月軍死すべし   作:生崎

2 / 60
第一夜 夕

  何でこんな事やってんだ。と楠はギザギザとした歯を擦り合わせて唸った。日は既に落ちかけて、赤と黒の混じった空に真っ赤な夕日と白い月が上っている。そんな中一定のリズムで響く金槌の音。博麗神社の屋根を蹴り破ってからもうかれこれ五時間近く楠は金槌を振るい、時に鋸を引き、参道の窪みを埋める。明らかに壊した部分以上修理している。霊夢はというと、縁側に座りながら茶を飲んで指示を出すだけ。最後の縁板を打ち終えて、楠は手に持った金槌を放り落とす。

 

「終わりだ終わり! もういいだろ!」

「じゃあ次は」

「おい」

 

  背後の空に上る白っちい月を楠は親指で指し示してやるが、霊夢から返されるのは『だから?』と言いたげな鋭い目。それにこの黄昏時までに直してやった至る所を楠は指差す。明らかに修正箇所を上回った仕事。それを一応罪悪感から直してやるあたり楠も素直であるが、おかげで楠はもう日が落ちるというのに今日の宿も確保できていない。何も言わずに落とした金槌を片付けながら、楠は霊夢に文句を言う。

 

「こき使うにも程があんだろ。これって給料でんのか? 今日の宿どうすりゃいいんだ」

「出るわけないでしょ。それに宿は自分でどうにかしなさい」

「アンタそれでも人間か? そこは、しょうがないから今日は泊まっていきなさいとか言うだろうが普通よう」

 

  自分よりも歳若い少女に向かって今日家に泊めろというのも情けない話ではあるが、幻想郷がどういう場所であるか知っている楠は、引かずに無情な少女を睨みつける。

 

  幻想郷はその名の通り幻想の都。外の世界で幻想となったものが流れ着く。お伽話でしか聞くことのできない妖怪、伝説の怪物、自然の化身妖精など、そんな魑魅魍魎が闊歩する道端で野宿するような修験者精神は、現代っ子の楠は残念ながら持ち合わせていない。というか持ち合わせたくないと考える。故に引かずに楠は霊夢を睨んでいると、霊夢は手に持った湯飲みの茶を飲み干してため息を吐いた。

 

「なんだよ、本殿の中とか使わせてくれてもいいだろ」

「あんた信仰心とかないわけ?」

「悪いがうちは寺でな。俺は一応仏教徒だ。内陣の中で昼寝とかしょっちゅうしてる」

 

  それで修理の手際の良さに納得がいったと霊夢は一人小さく頷く。楠が直した箇所はぶーぶーと文句を言いながら、何だかんだ綺麗に直されていた。霊夢自身自分で修理するのは面倒なため萃香がいる時は萃香に直させるのだが、出来栄えは比べても萃香に劣っていない。別段信仰心が強くもない霊夢は、一晩ぐらいならいいだろうと決め、「宿代はそこよ」と賽銭箱を指差した。

 

「まだ金とんのか? もう小銭しかねえってのに。食事付きだよな?」

「まあ今更居候が一人増えても変わらないし、代わりにあんたが作りなさいよ」

「なあ、アンタ鬼とかよく言われねえか?」

 

  楠の質問に「言われた事ないわ」と霊夢はさらりと嘘をついて縁側から腰を上げる。苦い顔をした楠を連れて向かうのは台所。時間も時間、食事にするならさっさと作れという暴虐無人さに楠は歯を擦り合わせる。通された台所は、外の世界ではほとんどお目にかかれないカマドがあり、上に乗った釜の蓋がコトコト音を立てていた。昔懐かしい風景だが、楠にとっては見慣れた風景。薪をくべて飯を炊くのはいつもやっている。それもこれも楠の家は山奥の人気のないあばら寺であるからなのだが、そこでもお目にかかれないものがあり楠はカマドを前に目を丸くした。カマドに息を吹き込む竹筒が勝手に動き息を吹き込んでいる。霊夢はずっと縁側にいた。それなのに勝手に飯が炊かれている現状。これが博麗の巫女の秘技なのかと背を丸めて楠が覗き込んでみると、竹筒の息の吹き込み口にお椀の蓋が張り付いている。

 

