細い銀線の上を滑る白魚のような指。その動きを目で追いながら、ゆるりと弧を描く口元を隠そうともせずに、また桐の指も細い弦の上を滑る。空気の跳ねる音に耳をすませ、震える弦の音ではなく、それに触れる少女の指の音の方にこそ耳を向けた。
夕餉もそこそこに(量は推して知るべし)、紅葉した葉が月明かりの中舞い落ちるのを眺めながら琴を弾く。それもとびきりの美人と向かい合って。この雅な空間をこそ望んでいたと言うように、静かに、しかし強く桐は琴の音色を奏でた。
橙と妖夢は夕餉の片付けのために席を外しており、部屋には幽々子と桐の二人のみ。桐は誰もが認める女好きではあるものの、幽々子と二人にしても問題ないくらいには妖夢に信頼されているらしい。ただ見方を変えれば、幽々子に桐を押し付けたとも言える。
「幻想郷はどうかしら?」
弦の弾ける音に交じって、その音に負けぬ少女の美声が桐の耳に運ばれた。一瞬聞き惚れてしまったが故に、僅かに手が止まってしまうもまたすぐに桐は細い指を弦に這わせる。そうしながら桐が思い起こすのは、まだまだ浅い幻想郷での日々。思い浮かぶのは妖夢の困り顔ばかりだが、それはそれで良しと一人小さく頷いた。
「きっと素敵な場所なんでしょうね」
「なんだか他人事ね」
「私はあまりひとつどころに留まることがありませんでしたので、妖夢さんのように一人とここまで長く居るのは久しぶりなんです」
前に。前に。まだ桐が小さく先代とともに動いていた時でさえ、一つの場所には長くても一週間しか居たことがない。全てはかぐや姫を見つけるため。探す方法は簡単だ。美女の噂を辿って行けばいい。平城京で絶世のと謳われ、帝さえ愛した姫ならば、どこにいようと少なからず噂になるはず。黒髪の乙女の噂を追って西へ東へ。時には海さえ越えてそれを追った。そのため親しい友人などできるはずもなく、短い一期一会を繰り返すばかり。多くの土地を渡り歩いた桐をして幻想郷は不思議な都であり、その全てを知るにはこれまで通り三日やそこらで離れるわけにもいかない。そして、離れなくてもいいのかもしれない。
僅かにぶれる桐の琴の音色を聴き、幽々子は薄く微笑んだ。自分に桐の注意を引きつけるように幽々子は強く弦を弾き、音の震えに桐の目がそちらへ揺れる。瞬く桐の赤茶色の瞳を幽々子の桜色をした瞳が見返す。ふやけた顔をよく浮かべる桐の表情とは対照的な熱く燃える大地のような瞳の色をからかうように、幽々子が指で弾いた弦の波紋に流されるまま一匹の桜色をした光蝶が二人の間へ羽を伸ばす。
「それで、桐はなにを焦っているのかしら」と、幽々子は、蝶を目で追いかける桐に言葉を投げた。弦と弦の音に挟まれた言葉は、幽々子の声音の美しさも相まって、言葉というよりは音、歌のように桐の耳に届く。その違和感のなさに桐は言葉の意味を理解できずまた僅かばかり動きが鈍り、意味を理解して完全に動きを止めた。
弦の上に緩く手のひらを置いたまま、なにも言っていないというように琴を弾き続ける幽々子に桐は顔を向ける。時計の秒針のようにリズミカルにズレることなく響き続ける弦の音が急かすように桐の内側を掻き立て、間を置いて桐が絞り出した言葉は、「なにがですか?」という答えにもなっていないものだった。
「昨日会った時もったいぶりたいとは言っていたけれど、実際会わないように焦っているでしょう? ふふ、こう言うとおかしいわね。ゆっくりすることに焦っているなんて」
桐の内面を見透かしているような発言に、桐は息を呑み、薄く笑いながら手を置いていた弦を弾いた。誤魔化すためでもあり、図星だと知られたくなかったから。そんな桐の様子を楽しむように幽々子はまた笑い。この女性には敵いそうもないなと、弦を弾いた指をそのまま長い前髪へと運びくるくる弄る。
「そう見えますか? 隠していたつもりなのですが」
「あなたは本当に困ると前髪を弄りだすもの。それに、あなたの性格からして、絶世の美女と言われるかぐや姫の元にすぐに飛んで行かないなんておかしいわ」
「ですか。いやはや、姫様には敵いませんね」
その通り、と桐は強く弦を弾く。
恐怖。その感情に少し近い。前に。前に。どんな時も、どんな場所でも、常に歩みを止めず前進あるのみ。遠く遠くどこまでも。果てしなく続くその道に、ついに終わりがやってくる。
