えて小さな巨人とは言わない)に和了られた。やはり、咲に意識が集中してしまったか。)」
前局での咲の和了りは、衣の支配が届かない王牌を使っての和了り。しかも、咲に槓材が流れてくる能力も衣には抑えきれない。なので、咲の和了りは衣も仕方がないと思える。
しかし、今回の光の和了りは、衣の場の支配が不十分ゆえの結果だ。前半戦と同じで、前局に和了った咲に意識が向いてしまったためだろう。これは衣の失態だ。
衣の頭の中に、前半戦での記憶が甦った。
東場では全然和了れず、和了れたのは南二局の一回だけ。
また、前半戦のようになってしまうのだろうか?
そんな衣の不安を他所に、光はサイを回した。
東四局、光の親番だ。
うっすらと靄がかかってきた。穏乃の能力が発動し始めたのだ。衣と穏乃の能力が同時に干渉してくるようになる。
しかし、ここでも、光の手がスイスイ進む。やはり、咲は、ここでも自分を和了らせてくれる気だ。
ならば、遠慮なく和了らせてもらう。
「ツモ! 中一盃口ドラ2。4000オール!」
これで、光の点数は32800点になった。
1位の衣とは10100点差。逆転可能な範囲だ。
しかし、東四局一本場では、急に光の手が進まなくなった。中盤でようやく一向聴まで辿り着いたが、そこからは一向聴地獄が続く。
終盤に差し掛かった時だ。
「チー!」
衣が穏乃の捨てた牌を鳴いた。
光の親番なので、誰も鳴かなければ海底牌は穏乃に行く。しかし、これで衣が海底牌に向けてコースインした。
前局で衣の心を埋め尽くしていた不安が、まるで嘘のようだ。衣は、ここに来て支配力が上がった感触があった。咲が衣の支配力に、負ではなく正の干渉…つまり増強作用を引き起こし、衣の絶対的支配の場に変えたのだ。
光は、
「(ここで、咲は天江さんに和了らせる気? 何を考えているの?)」
そして、そのままラスト一巡に突入し、
「ツモ。タンヤオ海底撈月ドラ3。2100、4100!」
絶対的自信に溢れた顔で衣がツモ和了りした。
各選手の点数は、以下の通りになった。
1位:天江衣 51400
2位:宮永光 30700
3位:宮永咲 16300
4位:高鴨穏乃 1800
穏乃がマズイ状態になった。
しかし、これで精神的に潰れるような穏乃ではない。むしろ、追い込まれてからが穏乃の真骨頂である。
南入した。
南一局の親は穏乃。
追い込まれたことで、逆に穏乃の支配力が上がった。一気に卓上にかかる靄が深くなった。もはや、濃霧と言ってもよい。
衣の手も、光の手も、全然進まなくなった。完全に穏乃の支配が全てを上回っている感じだ。
これも、咲が穏乃の能力に正の干渉をしているからなのだろうか?
局は終盤にもつれ込み、さらなる深い霧のかかる世界へと突入していった。さすがに、ここまで深い霧だと、長野育ちの衣も光も視界が閉ざされる。
「ツモ。タンピンドラ2。4000オール。」
とうとう、深山幽谷の化身が和了りを決めた。これで、穏乃が3位に浮上し、咲がラスに転落した。
南一局一本場、穏乃の連荘。
ここでも濃霧の世界が続く。
衣も光も、まるで一人深い山の中を歩いている感覚だった。肌寒く、シンと静まり返った寂しい感じ…。
しかも、背後の山と山の間から、巨大な何かが自分を見つめている。
突然、穏乃の背後に明王や天武に似た雰囲気…火焔が、衣と光の目に映った。全てを焼き尽くす業火の象徴であろう。
「ツモ。タンピンツモドラ1。2700オール。」
穏乃がツモ和了りを決めた。一歩ずつ、衣と光の背後に迫ってくる感じだ。
各選手の点数は、以下の通りになった。
1位:天江衣 44500
2位:宮永光 24000
3位:高鴨穏乃 21900
4位:宮永咲 9600
とうとう咲の持ち点が10000点を割った。
しかも、咲は東二局一本場で一度和了ったきりで、その後は全然和了れていない。いや、和了ろうとする気配を感じさせていない。
しかし、ここから咲は何かを仕掛けてくるだろう。衣も光も、それを予感していた。
おまけ
インターハイは、長野県代表清澄高校の優勝、奈良県代表阿知賀女子学院の準優勝で幕を閉じた。
夏休み最終日。
弥永美沙紀に扮した咲との対局で、憧、玄、灼は大敗した。
その後、晴絵は阿知賀女子学院にインターハイ優勝者宮永咲が転校してきたことを校内でもしばらく隠すことを提案した。
憧「ハルエ。どうして、咲の正体を隠さなきゃいけないの?」