  眉間に皺を寄せながら楠がお椀の蓋を摘み引き上げてみると、「わ! わ!」という驚きの声と共にオマケで女の子が付いてきた。驚いたのは楠の方だ。楠が持ち上げたお椀の蓋を手で掴み垂れ下がる小さな女の子。薄紫色の短い髪を揺らしながら必死にお椀から垂れ下がる少女、少名針妙丸を見て楠は一言。

 

「親指姫?」

「こらー!もっとあるから!」

 

  楠の疑問に顔を赤くして叫んだ針妙丸に、これは幻覚の類ではないと悟った楠は、針妙丸の足をひっ掴み逆さにしたりお手玉しながら針妙丸の体を突っつき回す。楠よりも何倍も小さな背丈でありながら、人形などではなく生きた人。「へんたーい⁉︎」と叫ぶ針妙丸の声も楠は聞かず、その摩訶不思議さに楽しくなり遊んでいたが、お祓い棒をどこからか取り出した霊夢に頭を叩かれる。

 

「あんた何してんのよ」

「いや、珍しいもんでつい。悪いな嬢ちゃん」

「霊夢ー! 退治よ退治ー!」

 

  プンスカ怒る針妙丸に適当に謝り楠は針妙丸を土間に下ろした。地面に置くと針妙丸の姿はお椀の蓋に隠れて全く見えない。忙しなく動くお椀の蓋を横目に霊夢に指示され、奥の棚から鉢りんと金網、炭を出す。楠の家でさえプロパンガスを使っているが、その類のものがない。ただ棚の奥にカセットコンロの姿が見える。

 

「おい、こりゃ使えねえのかよ」

「換えがないのよ、換えが。河童がいろいろやってるらしいけど」

 

  河童。有名な妖怪だ。楠も当然聞いたことがある。いろいろやってるらしいというのが楠には何のことか予想できないが、使えないということが分かっただけいいかと外の壁に竹刀袋を立て掛けため息を吐く。そんな楠に差し出されるメザシ四匹。これが晩御飯だと冗談ではないという顔で差し出してくる霊夢に楠は顔を顰めてみせ、メザシの尻尾を摘みながら歯を擦り合わせる。

 

「質素過ぎて何も言えねえ。俺でさえ外ではもう少し豪華だぜ?」

「口より手を動かす」

 

  楠の頭にまたお祓い棒が振り落とされる。しかし、どう炭に火を起こせばいいんだと鉢りんの中に炭を組み上げていると、横に突っ立っていた霊夢が指を弾いた瞬間炭に火が点いた。

 

「なあ、アンタが全部やった方が早えんじゃねえか?」

「嫌よ面倒くさい」

 

  こんなんで巫女が勤まるのかと口を歪めながら、楠は鉢りんの上に網を置き、網の色が火によって色を変えるのを見てメザシを置いていく。楠の横から霊夢が離れていき居間へと消え、代わりにズリズリとした音が楠の方に寄って来る。

 

  楠が振り返れば寄って来ているお椀の蓋。お椀の蓋がボロい団扇を引き摺っている。楠の隣までお椀の蓋は寄ると、団扇を地面の上へと置いた。団扇を引き摺った跡が地面に残り、見た目以上に重そうな雰囲気を出しているが、楠が手に取ってみれば、見た目通り軽かった。

 

「それ私のおかずでもあるんだから焦がさないでよ!」

「へいへい、で? アンタは何なわけ?」

 

  お椀の蓋から目を外して鉢りんに集中する。働いた後の飯を焦がしてしまうのは楠からしても望むところではない。隣で針妙丸が小さな胸を張るのも目に入れず、パタパタと団扇を動かすが、目に見えて隙間があると分かる団扇では、しっかり風が遅れているのか怪しい。そんな隙間の多い団扇を通り抜けるような元気のいい声で針妙丸は叫ぶ。

 

「私は少名針妙丸! 一寸法師の末裔よ!」

「一寸法師〜?」

 

  その言葉に今一度楠は針妙丸に目を落とす。一寸と言うにはそれよりは大きいが、小さな事には変わりがない。一寸法師という有名な名前を出せば楠もへり下るかとも針妙丸は思ったが、それどころか楠は再び針妙丸の今度は首の襟を摘むと持ち上げてしげしげと眺める。眉をへの字に曲げた楠の顔はお世辞にも良い面とは言えず、鼻を横渡った一線引いたような痣と、ギザギザした歯。はっきり言って怖い。針妙丸は一瞬身を凍らせたが、パタパタ腕を動かし抗議の意を示す。