「終わりは終わりなんですよ」
もう前に進まなくていい。もうどこにも行かなくていい。その感覚が分からない。転勤族とはわけが違う。目的地はなく、家もない悠久の旅人。手段と目的が入れ替わったような永遠の旅が終わった時に残されるものはなにか。
「なにも。私にはなにもなく、そしてなにも残りはしない」
全てを置いてただ前進。道端にこぼれ落ちたものへ振り向くこともなく、拾えないぐらい離れてもまだ前に進むことをやめない。親の顔も、兄弟の顔も随分前に忘れてしまった。出会ってきた多くの者たちの顔もその多くは思い出せない。旅が終わったからといって、それを拾いに行けるのか。それさえ桐には分からない。
「思えば随分遠くへ来た。他の者には故郷がある。それさえ私にはありはしない」
帰る場所のない自分は、いったいどこへ行けばいい。旅の終わりは人生の終わり。それに等しい。前に進むことさえ取られたら、本当になにもなくなってしまう。唯一の持ち物と言える大太刀だけが残されて、それに寄りかかるように足を止めて風化するのを待てばいいのか。そんな未来を思い描き、馬鹿らしいと桐は笑った。
「どうせなら前のめりに倒れて死んだ方がマシだ。私の前任者たち七十七人はそうやって逝った。先代の最後はよく覚えている。次はあそこへ行こうと泊まった宿で、朝になっても起きなかった。死の最後まで前に進んだ。その方が幸せなのかもしれない。夢の中で死ねた方が」
悔やみはするだろう。だが後悔はないはずだ。きっと五辻の歴代当主は死んでも黄泉比良坂を、冥土の中を歩き続ける。その道に桐は加われない。なぜなら終わりなのだから。
「お終いね」と呟く幽々子の顔は、言いようのない憂を帯びており、亡霊のはずの幽々子が、生者以上の質量を持っているように桐には見えた。存在感の異様な強さに目を奪われている桐に、桐がするようなふやけた笑顔を幽々子は浮かべ、琴を奏でていた手を止める。
「終わりは始まりとも言うでしょう? そうは考えられないの?」
「そう、楽観できれば良いのでしょうけれど、それにはいささか歩き過ぎました。一度歩みを止めてどこに向かえばいいのやら」
人は生きながらそれを探すところから始める。だが、桐には生まれながらにそれがあった。それしかなかった。ただそれに向かうだけ。それ以外のことなどなにも知らない。今更新たな目的地を探すことなどできようか。まだ二十歳にもなっていない歳であるが、大人以上に自分の道を進み過ぎている。
笑顔のない桐はつまらないと言うように、幽々子は目を細め袖から出した扇を広げて口元を覆う。桐に見せない歪んだ口元は、生者の葛藤を羨んでか、それとも哀れんでか。真面目な顔をした桐の表情を変えてやろうと、口元を扇で隠しながら発せられた「夢はないの?」と言う幽々子の言葉に、桐の表情は柔らかく崩れる。それに少しホッとして、幽々子は動く桐の唇を目で追った。
「ありますとも」
「それはなにか聞いてもいいかしら?」
「もちろん、是非とも美人さんと連れ立って歩きたいものです」
桐らしい答えに、幽々子は呆れながらも大きく笑った。常日頃桐のしている行動は、ふざけているようであって、そこに嘘はない。できれば歩いてみたい。誰かと一緒に歩いてみたい。恋人や夫婦という斬っても斬れない形となって。
「私はね、姫様。好きなんですよ」
「女性が?」
「そう、素敵なラブストーリーが」
これまで顔も知らぬ、お互いの道のりも知らない男女が突然出会って恋に落ちる。そんな夢物語がなにより桐は好きなのだ。全く色も長さも違うその者たちの軌跡が、どこまでも綺麗に交じり合っていく。一人、たったの一人でいい。自分と同じ速度で歩いてくれるそんな一人が居てくれたらどれだけいいか。
似たような者たちは居てくれる。どれだけ桐が前に進もうと、全く違う道を歩いていても同じように自分の道を行く者たち。
「私がよくお嬢さんたちに手を触れるのは、期待してではないんです」
それは道端に咲いている花に手を伸ばすようなもの。一時その美しさを楽しみこそすれ、少しすればまた先を目指して歩きだす。摘んではいけない。きっと枯れてしまうから。
「私は我儘なんでしょう。手に入らない連れ合いを夢見て、少し楽しみ寂しさを埋めているだけだ」
「気づいていながらやめないのね」
