泣きつかれて眠る。そんな経験をしたというのに、不思議と心は晴れやかに舞い上がっていた。普段はベッドを使って眠っている私だが、木の香りをかぎながら眠る布団は、どこか守られているようで暖かかった。いつもより遅く、朝日が完全に昇って目を覚ました私は、美味しそうなごちそうの香りに誘われた。
「天野さん! 朝ご飯はなんですか!?」
飛び上がるようなテンションで、私は囲炉裏へと駆け寄った。どこか苦笑も交えて嬉しそうにする天野さんは、私にご飯茶碗をよこす。ご飯がいっぱいに盛られた茶碗には、キノコと鶏肉の炊き込みご飯。そしてテレビでしか見たことのない川魚(イワナというらしい)を串に通した塩焼き。白菜の味噌汁。
「うまぁいっ!」
昨晩、何度も繰り返した言葉。もはやその言葉と笑顔しか浮かんでこない食卓など、幸せと呼ぶ以外に何があるだろうか。というか、本当においしい。
「天野さんは、いつもこんなにおいしいご飯を食べてるんですか? 正直、羨ましいんですけど」
「アホ、普段からこんなに作るかよ。朝食は、魚の缶詰だったり納豆とかの方が多いよ。米一つ炊くのにも時間かかるからなぁ。まあ、台所は別にあるし」
「へぇ、そういえばここ、電気も水道もあるんですね」
「電気はソーラー発電があるし、水道は湧き水を電気でくみ上げてる。正直、一人暮らしで俺もずっと家にいるわけじゃないから、特に山だからって苦労はないな」
確かに、昨日のお風呂も電気で沸かすタイプのものだった。普段の生活に贅沢な山の幸が合わさっているようで、やっぱり少し羨ましい。まあ、といっても私が知らない苦労なんかはいっぱいあるんだろう。ああ、それにしてもご飯がおいしい。
「ていうか、天野さん、お仕事は?」
「ああ、そういや言ってなかったか。ガテン系って言ってわかるか? 土木業だったりの技術職のことなんだが。もとはそういう仕事をしてたんだ。今はその器用さと力自慢を生かして、周りの畑仕事手伝ったり、建築手伝ったりと……そんな感じだ。設計士もしてる」
「思ったよりちゃんと働いてるんだ……」
「むしろ、響がどう思っていたのか、よぉくわかったよ」
「アハハッ、おかわりお願いします!」
お腹は膨れた。満足のいく食事は心を満たし、胃を満たした。つまり、私がこの家から帰るときが来たことを示す。長居する理由はないだろう。ただし、それは理屈の上での話だ。感情の上では、まだどこかこの場所が恋しい気がする。
「響、家に送る前に電話しろや。さすがに何もなしだと向こうさんも不安だろうさ」
「うん」
そうして、お母さんにこれから家に帰ることを伝えた。天野さんの車に乗り込む。山道は狭い場所もあるということで、軽トラックとは別に軽自動車も保有しているとのこと。天野さんが運転席、私は助手席に乗り込んで、山を下っていく。
今日は、昨日と一転して、信じられないくらいの快晴だった。晴れ渡った空のおかげで、昨日は目にすることのなかった山道がよく見える。
「どこまでいっても林しかないねー」
「しゃーないだろう。ここは別に花が咲き誇るような丘なんざねぇんだし。下手に林に出てみろ。イノシシだか、鹿だかに襲われるかもしれねぇぞ」
「鹿も人を襲うの?」
「季節による。気性が激しいのは、子供を守るためだろうな。まあ、そうないと思うが」
「ふーん、日影さんは鹿肉も食べたことあるの?」
「ああ、あるぞ……ていうか、響。お前急に砕けたな。いきなり下の名前で呼んでんじゃねぇよ」
「ダメ?」
我ながらあざとく上目遣い。とはいってもあながち計算ではなく、自然にできてしまった。それだけ私は日影さんに急に甘えたくなったんだろう。それがどうしてなのか、自分でもよくわからなかった。
「いや別に呼ぶ分には構わねぇけどよぉ……いきなりなんだ? 小遣いでもせびる気か?」
「失礼な! 私はそんなに厚かましい人間じゃないよ!」
「知らんがな。俺、お前と会ってまだ一日分も過ごしてないんだぞ?」
そうだった。昨日の夜に散々泣きついたところを見られて、それで急速に距離感が縮まったように錯覚していたけど、私、まだ日影さんとは会ったばかりだった。一晩過ごしたとはいえ、客観的に見たらまだ知らないおじさん状態に近いかもしれない。
「とにかく! 私は日影さんのこと、日影さんって呼ぶから!」
半ば意固地になってそう言った。改めて思うと、男の人の名前呼びなんて初めてに等しくて、ちょっと恥ずかしかった。と、そういえばと思い出したことがある。
「ねぇ、日影さんって何歳なの? 三十代前半?」
「ああ? 俺はまだ二十八だ。三十代なんて言うんじゃねぇ!」
「えー、似たようなもんじゃない」
「お前、それ歳食ったときに自分で後悔するセリフだからな? 覚えとけよ?」
「そういうもんなのかなぁ? まあでも、年齢気にしてたって仕方ないよ」
「いーや、お前みたいなのは年老いて体の不調に文句言うタイプと見たね! 歳重ねるとな、肩こりだ関節だのなんのって、年齢を感じることが増えるんだよ」
「日影さん、じじくさーい」
「……響、この山道走るか、てめぇ?」
きゃー、怒ったぁなんて、そんなバカみたいなやり取りをしながら車は進む。さながら、近い世代の少年と話すように、私は日影さんとの会話を楽しんだ。というより、ここでの会話でわかったのは、思ったよりも日影さんが子供っぽいということだ。というか、大人げない。年齢いじりのあとも色々と言いあったりしたが、子供の冗談に本気になりそうになるところがある。
