月軍死すべし   作:生崎

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足利
第一夜 夕


  我慢だ。

 

  耐え忍ぶ事。それこそ人生。耐えて耐えて、些細なものも見逃さず、小さい事をコツコツと積み上げる。それが手も届かぬ大望を成就させる。

 

「これは……」

「頑丈な人間ですねえ」

 

  一人の男の前で、犬、いや狼の耳を生やした少女と、黒い翼を秋の風の中はためかせる少女の二人は半分感心し、また半分呆れながら男とその周りに目を流した。

 

  妖怪の山。幻想郷の中において、人里とはある種真逆の立ち位置の存在。人が中心に立ち生活を営んでいる人里と、妖怪が中心に立ち生活を営んでいる妖怪の山。人里に妖怪が足を踏み入れば、少なからず警戒されてしまうように、妖怪の山に人が踏み入れば、それもまた警戒される。力を持った人間ならば攻めてきた敵対者として、力のない人間ならば餌として。男は後者だ。後者のはずだった。なんの脅威も感じさせず、急に妖怪の山の中腹に現れた男に、天狗の一人が意気揚々と飛び掛った結果、拳一発で天狗は地に埋まり、後からやって来た天狗達によってあえなく男は御用となった。

 

  人里が差し向けて来た刺客なのかと天狗達の折檻が始まったのがまだ陽も高かった真昼の話。縄に括られぶら下げられた男は、ずっと変わらず口を開くこともなくぶら下げられたまま、天狗の集落の牢の中にいた。その周りにはひしゃげた拷問器具の数々。山伏の使うような六角棒も多くがへし折れ硬い床に転がっている。疲れたように多くの天狗達も肩を落とし、呆れたように男を見る。

 

  何をしても男は悲鳴一つ上げやしない。業を煮やした天狗が喰ってやろうと短刀を突き立てても、柔らかそうな人肉を裂くことは叶わず、風を用いて引き裂こうとも、男の服を破くだけで肌色の肌には傷もつかない。もうどうしても男に口を割らせる事は出来なかった。

 

「しかし、なんとも不思議な人間ですね。急に外来人がやって来たかと思えば、うーん、スクープの予感がします」

 

  情報通の天狗だからこそ、姿格好で男の素性などある程度分かる。いつもなら好奇心から妖怪の山にやって来る外来人など鍋となって後悔を煮込まれ終わるのだが、煮ても焼いても風呂に入ったように男は長く息を吐くだけ。清く正しいブン屋である射命丸文のアンテナに、引っ掛かった男は幸か不幸か、目を輝かせる文に面倒臭くなり椛は目を反らす。

 

  先程から文が手を出せばどうにかなりそうなものであるはずが、全く手を出すそぶりを文は出さない。他の天狗達が手を出しているのを眺めるだけ。ようやく動いたかと思えば、手は出さない代わりに手帳をパラリと胸ポケットから文は取り出すと、目を瞑り口を引き結ぶ男の顔を覗き込んだ。

 

  よく見ればよりよく分かる。天狗達の折檻ではまるで傷が付かなかったが、男の体には数えることもできぬほどの無数の細かな古傷が埋め尽くされている。吹き飛んだ上着のおかげで、頭の先から腰に至るまで、背中も含めて傷で体が出来ているようにすら見える。閉じた瞼も無数の傷の一つのようで、栗色の長い針のような髪もまた傷のように見えてくる。

 

「どうも外来人さん。そろそろ折檻も飽きたでしょうし、お話ししませんか? 確か名前は」

 

  そう言いながらこれまで天狗達が纏めていた男の情報が書かれた紙に目を通す。そのほとんどは白紙だが、最初の一枚に一行だけ書かれている短な文字。男が唯一喋ったと思われる自分の名前。

 

「足利さんでしたね。一体何しに幻想郷に来たのですか?」

 

  当然の疑問であり、文も男が答えるとは思ってはいない。ただの挨拶のようなそんな言葉。だが、文の言葉に初めて男は薄っすらと目を開けた。

 

「かぐや姫様を守りに来た。僕は足利家第八十八代目当主『足利梓(あしかがあずさ)』、平城十傑の調停役だ」

 

  梓の答えに文は小さく息を飲む。そして面白いと口角を上げた。男が答えた事にも驚いたが、梓が口から出したかぐや姫。その昔一国の帝すら愛した月華の美女を守りに来たと言う男には、嘘を言う気配も気負った気配も微塵もない。ただ自分の役目を喋っただけ、少し人間味の薄く見える男であるが、全く泳ぎすらしない白い真珠のような梓の目を文は見据え、手に持った手帳へとペンを走らせながら口を開く。