 

「アンタマジで言ってんのか?」

「あ、当たり前でしょうが!」

「ッチ、気に入らねえな」

 

  そう言いながら楠は摘んでいた手を離した。針妙丸は重力に負けて落ちていくわけでもなく、重力に逆らうようにゆっくりと地面に降りると足をつけてまたバタバタ動き回る。

 

「貴方私のご先祖様馬鹿にしてるの!」

「そうじゃねえよ、ただ一寸法師が実在したって話が気に入らねえのさ。まるでマジでいるみたいじゃねえか。つまらねえ冗談は言うなよ」

「いるって何が?」

「……なよ竹のお姫さんだよ」

 

  かぐや姫と並んで本屋に行けば置いてある童話。その一つが実在したと言われても信じたくはないが、目に見えて異質な存在がいるという事実に百パーセント嘘ではないのかもしれないと楠も思う。それがどうも癪に触ると楠が顔を顰めていると、さも当然というようにさらりと針妙丸は「いるじゃない」と口にする。その言葉に楠の手は完全に止まり、鋭くなった目が針妙丸に落とされる。

 

「……おいアンタ、今の冗談でも許さねえぞ」

「い、いるってのに何で言ったら怒られるのよ! いるものはいるんだから仕方ないでしょ!」

「いるって何処に‼︎」

「ま、迷いの竹林よ! 人里から少し行った」

 

  そこまで聞いて楠は壁に立て掛けられていた竹刀袋を手に取り、その場を飛び出した。嘘か本当か聞いている時間も惜しい。もしも本当にいるのなら、楠がする事は決まっている。

 

(本当にいるのなら、本当にいるのなら絶対一発殴る!)

 

  北条家の伝統。平城十傑の家によって当主の選び方は違うのだが、北条家の選び方は至極単純。七つになった北条家の直系の子供達は集められ、一年間地獄の特訓を受ける。そして一年後最も当主に相応しいと先代が決めた一人が当主となる。これに選ばれた子供には拒否権はない。そして始まるのは浮世から離れた修行の日々。古臭いボロボロの寺に先代と二人押し込められ、朝から晩まで稽古させられる。春夏秋冬、一日も休みはなく、骨が折れようと肉が裂けようと関係なく毎日毎日稽古と言う名の拷問の日々。

 

  楠が何より気に入らなかったのは、強い者なら自分以外にいくらでもいたという事。最初の一年、楠よりも力の強い者はいくらでもいた。楠よりも速い者もいくらでもいた。楠よりも剣の扱いが上手い者も、楠よりも頭のいい者も。だからある日楠は先代に聞いたのだ。なぜ選ばれたのは自分なのかと。普段口数が少なく木刀、たまに真剣で楠をボコボコにする先代が、酒でも回っていたのか口にしたのは、「お前が一番北条の技の基本ができていたから」。

 

  何という理不尽。そんな理由で自分よりも強い者を切ったのかと楠は己を呪った。当主なんかに選ばれなければ、普通に小学校を出て、友人と遊び、文明の利器に囲まれて楽しく日常を謳歌できていたはずだ。先代が老衰で亡くなってから近くの中学校に行き、より強く楠はそう思った。

 

  だがそれも、全てかぐや姫なんていうわけもわからぬ者がいなければ済んだ話。だからどうしても楠はもし本当にかぐや姫なる存在がいるとしたならば、一発殴ってやらなければ気が済まなかった。

 

(そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ俺はよう!)

 

  鳥居を楠の目は捉え、その先へ飛び出そうと足に力を込めて飛び上がった瞬間目に見えぬ壁に阻まれる。ビタンと透明な壁に張り付きズリズリと落ちていく楠に、「どこ行こうとしてんのよ」と掛けられる疲れたような霊夢の声。

 

「……博麗の巫女さんよう、アンタ何で止めんだ」

「どこいくか知んないけどそんな殺気振りまいて、問題起こされたら困るでしょうが。うちの神社から飛び出してった奴が暴れたなんて言われたら評判落ちるのよ」

 

  何か言って霊夢が通してくれる雰囲気ではない事を楠も察する。博麗神社の評判など楠にとってはどうでもいい事だ。竹刀袋の紐を解き、その中の物を二つ手に取る。

 