晴絵「咲には申し訳ないんだけど、うちはインターハイ準優勝校だし、ただでさえマークされてるからね。」
咲「別に私は、余り目立ちたくないので構いませんが…。」
憧「でも、偽名を使うわけには行かないでしょ?」
晴絵「なので、しばらくカツラとメガネをかけてもらうことにする。それで、インターハイチャンピオンとは同姓同名ってことで。」
憧「でも、それだけで誤魔化せるとは思えないけど…。じゃあさ、私達の中でも、しばらくはミサキって呼ぶことにしない?」
咲「えっ?」
憧「ニックネームだってば。宮永の『ミ』に『サキ』で、短縮形で『ミサキ』ってことにしてさ。クラスの子とかには大会まで情報を流したくないってことを分かってもらうように努力するけど、私達に関係ない人は晩成とかにバラしちゃうかも知れないじゃない? だから、知らない人には、ミサキって名前と勘違いしてもらえばイイかなって思って。」
晴絵「たしかに、それもありかもね。」
穏乃「じゃあ、しばらくはミサキってことで決定だね!」
同じ頃。
いきなりだが、初瀬は転校を考えていた。
「阿知賀は、たしか五人しかメンバーがいなかったはず。一人は三年だから、今、一人欠けてるはずよね。となると、秋季大会は『素人娘を無理矢理入れる』しかない!」
なんだか、表現がイヤラシイのだが、本人には、別にそのつもりはない。
「その辺の子より、私のほうが麻雀強いし、私だったら阿知賀のブレーキにはならないはずよね…。なら、困った憧のところに私が転校する。そして、麻雀部に入部して憧達を救えば、憧は私を大事に見てくれるよね、きっと。」
イヤイヤ…、偏差値70以上ある高校から玄とか穏乃レベルの頭の娘が通う学校に転校してきてくれても、憧としては重たいだけでしょうが…。
しかし、そんなところまで初瀬は考えが回っていなかった。
そもそも憧が、『余裕で受かる!』と言っていた晩成高校を蹴って阿知賀女子学院に入学したのだって一般には重い。ある意味、憧は、穏乃のために自分の人生の選択肢を狭めてしまったのだから…。
もう、穏乃は憧の人生に責任を取らなければならないレベルではないだろうか?
ただ、それを素直に『嬉しい!』と言える穏乃も、それはそれで普通じゃない気がするのだが…。
9月二週目のこと。
初瀬が部活に顔を出すと、友人達が他校のことで何か話をしていた。
友人A:「なんか、転校生が入部したらしいね。」
友人B:「へー、自然消滅なしってことか。じゃあ、秋季こそリベンジだね。」
初瀬:「ねえ、なんかあったの?」
友人A:「阿知賀に行ってる友達から聞いたんだけど、阿知賀に転校生が来たんだって。で、その子、麻雀部に入ったって。」
初瀬:「へー(先を越されたか…)。」←咲だけに
初瀬:「で、なんて子?」
友人A:「友達の話じゃ、『ミサキ』って呼ばれてるみたい。」
初瀬:「ミサキさんねぇ。でも、阿知賀はインターハイ準優勝校だよ。普通の子じゃ阿知賀のブレーキになっちゃうし、よく入る気になれたね、そのミサキってヒト。」
友人A:「それがさぁ、阿知賀の誰も、そのミサキってヒトに麻雀で勝てなかったらしいよ。転校してきていきなり、阿知賀の先鋒と中堅と副将の三人と戦って、大勝利だって。」
初瀬:「でも、麻雀は運の要素もあるから、マグレじゃない?」
友人A:「そう思うけどね。」
そんな会話を交わしつつも、初瀬は、
初瀬:「(作戦変更。そのミサキって子のせいで阿知賀が敗退した後に私が転校したほうがインパクトが高いかもね。)」
そんなことを考えていた。
一先ず、若気の至りの転校は延期することにした。
そして、時は10月。
初瀬は奈良県大会の会場に来ていた。
晩成高校と阿知賀女子学院は、決勝戦まで当たらない。しかし、目前の敵ではないが、晩成高校としては、自分達の地位を脅かす阿知賀女子学院を、当然、初戦からマークしている。
阿知賀女子学院は、一回戦は先鋒の憧と次鋒の玄の二人で片付けた。明らかに夏の奈良県大会の時よりも二人とも強くなっている。毎日、咲に絞られているのだから当然と言えば当然なのだが、そんなことは初瀬には知らされていないことだ。
二回戦。阿知賀女子学院は、圧倒的リードを持って副将戦を迎えた。副将で登場したのは穏乃。観戦室で、その姿を見た初瀬の表情が曇った。
初瀬:「(あのサル。憧を奪った憎たらしい奴。負けろ負けろ!)」