 

「かぐや姫を守りにですか、それまた変わった外来人ですね」

「それより縄を解いてはくれまいか。君とはまだ話になりそうだ」

「んー、それは無理ですね。私も怒られたくないので」

 

  文の答えに梓は残念がることもなく、ただ「そうか」と口にして赤い陽光の差し込む窓へと目を向ける。文句も言わなければ命乞いもなく交渉もしない。一見諦めたようにも見えなくはないが、縄に吊られながらもそんな空気を全く男は感じさせない。ただありのままを受け入れて、全てを納得するかのように梓はまた目を瞑った。

 

「抵抗しないんですか?」

「しても逃げられはすまい。僕には君達を振り切るだけの足はないのだよ。無理なものは無理なのだ」

「それはまた潔いと言うか、諦めの早いと言うか」

「どちらも同じ事には変わりなし、ただ真実を真実のまま受け入れる。さすれば悪い事になりはせん」

 

  いやもう悪い事にはなっているでしょう、と半裸で吊られている梓に可笑しそうに呆れながら文は一枚写真を撮って、手元の手帳にペンを走らせる。たったの数回、一分にも満たぬ会話の中で、文は自分の勘は正しかったと口を歪めた。これまで多くの異変を記者として見て回り記事を書いて来た文であるが、その文の勘の通り梓はスクープの塊に見えた。

 

  一言目にはかぐや姫、平城十傑という文が聞いたことのない言葉。新たな異変の風を感じると黒い翼を動かして、文が梓の側へと舞い降りる。

 

「面白い人ですね。まだ悪い事にはなっていないと言いますか」

「事実。物事の捉え方とは個人によって違う。少なくともコレは僕にとって最悪ではない。口を開け、手足も動き、まだ考える頭もある」

「最悪ではないって、少しは悪いと思ってるんじゃないですか」

「事態は悪くはない。悪いのは僕の運だ」

 

  男の屁理屈を聞き流しながら、より深く文は梓を観察する。敵意もない完全に好奇そんな文を僅かに目を開けて眺め、梓は弱々しく息を吐く。これまでの天狗達と人違い、「何をしに妖怪の山に来たのか?」という問いではなく、「何をしに幻想郷に来たのか?」を問うた文だからこそ梓は答えた。それに加えて文の纏う雰囲気、部屋の中にいる天狗の中で最も敵意がないにも関わらず、嵐の前の静けさのように、少女の身に内に垣間見える秋の旋風よりも鋭い空気から梓はこの中で最も強い者は彼女だと察し話にも応じた。

 

  だが結局変わらずに縄に縛られたまま。気ままに揺れている己の体へと梓は目を移し目を閉じる。我慢だ。耐え忍ぶ事それこそ人生。待っていればいつか必ず好機は来る。梓の一族もまた千年以上待ったのだ。たかだか半日など瞬きよりも短な時間。しかし、それは終わりが見えていなければの話だ。少なくなっていく時間が見えているのなら、ただ風に揺られる草木のように待つ事は出来ない。ゆらゆらと揺れる体を持て余し、梓は文に語り掛ける。

 

「そんなわけで僕はもうここから出て行きたいのだがどうだろうか」

「いやどんなわけですか。何の説明にもなっていませんよ。だいたい妖怪の山に踏み込んで天狗を殴り倒してただ帰れるわけもないでしょう」

「先に手を出して来たのはそっちだ。それにここに踏み込んだのではなく、幻想郷に入ったらここに出たが正しい」

「入ったらここにとは、つまり貴方は今日幻想郷に来たんですか?」

 

  その通りと言うように頷く男を見て、それは運が悪いとも言いたくなると文は筆を走らせる。幻想郷に踏み入って、妖怪の山に出る確率はどれほどのものか。低くはないかもしれないが、高くもない。男の不運さに文は少し同情するもそれだけで、梓から視線を切ると部屋の扉へと目を向ける。

 

  ペンを握っていた文の手が止まった。それと部屋の扉が開くのは同時、文がふと感じた気配の主が姿を現す。赤く長い鼻を持った大天狗。天魔の下に位置する管理職。取材の時間は終わりであり、来るのが遅いが、それが今かと口には出さないまでも文は内心で舌を打った。床に転がった多くの壊れた器具を見て、ただでさえ怒ったように見える大天狗はより気に入らないと言うように太い眉毛をくねらせる。

 