  日本刀と脇差。長と短の二振りの刃。この二つが楠の得物。身の丈合わぬ頃から振り回してきた手足の延長。日本刀を右手に、脇差を左手に握り肘を曲げて楠が親指で鞘の根元を弾けば、ずるりと滑り落ちた鞘が神社の土に柔らかく跳ねて地面に転がる。構えなんてものではない。ダラリと両腕を垂れ下げた姿は落ち武者のようにも見える。霊力も何も感じない。だが、幽鬼のように体を揺らす楠の体から立ち上るプレッシャーは並ではない。少なく見積もっても白玉楼にいる庭師、魂魄妖夢と同等の剣客。その降りかかるだろう面倒さに霊夢は舌を打つ。

 

「あんた本気でやるわけ? 外来人のあんたに言って分かるか知らないけど、幻想郷には弾幕ごっこってルールがあるんだけど」

「弾幕? 知らねえな。そんなご立派なもん出せねえよ。それより結界解いて先に行かせろ。そうすればコレを振ることもねえ」

「あっそ、話になんないわ」

「そのようで!」

 

  楠が地面を蹴る。その瞬間を見計らったように、虚空に振った霊夢の赤い袖が一瞬瞬き、楠の顔に向かって飛来する銀閃。瞬きもせずに目の前まで迫った銀閃を楠は左手に持った脇差で簡単に払う。キンッ、と鳴った軽い音を置き去りにして、それが地面を打ち二度目に音が響くよりも早く楠は霊夢に肉薄する。後一度足を踏み込み進めば楠の間合い。だが、楠が足を落とし参道の石畳を踏み割った瞬間、楠の目前で霊力が弾けた。目の眩むような眩い輝き。

 

  霊夢を中心に霊力の花火が花開く。たった一度の霊力の解放で空間を支配する為に球状に広がる霊力の塊に、楠は舌を打ちながら前へ進もうと出していた足で後ろへと跳ぶ。花開いた霊力の塊は空を吸い込むような独特な音を上げて楠に迫る。一足では足りない。楠を追って迫る光球。空に浮いた両足を地面に付けて、楠は足を踏み込まずに崩れ落ちるかのように態勢を前へと倒し、紙一重で光球を避けた。頬を僅かに擦って煙を上げる光球を楠は横目で見送り、下へと重力を加えて向かったエネルギーを、足を踏み込む事で前へと向ける。

 

  その楠の姿を見て、霊夢は目を細める。幻想郷では見ない技術。人里にも妖怪退治屋として刀や槍を握る者はいる。だが動きが明らかに違う。楠は人間だ。目に見えぬ力からも霊夢はそれが分かる。だが目に見えて立ち上る男の空気は、あたかも妖怪を前にしたかのように歪んで見えた。

 

  剣気。

 

  霊力でもなく妖気でもなく、超一流の剣客だけが持つ刃のように鋭い気配。刀の範囲にいなくても、その気配に踏み込めば斬られると分かる。故に霊夢はそれを拒むように懐から取り出したお札を地面に叩きつける。水面に小石が落ち広がる波紋のように、楠が蹴飛ばした小石が目に見えぬ空間に阻まれる。それに楠は目を見開き、ギザギザとした歯を擦り合わせ右手を振るった。

 

  鋭いというよりは、隙間に滑り込ませるかのように振るわれた剣。それを振るった手を押し出すように、楠は足を滑らせ体全体で刀を振るう。結界と刀が打つかる硬い音はしなかった。空間が擦りあったような鈍い音。ギターの低音をかき鳴らしたような音が境内に響き、カーテンを捲るかのように結界に穴が開く。

 

「何よそれ!」

 

  霊夢の言葉に楠は答えない。ギザギザした歯を擦り合わせるだけで、壁のなくなった前へと楠は足を進める。

 

  平城十傑。その一族一つ一つはまるでタイプが異なる十の一族。だが彼らが千年で重ねた基本的な努力の方向は変わらない。月の姫を迎えに来た月の使者を倒す。だが、結局それは何もせず、何も見ずに終わってしまった。なら次回、月の使者を前にどうするべきか。そんな事は誰にも分からなかった。姿形も、どんな力を相手にすれば良いのかも分からない。

 

  その結果、代を重ねる毎に稽古は苛烈になり、どこで道を間違えたのか、魑魅魍魎から実態のない幽霊に至るまで、自らの技で斬れるようになるべし、とわけのわからぬ方向に技は進化していった。想像上の強大な月軍の者を倒すために磨かれた浮世から離れた理外の技。