初瀬は、そう心の中で強く念じた。しかし、負の状態が強ければ強いほど、穏乃は燃えて、より強い力を発揮する。
穏乃は、インターハイ二回戦の時の『ダマハネ放縦』のような失態を見せず、副将戦で他校をトバして無事決勝進出を果たした。
もしかすると、初瀬の強い負の想いが穏乃の力を引き出したのかもしれない。
初瀬:「(ミサキってヒトは、結局出てこなかったか。どんな無様な負けっぷりを見せてくれるか楽しみだったのに…。)」
初瀬は、そう思いながらメモをカバンにしまった。
部活仲間と観戦室を出ると、丁度そこに和気あいあいと話をしながら歩いてくる集団に遭遇した。阿知賀女子学院のメンバーと監督だ。
晴絵:「今日はホテルに泊まるよ。」
憧:「阿知賀からの連続日帰りじゃきついもんね。」
初瀬:「(監督の赤土晴絵に憧、ボーリングのヒトに、ドラのヒト…、あと、憧を私から奪ったクソザルに…、それから…。)」
初瀬は、友人に『敵情視察』と言い訳して、一旦、物陰に隠れた。
その中に、初瀬が見た事のない娘が一人いた。赤メガネをかけたストレートロングヘアの娘だ。どこかで見た雰囲気だが、強そうな感じはしない。
初瀬「(このヒトがミサキって子?)」
その娘が何もないところで突然つまづいた。
初瀬:「(もしかして、ドジっ子?)」
美沙紀(咲):「いったーい。」
憧:「なにやってんのよ、美沙紀。」
美沙紀:「憧ちゃん、待ってよぅ。」
憧:「ほら、駅のほうに急ぐよ!」
初瀬:「(やっぱり、このヒトがミサキね。やっぱり大したことなさそうな子だね。)」
穏乃:「駅って言えばさ、今朝きた時に詐欺に注意って放送が流れてたジャン?」
憧:「振り込め詐欺のヤツね。」
穏乃:「そうそう。それを聞いて思ったんだけど、パンプキン詐欺ってナニ?」
憧:「はぁ?」
美沙紀:「やっぱりハロウィンシーズンだからじゃない?」
穏乃:「そっかぁ。この時期の振り込め詐欺のことを言うのか。」
憧:「それって、還付金詐欺の聞き間違いじゃないの?」
穏乃・美沙紀:「「還付金詐欺? ナニソレ?」」
初瀬:「(頭のネジも狂ってるみたいね。この程度の子なら余裕余裕。)」
これなら、ミサキが大ブレーキになり、早かれ遅かれ、憧は自分を必要としてくれるだろう。初瀬は、そんな風に思っていた。
翌日。
ついにミサキが対局室に姿を現した。その姿が、初瀬のいる晩成高校控え室のテレビモニターに映し出された。
初瀬は、秋季大会のメンバーに選ばれており、県大会では中堅として出場していた。近畿大会では先鋒を任される予定である。
初瀬:「(やっと出てきたわね。まあ、近畿大会には決勝進出した4校が出られるから、ここは負けても構わないってことかな?)」
ミサキの正体を知らない初瀬は、ことを楽観的に捉えていた。まだ、その程度の認識だったのだ。
しかし、ミサキがメガネとカツラを順に外してサイドテーブルの上に置いたのを見て全身が硬直した。
初瀬:「嘘? あれって、もしかして…。」
そう。そこに姿を現した者。それは、インターハイチャンピオン宮永咲だった。
当然のことだが、観戦室がざわめいた。何故、ここにインターハイチャンピオンがいるのだろうか?
しかも、それがインターハイ準優勝校に紛れ込んでいるのか?
アナウンサー:「阿知賀女子学院先鋒は宮永咲選手です。父親の転勤で、この9月に清澄高校から阿知賀女子学院に転校してきたとのことです。」
初瀬:「えぇ? なにそれ?」
初瀬が声を出した直後、晩成高校控え室が静まり返った。
夏の西東京大会で、先鋒で他校を箱割れさせて終了させた前チャンピオン宮永照の妹にして、その照をインターハイで破った宮永咲。
あの近畿の英雄、園城寺怜や荒川憩ですら足元にも及ばなかった照のさらに上を行く者。
その後、咲の一人舞台で決勝戦は終わった。まさかの東一局での全員トバしの偉業。しかも、自らの点数を444400点に調整。恐ろしい記録だ。
初瀬:「(い…今、転校しないで良かった。)」
しかし、初瀬は、来年の夏の大会後、玄と灼の二人が抜けて阿知賀女子学院麻雀部が再び人員不足になるのを願っていた。
初瀬:「来年転校すれば…。」
まだ初瀬は知らなかった。今度の春に阿知賀女子学院は麻雀部への入部を目指す新入生で溢れ返ることになることを…。
しかも、合格最低偏差値も一気に晩成高校を抜く。そんな超常現象が起こるのだった。