それだけ向き合って話しているんだろうなぁという思いと、実はこの人、ただの馬鹿なんじゃないかという思いが重なって、結局子供っぽいという理解に落ち着いた。
「日影さんは優しいね」
「唐突に変な話しないでくれる? 鳥肌立つわ」
「ごめん、今のなしで。日影さんは意地悪だ」
「それでいいわい。こんなんやさしさでもなんでもねぇ、誰かがやっていたはずの当たり前だ」
日影さんは、そういった。当たり前のことだと。だから、私はその言葉にこう返す。
「当たり前のことができるのが、究極の優しさなんだよ」
「わかったような口きいてんじゃねぇよ、中坊。そのセリフが似合う女になりたきゃ、いっぱしの男捕まえて、恋して大人になってから言ってみろ」
「はいはい、私は子供だよー。恋なんて未経験ですー」
まあでも、日影さんの言うことは正しいんだろう。こういうセリフは、子供が言うべきじゃなくて、格好いい大人かなんか言った方が似合うのだ。ただ、一つ間違っているのは、似合う似合わないじゃなくても、それはわかっているべき言葉だということ。
「じゃあ私、さっきのセリフが似合うようないい女になってやる」
「おう、いいんじゃねぇか? それで世の男どもを見返してやりなって」
「その相手には、日影さんも入ってるの?」
「いや、俺を見返してどうすんだよ……」
あほらしいといった表情の日影さんだが、むしろその顔が腹立つ。なんだその顔は? まるで私に女として魅了されないとでも言っているみたいじゃないか。あ、なんかそう考えたらムカついてきた。決めた。将来、日影さんを見返すようないい女になってやる。私は一人、そう決心していた。
「ほれ、街が見えてきた。こっから先は待ち合わせ場所まですぐだし、とっとと済ませるぞー」
「制限速度は守って安全運転でね」
「お前、本当いきなり生意気になったな、おい」
知るか。なんか、話していたら遠慮するのも馬鹿らしくなったんだ。そうして車に揺られてすぐにお母さんの姿が見えてきた。助手から見てもどこか不安そうな様子は見て取れた。
「おーい、お母さん!」
「ああ、響! 大丈夫!? けがはない? 痛いところは? 体は大丈夫なのね?」
矢継ぎ早に言われた一言に苦笑し、頷く。心配をかけた私が言うのもなんだけど、やっぱり申し訳ないというかなんというか。ああ、やっぱり日影さん信用されてなかったんだなぁという思いでいっぱいだ。その後のお母さんの質問にも答え、ようやく落ち着いたころに、日影さんが話しかけてきた。
「おう、落ち着いたかい?」
「あ、日影さん。一応言っとくけど、お母さんを口説かないでね」
「オーケー、お前の豹変ぶりにおじさんはもう驚かないよー」
日影さんはそういうけど、驚いて目を点にしていたのは、お母さんの方だった。私が男の人とここまで砕けて、遠慮なしに話すところを初めてみたせいだろう。でも大丈夫だよ、お母さん。お母さんも日影さんと少ししゃべったら、へりくだるのも馬鹿らしくなるから。
「あの、この度はうちの響がご迷惑を……」
「ああいやいいって、こっちが勝手に拾って助けただけですから。それに、助けられたのは俺も一緒です」
「はぁ……といいますと?」
「お母さん、日影さんはライブ会場で恋人とその両親を亡くしたんだって」
「――――ッ!? それは、その……」
私から飛び出た言葉によって、お母さんは狼狽する。それもそのはずだ。その関係の話で、よかったことなんてなかったんだから。でも、大丈夫。
「はい、俺はあの事故で恋人を亡くしました。正直に言うと、娘さんを恨み妬む気持ちはありました。でも、そんな俺に響はチャンスをくれたんです。事故のあとからずっと苦しんでいた響の助けになるというチャンスを。若輩の身ではありますが、娘さんが困っているようなことがあったら、連絡してください。なんとか、助けになるように努めさせていただきます」
「だってさ、お母さん」
信じられないという表情と、困惑が重なったお母さんの顔は、見ていて不安になる。だけど、事情がよくわからなくとも日影さんのことを少し理解したのか、お母さんは泣きだしてしまった。そこからは、日影さんと二人でお母さんの涙を止めるために必死になるという笑い話。特に日影さんが何か言うたびに、お母さんは泣きだすから本当に大変だった。今更ご近所の目も何もないけど、だからといって自分の母親の涙を止めるために男の人が必死になるというのは、変な絵だったと思う。
「ねぇ、日影さん」
「なんだ? こっちはお前のお母さん慰めるのに、疲れたんだが?」
「また、遊びに行ってもいい?」
「いや別に構いやせんが、あの山、車で二十分以上かかるんだぞ?」
「うん、だからすでに電話番号は控えておいたのさ! いざとなったら、迎えに来てもらうよ!」
「お手が早いことで。わぁったよ。いつでも遊びに来な。飯ぐらいなら、たんと振舞ってやらぁ」
「うん! またね!」
こうして、正式に私の新しい居場所ができた。お母さんの許可ももらって、これから私は何度も日影さんの家に遊びに行くことになる。最終的に、実は教員免許ももっていた日影さんが、私の進学した私立リディアン音楽院に教師として赴任したりするけど、それはまたあとのお話。