「遅い! 一人の人間の口を割らせるのにいつまで掛かっている!」

 

  大天狗の叱咤の低い声に、疲れたような顔をしていた天狗達は勢いよく身を起こして背筋を伸ばす。焦りの表情、その顔に変わらなかったのは文と椛の二人だけだ。良い顔をしない天狗達を見回して、大天狗は大きな歯を擦り合わせる。

 

「その様で天狗とは嘆かわしい。天狗とは偉いからこそ天狗なのだ! 人間の前で冷や汗一つでも流すなど天狗の名折れよ!」

 

  その昔鬼に支配されていた者がよく言うと、同じ天狗でありながら大天狗の言葉に文は肩を竦めた。大天狗は吊るされら男の前までズカズカ歩いて行くと、強く頭髪を掴み顔を上に向けさせる。

 

「人間! ここに来た理由を言え! 妖怪の山に立ち入り天狗を下し何がしたい! 酔狂か? イカれているのか? 死ぬ前の慈悲をやっているのだ!」

 

  人間を明らかに見下している声に、梓はこれまでと同じように答えないと文は思ったが、梓は薄っすらと目を開けて大天狗を見て口を開いた。この場でようやっと役職が高いだろう者の登場に、話せば分かるかもと思うが故。

 

「僕達はかぐや姫を守るためにここまで来た。それ以外の理由など持ち合わせてはおらん。僕としては早急にかぐや姫様の元に馳せ参じたい。これが全てだ。他にはない」

「戯言を! かぐや姫だと?」

 

  梓の言葉はばっさり切られ、意味はなかったかと大きなため息を梓は零す。何をどうしても天狗達は違う答えが欲しいらしいと、梓は目を閉じ頭を回す。梓が狂言を言ったとでも捉えたのか、大天狗は大きく笑い、掴んでいた梓の髪から手を離した。

 

「今さら迷いの竹林に引きこもってる者を守りに来たか! なるほどイカれだ。もういい、鍋にでもしてやれ」

「いいんですか?」

 

  まだ取材しがいのありそうな梓が鍋になるのは少し残念だと文は大天狗に口を挟む。それに新たな情報が出た。

 

「我の意に口を出すか」

「まだこの人間は情報を持っております。今彼は僕ではなく僕達と言いました。つまり仲間がおります。それに大天狗様は今来たばかりで知らないのでしょうが、この人間は煮ても焼いても効きません。剣すらその身に通さない」

 

  文の進言を受けて、大天狗は顎に手を伸ばす。そして床に転がった折れた六角棒を今一度眺め、吊られている梓に目を向ける。大天狗の目を持ってしても、梓はただの人間にしか見えない。山の山頂に居座る現人神は、見ただけで普通ではないと分かる気配を放っているが、そんな気配は吊るされている人間からは何も感じなかった。だからこそ逆に不気味。試しに指先に風を纏めた塊を作り大天狗は梓に向けて弾いてみる。梓の顔に直撃した風塊は、本来ならば柔らかな皮膚を切り裂き見るも無惨に人間の顔をズタズタに切り裂くはずが、風の晴れた先には変わらず薄く目を開けた梓の顔。それを見て大天狗は口を一文字に引き結ぶ。

 

「おかしな人間だ。気も霊力もほとんど感じんというに傷も付かんか」

「おかしな外来人でしょう? まだこの人間は有用ですよ。宜しければ私が尋問を引き継ぎますが」

 

  これは取材のチャンスと、僅かに興味を見せ始めた大天狗に文は言葉を投げる。笑顔の文と不気味な人間を大天狗は見比べて、鍋にするのは時期尚早と判断を下す。

 

「良いだろう。だが必ず口を割らせろ。これだけおかしな人間だ、逃げ出そうとした時は殺して構わん」

「畏まりました。なので貴方も協力してくださいよ梓さん」

「よく分からないが、話して解放してくれると約束してくれるなら逃げはせん」

 

  少しだけ事態は良くなったのかと梓も口を開いたが、それに合わせて窓の外、夕焼けの中がキラリと光った。それに気がついた梓が何事だと目を向け終えるよりも早く、無双窓を貫き飛び込んで来た銀閃が梓の頭上を通り抜け、プツリと縄が切れる音がした。

 

  ペタリと地面に足をつけた梓は、目を丸くして自分を見てくる天狗達を一瞥した後、振り返り飛んで来たものを見る。和の空間では、異物にしか見えない銀色のナイフ。どこから飛んで来たのか見当もつかない。梓はバラリと床に落ちた縄を見て、弱々しく顳顬を掻く。