「やめられません。そのおかげで歩いていられる。私は誰より愛の力を信じているんですよ」
「前にも聞いたセリフだわ」
「それが私の原動力ですから。それだけは色褪せないと知っているから」
「ロマンチストなのかしら?」と言おうとして、それは言わずに扇を閉じる音で自分の思考を幽々子は閉じる。桐はふざけているわけではない。少し哀愁を帯びた桐の笑顔が、冗談や酔狂で言っているのではないことを察した。愛の力。言葉にすればなんとも正義的で魅力的か。幽々子はスッと立ち上がると、外に出ていくようなことはなく、桐の横に移り腰を下ろす。手を伸ばすのは桐の目の前にある琴。ゆっくり人差し指を伸ばし弦に当てる。
「愛の力ね。麗しい言葉」
「ね? どんな呪いよりも効果がある」
「恋は盲目?」
「節穴かもしれません」
薄く笑った桐への返事は弦を弾く音。幽々子の動きを目で追いながら、桐もまた弦に向かって手を伸ばす。幽々子と桐の音が徐々に噛み合っていき、二つの音は共鳴しあう。それに二人は笑みをこぼしながら、動かす手を止めることはない。
「少し羨ましいのよ? 私はここを離れる気はないから。常に浮き雲のように動き続けることはできない。たまに遠くに足を伸ばしてもね。私はもう終わっているもの」
「私はそれが羨ましい。地に根を張ることはないですから。根を張ろうとしても強い風が吹けばきっと転がって行ってしまいます」
「真逆なのに音は合うのね」
「音は合っても、それだけです」
幽々子は弦を弾く手を止めて、桐はそれでも弾き続けた。前に。前に。どこまでも。幽々子が立ち上がり、縁に続く障子の前に立ってもその手を止めることはない。
「少し歩きましょうか。ついてきてくれるかしら?」
「置いて行ってしまうかもしれません」
「あら、そしたら戻って来てくれればいいのよ。私はここにいるんだもの」
開けた障子の隙間から月明かりが伸びる。桜色をした幽々子の髪がその光を広げるように反射して、幽々子に背後に立つ桜の枯れ木の枝を覆う。満開の夜桜のように桐の瞳には枯れ木が映り、その美しさに見惚れてしまった自分を恥じるように前髪を弄りながら席を立った。秋の夜空の下を春風のように歩く幽々子の背を追って、ゆっくりと桐は足をだす。
「殿方の後ろを三歩下がって続くのが大和撫子と言うけれど、女性の後ろを三歩下がってついてくる殿方はなんて言ったらいいのかしら」
「ストーカーか迷子でしょうか」
「なら桐はきっと後者ね。ストーカーにしては目立つもの」
からから笑いながら、幽々子は長い縁側を歩き続ける。白玉楼を囲う塀の手前にずらりと並んだ葉もない桜の木を眺めながら、足音もなく先を行く。吹けば消えてしまいそうな幽々子の姿は、儚さと繊細さに彩られているが、白玉楼の中でなによりも存在感がある。壊れてしまう一瞬を濃縮したような少女の近くにいることが、桐をして少し躊躇われてしまうほどに。
そんな桐を手招きしながら幽々子が目指すのは、白玉楼の中にあって最も大きな桜の枯れ木。白玉楼に居れば、どこからでも目に入る木ではあったが、その根元まで来れば、想像以上の大きさに圧倒され、桐も流石に驚いた顔になった。見事と言えばそれまでだが、そう言うには妖しさに過ぎる。視界を覆う木の枝は、漂う空気を舌舐めずりしているように見えた。
「この桜は
「西行、ですか……」
目の細められた幽々子の横顔を少し眺め、桐も西行妖に目を戻す。なにかを吸われているような薄ら寒さに、桐の肌の産毛が逆立った。
「素敵でしょう?」
「ええ、これだけ大きな桜でしたら、春にはさぞ幻想的な姿を見せてくれるんでしょうね」
「そうだと良かったのだけれどね。残念なことにこの桜は春が来ても決して満開にはならないの。誰かさんみたいでしょう?」
それは恐ろしい妖怪桜。満開に咲けばその美しさで人を黄泉の道へと誘う。いったい幾人の生を吸ったのか。それは今はもう分からず、この先も分かることはない。
「死へと誘う妖怪桜。それを封印するために誰かがこの桜の下で眠っている。それを見てみたくて幻想郷中から春を奪い満開に咲かせようとしたこともあったんだけど、残念ながら失敗してしまったわ」
「春を奪うとは、袴垂が聞けば泣いて悔しがりそうな話ですね」
「人里を騒がせてる盗賊だったかしら? ……すぐ側にある。望む景色の見方も分かっている。でも見ない見れないというのは意外と多いわ。あなたはどうするのかしら」