 

  その技を持って楠は霊夢に迫る。ゆらりゆらりゆらゆらと、水面に浮いた枯れ葉のように、霊夢の視界から楠の姿がブレてその身を消した。目を見開く霊夢。辺りを見回しても楠の姿はない。ふと、鋭い気配が霊夢の胸の内に滑り込む。その悪寒に肌の産毛が逆立ち、その場から霊夢は宙へ飛んだ。一瞬遅れて、霊夢の前髪が数本夜の光の中を泳ぐ。

 

  目の前を通り過ぎた銀の線に霊夢は瞬きもせずに身を翻し背後へと跳ぶ。音もなく虚空に足をつき、霊夢の見下ろす大地にへばりつくように身を屈める楠の姿。その歪さと厄介さに霊夢は舌を打つ。

 

「あんた、今斬る気だった?」

「ざけんな、峰打ちだ峰打ち。アンタ斬ってもしょうがねえだろ」

「そう思うならもう止めなさいよ面倒くさい。ただの喧嘩なんて馬鹿らしいわ。しかもただの剣技で結界斬るような奴とよ」

 

  言いながらも霊夢は楠を観察する。宇佐美菫子や早苗から霊夢が聞いていた外来人の様子とは楠は合わない。第一印象から楠は怪しい雰囲気を背負った男だったが、今はより不気味だ。外の世界は幻想が薄れ、妖怪などには目をチラリとも向けていないとは早苗の言葉。文明の利器を求め、菫子の使う超能力と似たような力に尽力していると霊夢は聞いている。その見聞と楠は合致しない。

 

  正しく時代を超えてやって来た侍。神社の屋根で金槌を振るっていた男と同じだとは霊夢には思えない。刀を抜いてから明らかに楠の様相は変わった。軽い口調は変わらないが、明らかに隙がなくなった。ゆらりと手では掴めないそんな空気。

 

  石畳にへばりつくように身を倒していた楠がゆっくりと身を起こす。風に揺れる柳のような立ち姿。相変わらず両腕はダラリと下げられ、振り子のように両手に握った刀が揺れる。絶妙に刀同士は打ち合わず、空が擦り合わられるような唸り声が薄っすら響く。

 

「行くぞ、巫女さんよ」

 

  空に佇む霊夢に地に足付けた楠がどうやって近付く気なのか。霊夢には分からないが、楠に何の手立てもないようには見えない。奥歯を噛む霊夢が懐に手を伸ばし、身を落とそうとする楠に向かって、お札ではなく一枚のカードを掴んだ瞬間。

 

おーい、霊夢ー

 

  小さく声が境内に降って来た。場にそぐわぬ陽気な声。

 

おーい、霊夢ー!

 

  それもどんどん近付いて来ている。鳥居の方からではなく空を踏んでいる霊夢よりも更に上。震えた声は恐怖といった類のものではない。明らかに酔っ払った少々呂律の回らぬ声。それを聞いて霊夢はため息を吐きながら、掴んでいたカードから手を離す。そんな霊夢の様子に楠は眉を顰めていたが、

 

「霊夢ー‼︎」

「嘘だ、ろ⁉︎」

 

  地面に落ちた影はあっという間に楠を覆い、巨人が空から降って来た。刀を振る暇もなく、楠の目に移ったのは三日月が頭に突き刺さったような巨大な女。じゃらつく鎖の音と共に、楠の小さな体を押し潰す。

 

「あっはっはっは! っていててて⁉︎」

 

  笑いながら落ちて来た鬼、伊吹萃香は楽し気にその場で手をバタつかせて転がったが、背中にチクチクとした痛みを覚えてそのまましばらく転がり身を縮める。しゅるしゅるその大きさを十数倍は小さくした萃香は、ぽてりと地面に背をついて、空に浮かぶ霊夢を見るとにへらと笑う。

 

「霊夢ー! そこにいたのか、今日は良い酒が入ったんだ。どこぞの外来人がわらしべ長者みたいでさあ」

「うるさいわよ酔っ払い。あんた手水舎まで押し潰して弁償よ弁償。そこで潰れてるあんたもよ」

 