 

「……待った」

「待たん‼︎」

 

  梓の仲間が助けるためにナイフを投げた。そうとしか思えない状況に、大天狗は懐から羽団扇を取り出すと、梓に向けて大きく薙ぐ。静かだった部屋に台風が生まれる。それも指向性を持った災害。幾人かの天狗はそれに巻き込まれて壁や床に吹き飛ばされ、モロに受けた梓は壁を突き破って外へと弾き飛ばされる。

 

  空すら巻き込む切り刻む風のミキサー。細かな木片や部屋にあった物たちと共に風に巻き込まれながら、急な山の斜面を削り取り、数多の大木をへし折って山の大地に衝突する。梓の通り抜けた道は緩く渦巻いて風がその道程を残し、土と木の残骸が雨のように辺りに降り注ぐ。風の槍が突き抜けた中、大きな土煙と埃を掻き分けて、残った風に乗るように食い破られた部屋から身を躍らせた文が爆心地へと足を落とす。

 

  普通なら人妖関係なく木っ端微塵にでもなっているような惨状で、しかし、文の勘が梓は無事だと言っていた。その通り土煙の中に一人分の人影が突っ立ち、体に着いた土埃を手で払っていた。赤い筋を体に付けることもなく、ただ困った顔でさっきまで梓が居た随分遠くに見える牢部屋を見つめている。

 

「困った。運が悪い。これでは逃亡者になってしまう」

 

  そう言いながら先ほどの部屋に向けて足を出そうとする梓に文は咳き込み、その傷だらけの肩に手を置き引き止める。

 

「いやいや、何を戻ろうとしてるんですか。このままどこへでも行ってしまえば良いでしょうに」

「……しかし誤解を受けたままは面倒なのだ。僕達にはこれからやる事がある。そのためにわだかまりは無くして置きたいのだが」

 

  わだかまりもクソもない。人間が妖怪の山に入り込み天狗を殴り落とした。その結果だけで、もう梓が天狗達から良い目を貰えないのは明らかだ。梓のズレた考えが文は面白いとは思うものの、ここで梓が戻っても昼から繰り返された拷問がより厳しくなるだけで面白味も何もない。梓にはさっさと動いて貰った方が、面白い記事が書けるだろうと文は考える。

 

「ほら、貴方のやる事と言うのはかぐや姫を守る事なんでしょう? なら早く行かないと」

「それはそうなんだが、なぜ君は僕に助言をする」

「ファンなんですよ貴方の!」

 

  ファンとはなんぞやとは梓は言わないが、文の言葉があまりに突拍子もないので、梓は口を小さく開けて、何か言うわけでもなく口を閉じる。幻想郷とは恐ろしい場所であると聞いて来た梓だったが、それにしては変な女がいると、別の意味の恐怖に頭を掻いた。

 

「つまり?」

「取材ですよ、取材! 貴方の事を書けば新聞が売れる気がします!」

 

  「はぁ」と分かったようなそうでないような声を梓は零し、考えるのが面倒になり大天狗達の方へ戻ろうとしていた足を戻す。梓には今一つ理解できないが、文が協力的であるということだけは辛うじて理解した。

 

「よく分からないが、僕はここにかぐや姫様がいる事は知っている。場所が知りたい。案内を頼めるかな?」

「良いですとも。 ただとりあえず服を着ては? 半裸で歩き回るのは流石にどうかと」

 

  文の正論にそれもそうかと梓は周りに目を向ける。大天狗の羽団扇に吹き飛ばされた際に、梓が持って来ていた鞄も一緒に近くまで吹き飛ばされていたのが見えたから。少し辺りを歩き回り木片の影に目を向ければ、大きめのバックが腹を割かれ、その中から衣服が覗いている。細かな物は吹き飛んでしまっていたが、辛うじて中に一枚だけ残っていた黒い学ランを上に羽織る。

 

「見慣れぬ服ですねえ、外の世界ではそういったものが流行ってるんですか?」

「学生服、学生の着る服だよ。仕事着のような決まったもので流行ってるわけではない」

 

  文の質問に梓は適当に答え、こうなれば先を急ごうと周りに目を向けた。その視界の中で、トンッと小さく音がしたように、周りの木々達の中でも一際大きな木の頂上に降り立った人影。天狗かという疑問は、人影のシルエットと、身を叩いてくる神々しい空気に違うと即座に否定される。

 

  大きな輪っかを背負った人影は、背が高く、しなやかなシルエットから言って女性のもの。沈んで行く陽の光を背に受けたその姿は、後光が差しているようであり、その女性に大変良く似合っていた。