西行妖と同じように、目と鼻の先に答えはある。桐のように忙しなく動くこともなく、絶えずそこに存在する。離れるのも近づくのも自分次第。かぐや姫は関係なく、全ての選択肢は今桐の手の中に収まっている。それを握るように拳を作る。握るものはとうの昔に決まっている。
「行きましょうとも。ここまで来て引き返したら、きっと後悔しますから。前進あるのみ。届けるために」
「そう」
羨ましいというように、幽々子は小さく微笑んだ。続く「それに美人さんをあまり待たせるものでもありませんから」という桐の言葉に、より深い笑みを幽々子は浮かべる。
「ふふ、もったいぶるのはやめるのね」
「それは昔のお話。私は現代っ子ですからね」
「あらあら困った殿方ね。それなら……」
続くはずだった幽々子の言葉を遮ったのは、桐でも西行妖でも妖夢でもない。ぴらりと幽々子と桐の間に落ちて来た一枚の紙。その紙の軌跡を追って幽々子が空を見上げれば、月の影で羽ばたいている鴉天狗の小さな背が一瞬映った。時期の早い雪のように舞い落ちてくる紙たちは、西行妖に引っかかり花を咲かせているようにも見える。そのうちの一枚を手に取り書かれた文章に目を這わせた幽々子の顔が、困ったような、しかし、面白いと言うような色を含んだ笑顔を桐に向けた。
「あなたたちが来たからなのかしら? それともこのためにあなたたちは来たの?」
「……足利め、謀りましたね。こんなことなら先に言っておいて欲しいものです。それに菖さんも」
坊門 菖が月軍を率いてやって来る。そんな記事に桐は長い前髪に手を伸ばしぐるぐる弄った。月軍が来ないからといって自分から連れて来るものがあろうか。坊門家、九十八代目当主の凛々しい仏頂面を思い出しながら、桐は深く長いため息を吐いた。
「なんにせよ、これで時間もないみたいです。いつ来るのか書いていないのが気になりますが、姫様も用心した方が良いでしょう」
「大丈夫よ、妖夢もいるもの。それで桐はどうするの?」
「かぐや姫様の元へ参ります。私は平城十傑、五辻家七十八代目当主なのですから」
背に背負った大太刀へと手を伸ばし、鞘ごと手に取ると強くそれを握り込んだ。薄い微笑を浮かべながら、目は決して笑っておらず目的地へ向けて絞られる桐の瞳を興味深そうに幽々子は覗き込む。その瞳に宿る生者の強い輝きは、夜空に浮かぶ火星のよう。遠くから眺めても赤いと分かる情熱の色。
「そう、なら行ってらっしゃい。あなたがどこへ行こうとも私はここにいるもの。全てが終わったら帰って来てもいいのよ。例え先に進み続けても、きっとあなたは
「あはは、その誘い文句の魅力に勝てそうな言葉を私は持っていませんね。でも敢えて言うのなら」
言葉を切り、桐は『西行桜』へと目を向ける。壮麗な巨木の肌を目で撫でた後に、口の中で転がした言葉を小さく呟いた。
「世の中を そむき果てぬと いひおかむ 思ひ知るべき 人はなくとも、ですか」
「え?」
それだけ言うと桐は幽々子に一礼し、振り返ることもなく前へと進む。ゆっくりゆっくり一歩を確かめるように。思い描く女性の姿はなく、一人でまた先を急ぐ。舞い散る『月軍襲来!』の紙たちを掻き分けるように、桐は白玉楼を後にした。
しばらくして、慌ただしく白玉楼の中を一人の足音が駆け回る。幽々子と桐の名を呼びながら足を忙しなく動かしていた妖夢だったが、西行妖の前に探していた後ろ姿を見つけると、降って来た紙の一枚を握りしめながらその背へと近寄る。
「幽々子様! 見つけましたよ!」
「妖夢」
振り返った幽々子の顔を見て妖夢の足は石像になったように固まった。頬に流れた透明な一筋の道筋はどこから流れ出たものか。一見しただけで分かってしまう。ちらりと妖夢の顔を見つめ、すぐに幽々子は西行妖の方へ目を戻す。月明かりに照らし出された幽々子の背になんと言葉をかけていいか。妖夢は戸惑いながらも、口を開けたり閉じたりしながら幽々子の隣へ足を向けた。
「……幽々子様?」
「なぜかしら、とても懐かしいの。桐は帰って来るかしら」
なにがあったのか、そんなことは妖夢にはまるで分からない。だが、とにかく次もし桐に会うことがあれば楼観剣の錆にしようと心に決め、幽々子と二人、白い紙に化粧された西行桜をしばらく眺めた。