  完全に地面に埋もれた楠に霊夢は鋭い目を飛ばし吐き捨てる。地面に埋もれた楠は何とかその場から這い出てよろよろ立ったが、そのまま剣も構えず前のめりにパタリと倒れ仰向けに転がる。弱くともギザギザした歯を擦り合わせていると、楽しそうにゴロゴロと転がっていた萃香が楠を見て笑い声を上げた。

 

「ああ! こんな奴だよ霊夢、こんなヘンテコな格好した奴」

 

  その霊夢の言葉に霊夢は眉を上げる。同じタイミングで外来人が二人。ないわけでないが、楠を見ていると嫌な予感がすると霊夢のうなじがぞわぞわとうねった。手に持ったお祓い棒で霊夢が楠を突っつくと、楠は「何しやがる」と口にしなかったものの、ギョロリと敵意を含んだ目を霊夢へと向けた。

 

「ちょっとあんた」

「……何だよ、こちとら体が痛くて動きたくねえ。今日はもう出ねえよ、クソ。ちみっ子が地面を這いずってると思えば次は巨女が降って来るとか……この郷嫌いだ」

「そうじゃないわよ……あんた一人で来たの?」

 

  霊夢の質問に、楠は擦り合わせていた歯を止めて、むにむにと口を動かす。別に黙っている理由はない。だから楠は霊夢の質問に「いや」と短く答える。

 

「そ、仲間がいたわけね。……はぁ、あんたみたいなのがまだいるわけ?」

「仲間じゃねえよ」

「はあ?」

 

  霊夢の質問に今度は楠は答えなかった。仲間ではない。その通り、楠と共に幻想郷に入ってきた者達の名前も楠は知らない奴がいるくらいのそんな者達。誰も彼も平城十傑の当主達。だが、平城十傑は仲がいいわけではない。平城京で名を馳せた十の一族。当然クセが強い。その当時から仲が良いわけもなく、また月の姫が消えた後もそれは変わらなかった。それから千年以上が経ち、疎遠になっても親密になる事はない。今回幻想郷に来るにあたり手を組んだのは所詮利害の一致。一人では博麗大結界を超えることは不可能であったために手を組んだに過ぎない。だから月の姫が幻想郷にいないのならば、楠はさっさと一人で帰る予定であったのだが、月の姫がいるかもしれない現状、そうもいかないかもしれないと考え楠はため息を吐く。ゆっくりと身を起こし、見下ろす霊夢と楠は目を合わせる。

 

「明日はもう出てっていいよな?」

「んなわけないでしょ、これ見なさいよこれ!」

 

  そう言ってビッと周りにお祓い棒を指す霊夢。そのお祓い棒の後を楠が追って見れば、萃香が転がったせいで全体的に凹んだ境内の姿。神社の屋根先が欠けたなんてものではない。直すのに何日かかるのか分かったものではない有様に楠は口角を下げた。

 

「嘘だろ……。ほとんどそこの鬼のせいじゃねえか」

「あんたも同罪よ、ったく、萃香が落ちて来たせいでメザシも地面の上だしどうすんのよ、こら萃香!」

 

  楽し気に笑いながら地面を転がる萃香に向かって、霊夢がお祓い棒を振れば細かな霊力の塊が萃香の元へと飛来するが、ゴロゴロ地面を転がって笑いながら避けていく。今日の晩御飯が白米と味噌汁と漬物だけになった侘しい献立に、霊夢のイライラは治らない。

 

  その暴君から逃げるように、台所の入り口でわたわた動いているお椀の蓋の元へ逃げようとのっそり楠が身を動かすのを見て、霊夢の鋭い視線が楠を貫いた。

 

「ちょっと! まだ答えてないわよ! あんた何人で来たのよ!」

「……四人だ。俺を含めて四人。どいつもこいつも月の姫さんに人生引き摺られたどうしようもねえ奴らだよ」

 

  それだけ言って楠は台所へと姿を消す。月の姫がいるかもしれない可能性。絶対あって欲しくはないが、そうでないという想いも強い。握りしめた拳は今日は振るう事もなく、ただ強く硬く拳を形作っていく。まだ外で霊夢の弾幕を避けながら、転がる萃香の頭から突き出した三日月が癪に触ると、居間に続く縁にどかっと楠が腰を落とす。明日からまた楠が霊夢に顎で使われる事を哀れんでか、ぽんぽんと小さな針妙丸の手が楠の太腿を叩き、楠はギザギザした歯を擦り合わせた。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。