 

「あややや、神様が来ちゃいましたか」

 

  梓の隣でそう小さく呟いた文の言葉を梓は聞き逃さず、薄っすら開けていた瞼を大きく開けて木に降り立った女性を見る。母なる海のように深い青色をした髪は、緩やかな風に揺られ漣のように波打っている。黄金比率で纏められた女性の顔は、息を呑む美しさでありながら、作られたような気配は全くない。

 

「天狗が騒がしいと思えば、外来人とは珍しい」

 

  梓と文に落とされた言葉は、天狗と同じく見下されたもの。だが、その重みがまるで違う。威光の差なのか、それとも神という人の祈りを受け止める強大な存在感が故か、目に見えぬ重圧となって、梓と文の両肩に降りかかる。梓は畏まったように荒れた地面に膝を折って正座になると、小さく頭を下げた。

 

「お初にお目に掛かります。我が名は足利 梓。熊野の地よりここに来ました。さぞかし名のある神とお見受け致します」

「へー、珍しい外来人だね。霊夢や魔理沙にも見習って欲しいわね。うむ、我が名は八坂神奈子。妖怪の山、守矢神社の祭神の一柱よ」

 

  梓から確かに信仰を感じ、神奈子は気分を良くした。幻想郷では珍しくなくとも、外来人としては珍しい。外の世界の人間からの信仰など、かなり久し振りの事だ。人間の雰囲気はそれこそ現代人というよりも、古代人に近い。真珠のような梓の瞳を見つめ、神奈子は小さく笑った。

 

「八坂……八坂刀売神様?」

「うむ、それで? 外来人が何の用かや?」

「はい、私は月の姫君を守るために幻想郷に参りました。どうかこの山を下りる事をお許しいただきたい」

「うむうむ、それは良いんだけど蓬莱山輝夜を守りにね。なぜだい?」

 

  神奈子の言葉に文も耳を済ませて手帳を取り出す。天狗は変わらないかと神奈子は呆れながら文を一瞥し、顔も背けずに神奈子を見つめている梓に目を戻した。一度目をパチクリと動かし、ゆっくりと息を吸い込む。

 

「我々は平城十傑。竹取物語に描かれた一千年よりも前よりかぐや姫様を追っておりました。かぐや姫様を守るために」

 

  梓の言葉に文も神奈子も目を見開く。人の狂気を知らないわけでもないが、千年以上も一人の少女を追って来たと平然と言ってのける男の異様さに少々面食らってしまう。神に捧げられる信仰の質から、梓が嘘を言っていない事は神奈子にも分かる。だからこそ、男のズレた空気がよく分かる。

 

「……なるほど、だが、それは今必要な事なのかい? 竹取物語、それと今とでは状況が違うだろう。お前さんがここに来て意味はあるのかね?」

「恐れ多くも意味はあるかと」

「ほう、その心は」

「月軍が来ます」

 

  梓の声はすぐに風に流されて消えてしまうが、その言葉は神奈子と文の中で繰り返される。

 

  月軍が来る。

 

  空に浮かぶまあるい月から、地上に使者がやって来る。梓の言っている事の意味は分かっても、理由が全く分からない。文は呆けながらも、手帳へと筆を走らせ、神奈子の目が細められた。落とされた爆弾は小さくなく、手帳に書かれる文の文字が少し荒む。

 

「理由は?」

 

  鋭さの混じった神奈子の声に、小さく下げていた頭を梓は上げると、困ったように眉間に皺を寄せる。忌々しげに重い息を小さく吐き出して、空に浮かぶ白く小さな月へと目をやった。

 

「平城十傑の情報役、唐橋からの情報です。外の世界から僕達が幻想郷に向かった日から七日前、唐橋家当主が襲われ幾つかの書物が奪われました。唐橋家八十一代目当主、『唐橋 櫟(からはし いちい)』が一命を取り留めたおかげで情報が死なずに済みました」

 

  そこで一度梓は言葉を切った。月に向けていた目を神へと戻し、何も言わない神の顔を見ると小さく顔を俯く。

 

「奪われた書物は月の都の地図、そして月にある監獄についての情報が書かれた物数点。奪ったのは、平城十傑の当主が一人、坊門家九十八代目当主、『坊門 菖(ぼうもん あやめ)』。かつてかぐや姫を月に迎えるために地上に出向き、失敗した罪で幽閉されていた一族を率いて坊門 菖が幻想郷にやって来ます」


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